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篠田昇と岩井俊二 アーカイブ

2008年12月09日

take26ビデオをいじる

篠田昇は何故カメラマンになったのであろうか。
彼の生き様を振り返ってみると、カメラマンになった理由、もしくはカメラマンとして生きてきた理由に、人から何と言われようと自分を通すことができる世界であったことが、大きな要因だと考えられる。
昇はかつて高校時代の同期生であった前妻Mさんに語ったことがあった。
「仕事をし始めてから、昔仲の良かった友人たちと同窓会で会うと、サラリーマンになった人たちとはまるで気が合わないんだ。(おれと)気が合うのは、みんな地元の自営業の人間たちなんだ」
それはとりもなおさず、昇と同じ匂いを持つ人間たちだ。
昇の育った下町の自営業といえば、自動車の修理工、自転車業、印刷工、看板屋、塗装工、旋盤工、大工・・・、それぞれ技術的な仕事であり、みんなそれが好きでやっている。地味ではあるが、日々楽しんで仕事をしている。そんな雰囲気が漂ってくる。
そんな人々との素朴で単純な関係に、昇は居心地の良さを感じていたに違いない。



まだ整理をする段階ではないのだが、これまで聞いてきた篠田昇のカメラマンとしての大まかな特徴めいたものを荒く挙げてみる。
●フィルム関連
・カメラマン・デビューの作品「ラブホテル」当初から、気に入ったフィルムを確保しているなど、以後もフィルムに関する一貫した志向性を継続していたと思われる。
(冗談ではあるが、昇がなぜイーストマン・コダックが好きかというと、当時ポール・マッカートニーと結婚していたリンダさんが、社長の娘であったことを理由にあげていた)
・単に撮影状況による判断ではなく(暗いから、明る過ぎるから)、映像全体のトーンとして多種類のフィルムによる減感、増感を試みていた。
(*現在、把握している後述事項として、
・減感、増感のアプローチが尋常ではないケースが多々あった。
・テストの量も半端ではなかった。などがある)
●レンズ関連
・フィルムとほぼ同様の傾向があり、極力同じシリアル・ナンバーのレンズを使用していた。
・味のある古き良きレンズを好んでいた。
・一貫した概念を持ち、映画用レンズといった枠を越えて、あらゆるレンズの仕組みに取り組んでいた模様。こんな風にしてみたいという目論みの元、オリジナルを作りたかったのか。
・特殊なレンズを加工し、映画の中に反映させていた。
●特機・機材関連
・日本に入荷したばかりのパンサードリーをいち早く使用するなど、ドリーやクレーンという特機の必要性を説き、以後自らの撮影現場にて、ミニジブ(ミニクレーン)及びピィウイ(ドリー)との組み合わせや合体を編み出していく。
・それらは、“三脚を使わない、手持ちでもない”篠田独自のスタイルとして形を変えていくが、下記の手持ち用機材同様、特機及びその周辺を改良していく様は、従来の撮影部の枠組みを越えていた。
・レンズに対しては古き良きものに愛着を持っていたにも関わらず、この特機の類いは、最新タイプを積極的に試していた。常に新たな可能性を見つける作業なのか、実験好き、新しもの好きの性格が反映されていたのか。。
・機材改良は機能だけの問題ではなく、作業効率の面においても意識されていたようだが、それが思惑通りに遂行されていたかは疑問な点が見える。
・手持ち撮影との関わりを含むが、常に“自分が好きなように動き回れる”ことが第一義としていた。
●手持ち撮影関連
・通常の手持ち撮影から「来たことのある初めての道」で、自家製ステディカムの開発が始まり、「突然炎のごとく」でNOBOCAMなるほぼ完成形に近いシステムを手に入れる。
これらは以後、岩井作品の中で継承されていく。
・軽量化するためか、既成機材の無駄な部分を取り外すことが多々あった
・根底には、類いまれなる力持ち、腕力、背筋力が隠されていた。
●撮影法関連
・広角サイズを基準と考え、極端な寄り(ワイド・アップ)を多用し、自らのスタイルとした。
・映像作りの基本を逆光、及び自然光としていた。
●スチル
・映像もスチルも同じ世界観を持っていたようだが、後年スチルを追求しようとした時期が存在していた。

