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篠田昇の撮影 アーカイブ

2008年06月18日

take15 ワイド・アップ

映画「世界の中心で、愛をさけぶ」のDVD特典映像の中で、行定勲監督は篠田昇の撮影について、こう語っている。
「ものすごくそばにいる、いつも。俳優さんとかも撮られていて、篠田さんにある種、心を開くんでしょう、きっと。普通だったら、ある距離で美しい映像を撮ることは可能だと思うんですけど、篠田さんはすごく近い、被写体と。被写体に近く、撮っていく。ワイド、広いレンズを使って近くに寄って撮る。
それがいやじゃないんです。
望遠できれいに撮って、凛とした表情を撮るのはあると思うんですけど、篠田さんほどあれだけ近づいて美しい映画撮れる人って、まれだと思うし、これからもまねしようとしてもできない人だと思う」(インタビュー中一部抜粋)
事実、最新作である3人の監督によるコラボ映画「TOKYO!」の一話「TOKYO! ショッキング東京」(監督ポン・ジュノ)の撮影を担当した福本淳は、
「篠田さんの画作りで育ってきているので、被写体との距離の取り方とかもものすごい影響を受けています。
ですが、こういう時、篠田さんだったらカーンと引いてワイドで撮るよなと思って、それと同じことをしたつもりでも、見えるものが違う印象になってしまう。
篠田さんの真横にいて、目の当たりに見てきていても、それと同じ方法論で撮ろうとしても篠田さんのようにはならない。これは実感としてあります。
自分が撮影していくうちに、篠田さんよりはどんどん玉(レンズ)は長く(標準~望遠よりに)なっていくんですね。
やはり影響を受けているといっても、そういうものは持っているつもりでも、絶対に越えられない一線がどこかにある。篠田さんにしかできないことって、確かにあるんだなって感じています」
と、10年近く篠田の下で働き、学び、時には盗み、じかにその方法論を体験してきた男は、自分では到達できない篠田昇ならではのテクニカルな特異性を肌で感じている。


「ワールドアパートメント・ホラー」で、被写体からわずかの近距離で撮影する篠田の姿に違和感を覚えた福本は、こんな篠田の言葉を思い出していた。
「以前、すごく意外なことをおっしゃっていたんです。篠田さんは「噛む女」(1988年・監督神代辰己)という作品をご自分でも気に入っている映画だったんですが、この映画のマスター・レンズは60ミリだとおっしゃった。これは60ミリというレンズが主な使用レンズになるということで、それで画作りをしたと。
そういった意味では「ワールドアパートメント・ホラー」は18ミリなんですよ。そういう撮り方をされている方が、60ミリ主体で撮ったということと両立するのかな、と何か不自然さを感じました」
しかし、こうした福本の思惑をよそに篠田はワイド・アップを、つまり18ミリのワイド・レンズで被写体を近距離で撮ることを徹底して続けていった。
以後、多くのカメラマンと仕事をした福本は、毎度毎度ではないにしろと前置きをしつつ、「マスター・レンズは何ミリにする」と公言したカメラマンは、後にも先にも篠田昇だけだったと話す。
これを福本は、作品を撮る場合、普通監督とのアプローチが変われば、当然変わるべきスタンスを曲げなかった篠田の意志だと解釈している。

