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篠田昇と機材 アーカイブ

2008年06月05日

take14増感と三脚とピィウイドリー

「ワールドアパートメント・ホラー」は、“全体的にローキーな画調に。ASA250のイーストマン5297を2倍増感し、若干の粒子の荒れ具合いを表現”することをカメラマン篠田昇の撮影設計として進められた。
この作品の撮影部セカンド福本淳は、ここでフィルムを増感するという表現の意味を教えられた。
「この映画はほぼ8割方セット撮影だったため、予算的なこともあり、お互いをよく知っている美術の細石(照美)さんといかにセットで撮ったように見せないかを考えていたというか、そのことがまず篠田さんの中にあったようです。
それに対するアプローチとして、「宇宙の法則」からずっと使っていた感度250のデイライト・タイプのフィルムを増感して撮ると。
増感すると、単純にいうと粒子がちょっと出てくることとコントラストがちょっときつくなる。黒のディテールが、ノーマル現像で撮るとよく見えていたところがちょっと見えにくくなる。そういう意味では質感がごまかせるというか質感を作れる方向になるので、篠田さんは全編2倍増感でやるよ、とおっしゃった。
ライト(照明)の量もそんなにふんだんに使える規模の作品ではないので、ライトも少なくすんで、というような撮影をずっと続けていまして、撮影の最後近く、夜明けになって外に出るシーンを撮ることになったんです。
外のシーンなので、普通感度250(ノーマルな状態)あれば全く十分なんですが、これも「増感だよ」って篠田さん。まず、これにびっくりしました。
で、それに対して、ぼくは「増感するということは絞りが11とかに入っていいんですか」って思うわけですよ。篠田さんは基本的に絞りは開けて撮るキャメラマンなんで、「だめだ」っていうことになる。
そうすると、NDフィルター(色調はそのままで光量を減少させるフィルター)をわざわざ2枚くらい入れるわけです、3絞り分のファクターがかかるNDフィルターをわざわざ2枚も。ま、1枚くらい(使うこと)はよくあるんですけど。
通常の感覚で、増感するメリットとその必要性は、単純にいうと感度が足りないことなわけです。だけど、感度が足りない分、粒状性が出てしまうことや暗部の描写が悪くなるというリスクを背負うわけです。それを背負ってまでも感度が足りない分を補うために増感をするのが普通なのですが、篠田さんにとって、「ワールドアパートメント・ホラー」という映画は感度が足りないから増感するわけではなく、映像のテイストが増感なんです。
増感することによって、ちょっと粒子が出たり、ちょっとコントラストが硬くなったり、それを映画全体のトーンにしたい。(画調が)ちょっとホラーっぽいし、そっちのほうがおもしろいでしょ。だから全編増感するし、おれはフィルムをこういうふうにと決めたんだから、太陽の下に出たってどこだって、それを撮るためにNDを入れるよ、と。
NDフィルターを入れると、ファインダーで覗くと暗くなって見えづらくなるわけです。それは狙ったテイストを作るために背負わなければならないリスクなんですね。だから、ND2枚とか3枚とか入れてでも撮る。
ラスト・シーンは怨霊を退散させた後、そのアパートの中に平和が戻ったというワン・シーンがあるんですけど、そのシーンはすべてが終わった後だから、今までとトーンを変えたいということで、そのシーンだけノーマル現像にしているんです。
映画を見ると、明らかに何かひとつの出来事が終わったという光と希望に満ち溢れたワン・シークエンスになっていて、あ、現像を変えるだけで、これだけ作れるんだ、こんなにも世界観変わるんだなって、その時初めて感じました」
カメラマンとして作品を表現するためのフィルム選択、及び増感等の現像処理などは不可欠な役割であり、ある意味当然のことであろう。
だが、篠田昇のこうした撮影の考え方には、とことんまでの“徹底”ぶりが感じられる。

「パイレーツによろしく」でのパンサードリー、「ワールドアパートメント・ホラー」でのミニジブなどの特機に関してもそうだ。その作品の撮影のほとんどに使用している。正しい言い換えではないが、長澤の言葉(take12)のように、いかに三脚を使わないかの徹底した姿勢のように思えてくる。
「いつの頃なのかは覚えていないのですが、三脚を使うことがないので借りるのをやめようと言い出したことがありました、篠田さん。
そんなに高いもんじゃないんですけど、大と小、それとハイハット(ローアングル用)をセットで借りると日一万円ちょっとなんですが、映画だと撮影日数もあるし、レンタル屋さんによっては週5日単位の計算になるところもあるので、それなりにするんです。
じゃあ買っちゃおうかという話もあったのですが、これはこれでメンテナンスが大変なんです。
ある時、実際に三脚を借りなかったんです。
で、借りないと何が起こるかというと、ぼくら(撮影助手)が大変な目に会うんです。三脚というのは、カメラマンが撮影するだけのものではなく、ぼくらは三脚の上にカメラを組んでロール・チェンジをしたり移動したり、カメラのセッティングだって、三脚がないと地べたに置いて作業しなければならない。結構大変だったんです。
それでこの時は借りてくれと頼んで、借りることになったのですが、しばらくして篠田さんがやっぱりいらないって言ってきた。そういう理由ならカメラを乗せる台を作れ、っていうことになったんです。「夏の庭」(1994年・監督相米慎二)の頃には、その作った台の上で作業していましたけど」
大まかな性格であった昇にしては、随分と細かなところまで気を配っている様子が伺える。しかし、こと撮影道具や機材に関しては、工夫と工作好きな性格と予算的に厳しい環境下での倹約管理という川上皓市の教えとが相まってそうさせていることは確かなようだ。
それは以後、無駄な金を使わず、創意工夫のオリジナル機材が随所に登場してくるからだ。これに関しては昇のみならず、右腕福本との悪戦苦闘ぶりも報告できると思う、失敗作も含めて。