部分部分で確固たる裏付けがないせいか、説明不足、違和感を感じる箇所もまだある。いつか分析に近い形にできたら、と思う。



篠田昇は季刊誌「映画撮影」(日本映画撮影監督協会)での「夏の庭」撮影レポートの中で、自ら三脚を使わない撮影について明言している。
「役者の演技=動きをいかにフォローしていくかという命題において、私は三脚を使用しない。
特に今回、全くの素人である子供たちにとって、キャメラの固定で動きを制限されてしまうことはプレッシャーであり、自然な雰囲気を損なってしまう。
子供たち以外の役者にしても、リハーサルを重ねれば演技にも変化が生じ、立ち位置も違ってくる。
だが、最近のキャメラは大型で三脚も重く、たかだか30cm移動させるだけでも四苦八苦である。
ミニクレーンならば振り幅は上下左右とも2m程度あるし、私一人で充分操作可能だ。キャメラが自由な状態であれば、役者やスタッフの待機時間も大幅に節約できるのだ」

運命的邂逅ともいえる岩井俊二とのコンビネーションには、二人の様々な共通項や相性といった理由があると思われるが、その発端にあったものは、おそらく手持ち撮影という簡単なキーワードだったのではないか。
岩井もほぼ手持ちの映像を好んで使っていたからだ。

これまで「ワールドアパートメント・ホラー」から篠田の撮影法が劇的に、そして如実に変化していく様を語ってきた福本淳は、
「でも、やっぱり篠田さんが一番大きく変わったのは、岩井(俊二)さんとの作品をやっていた時でしょうね」
と強調する。

福本によると、篠田昇が初めて岩井俊二と仕事をしたのは、1992年(平成4年)に遡る。
プロモーション・ビデオの仕事だった。
(*詳細は現在のところ不明だが、それ以前から、篠田昇と岩井俊二との接触はあったようである)
「岩井さんとは、プロモーション・ビデオ(PV)を何本か撮っています。
最初は、ファイブ・ティアー・ドロップスというロックというかロカビリー風のバンドのPVだったと思います。
これは16ミリで撮影したんですが、一部リバーサル・フィルムを使ったんです。ポジ・フィルムです。それって、プロはあまり使わないんですね。
ですが、PVというのは、最終的にビデオで仕上げる。テレシネという過程を経て、完成品にたどり着くから、手間も含めて、リバーサル・フィルムを提出すると、解像度がすごくいい、コントラストがすごくシャープ、そういう利点を生かして一部に使ったんです。
多分、リバーサルを使うという感覚を含めて、岩井さんの画の作り方と篠田さんの画の作り方がどこか合っているというか、共鳴するものがあって、この後、岩井さんはフジ・テレビの「フライド・ドラゴン・フィッシュ」(1993年3月放送)というドラマを撮るんですが、それを篠田さんとやりたかったなあという話をしていた記憶があります。
で、翌年の初めに、また岩井さんとPVを撮ることになって、トゥー・ビー・コンティニュードと平松愛里の「部屋とYシャツと私」だったかな、違うな、ちょっとはっきりとは思い出せないですが、2本パックで受けた仕事でした。
この時に、岩井さんが今度「if」というドラマを撮るんですが、是非一緒にやりましょうと篠田さんと話していました。「if」というのは、「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」(1993年夏放送)のことです。
結局、それもお互いの都合が合わなくて、実現できませんでしたけれど。
そして、この年の夏にぼくらは「夏の庭」の撮影をしていたのですが、夕飯を取っていた時、たまたまテレビでドラマをやっていた、ものすごい映画っぽいドラマを。それが「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」だったんです。
ぼくは篠田さんに、すっごい面白かったですね、と言ったら、篠田さんも、そうだよなって、感心してました。
そして、この年の末に「世にも奇妙な物語~ルナティックラブ」(1994年フジ系放送)をやったんです。それが岩井さんとの初めてのドラマになるんです。