何故この時期あたりから“寄り”の撮影、ワイド・アップを多用するようになったのか、ワイド・アップにこだわるようになったのだろうか。
「ワイドでものすごく近くで撮ること自体は、「東京ディズニーランド~」でもやっていましたし、もっと前の「危ない話」(1989年・監督井筒和幸)でも見られました。
ただ、ぼくが篠田さんと仕事をしてて思ったのは、他のカメラマンと比べても、すごいワイド・レンズを使うカメラマンだということです。
ズーム・レンズが付いていても、一番(広角に)引いて撮っていました。
師匠の川上さん世代のカメラマン、もしくはそれより上の世代のカメラマンの方々というのは、ズーム・レンズを付けていても普通一番引きでは使わないんです。若干ズームを、ちょっとでも長くして(標準~望遠よりに)撮りたがる。
本当に18ミリとか、いわゆる広角レンズというのは、実景であったり、シーンの導入部として必要なショットの時に使う。それ以外の時には滅多に使わない。
ましてやセットの中で18ミリなんていうレンズは使わないものなんです。
それは日本家屋の事情やセット状況でワイド・レンズを使うと、全てがシンメトリーに作られているわけですから、柱も真っ直ぐ、障子や襖も長方形、正方形で成り立っているんで、歪むということと距離感がずれてしまう。18ミリで四畳半を撮影すると四畳半に見えないわけですよ。広い部屋に見えてしまう。
そういうことを嫌うこともあって、例えば、小津監督の35ミリ・レンズ(標準サイズ)で撮っていくということが基本的にあって、セットで18ミリ使う人なんて本当にいないんですよ」
さらに、
「(ズーム・レンズを)引いて撮るんですけど、それが説明のための引き画ではなく、人を撮る時でもグィッと寄って撮る。
ぼくは映画やドラマで、きちんとピントをやる(セカンド)のは、篠田さんのところが初めてだったので、ワイド・レンズの至近距離の深度のこととかは勉強しましたし、やっぱり至近距離でのフォーカスってものすごく大変で、それはワイドであっても近づけば近づくほど深度がないのでかなり大変なんです。
しかも(篠田さんの)カメラはじっとしていない。
ぼくはそれでピントに関しては相当訓練されたと思っています」

「ある時、カメラマンの木村大作(*)さんが撮影の準備をしていて、ぼくとほぼ同期の撮影助手がピン打ちしていたんです。
ピン打ちというのは、レンズには距離の数字が印字されていますが、ぼくらはそれに白いテープを巻いて、そこに自分たちで測った正確な数字を打ち直していく。この作業がピントマン(セカンド)の準備での一番重要な仕事なんです。
で、その同期の木村さんの助手が打ったやつには5フィート、一番近いところで5フィート(約152センチ)までしか打ってないんですよ。それより手前(近距離)は打ってないんです。使わないんですね、5フィート以下は。
ぼくが使っていたスケール(カメラと被写体間の距離を計るメジャー)なんか、1フィート(約30.5センチ)から3フィート半(約106.7センチ)の間は、数字が読めなくなるくらいボロボロになっているんですよ」
*木村大作=1939年生。代表作は「八甲田山」(1977年・監督森谷司郎)、「復活の日」(1980年・監督深作欣二)、「海峡」(1982年・監督森谷司郎)、「誘拐」(1997年・監督大河原孝夫)、「鉄道員」(1999年・監督降旗康男)、「憑神」(2007年・監督降旗康男)などがある名カメラマン

従来のカメラマンと違い、いかに篠田の“寄り”が凄まじかったことがわかる。つまり、彼のような撮影法が当時では異色であったということだ。
私は、take1と2で学生時代、ライカの贋物“ニッカ”なるカメラを昇は愛用していたと記した。いつも首から下げていたそのカメラは28ミリという広角の単眼(レンズ)だったのを思い出した。

そして、このワイド・アップの撮影に大きく関わっているのが、ミニジブ(ミニクレーン)で、以後、篠田の撮影はこれ抜きでは語れないほど、重要なポジションを創り上げていく。
例えば、こんな1カット(1シーン)があるとする。男が歩いていくと前方に女が立っており、男は女の前で立ち止まり、会話が始まる。
従来の三脚による固定撮影であれば、女の手前に男が立ち止まる厳密な位置を定めて演技が行われるが、立ち止まる位置が少しずれてしまうと女と重なってしまうため(もしくは離れすぎてしまう)、NGとなる。
これをミニジブで撮影すると、上下とか多少の(左右の)振りがカメラでできるため、カメラ側での修正が可能になる。しかも篠田のように手持ちで寄っているカメラ・ポジションであれば、この修正はより自然に行えるというわけだ。
このミニジブ効果は撮影する側だけではなく、実は役者側にも利点があるのだと福本は言う。
「(役者が)立ち位置を気にすることなく、役に徹して気持ちで動ける、ある程度演技の自由が効くようになるんです。
篠田さんは、被写体が動けばカメラも一緒に動かなければいけない。常に被写体に寄り添った画を撮りたいとおっしゃっていた。
被写体と常に一定の距離を保って、その人(役者)の内側へ、より(役の)気持ちに入っていけるような場所(アングル)を作っていくために、篠田さんにとって、ミニジブのような特機は絶対に必要なものだったんです」
役者にとって振舞いや台詞以外のノルマを取り除いてくれる篠田のミニジブ撮影は、役に集中できる意味で大変ありがたいことなのであろう。細かいことをいえば、多少の身体や顔の向きだって、気にしないでいられるのだから。
まずはこういうところから、役者との信頼関係が生まれるのかもしれないが、まだまだこれは撮影する側から見ただけの解釈に過ぎなかった。