さて、昇は本来ならば、この「ワールドアパートメント・ホラー」でピィウイドリーを使いたかったと語っている。
ピィウイドリー(PeeWeeDolly、以下ピィウイ)とは、アメリカ・チャップマン社製フィッシャードリーの軽用タイプとして開発されたもので、パンサードリーが電動であるのに対し、ヘッドが油圧で上下するのが特徴だ。
また、パンサーは踏台が正方形なのに対し、ピィウイの踏台は縦長の長方形になっている。現在はバリエーションも増え、映画撮影の多くに活用されているドリーである。
ドリーとは前回記述したように移動撮影用の台車ではあるが、元来アメリカで三脚の代わりとして発案された機材だ。
一旦重量のあるムービー・カメラを三脚に備え付けると、助手が担いで移動し、置いてからも高さを調節するため、二人以上で三脚の脚を上下させなくてはならない。さらに正確なポジションを決定するまでの微調整を行う手間隙や時間がかかる。
これを簡易化したのがドリーで、ピィウイの場合、ゴム製タイヤが付いているため、右左に位置をずらすことが容易で、ある程度の高さ(ピィウイの場合、最大約60数センチの高低)の上下動をオペレーター(特機部)が操作する。移動するためにはレールが必要となるが、平らなところであればそのまま移動車としても活躍することができる。
構造は、両側にある足場の真ん中に、油圧で上下する屈式のアームが設置され、後部に椅子と押し棒、油圧用ノブが付いている。
「このピィウイって、いろいろと変態するんですよ」
と福本淳。
「普通に使う場合はタイヤを台の斜め前方と斜め後方にセットするんですね、四つ。この状態が標準のスタイルで普通のレールの幅用なんですが、タイヤが収納式になっているんですよ。
例えば、レールの敷けない狭いところに行く時、タイヤの幅を狭くすることができる。台の内側に収納させて台(足場)の幅分までは狭めることができるんです、安定は多少悪くなるんですが。
駆動系も二輪駆動と四輪駆動の二種類あってノブで切り替えるんですが、四駆だと全部のタイヤが同じ方向を向く。タイヤ自体を全部真横にも向けられるんです。だから真っ直ぐ進んで、そのまんまある角度の方向に進められる。後は前部だけこの位置とか後ろだけこの位置とか、いろいろなタイヤのポジションを代えた使い方ができる。
持ち運びのためタイヤを折り畳んで完全収納もできるんです。
篠田さんはその辺をいろいろ組み合わせて、シチュエーションに応じて使い分けていました」

このピィウイドリーに関して面白いエピソードがあると福本は話す。
「東京ディズニーランド・タッチザファンタジー」をやった時のことです。この映画は開園10周年記念の企画で作られたものなんですけど、とにかくディズニーランドを撮影すること自体が大変なことだったんです。容易に機材を園内に入れられないし、レールを敷いてはいけない、撮影は必ず三脚使用のこと、などいろいろな制約でいっぱいでした。
それを監督の富永(一)さんと篠田さんとで交渉してひとつひとつ取り外していったんです。その中に、ピィウイドリーの使用許可があったんです。
富永さんは、開園中の臨場感も含めて、お客さんが本当に楽しんでいる生の姿を撮りたいと考えていましたし、それに対して篠田さんは開園中にピィウイドリーで撮影したい、と。
で、篠田さんは関係者を集めて、デモンストレーションをやったんです。
使用するカメラと三脚、そしてピィウイドリーを持っていきました。
関係者の中には、外資系なので外国人も何人かいて、みんな「これが噂のピィウイドリーか」と注目しているわけです。篠田さんはタイヤを外に出した、一番大きな状態で持っていってましたので、非常に仰々しく見えるんですね。
で、対比できるようにと、横に三脚を置き、「このピィウイというものはよくできていて、三脚より尖っていないし、安定もいいので倒れたりして人がケガをすることもない」って、実際に揺らして見せるわけですよ。三脚は倒そうと思えば倒せるじゃないですか、でもピィウイは簡単には倒れない、っていうことを見せておいて、「でもピィウイは大きい、場所とるよね。でもこれが小さくなるんです」って、タイヤをカシャカシャカシャカシャって収納したんです。
一番小さくすると三脚とそんなに変わらない。こんなに小さくなるものなんですって実演して見せると、外国人の方を含め、ピィウイを初めて見るクライアントから、おおーって拍手が起こったんです。
で、この状態であれば倒そうと思っても倒れない、三脚みたいに爪とかがないので危なくない、こっちの方が絶対安全です、と言い張って、その場でオッケーをもらいました。
ただ条件として、撮影する時間帯が決められ、その中でしか撮影できないことと開園中でもキャストとエキストラを仕込んで、そのシチュエーションで撮影しなければならないということでした。まだまだ制約に縛られている部分は残されていましたけど」
機材だけでなく、制約のある状況をも取り除いていく行為は、単に我を通すという次元から自らの撮影理念を貫くための正当性ゆえのことであると納得せざるを得ない。そのためなのか、何という戦略的な交渉上手! こんな昇は見たことがなかった。
大嫌いな制約をクリアにし、自由に伸び伸びと思ったように撮りたい、それが昇の素直な気持ちなのだろう。