ちなみに、岩井・篠田のコンビによるPVは、上記以外に、サザンオールスターズ「シュラバラバンバ」、「素敵なバーディーNONOBIRDY」。「四月物語」(1998年、監督岩井俊二)の時に併行して撮った一連の松たか子のPVがある。

岩井俊二との初のドラマ「世にも奇妙な物語~ルナティックラブ」はビデオで撮影された。当初、篠田はこのビデオでの撮影に難色を示していた。
それは、フィルムへのこだわりや当時はまだ生々しさを持つ画一的なビデオ映像と映画映像との隔たりといった、ムービーカメラマンとしては当然考慮しなければならい映像表現の判断によるものだった。
ところが、
「ビデオでも面白いことができると篠田さんに教えたのは岩井さんなんです」
と福本淳。
「ビデオを映画っぽく作るといったら語弊があるかもしれませんが、先駆けは岩井さんであることは間違いないんです。日本映画の歴史の中でいっても、それは過言ではない」
岩井と彼のチーム、すなわちカメラマンやビデオ・エンジニア(VE)たちは、「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」(あるいはそれ以前からなのかは現在のところ不明)の時に、ビデオカメラに細工をして、ビデオの映像ながら、より映画に近い映像を作り出していたのである。
「ビデオにはガンマ・オフという技術があって、ビデオカメラにはカメラ自体が持っている規定のガンマ・カーブというのがあるんです。
単純にいうとコントラストを示すカーブなんですが、そのカーブが各カメラにインプットされているので、ビデオの特徴である“生っぽい”、そういうトーンが作られている。
それプラス、インターレースというテレビに電波をのせるために、画を半分に割って櫛状にしてテレビに流す。

そのふたつのシステムがあるので、“生っぽい”映像になっているんですね。
岩井さんたちは最初、よりフィルムのトーンに近い映像を撮ろうとした時、カメラの中に入っているガンマ・カーブをオフることを発見した。
これを篠田さんとぼくが知ることになるのは、「ルナティックラブ」の時なんです。その時、初めて知ったんです。
この時は、ビデオカメラにガンマ・オフのスイッチが付いていたんです。オンかオフの二択のスイッチがあったんですけれど、岩井さんたちは以前にそれをやろうとした時は、スイッチがまだ付いていなかったので、カメラの中を開けて、いろいろなところをいじくって作ったようです。
篠田さんは、これは面白いと思われて、「ルナティックラブ」の撮影では、「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」をやったVEの方を呼んで、一緒にやりました。
これ以降、篠田さんはビデオの映像、カメラを含めて、いろいろといじり始めるのですが、フィルムとは違うビデオでも、箱を開けて中をいじれば何かが変わるということを、岩井さんが篠田さんに教えたようなもんなんです」


取材協力:篠田いづみ

2009年02月14日

take28岩井演出法と篠田撮影法との接点

テストにテストを重ねていった結果、基本的に感度50の2倍、もしくは4倍増感で撮影されることになった「undo」(1994年、監督岩井俊二)

その過酷だった当時の撮影状況を福本淳は回顧する。
「もともと4日間のスケジュールだったんです、「undo」は。
とにかく全力投球でやっていたものの、非常にきつく、多分予定どおりには終わらないだろうと、みんな何となく思っていました。
撮影3日目の夕方に、翌日のスケジュール表がスタッフに渡されたんですが、終了予定時刻が72時って書いてある。72時ということは、3日間続くということです。
この時点で2日間スケジュールが延びている。でも、そのくらいやらないと終わらない。
で、スケジュール表の下に、「大変な撮影になりますが、撮影のよきところで、4時間仮眠をとります」って書いてある。
帰れないということだな、なんて思いながら、みんなでやりました」

映画とは、とりわけ撮影は魔物である。寝なくとも食わなくとも撮影していくことが楽しい。現場にいることが至福の時なのである。これは私の実感であるとともに、映画撮影に携わったことがある人ならば、誰しもがそう思うことであろう。
篠田昇は誰よりもそのことを感じていた人物であったと思う。