この当時、つまり十数年前の映画撮影の状況というものは、概して大きなムービー・カメラをでーんと三脚に乗せ、どっしりと構えた撮影方法が一般的であった。
手持ちや移動やクレーンなどを駆使し、常に動き回っている篠田のような撮影は珍しく、特に役者さんたちには不思議がられていたようで、まだ理解はあまりされていなかったと思われる。

「栗田(豊通)さんがカメラマンをやられた相米監督の「お引越し」(1993年・監督相米慎二)という映画で、大文字焼きの日の撮影でカメラ四台使うことになったので、篠田さんとぼく(福本淳)たちは応援という形で参加したんです。
撮影に入る前に飲み会があって、篠田さんはかなり酒が入ってご機嫌でした。それは隣りに桜田淳子さんがいたせいもあるのでしょうが、篠田さんはその桜田さんに、いかにミニジブとか移動とかを使うと、場所を決めなくても一番あなたが素敵に見えるところにカメラをもっていくことができるんですよっていう話を懇々とされていた。
そうしたら、その後多分桜田さんが、私は篠田さんに撮ってほしいみたいなことを(スタッフに)おっしゃったようで、篠田さんは桜田さんのパートを撮ることになったんです。
桜田さんはこれまでのカメラマンと違う方法論を持つ篠田さんに撮ってもらいたいと思ったんでしょうね、きっと」

また、時は飛ぶが、「UNDO」(1994年・監督岩井俊二)の撮影で、篠田昇と初めて出会う主演の山口智子はかなり戸惑っていたらしい。それは延々と続ける篠田の手持ち撮影に対してであった。
これまでの付き合い上、山口は岩井監督の現場は知っており、ずっと長いシーンを取り続け、しかも一回終わると同じシーンを別のアングルから撮影する、これを何回も繰り返す岩井演出に対し、それを手持ちだけで山口を追う篠田の映像に半信半疑だった。
何で手持ちばかりなんだろう・・・、ちゃんと撮ってもらえてるのだろうか・・・。
しかし、出来上がった作品を見た山口の思惑は一変したという。

こうして徐々にではあるが、監督のみならず、役者たちにもこれまでにない映像で自分たちを素敵に撮ってくれるカメラマンとして、篠田昇は認知されていくのである。


取材協力:篠田いづみ

2008年07月30日

take18シネスコと極端な寄りの原型

カメラマン篠田昇は、なぜシネスコを使おうとしたのだろうか。
「映画撮影とは何か~キャメラマン40人の証言」(平凡社刊・山口猛編、監修佐々木原保志)の中で、篠田はシネスコについて語っている。
「日本ではいつの間にかシネスコを止めてしまって、なんでもビスタという具合になってますけど、それはたんにテレビで映画を放映する関係に過ぎず、僕は間違った方向だと思います。
シネスコにはシネスコのよさがあり、一般的にはスペクタクル映画など、広がりのある絵と迫力のある映像が持ち味のように考えられています。けれども、僕がシネスコにこだわったのは、シネスコがビスタに比べれば倍近い焦点距離の長いレンズを使用するために、たとえば狭い部屋でもワイド・レンズを使用せずに、人間の見た目に近く、自然に見せることができるからです。(中略、太字著者記す)
僕は前からシネスコでやってみたくて、井筒監督の「東方見聞録」のときに初めてやってみました。僕が子供のころからみていたのはシネスコだし、映画館でニュース映画が終わり、予告編も終わって、いよいよ本編に入るというとき、シネスコだとスクリーンがグッと開く。あのすごさは映画ならではの醍醐味でしょう」(原文まま)