制約が残されている以上、まだ続きがある。
「開園中の撮影ができるようになったのですが、篠田さんも富永さんも段々と物足りなくなってくるんです。
仕込まれた人々(キャスト&エキストラ)の笑顔と本当に遊びに来た客の笑顔は全然違う、本当の客の顔を撮らなければディズニーランドのPRにならない、と後半に言い始めて。
この時は同録ができる大きなカメラで撮影していたのですが、撮影を終えた現場から次の現場への移動中、篠田さんの私物のアリフレックス2Cで、遊びに来た子供たちや家族とか、撮りたいものを見つけては手持ちで歩きながら撮ってました。
2Cも一応35ミリのカメラなんで、普通のビデオ持つのとは訳が違い、バッテリーが必要なんですよ。
で、篠田さんにミッキーマウスのカバンを買って来いと言われまして、リュック式の。その中にバッテリーを入れて、そこからケーブルを出して撮っていました。
仕舞いには、カメラを持っていると見つかる、見つかるといい顔が撮れないから、ミニーかなにかの人形を買って来いと。それをカバンの上に乗せてケーブルを隠し、カメラも抱くようにして隠しながら歩いて、子供が可愛い表情してるなと思うとパッと出して撮っていましたね。
撮り終わってから、今こういう主旨のものを撮っているのですが、使用許可をいただけますか、って聞いて、署名してもらって。それは膨大な量になったと思います」
当たり前のことながら、いい画を撮るということは、いい作品(仕上がり)への道程であることを、昇は人一倍に努力し実践していたのである。
いい悪いは別にして、いい作品の出来上がりを期待してなのか、こっちもいいよあっちも面白いよ、と自らのノルマを越えて撮ってしまう、そんな気持ち(ハート)を持ったカメラマンだったのではないだろうか。

やがて、このピィウイドリーは、この上にミニジブを乗せるという昇の奇想天外なアイディアを「東方見聞録」(1992年・監督井筒和幸)で展開することになる。


撮影協力:篠田いづみ

2008年09月30日

take22作り続けるということ

1988年(昭和63年)から約10年弱もの長い間、篠田昇のもとで助手を務めてきた福本淳は、この間、篠田に本気で楯突いたことが2回ほどあった。
「夏の庭」の撮影中に1回、そしてもう1回は「MISTY」の時だった。

1993年夏。
「夏の庭」での撮影期間中、撮影が終了すると、宿泊先のホテルにあったガレージの一角に作られた撮影部用の工房に戻り、篠田から命じられた自家製機材の作成や修繕をするのが日課になっていた福本は、その日もひとりで黙々と作業を続けていた。
他の現場スタッフたちは撮影が終わると大方飲みに出かけた。彼らから声を掛けられることも度々あったが、福本はそれを断り、ひたすら作業をしていた。
そこに「毎日毎日、お前は一体何をやっているんだ」とスチルマンが工房を訪ねてきた。彼は飲みに誘っても断り続けている福本の姿に耐えかねて、酒を持ってやってきた。
「たまには飲めよ」と工房の中にゴザを敷き、他に二人ほどが加わり、酒盛りが始まった。福本はありがたみを感じ、酒をいただきながらも作業の手を休めることはなかった。
そこへ篠田が帰ってきた。篠田はそれを見て、福本を工房から連れ出し、「お前、何やってんだ。明日まで、これができなかったら、撮影できないんだぞ」と怒鳴った。
福本は福本で、自分なりに精一杯やってきている中で、他のスタッフが気を使ってくれたことに対して、それを突っぱねることはできないという思いの丈を、篠田にぶつけた。

初めて二人の真剣な怒りがぶつかりあった翌日の撮影が気になる。
「ぼくが(作業で)やったことが篠田さんの望んでいたとおりにできたかはわからないですが、結局ぼくがいろいろなことを考えて準備していっても、常に課題が生まれる。
例えば、篠田さんに3のことを要求されても、一応5くらいのことを考えて持っていく。だけど、現場に入ると、篠田さんは7くらいのことに引き上げようとする。
そういう意味じゃ、怒られた翌日だけ、特別大変なことになったかというと、そんなことはないんです」
いつものとおりではあったのだが、それなりにいつも大変だったという福本の思いが読み取れる。

篠田は福本にどのような注文を出していたのだろうか。
これまでカメラ本体から、レンズ、フィルター、フィルム、ミニジブやピィウイ等の特機の扱い、自家製ステディカム“NOBOCAM”の開発などの話から、おおよその推測は立つ。
しかし、その多くは、制約を取り払うという大原則に成り立つものの、試行錯誤の積み重ねのせいか、危険やトラブルといったリスクと表裏一体であることも否めない。
ピィウイにミニジブを乗せたはいいがレールや車輪への重量負担による故障、
いつ落ちても不思議ではない「夏の庭」のズームレンズの改造、
長澤雅彦の語る撮影中のセッティング待ち、いわゆる篠田待ち・・・。
そして、福本淳がさらに付け加える。
「篠田さんは、普通にものを使ってくれないカメラマンなんですよ。何でもそうなんですけど、普通には絶対使わない。
例えば、クレーンです。
本来クレーンにはカメラを取り付ける支柱とカメラマンとピントマンが座れる椅子が付いているんです。
で、もっと高さが欲しい時は、プラットホーム(クレーン突端の撮影者が乗る台)に三脚を立てます。その分、二人乗ることは困難になったりしますが、それはそんなに珍しいことではないんですね、よくあるんです。
当時のプラットホームの大きさって、約1.2メートル四方あるんですよ。当然、壁までの距離、ぶつかると危ないので、その分の距離がどうしても必要なんです。
でも、篠田さんはもっと壁ぎりぎりで撮影したい、と。壁ぎりぎりの撮影というものは、このままでは無理なんですね。
でも、プラットホームというのは分解式になっているので、外せるんです。それを外して、ますます危険な状態になってくるんですが、こうすると壁ぎりぎりの撮影ができるんです。
こうやって、篠田さんはクレーンでカメラが壁ぎりぎりの撮影をするようになったんです。
それと、ぼくが助手として一番困ったのは、「夏の庭」の時でした。
少年たちが初めて塀を乗り越えるショットで、少年たちの頭すれすれをカメラが通りたいと、篠田さん。
で、クレーンにカメラが乗ると、少年たちの頭よりも大分上をカメラが通過することになってしまうので、カメラをクレーンの下にぶら下げるんです。これが大変なわけです。
クレーンの下に、お釜(ヘッド)を逆さまに付けて、そこに“コの字”を付けて、カメラをぶら下げて、プラット・ホームに篠田さんが腹ばいに寝っ転がる。
左側からファインダーを出して、右側からはパン棒が出て、覗いてオペレートしているんですが、ファインダーが当たって、どうしても自分が撮りたいところへ振れなかったりする。
お釜を逆さまに付けるのをシャコ万という万力で止めてあるので、出っ張っているんですね、締め付けた部分が、それが当たる。だから、その付け方をオペレートに合わせて、変えていく。さらに大変なことになっていくんです。
ま、このように本当に普通通りには使ってくれないんです。何でもでした」
篠田昇というカメラマンは、アイディアが豊富な分、その負担を背負わなければならない助手泣かせのカメラマンでもあった。
広義に考えれば、助手だけでなく、特機部を含めた撮影回り全ての人々に対しても、何かしらの手を加えさせる、やっかいなカメラマンでもあった。
ただ、それが行定監督や長澤の言う妥協しない撮影、やると決めたらとことんやる篠田の姿勢として、高い評価と信頼に繋がっているのも、また事実である。
篠田昇は、
普通のことはやらない
“誰もがやらないことを考え出す”
“人のやったことがないことにこだわる”
“常識はずれを良しとする”
それはつまり、
“常に新しいものを作り、新しいことをやり続ける”ことであり、それはまるでアルバムを発表する度に世界を驚かせたザ・ビートルズのスタイル(在り方というか生き方というか)と、規模こそ違え、私にはダブって見えてくる。
ひょっとすると篠田昇は、ビートルズの心の中の一員として、挑戦というポリシーを貫いていたのかもしれない。それが篠田のプライドでもあったのか。
ただ彼の性格として、“人を驚かすのが大好き”というレベルの一面を持ち合わせていたということも付け加えておく。

