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2001.12.21 UPDATE
田中正明
text by Masaaki Tanaka
僕を虜(とりこ)にした「女子プロレス」の魅力とは何か。
最初に男子のプロレスをTVで見て、のちに女子も見るようになったから、まずは「プロレス」の魅力を語る必要があるのかも知れない。しかし、女子ならではのサムシングがなければ、ここまでのめり込むことはなかったはずだ。
専門誌『レディース・ゴング』に、僕は「女子プロ技コラム」という1ページものの連載を持っている。そう、僕はプロレスの“技”が好きだ。ウルトラマンのスペシウム光線は誰にも真似できない。だが、仮面ライダーのライダーキックは、ジャンプする高さは超人的だとしても、蹴るフォームは見様見真似でできなくはないだろう。そのもっと身近な形が、アントニオ猪木の延髄斬りだった。僕にとってプロレスの入口は、愛すべき漫画や特撮ヒーローの世界から、現実へと引き戻される一本のレールの上にあったのだ。
そうしてTV観戦を続けていくと、男子の技に、ブ厚い肉体が醸し出す鈍器のような重みがあるのと対照的に、女子の技には、しなやかなブリッジが形作る丸みと、瞬発力が生み出す刃物のような鋭さが混在することが分かってきた。「なぜ、そこまでしなければならないのか」と問いたくなるほど、自殺行為に近い技も女子に多かった。
その体現者こそ、全日本女子プロレスの豊田真奈美である。黒一色の水着をまとい、長い黒髪をなびかせて宙を舞う“飛翔天女”は、スピード感溢れるドロップキック一発で、全ての観客を魅了した。コーナーから場外へ飛ぶミサイルキックは、相手が食らうダメージよりも彼女の受け身の方が痛いに違いない。30歳を過ぎた今は「重み」の割合が増えてしまったが、20代半ばでWWWA(スリー・ダブル・エー)世界シングル王者となった頃の豊田は、“QUEEN OF QUEENS”の称号がふさわしい、僕にとってフェイバリットな女子プロレスラーだった。そのライバルとして、アジャ・コングや井上京子ら、大きくて動けるユニセックスな選手がいる。特に、まだブル中野や北斗晶が活躍していた平成4年頃の全女は、女子プロレス界第一党として向かうところ敵なしの陣容を誇った。一介のファンだった僕は、職場の友人知人を誘いに誘って、6人、8人と大勢で“プロレスの聖地”後楽園ホールへと足を運んだものだ。友人たちは皆、一様に満足してくれた。この頃から、僕は女子プロレスを世間に認知させる使命を自覚していた。
その時代に比べたら、はっきり言って、今の女子プロは見劣りがする。新しいスターも何人か出てきてはいるが、それらが各団体に分散して、自分の縄張りの大将に留まっているからつまらない(それは選手のせいと言うよりも、保守的な団体のフロントに問題がありそうだ)。でも、そんな低迷期にあっても辛抱強く観続けているからこそ、味わえる感動も確かにある。
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府川選手の引退試合
(写真提供:Lady's 週刊ゴング) |
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今年、僕が人目もはばからず、記者席で思いきり泣いた試合があった。3月20日、アルシオンの後楽園ホール大会で行なわれた、府川唯未(ふかわ・ゆみ)引退試合、VS吉田万里子戦である。
府川のプロレス人生は実にドラマチックだった。高校を2年の半ばに中退し、H5年、全女の新人オーディションに合格。身長152cmという小柄な少女が難関を突破したのは、「かわいいから」というフジテレビのディレクターの推薦によってだ。同年11月、まだロクに受け身も覚えないままデビューさせられた府川由美(当時は本名)は、2戦目で鎖骨骨折を負い、それが完治するまで1年5ヵ月のブランクを余儀なくされる。途中、一度は治りかけた骨が、あせって練習を始めたため「ポキッ」と再骨折してしまったのだ。 |