子供の頃の映画環境も、同書にある。
「母の実家が両国にあり、両国日活という映画館の隣で喫茶店をしていて、そこで封切る映画は家族は無料でした。
僕は埼玉の三郷で生まれましたが、小学校の低学年から両国日活で封切る映画―その当時は映画は裕次郎、小林旭の活躍する日活しかないと思っていた―を週末になると、兄と二人でいつも見ていました」(原文まま)
当時、邦画界は全盛を極め、1週間から2週間という短いサイクルに、新作2本が同時に上映されるという、今では考えられない量産体制にあった。
本編とは直接関係はないが、昇と同年である私の映画環境も伝えておこうと思う。
私が見た最初の映画は東映動画の「白蛇伝」で、小学2年の時であった。
私の育った赤羽には、東映、日活、東宝の邦画館と赤羽オリンピア劇場という2本立て洋画専門館があったが、もっぱら通ったのは、小学生の高学年になってからであり、赤羽オリンピア劇場と駅から大分離れた岩淵というところにあった東宝だった。
赤羽オリンピア劇場は子供から老人までを無理矢理入れようとしていたのか、ディズニー・アニメ「ピーターパン」とロバート・アルドリッチ監督のスペクタル史劇「ソドムとゴモラ」が併映されるような、そんな奇妙な2本立ての映画館だった。
東宝では、社長シリーズ、駅前シリーズから若大将シリーズと、「ゴジラ」でブレイクしていた特撮ものを併映していて、特に私は社長シリーズのフランキー堺が演じる変な外国人が大好きであった。人の耳たぶを触るくせのあるハワイ二世に子供ながら大爆笑していた。
昇のよく見ていた日活では、裕次郎や旭には全く関心がなく、吉永小百合の青春ものをたまに見ていた程度だったと思う。

さて、「東方見聞録」の話が来た時、シネスコを使おうと決めた篠田昇。
シネスコのカメラを取り扱うアメリカ・パナビジョン社の日本での代理店は三和映材で、カメラ本体は全世界共通のレンタル方式になっていた。カメラは三和映材に頼むとして、当然カメラに伴うレンズやフィルターについても同様に考えていた。
ところが、その肝心のレンズとフィルターに少々問題が起こった。
この頃、日本にあるシネスコのレンズは「寅さん」シリーズで使っていたものしかなく、それを篠田は解像度が悪いので使えないと判断した。
レンズをアメリカの本社から取り寄せるか、取り寄せてもテストが必要になるので時間がかかる、それをどうクリアーにするか。こちらから出向いて選びにいくか、などいくつかの方法を模索していた。
フィルターも同様で、当初6ヶ月予定していた長期の撮影期間であるならば、借りるより買えてしまうのでは、という撮影部の案も出ていた。
撮影助手の福本淳は、アメリカに行って、レンズのテストをして、ついでにフィルターも買って、こりぁ面白そうだなと割と気楽に構えていた。
ところが、
「ある日、篠田さんが、お前、計算しろと。
6ヶ月間借りるフィルター代とアメリカに行った場合の費用を出して比べろと。絶対に行くほうが安いからって、飛行機代はおれが何とかするからって。で、滞在費、宿泊のコンドミニアム代やレンタカー代、毎日の飲食費、そしてフィルターの購入費も入れて計算したら、確かに行くほうが安かったんです。
その明細をプロデューサーに見せて、結果篠田さんと田沢さんとぼくと3人で行くことになったんです、一週間。
アメリカのパナ本社では、わざわざ日本からレンズのテストをしにきたということで、結構珍しがられたというか、有名な副社長とか技術者たち全部に紹介されたり、ぼくらの担当者という方も付けていただいたり、非常に丁寧な扱いを受けました。
篠田さんは、当時ちょうど映画産業自体が斜陽になっていて、アメリカでも映画館に客を呼び戻すために、大画面大音響で見せようと、シネスコが再び増え始めていた時期なんですね、それと同じことを日本でもやりたいんだ、と話されて、だからテストをさせてほしい、と。
カタログ上でしか知らない新型のレンズを含めて、ぼくらは毎日午前中にパナ本社の試写室に行って、前の日にテストした試写を見るんです。
向こうの技術者も見ているんで、ここがいい、あそこが悪いと、それを照合して、このレンズは今いいのがないからもっと他のを持ってきますとかき集めてもらう。トータル50本から70本近くのレンズがありましたね。
レンズの性能テストなんで、実際フィルムで撮る前に、テストする機材があるんです。一通り全部のレンズをプロジェクションで見て、その中からある程度レンズを選んで、それをまずスタジオで撮って、ピントの性能をチェックし、最終的にほぼ固まったところで、今度は外に出てまた撮るという具合いです。
シネスコって、非球面レンズが前に入っていて、真ん中のピントはきているんだけれど、周辺のピントは甘くなる傾向がある。その状態が一番いいものを求めて、ずっとテストを繰り返しました。夜中近くまで、本社で撮影して、帰って寝て、翌日その現像を見ると。
結局、30、35、40、50、75、100、150、800ミリ、ズームの9本を借りました。
フィルターもパナ本社で買えるので、NDが3枚、プロミストが8枚、フォグが5枚、グラデーションが2枚、フォーラライザービューと全部で19枚くらい買いました。ガラス製なので、管理さえきちっとやっていれば、ずっと使えるわけです。
最後の日に、買ったフィルター一式をジェラルミン・ケースに入れて持ってきてくれたのですが、そのケースには、「シトパティヨース・ノボル・シノダ」(撮影篠田昇)というプレートが彫って貼ってあったんです」