しかし、その一方で、やりたい放題ではなく、しなくてはいけないことにも留意していた。いわゆる当たり前のことながら、常識の意識である。
「常にシステム・アップしていけ、というのが篠田さんの持論でした。ぼくらが機材を作るというのはそういうことなんです。
篠田さんの場合、当然撮影のセット・アップするのに時間がかかる。
篠田さんはそれが嫌なんです。
ピィウイにミニジブを乗せるのが大変なんだろうと、毎回同じことをやっているんだから、それが早くできるようなことをお前らは準備しろ、と。
例えば、ミニジブにカメラを乗せると、カメラ用の電源一個引くだけで、普通のカメラのケーブルって1.2~3メートルしかないので、三脚の下にバッテリーを置く分には繋げば問題ないんですが、ミニジブに乗るとカメラが動く時に足りなくなる。
それを手で持って回ったりするよりかは、長いケーブルを用意して、その長いケーブルがすぐミニジブの支柱にピッと簡単に付くようにしておけ、というようなことなんです」
「借りるよりは、何でも作りゃあいいじゃん、ということで、どんどんと手製の機材が増えていく。ケーブルの本数も増えていくと、今度はバッテリーの分岐をすればいいんじゃないの、って、バッテリーの分岐をする箱を作る。
そのうち、このバッテリーじゃ電源三つ同時に取ると、カメラが回らなくなるとか学習もしたりして、本当に次から次に、いろいろなことをやってました」
「普通、新しいものを作ると、その前のやつは捨てちゃえばいいわけじゃないですか。
それを捨てないでとっておく。しかも、それを常に持ち運ばなければいけない。
初めて助手で来た人は、これが何の時に使うのか、どんな時に使うのか、理解できるまでが大変なんですよ。
みんなによく言われますけど、何でも作って、それを使えるようにして、普通はそんなこと、なかなかしないよ、って。
ぼくもそう思うところはありましたけど」
つまり、自家製機材の開発やパーツの改良、修繕といったものは、撮影そのものの向上だけでなく、作業やセッティングの短縮に繋げる、いわば次の撮影のための作業効率を図るステップ・アップとして、篠田は指示していたのである。

「篠田さんにああしろこうしろと言われて、やってみて、結果、篠田さんの思うようにいかなかったことはいっぱいあります。
篠田さんのすごいところは、ぼくが「できない」って言う前に、「こうすりゃ、できんだろ」って、返ってくることなんです。
だけれども、「こうすりゃ、いいんだよ」ということが、ぼくらの(知識の)範疇を越えているんですね。
ぼくらは撮影助手じゃないですか。作れというものが、機材屋だったら作れるかもしれませんが、ぼくらにそれが作れるのかな、みたいなことをおっしゃる。それは、じゃ作ってみるか、ということなんですけど。
一回、無線でカメラのピントを送る機械を作れって言われたんですが、多分ぼくがキョトンとしていたのだと思います。
そしたら、「あのさ、お前さ、ラジコン・カーのギアなんか使って、うまいことできないのかよ」「よくキュッキュッてやってるだろ、それ機材と同じだろ」って。
ぼくはラジコンなんて知りませんでしたけど、原理は大体わかっていたので、買ってきて作りました」

篠田というカメラマンの特徴は、福本の「ぼくらは撮影助手なのに、何で・・・」という言葉に象徴されている。
福本に限らず、篠田の助手たちは、自分たちは撮影助手なのに、何で機材屋が作るものを作らなければならないのか、どこか疑問を感じていたに違いない。
もしくは、撮影助手以外の仕事をさせられていると、多少の反発を感じていたのだと思う。
しかしながら、それは長澤雅彦が言うように、「篠田さんが言うんだから、ま、言うとおりにやるか」と、ひたすら篠田の大らかな人間性に押し流されていたのではないか。
それは彼の結婚式や葬式に集まった数十人というおびただしい助手たちの数で窺える。彼らはみんな篠田を好きだった、慕っていたのだから。
やはり、篠田は撮影に関わる物を工夫して何でも作ろうとする行為において、特異な撮影法と併せて、他のカメラマンとは大分違っていたのだろう。

最後は、福本のオチで締めくくろう。
「篠田さんは、いづみさんと結婚されて、しばらく経った時期に、ラジコン・ヘリでよく遊ばれていた時がありました。
ぼくは、「いずれはそれで空撮ですか」って、聞いた覚えがあります」


