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2003.2.26 UPDATE
田中正明
text by Masaaki Tanaka
当連載の第11回&12回で、『レディース・ゴング』のメインライターを務めた北条志乃さんと対談した。僕個人としても非常に楽しんでまとめた原稿で、SlowTrain編集部や周囲の評判も良かったことから、ずっと第2弾の候補を温めていた。
その候補とは、上の段落に出てきた「周囲」の一人、『週刊ファイト』や『内外タイムス』に執筆するフリーライター、伊藤雅奈子(いとう・かなこ)さんだ。北条さんと僕の対談を読んだ彼女は、「あんな面白い内容なら私も出たい」と感想を寄せてくれた。ならば出てもらいましょう!
伊藤さんは今年に入り、自作のホームページ『かなたく』をオープンした。プロフィール欄には「こんばんみ、女子プロレス記者の伊藤雅奈子です」と記している(夜中に作ったんだね)。ということは僕と全くの同業者であり、この「女子プロレス・ライターというお仕事」に登場するゲストとしては、レスラー以上にふさわしい存在だ。
彼女の略歴を述べると、歳は僕より一つ下。大阪出身で、クラッシュ・ギャルズの全盛期はライオネス飛鳥の“追っかけ”だった――当時のエピソードは、付録として別ページを設けてある――。高校時代、のちの大宅荘一ノンフィクション賞受賞作家・井田真木子に強く影響を受けて「もの書き」を志し、21歳で兵庫県西宮市のエスエル出版会(=鹿砦社)に押し掛け就職する。激務と給料遅配に耐えかね一度は退社したが、同社が刊行した『プロレス・ファン』誌への愛着から、1年後に再度入社を直談判。編集長の任を与えられた。この2度の“エスエル時代”の間には、新大阪新聞社で『週刊ファイト』のアルバイトも務め、現在の女子プロレス記者の礎を築いた。ここから先は、対談にて。北条さんの回と同じく、司会はSlowTrainの栗尾知幸編集長にお願いした。ちなみに栗尾氏も大阪出身の同世代。二人のセリフは、ところどころ大阪弁のイントネーションで読むべし。
美人編集長の「上京篇」
――伊藤さんが大阪から東京に出てきたきっかけは?
伊藤 96年に阪神淡路大震災があって、その数ヵ月後に鹿砦社を辞めたんです。当時、あの会社は外注で作ったジャニーズの暴露本などがヒットして、汚いアパートからシャレたオフィスビルへと移る過程を目の当たりにしました。おかげで同人誌に毛が生えたような『プロレス・ファン』も月刊で出せたんですが…。私の上司は社長一人で、「編集とは何か?」ということを叩き込んでくれる先輩がいなかったんですね。それで、もっと勉強したいと思ったのが第一かな。編集長とは名ばかりで、中身が伴ってなかった。
田中 ごめん、タイトルは長くて忘れちゃったけど、美人編集長のナントカっていう単行本を出したよね。
伊藤 美人じゃない!! 女編集長!(と言って、用意してきた本を見せる)。
田中 そう、これこれ。この本を書いたのはいつ頃?
伊藤 ちょうどそのあとやね。知り合いの編集者が企画を持ってきて。鹿砦社時代から単行本を出すことが目標だったけど、会社を辞めて本も出すことができた。さあ、これからどうしましょう、と。
――大阪で本を作るには限界がありますよね。
伊藤 それも大きかったですね。『プロレス・ファン』で原稿をお願いしていた竹内義和さんという、大阪では超有名な作家さんが――この人が連載してくれたこと自体が奇跡なんですけど――私に声を掛けてくれたんです。「大阪で書籍の会社を作るから、旗揚げ参戦しない?」と。まだパソコンもそんなに普及していない時代の話。東京とはやっぱりタイムラグがあって、10月くらいに立ち上げたのに、年明けには「この会社は畳みます。続けたかったら東京の親会社(ぶんか社)に来て下さい。来れないなら我が社を辞めて下さい」という御触れが出た。なんじゃそりゃー、ですよ。
田中 それが好機到来だった。
伊藤 うん。『週刊ファイト』にも連載を持ったりしてちょこっと噛んでたし、いずれは東京で…という夢は高校生の頃からあった。でも、両親には女子プロレスの仕事で東京に行くとは言えなくて、これを理由に説得しようと。それが26歳の時。えっらい引き止めされましたね。ぶんか社の会社略歴から何から全部コピーして、毎日毎晩くどいた。「絶対ダメ」「絶対行くから」「不規則な生活だし、婚期も逃してどうすんの!?」って。
田中 確かお姉さんがいるよね。もう結婚してた?