この「東方見聞録」を筆頭に、篠田は以後、「Love Letter」(1995年、監督岩井俊二)「MISTY」(1997年、監督三枝健起)「四月物語」(1998年、監督岩井俊二)「クロエ」(2001年、監督利重剛)「真夜中まで」(2001年、監督和田誠)、そして「世界の中心で、愛をさけぶ」(2004年、監督行定勲)といったシネスコによる作品を撮っていく。

実は、この「東方見聞録」には、シネスコだけでなく、その後の篠田というカメラマンの撮影法を確立していく様々な試みが盛り込まれている。
ピィウイドリーにミニジブ(クレーン)を乗せたこともそのひとつで、これは極めて重要な出来事といえる。
「ワールドアパートメント・ホラー」では、本来ピィウイドリーを使いたかったが、予算の関係上、簡易なフォーカスドリーの上にミニジブを乗せて撮影に臨んだことは既に伝えた。その延長上の組み合わせだった。
「東方見聞録」の撮影現場の模様を福本淳は語る。
「滝がメイン・セットの時、とにかく足場がかなり悪い。篠田さんがここからそこまで行きたいという。そうすると足場を作りレールを敷く。
それでも、篠田さんが思っているポジションからちょっと変わったりすることが多々あるんです。
ですから、そんな状況下で、ピィウイドリーの上で、カメラをこっちに出したり、いろいろと乗せ方を工夫してセット・アップをして対処していた。そうやって、やっと篠田さんがオペレートできる体勢を作るのが、毎回大変な作業でした。
それをずっと続けていたんですが、ある時、篠田さんがミニジブを乗っけようと言い出した。ピィウイにミニジブを乗せろ、と。
こんなことをした人間は日本じゃ多分篠田さんが初めてだと思います。
ただミニジブが乗るとかなり自由度が増すわけです。
ピィウイだけですと、上下約60センチの動きはできますけれど、しかもこれを操作するのは特機部の別のオペレーターがやるんですが、ミニジブを付けると1メートル50くらいは、倍以上は確実に動ける、篠田さんひとりで。それでなおかつ、コの字(take12)を付ければ、ピィウイの上を何とか篠田さんが歩くスペースも確保できる。
ただ基本的に、ピィウイ自体、カメラ本体の重さに耐えられるように作られてはいるんですが、ミニジブを乗せるということは、カメラのバランスをとるウエイトとアームの重さも加わることになるので、本来設定されている重さの3倍くらいになる。
完全なる加重状態なんです。ピィウイの正しい使い方ではないということですかね」
この時、撮影の応援に行った根岸憲一の話によると、何回も壊しては特機のレンタル会社に持ってこさせていたという。
一方から見れば、機材屋泣かせのとんでもない代物(やり方)でもあった。
ただ縛られている制約を取り払っていく昇の姿勢は相変わらず健在のようだ。