取材協力:篠田いづみ

2008年10月24日

take24自家製機材とレンズの加工

カメラマン篠田昇とその助手福本淳が作る自家製機材は、作品に関わるたびにその数は増えていった。新しく改良しても、その前のタイプを捨てないでいるからだ。
なぜ古いやつを処分しないのであろうか。
「ある特殊なカメラ用に作ったものがありました。これはこの作品には必要ないや、とぼく(福本淳)が勝手に判断して撮影に持っていかなかったことがあったんです。
篠田さんは、現場で想定している使い方じゃない使い方を要求されるので、突発的なことが起こり、対処できない場合が多々あります。
そんな時に篠田さんは、あん時のあれを持ってこいって言われる。えー、そんなもん使うんですか、っていうようなことを言われる。
しかし今回、想定していなかったので、ぼくは持ってきていないと話す。
そうすると「お前、そんなもん、持ってこなかったら、仕事にならないじゃないかよ」って怒鳴られる、怒られる。
だから、ぼくは撮影がある時は、全て、全部を持っていくようにしていました」

自家製機材は進化を遂げ、作りかえられていくにはいくが、篠田のT.P.Oとでもいうのだろうか、古いものもまた利用する機会がそれなりに訪れるようだ。
だが、その判断は篠田の頭の中でしかわからない。現場での予想外な閃きということもあるから、福本としては捨てられないし、全てを持っていくしかないというわけだ。
だから福本の言葉には、予想もつかぬ使い方もあり得るという前提ながらも、助手としての意地ともとれるニュアンスが潜んでいる。「全部持ってきていますから、何でもお好きなものを言ってください、すぐに出しますよ、それが助手の務めというものですよね、篠田さん」といったような・・・。

「その篠田さんの機材は、ぼくのベンツ・ワゴンに満載されていました」
福本淳も昇に唆されてベンツを購入したひとりだった。
「篠田さんと仕事をする時は、自分んちで篠田さんに頼まれた物を作ってから現場に行くとか、ある程度の機材を運ぶために、ずっと新丸子の実家の車、カローラなんですが、これに乗っていました。
「ルナティックラブ」の撮影の時(1993年)に、現場は結構大変で、朝眠くて、ぶつけちゃって、廃車になって、困っていた。ぼくの車じゃないから、すぐに買わなくてはいけない。
で、編集をしている時に、編集室で、ぼくは篠田さんに今後機材運ぶのに必要だし、実家も困っちゃうし、中古でいいから安い車ないですかね、みたいなことを何となくボソッと言ってしまった。
そしたら、篠田さん、製作の人に「カーセンサー、買ってこい」って。
で、買ってきた雑誌をぱらぱらと見出して、「うあー、いいの、あるよ。これこれ」と出されたのが、ベンツのワゴン。
「これ、安いよ。これ、買えよ」って始まったわけですよ。
ぼくは車人間ではないので、基本的によく知らないし、それほど好きでもない。
篠田さんの乗っていた白いベンツは縦目といって、ヘッドライトが縦長なんですね。それは古いということであって、今のは横長になっている。
薦められたベンツのワゴンは、横目になってからすぐのヤツで、10年落ちくらいだったのかな。
で、エンジンがベンツ・マニアの中でもかなり有名なW123型というすごいエンジンだったらしいんです。
そんなことをぼくに教えてくれて、これはいっぱい積めるぞと篠田さん。
ベンツなんか買う気さらさらなかったのですが、篠田さんに車でその中古車屋さんに連れて行かれて、見ているうちに、ね、確かにいっぱい積めるし、段々とかっこよく見えてきて、親からはベンツなんてでかいからいらないとは言われていたのですが、結局買っちゃいました。
値段はそれなりにしたんですが、篠田さんが交渉して安くしてくれました」

福本はこれら機材をリストにして整理しており、新しいものが出来るたびに、その機材リストに加えていた。
しかし、福本がカメラマンとして自立した時、機材の全ては篠田の練馬の家に移されていった。福本の代わりとなる、その特別な自家製機材を把握できるチーフ、セカンドがいなかったためである。
その後、制作された機材については、管理することになった篠田自身がリストに足していった。

「篠田さんの機材って、ぼく(福本淳)が管理していた以外にもあるんですよ。
つまり、カメラのパナビジョンを借りると、“コの字”を使ったりするんで、そのセッティングの時間を節約できるように、カメラを乗せるスライド・ベースをもうひとつ余分に作ってとか、レンタルする機材とセットで使えるものを三和映材に置いておくので、それも増えていくんです。
それも、ぼくがセカンドの頃はリストにしておいて、必要なものをその都度借りていた。チーフの頃になると、それらは篠田さんしか使わないので、まとめて篠田組用として、篠田さんのエキストラ機材として、三和映材に保存管理されていましたね。
映画だけでなく、CMの仕事もたくさんされていたので、使うこともかなり多かった」

篠田が作成した自家製機材、とりわけ三和映材に保管されているというカメラ回りの篠田仕様の機材。篠田しか使わないので、と福本の言葉があるが、これらは実際向上性に富み、便利で使い安いのであれば、篠田組用としてだけでなく、他のカメラマンも使うことができたのではないのか、と取材し始めた頃の私は素朴な疑問を持っていた。
そんな疑問を長澤雅彦が一蹴する。
「だれも使えないんでしょう、カスタマイズされているから。
篠田さんは、キャメラは動き回るし、いつでも手持ちでいけるようになっているから、無駄なものを全部削ぎ落としているんです。部品にしても、いらないものはいらないって、外していっちゃうんですよ、なるべく、軽いようにと。
だから、他の人は使えないんです。
クレーンだって、カメラを乗せる台から椅子、下の板(プラットホーム)まで全部取っ払うんです。で、鉄の棒を1本立てて、その棒に安全のためにロープで自分を繋いで、片手で棒を持ちながら、カメラを担いで撮影する。
こんな、篠田仕様を使う人はいないと思いますね」