伊藤 してた、してた。私はまさしく結婚を逃した直後で。25歳の時かな。自らプロポーズを断ったんですよ。「東京で仕事をするまでは」とか言って。あれが人生誤りの第一歩でしたね(笑)。
自称・業界の嫌われ者!
――ぶんか社では正式な社員だったんですか?
伊藤 はい。思いっきり矛盾してるんですけど、そのくせフリーの肩書きで『週刊ファイト』の取材もしてました。会社のボードに「打ち合わせ」って書いて、女子プロの記者会見に行ったりとか。夜の“打ち合わせ場所”は後楽園ホール(笑)。同僚も「伊藤さんだからしょうがない」と。
――やっと本場で働けるようになった。
伊藤 記者会見なんて、大阪ではなかったわけですよ。試合後に選手が息を切らしてコメントする光景も、それまでは全部、ブラウン管の中の出来事。いざバックステージに行くと、自分はどこにいればいいのかドキドキしましたね。気持ちがフラットになるまで1年かかった。アルシオンやネオ・レディースといった、私が上京したあとに旗揚げした団体に通ってからですね、ちょっと落ち着いたのは。
――伊藤さんは、全女の広報時代の田中さんを覚えてますか?
伊藤 うん、覚えてます。この業界、結構いい加減な人が多いというか、特に全女はアクが強いんですよ。経営陣の松永4兄弟がいて、それと肩を並べるくらい小川さん(宏・企画広報部長=当時。現アルシオン社長)の威光が大きかった。彼が仕掛けた団体対抗戦がブレイクして、全女自体に活気があった時期ですね。小川さんはマスコミとの接し方に開きがあって、ウチ(『プロレス・ファン』)のような弱小には扱いが悪かったんですよ。でも、天下の全女において、田口かほるさんというマネジャーと、田中さんは普通に挨拶ができた。そんな当たり前のことに感動した。
田中 僕が入社してオカシイと思ったのは、電話の応対なんですよ。受話器を取って「はい、女子プロです」って言うの。
伊藤 そうね。今でも言うね。
田中 女子プロの団体なんてほかにもあるじゃん。だから僕は「はい、全日本女子プロレスです」と応えるようにしていた。それと、上司である小川さんとの関係で言えば、小川さんが「のぞみ」で僕は「こだま」だと。小川さんがこぼしたものを各駅停車で拾っていくのが僕の役目。
伊藤 「こだま」か。なるほどね。
田中 社会人経験もなくいきなり全女に就職したら、僕も染まってたかも知れない。
――田中さんから見た伊藤さんの第一印象は?
田中 ん? キレイな人だなって。愛知県体育館のマスコミ受付で、「今度飲みに行きましょう」と誘った記憶がある。でも、あまり仕事で絡んだことはないよね。
伊藤 そうですね。名古屋だったら、まだ私が大阪にいた頃だ。まあ、この業界の「飲みに行きましょう」は、「こんにちは」と同義語だから。フフフ。
――その後、ぶんか社を辞めてフリーライターに転身したのは、『ファイト』一本で食べていけるようになったからですか。
伊藤 いいえ、全然。女子プロレスのことだけを考えられる状態にしたかったんです。試合後に選手のコメントを聞いている時も、まだ編集部に仕事が残ってるかと思うと気が気じゃない。どっちも中途半端なままでは記者として大成しないんじゃないの、と。99年の頭に辞めて。それはもう、覚悟ですよ。貧乏も何もかも覚悟。
田中 そして「ファイトの伊藤雅奈子」と言えば、業界ではちょっとした…。
伊藤 嫌われ者だった!!
田中 アハハハハ! 良かった、自分で名乗ってくれた(笑)。
伊藤 今、女子プロは7団体あって、私だけかも知れない。全部の団体ともめたのは。
田中 すごい!(拍手) |
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