もうひとつ重要なエピソードが隠されている。
福本は、篠田の特徴である極端なワイド・アップ、寄りの撮影(take15)の成り立ちのヒントが、この「東方見聞録」にあったという。
「できるだけ近くで撮ることは井筒さんの要求でもあったのですが、(シネスコ用の)アナモ・レンズ自体が普通のレンズとは構成が違うので、最至近距離でも、これも玉によって違うんですけど、1メートル50くらい、そのくらいが最至近のピントの時に、篠田さんは1メートル50よりも近寄って、1メートルとか80センチくらいの距離で撮ろうとする。篠田さんとしてみれば、被写体に近いところであれば、画作りに関しては満足なんですね。ピントは手前の人に近いことにはそれでいいと考えていました。
主人公の緒形(直人)さんを真ん中に、手前に徳井(優)さん、奥にもうひとりという3人縦に並んでいる画を撮りたい。
篠田さんは近寄って一番近いピントを真ん中の緒形さんに合わせる。ぼくがピントはここ(緒形さん)までしかこないんで、というとそれでいいよという。
ところが、監督の井筒さんは、いや、ピントはそこじゃないやろ、徳井やろ、手前やろ、と言うわけです。で、こっち(撮影部)はピントを手前の徳井さんに合わすために下がるわけですよ。
それをまた井筒さんが、下がったらあかん、ってなるんです。
それって、レンズの限界を超えなきゃいけない。
しようがないので、プロクサーというクローズアップ・レンズを入れて、ピントの至近距離をもっと手前に持ってこれるものを使って撮影したんです。
撮っていくうちに、段々と監督から言われる前に、当たり前のようにクローズアップ・レンズを入れることが篠田さんの中で起こり始めたんです」
何と井筒監督の執拗な要求が、極端なワイド・アップ撮影をより確信的にしていく大きなきっかけになっていたのだ。

「その後、シネスコで撮ることになった「Love Letter」とかは、大げさに言えば、50パーセントくらいの頻度で、クローズアップ・レンズの入った状態で、撮影してると思います。
編集でカットは相当に割れていますが、例えば、小樽にいる中山美穂に間違って自分のところに手紙が届くようになる。
その最初の一通目が来た時の室内で、初めて彼女がそれを開くまでのくだりなんかは、単純なお芝居ではなく、お母さんとすれ違うとか複雑な動きがあって、机の前に座って手紙を開く。篠田さんは手持ちで80センチくらいの距離でずっと中山さんに付いて行くんです。
こういう状態ではクローズアップ・レンズを入れないとダメなんですね。
単純にいうとアナモ・レンズの特性ということがあって、本来のレンズでは1メートル50から無限大までピントがくるものが、クローズアップ・レンズを入れることによって、1メートル50が1メートルになって、無限大が5メートルになるものなんです」

川上皓市がいう「東方見聞録」のあたりから、篠田は技術面に偏りを見せ始めているという思惑をよそに、この「東方見聞録」「ワールドアパートメント・ホラー」同様、かなり彼の野心的な技法がちりばめられたエポックな作品といえるのではないだろうか。。


取材協力:篠田いづみ

2008年08月26日

take19「東方見聞録」回り

・初めてのシネスコによる撮影。
・以後ワイド・アップの原点ともいうべきクローズアップ・レンズの多用。
・三脚でもなく手持ちでもない撮影ピィウイドリー+ミニジブ(ミニクレーン)の合体。