さて、話はレンズに移ろう。
スチル用のズームレンズをムービー用に作り変えてしまったように、福本淳は、篠田昇のレンズに関する知識の豊富さを幾度となく見せ付けられてきた。
初めてのその機会は、1991年相米慎二演出によるオペラ「千の記憶の物語」の中の“記憶の映像”を、ピンホール・カメラで撮影したものだった。
「要するに、穴一個だけで結像させるもので、通常の歪曲したガラス板、レンズを使わないカメラです。素材の厚さと穴の大きさで解像度なり、画角なりが決まるものなんですが、それをムービーのカメラに付けることができないか、映画にできないか、ということを始めたことがありました」
と福本。
隔月誌「DIRECTOR’S MAGAZINE」(クリーク・アンド・リバー社発行)2007年6・7月号「伝説のつくり手たち~篠田昇」(文・金子忠義)にも篠田自身の言葉で、
「穴なんですね、ただの。0.25ミリくらいのきれいな穴を開けて。あとは計算するだけ。レンズにはF値があるけれど、ピンホールの場合、だいたいF400くらいになっちゃうんです。だから、晴れた太陽の下でないと撮れないんですよ。
相米監督に依頼されて、どんな撮り方ができるかな、と思って写真の本を見ていたらピンホールの写真があったんです。で、これは面白いかも、と」(原文まま)
と語られている。

いつの頃かも詳細も不明だが、かつて篠田昇はタウンページで、練馬の家の、たまたまあった近所のレンズ屋を見つけて、一枚のレンズを持って相談に行ったことがあったと篠田いづみは記憶する。
それは一枚のレンズを加工しようとしたもので、そのレンズ屋の長男が、これまでやったことのない篠田からの特別注文に興味を示し、一緒に作業をしていたというものだった。

「篠田さんはタウンページ、イエローページが大好きで、レンズを売っている業者を調べて実際に買いに行ってました。
ぼく(福本淳)も一回だけ銀座の店に行ったことがありました。
その時は、3種類のレンズを買って、それを何とか結像させようと筒を作って、ムービー・カメラの前に付けて、一緒にやったんですが、うまくいきませんでした」

しかし、こうした篠田の作った加工レンズはいろいろな映画で活躍している。
「BeRLiN」(1995年、監督利重剛)の中で、始めのほうだったと思うのですが、中谷美紀さんが風俗嬢の役で、その全裸の中谷さんを背中から撮っている画は、篠田さんが作った一枚レンズで撮影したものなんです。
それと「世界の中心で、愛をさけぶ」で山崎努さんのしげ爺の昔好きだった女の人、思いを伝えられずに亡くなってしまった女性、その女校長の若かりし頃の写真が写真館に飾ってあったでしょ。あれは堀北真希が写真だけで出演しているんですが、あれも篠田さんが一枚レンズで撮った劇用写真なんです。
堀北真希って今の子だけれど、どう見てもその写真って、本当に何十年も前に撮った写真でしょ、っていうくらい古びている。
今ではデジタルで加工もできるんですけれど、篠田さんは広角の一枚レンズという、物凄く解像度も悪く、言ってみれば性能の低いレンズで撮った写真なんで、すごい味があるんです。
しかも山崎さんの役どころって、プロの写真家だから、そのプロが撮ったという設定のアンティークな質感が物凄くよく出ている。
やはりこの一枚レンズで撮らなければ、ああいう風にはならない。篠田さんはそこにこだわっていた。
(映画の)撮影前の準備をしていた頃に合間をぬって撮影したのですが、ぼくはこの時立ち会ってはいないんです。ぼくの下の助手が付いていて、その子は写真が物凄く好きな子で、「すごいですね、篠田さんは。あんなことができるとは思いもしませんでした」って、えらく感心していました」

また、岩井俊二監督と組み始めて間もなく、ビデオによる撮影に取り掛かっていた頃、篠田は友人である写真家杉山芳明を訪ねた。ハッセルブラッドを借りにいったのである。
「ハッセル、持って行っていい?」と篠田。
「うん、いいよ」と杉山。
「ボディ、切ってもいい?」
「何で? だ、だめだよー」
「レンズを使いたいんだ」
「おいおい、勘弁してくれよー」
という会話がなされた。
それは、ビデオカメラに付いている従来のレンズではなく、ハッセルのシュナイダー製レンズを付けて映画を撮ろうと考えての行動であった(詳細は後日に予定)。

加工とは違うが、篠田のレンズに対するこだわりの一文がある。
take21にて、パナビジョンSPシリーズのレンズの使用経緯について記したが、これについて、篠田自身が「映画撮影とは何か~キャメラマン40人の証言」(平凡社刊・山口猛編、監修佐々木原保志)の中で語っているので、追記する。
「僕が使っているパナビジョンのレンズは、暖かさを持ったキャラクターなので、レンズ自体が好きなんです。それで、シネスコ以外のパナビジョンのレンズは同じレンズを使っています。ただそのセットは古いレンズで、日本にはあまりないものです。
けれども、古いレンズだから悪く、新しいレンズだから優れているとは限りません。僕は同じナンバーのレンズを『ラブホテル』から使っていて、そのルック、諧調が気に入っているのです」(原文まま)

ここで、シネスコ以外のパナビジョンのレンズという限定した言葉があるが、実はシネスコのレンズについても同様のことを篠田は行なっていた。
「パナ社でテストしたレンズ(take18)を使う時も、極力同じシリアル・ナンバーのものを使うようにしていました。
同じ75ミリでも、ぼく(福本淳)らがアメリカでテストしたのは、15本もあるんですけれど、その中でこれがいいと決めたレンズがある。
その決めたレンズを、篠田用のセットとして、代理店でレンタルしている三和映材に残してもらっていました。
アナモ・レンズだけでなく、他のレンズも同様です。
やっぱりシリアル・ナンバーが代わるとピントの切れであったり、多少の色の転びとかが変わってくるので、ナンバーを管理して、同じものを三和さんに対しては要求していました」