「72時間きっかりだったかどうかはわかりませんが、それに近い時間で終わりました」
「セット撮影したのは、成城の東宝ビルドというスタジオで、このセットでやりきるはずだったのですが、これひとつだけでは(時間的に)無理だということで、別にもうひとつスタジオを借りたんです」
「山口(智子)さんが気が触れ始めて、いろいろなものを縛りだす、部屋中のものを。椅子とか、そういうものを縛ってオブジェ然としたものが部屋の真ん中にデーンとできるシーンもあって、その美術の仕込みに結構時間がかかるわけです。
その美術の仕込みをしている間に、もうひとつのスタジオで、部屋の一部だけのセットを作って撮影するんです。例えば、洗濯機とかを持って行って作って撮影する。
その間、メイン・セットの飾りやライティングを済ませておいて、戻って撮影する。それの繰り返しをずっとやってました」

そして、さらに過酷な状況へと追い討ちをかけたのが、カメラマン篠田昇のある提案だった。
「この「undo」っていう映画は、山口(智子)さんが躁鬱気味の役なんですが、その躁鬱の出方が、主人役の豊川(悦司)さんと一緒にいたいのにいれないことが多くなっていくと、どんどんと表に出てくる。
それが私を縛って、私を縛ってという形になり、実際、豊川さんが山口さんを縛り始めるんですけれど、これがほぼこの映画のクライマックスなんです」

その撮影を篠田は「減感しよう」と言い出した。

「普通ではありえない。
セット撮影で、感度50の減感で撮るということは、感度6で撮るということなんですね。これって、どう考えてもありえないんですよ。
だけど、篠田さんは照明部と長い時間相談して、ライティングを始めました。

山口さんが縛られているクライマックスのシーンでは、山口さんの1メートルくらい上に、ものすごく巨大なビニール膜が張られていて、山口さんのちょうど真上にライトがあるんです。
それが山口さんに対してのキー・ライトなんですが、露出を測りにいったチーフの喜多さんが、「真夏の太陽くらいに(露出計が)振れている」って驚いているんですね。

露出計というものは、外で測る時には、(光の量が多いので)黒いスライドを入れて測るものなんですが、セットになると、黒いスライドなんか絶対にはずすんです。
セットなのに黒いスライドを入れて測って、なおかつ、それが真夏の太陽くらいということは、今のこの現場は雲ひとつない晴天の時の明るさよりももっとあるということなんですね。
でも、それくらいでないと感度6では撮れないんですね」

セットという室内で、真夏の太陽下と同じ明るさとは、素人の自分には想像もつかない。
しかし、その小さな空間がまるで灼熱地獄のようであったろうくらいは思い描ける。
「山口さんは相当熱かったと思います。
昔のタングステンのライトではなかったので、タングステンほどは熱くないにしろ、さすがにそれは熱いと思います。
しかも、山口さんは縛られている役ですから、縛られてからは撮り終わるまで開放できないわけです。
8時間ずっと、その下に縛られたまま、ほとんど動かずにいたんですから」

こうした修羅場のような状況を経て、「undo」は1週間の撮影を終了した。

スケジュールといい、内容といい、この過酷な撮影状況を生み出す背景には、岩井の演出法とそれをサポートする篠田の撮影法とのベスト・マッチな関係が大いに関っていると、福本は述懐する。
「もともとスケジュールされていた「undo」の撮影4日間。これで撮ろうと思えば撮れる監督はいると思うのですが、出来上がりは岩井監督のそれとはかなり違うものになるでしょう。出来のいい悪いの話ではなく、映画を撮るという考え方が今とあの頃とではかなり違う。
篠田さんにしてみれば、撮影に入る前から4日間で撮るつもりはなかったんです。この分量を4日でこなすのは無理だ、そうわかっていながら、4日しかないのかもしれないが、ほとんど寝ないで撮るつもりでいたと思う。
このあたりが今の映画との現状の違いで、プロダクション自体の考え方も変わってきている。
今じゃスケジュールや時間を管理、スタッフキャストの動向まで計上された作り方をしているので、そういう意味では、岩井さんや篠田さんが撮っていた頃の現場の自由度は高かったんだと思います。
岩井さんも篠田さんももともとそういう制約なんか全然効かないタイプではあるんですが、それでも今よりは自由だったという気がします。
だから、ああいう作品が撮れたんではないでしょうか。今ではこんな撮り方、もうできないと思います」