H7年4月に再デビュー。その前の年に全女に入社した僕は、初めて観る府川の試合に目頭が熱くなった。上手いからではない。下手クソなりに頑張る姿に胸打たれたからだ。新人の成長を見守ること。これもまた、プロレスをライブ観戦する上での楽しみの一つである。TV中継で前座の試合が流されることはほとんどないのだから。その後、府川は若手の成長株・玉田りえ(現・凜映=アルシオン)とアイドルタッグ「タマフカ」を結成。二人は短期間ながらフマキラーのCFで、泉谷しげると共演したこともある。しかし、芸能活動が増えればその分、練習を休まざるを得なくなり、先輩たちに白い目で見られた。試合だけの選手よりも、会社の利益に貢献していることは確かなのだが、そういう理屈は“女の縦社会”には通じない。のちに府川が、倒産寸前の全女を飛び出して書いた自叙伝には、「バスの階段から突き落とされた」イジメの記憶がリアルに描かれている。まあ、府川自身も相当、気が強かったので、傍から見て生意気な面もあったのだとは思う。
僕は不景気で給料遅配の続く全女を、H9年1月に辞めた。アパートの家賃が払えなくなったからだ。その年の9月には選手の大量離脱があり、府川はそれより早く8月に電撃退団している。日本武道館で試合を行なったあと、同じく全女を辞めた“女子プロ界の仕掛人”小川宏氏の家に府川は転がり込み、新団体旗揚げの構想を練ることになる。
翌H10年2月、小川氏が社長を務めるアルシオンが後楽園ホールで旗揚げ戦を行なう。リングネームを府川「唯未」とした彼女は、一番の人気選手としてグッズの売上げにも貢献した。さらに府川は男子団体の道場に通ったり、旧ソ連の国技・サンボの個人コーチを受ける“出稽古”で、ルックスだけでなく試合でも魅せられるようになった。ライバルは、同じサンボのコーチに習う5年先輩の吉田万里子だ。
有望な若手が次々とデビューし、順風満帆に見えたアルシオンは、H11年4月、リング禍で一人の新人レスラーを亡くしている。その轍は二度と踏んではならない。なのにH12年7月、試合後に意識はあれど身体が動かず、緊急入院した選手がいた。府川唯未だ。診断は急性硬膜下血腫とクモ膜下出血。一歩間違えば植物人間にもなりかねない状況だったが、不幸中の幸いで開頭手術には至らなかった。それでも選手生命の終わりを受け入れた府川は、退院して通常の生活が営めるようになった頃、翌年3月の引退を発表する。
ところが、転んでもただでは起きない府川は、引退を決めたと同時にあるプランを画策していた。それはライバルの吉田と、最後にもう一度試合をすることだった。
3月20日。引退セレモニーを行なうためコスチューム姿でリングに上った府川は、静かにマイクを手に取った。「セレモニーを始める前に、一つだけ心残りがあります。吉田さん…吉田選手。最後に試合して頂けませんか」。すでに試合を終えた吉田もコスチューム姿で待機していた。この日に向けて、道場で軽いスパーリングを続けた両者は、絶対的な自信を持って、このカードを「府川唯未引退試合」としたのである。超満員のファンはハラハラしながら見守ったが、5分28秒、府川が腕ひしぎ十字固めでギブアップを奪う。吉田は返せるのに返さなかったのか? それは、戦った二人にしか分からないことだ。
デビューから7年4ヵ月。府川の軌跡を知る者は、彼女の最後の雄姿に涙した。僕は拭いても拭いても流れる涙に、やがて拭くことをやめ、記者席の床にこぼれるままにした。さすがに鼻水までは、そういうわけにはいかなかったが。
わずか数メートル、十数メートル先の四角いリングの上に、それほどの感動を与えてくれる人が立っている。危険な事故を賛美するつもりはないが、こんなに心が震えるLIVE(=まさに「生きている」こと!)は、そうそう観ることができないはずだ。府川のように極端な例でなくとも、女子プロレスラーの選手寿命は男子に比べて短い。その儚(はかな)さこそ、多くのファンが彼女たちを愛し続ける理由の一つだろう。
だから…オバチャンばっかりの今の女子プロ界は、低迷してるんだよね。
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| Lady's 週刊ゴング Vol.70 |
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| ■デンチューの取材日誌(2001年11月28日〜12月18日) |
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