ハッセルのレンズをビデオカメラに付けようなどと、門外漢である私には到底理解できることではない昇のレンズへのこだわりは、このままでは終われない奥の深さを秘めている。
私自身は、これからも回を追うたびに伝えなくてはならないテーマとして捉えているし、もっとその奥を知りたいと思っている。
ただ、一概にはいえないのだろうが、これまでの一連のレンズの話を聞いていると、どうも昇は味のある古い感覚のレンズが好みであったようだ。
そして、それが、光が滲むような、光が掠れてぼけるような、遠近感の希薄な、といった篠田独特の映像世界を、或いはその一部を作っていったのだろうと考えると、私には少し篠田のやろうとしていたことが、ほんの少しだけ見えたような、そんなある感慨が湧いてくるのであった。


取材協力:篠田いづみ

2011年08月18日

take34 ビデオへのアプローチ

80年代前半、テレビ・ドキュメンタリーの仕事で、初めてビデオカメラを経験してから、篠田昇は以後、映画撮影という分野においてフィルム同様にビデオ映像とも付き合いを始める。
もちろん、テレビCMも多数手がけていくが、その撮影技術の方法論は映画撮影そのものと何ら変わるものではなかった。

篠田昇が、初めてガンマ・オフという手法を監督の岩井俊二から教えてもらったのが、「ルナティックラブ」(1994年フジ系)だった。(「take26ビデオをいじる」参照)
ビデオで撮られた「ルナティックラブ」は全編手持ちで撮影された。
その頃のビデオカメラはまだ大きく、相当重たかったのだが、
「その頃流行ったカメラで、ビデオのCCD(*)のユニットだけが抜けるものがあって、小さな箱にレンズが付いて、それにケーブルを本体のVTRに繋いで収録するシステムがあったんです。
これは、16ミリ(カメラ)より軽いんですね。
それに棒とバランサーを付けて、それとピントが送れるようにリモコンを付けて撮りました。
この頃のビデオは基本的にまだズーム・レンズなので、単レンズというものはまだありませんでした。
ハンディカムに近い感覚で撮っていました。たしかソニーのT70というカメラだったと思います」
とこの時のチーフ助手だった福本淳は回想する。
(*CCD=固体撮像素子。これまでの真空管技術の撮像管に代わって作られた半導体で、レンズから入ってきた光を電気(ビデオ)信号に変換するもの。小型軽量、低消費電力、高安定、長寿命、焼付けを起こさない、コメットテール(高輝度の被写体がフレーム内を動くとき、彗星のように尾を引く現象)残像がないなどの多くの利点がある)

しかし、この頃は本格的なビデオ映像への取り組みということより、篠田と福本には彼らの課題、「来たことのある初めての道」(1993年)からの独自の手持ちカメラ・システム=自家製ステディカムの完成にまだ重点が置かれていた。(「take20手持ちへの追及」参照)

そして、篠田昇が次にビデオカメラを手にするのは、代表的作品となった「Love Letter」(1995年公開・監督岩井俊二)の撮影終了後、利重剛監督作品「BeRLiN」(1995年公開)の撮影で、である。
この作品で篠田は、16ミリ・フィルムの他に、8ミリ・ビデオ(High8)で撮影している。
8ミリ・ビデオが使われたのは、ドラマの部分以外の、主人公(中谷美紀)を追いかけている取材のシーンだと思われる。
それをフィルムに起こして、16ミリと8ミリ・ビデオが混在した映像を作り上げているが、これもコンパクトなハンディ・タイプを生かしての撮影に重点が置かれての起用だと思われる。

このあと、ビデオカメラを使っての撮影を行なうのは、「源氏物語 あさきゆめみし」(2000年公開・監督三枝健起)になる。
この映画の撮影期間は定かではないが、2000年7月の公開であったから、大枠ながら1998年から2000年にかけてのどこかになる。
この辺から、篠田昇がビデオ映像そのものについて、本格的に始動していく。


岩井俊二が興味を持ち、カメラの中をいじり始めたビデオ映像。篠田昇もまた、それを追いかけるように魅せられていく。
一体、ビデオ映像とは、これまで撮ってきた映画用フィルムと構造的にどこが違うのであろうか。

日本のテレビジョンは、NTSC規格に基づき、走査線は525本で、1秒間に30フレーム(f)と決められている。
更に、ちらつき(フリッカー)に対処するため、インターレス(飛び越し走査・i)という1フレーム(1画像)を2度に分けて伝送する方式をとっている。
よって、ビデオカメラもインターレス(i)方式の毎秒30コマで撮影されていた。

20世紀終盤に入り、走査線が倍に増加したハイビジョン、そしてHD(ハイディフィニション)システムに時代は進行していた。

同時に、ビデオカメラ、殊に映画撮影用カメラ、及びビデオから映画への変換をするためのプロセス、それを互換性をもったテレビへの推移をも可能にするシステム、それらを含めて、その技術は飛躍的な進歩を遂げている頃でもあった。


1997年、ジョージ・ルーカスは、CG(コンピュータ・グラフィックス)の技術精度の向上とその表現力に確信を持ったことで、「スター・ウォーズ」シリーズの続編再開することを決意した。
過去、「スター・ウォーズ」(1977年)「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」(1980年)「スター・ウォーズ/ジェダイの復讐」(1983年)とそれぞれ「エピソード4」「エピソード5」「エピソード6」と称される作品群のあと、約16年という時を経ての復活であった。

そして、より高精度で緻密な映像を撮影できる映画撮影用のデジタル・ビデオカメラの開発を、「エピソード1/ファントム・メナス」(1999年日本公開)の撮影前にソニーに要請した。
それは、記録方式が24P(プログレッシブ=順次走査)と呼ばれ、フィルム・カメラ同様毎秒24コマ記録で撮影されるものだった。
これは、優れた映像以外にほぼ全編にわたる合成処理を簡潔に遂行できることやデジタル・データ編集、従来の30コマから24コマへの変換の手間を省く等、様々な利点も含まれていた。