では、岩井にとって、篠田にとって、その自由という意味は一体どんなことを指すのであろうか。
実はそれが岩井の演出法と篠田の撮影法の重要な関わり合いなのである。
「岩井監督はまず全体が見える画をひとつ撮ります。そこにはAとBという2人がいるとしたら、その次は同じ演技でAを中心に、次にもう1回Bを中心にと、最低限3回は撮ります。
4人いれば、4人それぞれを全部撮っていきます、必要とあらば。

岩井さんの感覚としては、編集素材がいっぱい欲しい。篠田さんは絶対寄りの画を撮りたい。これが篠田さんと岩井さんがうまくいった要因なんだとぼくは考えています。
篠田さんは引きの画は引きの画として撮るけれど、基本的に人に食らいついた画を撮りたい、寄りで撮りたいと思っている。
普通だったら、ここのところだけ、部分だけの寄りを撮ると思うんですが、岩井監督は演ずる役者のライブな感覚を大事にしたいので、それだったら部分だけじゃなく全部やろうよ、ということになる。
それが篠田さんにとって、望むところだったんですね。引きの画の後の2回目からは全部寄りで撮れるんですから。

普通といっていいのかわかりませんが、映画の作り方って、最終的な編集の構造を見据えた上で、必要なカットを撮っていくというのが、最も金銭的にも時間的にも合理的な撮り方じゃないですか。それがスタッフにも負担のかからないやり方なはずなんですが、例えば、2人のお芝居をトータルで撮るとします。
Aという役者を中心に撮りましょうということになった時、この人にピントを合わすわけですが、映っているのは2人だから、奥にいるもうひとりのBにピントがいくタイミングがどうしても生まれてくるんです。
ですが、編集の構造が見えていると、この画は使わないところだ、今ピントを触ってはいけない、というような撮り方になってくる。

ところが、岩井さんはライブに役者を動かして、ライブにカメラが動いて、ライブに今どこにピントを合わせて、どこを見せるか、というようなことも現場で選べる撮り方をしている。
普通のカメラマンであれば、ここは使わないよな、みたいな撮り方になるんでしょうが、篠田さんはこれも使えて、これも使えて、これも使えて、という全編通して使えるような撮り方をする。
そこのところが、岩井さんとすごく合っていたんじゃないのかなって思います」

全体を押さえる画を撮った後、繰り返される演技を撮る篠田の寄りの画は、すべてそのまま使える編集素材として、まさに岩井の映画作りにうってつけであったというわけだ。


さらに、岩井の映画作りを垣間見る過程の一部を、福本淳は続ける。
「この「PICNIC」(1996年、監督岩井俊二)で面白かったのは、撮影が始まってから毎日ラッシュを見るんです、前の日に撮ったものを、監督、篠田さんとチーフの喜多さんとぼく、プロデューサーの長澤さんとで。
そうするとどんどんと話が変わっていくんです。

岩井さんは本(脚本)を書かれて、コンテも書かれているんですが、だけど演じるのは生身の俳優さんたちで、その方たちのアプローチとかがあり、篠田さんの映像、例えば太陽光の角度とか、その辺のものがひとつの映像として、結果としてフィルムで見れるので、それを見ている岩井さんの中で、それ以降の映画の展開がどんどんどんどん変わっていったんです。

元の台本では3人で壁の果てまで行くことになっていた。
これが途中でひとり突然死ぬことになったり・・・する。
それはぼくにとって、とても刺激的で、すごいという印象でした」

こうして聞いていると、篠田(彼だけではないにしろ)の映像が、岩井のシナリオ作りにも影響を与えていることがよくわかる。

「最初の1週間は、外のシーンばかりだったので、それほど大変じゃなかったのですが、後半になるにつれ、外のシーンを撮ってから中のシーンを撮るというようにシフトしていくようになった。
そうしたら、「undo」状態に入っちゃったんです」
「撮影状況としたら、「undo」よりも、「PICNIC」のほうが相当ヘビーでした」
と、福本は付け加えた。


取材協力:篠田いづみ

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