しかし、ルーカスが希望した仕様のビデオカメラは、「エピソード1」の撮影には間に合わず、結局「エピソード2/クローンの攻撃」の撮影前(2000年6月撮影開始)に納入される。
そのカメラは、HDW-F900と呼ばれ、レンズ部分を受け持ったパナビジョンによって、さらに改造を加えた後、ルーカスに納められた。

2000年4月、ラスベガスで開かれた世界最大の放送機器展NABに、ソニーはHDW-F900を始めとするHD24P対応関連機器に「CINEALTA(シネアルタ)」と命名し、映画用に特化したブランドとして発表した。
こうして、HD24P仕様のビデオカメラHDW-F900は、その夏に発売の運びとなった。

よって、99年前後の「源氏物語 あさきゆめみし」撮影時には、まだこのHD24Pは登場していない。

当時の「源氏物語 あさきゆめみし」を福本淳は振り返る。
「おそらくガンマ・オフを使ってらっしゃると思うんですが、かなりコントラストの強い画を撮影されていました。
普通、ビデオからフィルムに起こす技術というのは、ひとつのフォーマットがあるんです。
ビデオを現像所に入れて、どういったフィルムに焼くことで、ネガを作るという決まったフォーマットがあるんです。
篠田さんは、この時ラボ(イマジカ)に対して、“なんでそのフォーマットでなければいけないのか、なんでそのフィルムでなくてはいけないのか”という疑問を投げかけたんです。
イマジカとしてみれば、一番コントラストも解像度もいいフィルムを使うということで、テストを重ねた上で、このフィルムを使うというあるフォーマットを作っていたんですけれど・・・。
篠田さんは、ビデオで撮影すると、フィルムと一番違うのは、粒状での感じ方だと考えたようで、敢えて粒状性の少ないフィルムに焼くことはないのではないか、と。
そこで、イマジカに、フォーマットとしてのフィルムじゃなくて、もっと粒子の出る感度の高いフィルムで焼いてくれ、と注文を出した。
それでテストを重ねた結果、感度の高いフィルムで焼くと、確かに今までイマジカがやってきたビデオからフィルムに変換されたものよりかは、フィルムの持っている粒子がちょっと見えてきた。
その質感がよくなってきたのを更に高めるために、篠田さんは、そんだったらビデオをフィルムに変換する時に増感したらどうか、と提案したんですね。
増感することによって、コントラストも増えるし、粒子もより出る。
これもテストを重ねていって、「源氏物語 あさきゆめみし」は、最終的に2タイプのフィルムの現像を変えたものでテストし、見比べて、どちらで全部焼くかということをやりました。
これは、今は24Pのカメラがあるので、当たり前の技術としてあることなんですが、篠田さんはビデオで撮られて、ご自分が求めている映像により近づけるために、相当なやり取りをラボと繰り返し、テストを重ねていって、できあがった映像なんですね。
ぼくらが単純に知っている、ビデオからフィルムへの変換した映像というのは、(当時の)映画館に行くとCMが流れてますよね、テレビで流れているCMが。あれなんです。
そういうものとは全く違うビデオで撮影したものをスクリーン上で見られることになったので、かなり面白い技術だなあ、なんて思っていたら、割とすぐに24Pのカメラが出てきましたね」

篠田は、こうした「源氏物語 あさきゆめみし」での映像作りのため、現像所(イマジカ)とやりとりを繰り返していた一方、ビデオカメラのメカニズムそのものについて、ソニーと接触していた。
福本によると、篠田は「ルナティックラブ」「あさきゆめみし」を見せて、フィルムの特性やその現像のことやコントラスト等、ガンマを変えることで画がこんなにも変わることを説得していたらしい。
「当然、向こう(ソニー)だって、技術屋さんだから、理論的に知ってはいるんですけれど、非常に使いづらいものだった。だから、これまでだれも使ってなかっただけの話なんですね。篠田さんは、こういう風にすれば、もっと面白い映像がたくさん撮れますよ、っていうプレゼンをしてたんだと思います」

多少、時間の幅があるものの、丁度この頃ソニーはルーカス・フィルムへ納入するHD24P仕様のビデオカメラを開発中であった。
であるから、映画に特化したビデオカメラを作りたい、最終的にフィルムに戻す時になるべくフィルムに近いものに仕上げたい、と考えているソニーにとって、撮影監督篠田昇に接触することは、容易に想像できる。
「24Pのカメラが製品化される以前に、ソニーの技術の方が相談にくるようになって、いろいろなフィルム・タイプで、実際にフィルムで撮って現像したテストをソニーさんに渡して、それをソニーさんがデータ化して、カメラに反映させているような、そんなやりとりをしていました」
と福本淳。

福本によると、そのソニーの技術の人間は、24Pカメラ開発部の責任者で、早坂と名乗っていたという。

早坂高志。
彼は当時、HD24P制作プロジェクトの実働部隊のリーダー的存在で、カメラだけでなく、VTR、スイッチャー、DME(デジタル特殊効果装置)、モニター等、HD24Pビデオ・システム全般の開発に取り組んでいた。
のちに、早坂は、“ミスター24P”と呼ばれる存在となり、篠田昇とは、盟友の関係を築いていくことになる。

しかし、早坂は篠田との出会いは「リリイ・シュシュのすべて」の撮影終了直後、2000年のクリスマス頃だという。

「リリイ・シュシュのすべて」は、日本で初めて、HD24P仕様のビデオカメラHDW-F900で撮影された。
ふたりの出会いを、福本は24Pカメラの開発中に、早坂は出来上がってから、と語るその時間差は、単なる記憶違いからなのだろうか。


取材協力:篠田いづみ
*参考資料
「ソニー厚木スピリット」(立石泰則著・小学館)
「デジタル映画撮影術」(ポール・ウィラー著・フィルムアート社)

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