こうして、「東方見聞録」から篠田昇の独特な撮影が形付けられ、動き出していくわけだが、実はこれだけではなく、更に細かな撮影技法がいろいろと散りばめられている。
この映画で助監督を務めた長澤雅彦がそのいくつかを語ってくれた。
「今はもっと進化しているんですけど、当時はまだ日本に入ってきたばかしのバルーン・ライティングというものを使いましたね、月明かりに。
大きさでいうと、長さが約9メートル、高さが2、3メートルほどのマユみたいな形のものがあって、中にヘリウム・ガスを入れるんです。
ある程度の高さまで上げて、ロープで調節して固定するんです。で、そこに強いライトを当てるんです。そうするとレフ板の役目を果たす。柔らかくて、割と広範囲に渡る光が地上を照らすんです。1台じゃ足らないので、2台、3台、多い時は4台飛ばしました。
暗闇だから、黒いロープだったら映らない。篠田さんは手持ち撮影で、360度自由に撮ってました。
篠田さんみたいな撮影にはとても向いた商品だったんです。
月明かりを作るライトを当てると影が出るんですよ、普通。
それはやっぱりウソになってしまうから、なるべく影が柔らかく、影が見えないようなものにしたいということで、照明技師と一緒に試していました。
今は、気球自体の中にライトが入っていて、影が出ないようになっていますけれど」

撮影が始まる前、篠田が悩んでいたと語るのは、セカンドだった福本淳。
「篠田さんは日蝕のシーンをどうすれば表現できるのかと、悩んでいました。相当悩んだ末に、減感することにしました。
日蝕というのは、昼間なんだけど、太陽がないから、影がでないようなイメージがあります、薄暗いという。
フィルムを減感すると、粒状性がよくなり、コントラストが浅くなるんです。で、コントラストと色の彩度が浅くなるように減感をしたら、おもしろいんじゃないかということで、減感のテストを相当やりました。
結局、感度250のフィルムを8分の1減感しました。3絞り分の減感で、感度が30になっているんです。「ワールドアパートメント・ホラー」の時の増感と同様、フィルムのトーンが変わることを生かすためにやるということが、日蝕シーンへのアプローチだったんです」

「東方見聞録」は撮影中の事故により、約2ヶ月間の中断を余儀なくされた。予算の関係だけでなく、事故の余波というか、同じロケ・セット、撮影場所での再開というのは道義上まずいという配慮があったのかもしれない。よって、撮影のために作られた大型のメイン・セットは解体されてしまった。

「最低限必要な芝居道具や美術だけでセットを作りました。そんな簡易的なもので、1週間もなく撮り、それから龍の合成の撮影をするスタジオに入りました。龍の合成を撮るために多分2ヶ月近くはかかりました。
龍が出てくるくだりというのは、絵コンテが全部あって、かなりのカット数がありました。クランク・インする前から龍のアプローチというのは、蛍光ピンクというものが決まっていて、それに付随するテストとかもやっていたんですが、蛍光感を出すために、蛍光塗料を塗って、それにブラック・ライトで照明をして撮影したんです。
なおかつフィルムで合成素材を撮って、合成素材はビスタビジョンという横走りのカメラを使いました。普通の映画は縦走りなんですが、昔の合成用の素材は情報が多いほうがいいということで、そういうカメラにしたんです。
機材が煩雑な分、時間が余計にかかるし、ブラック・ライトでのライティングも時間が多くかかった理由ですね。
篠田さんがどれほど合成に詳しいのか、よくわからなかったのですが、多分初めてのことだったと思いますね。
ぼくらが撮影した滝の青図面があって、縮小した龍が百分の一とか五十分の一とか、その縮尺に合わせて滝の青図面を手に入れる。
そして、滝のどこにカメラを置いた時に、龍がどの位置にいるか全部計算して、しかも滝だから、高低差もあるわけです。その高低差の青図面もあって、龍からどれくらいカメラを離してとか、龍の目に対してカメラをどのくらい引くかとか、また全部計算していたんです。
それをやって、カメラを決めて、ライティングして、なおかつ龍は芝居をするので、目が動いたり、口が動いたり、腕が動いたり、全部リモコンで操作しているので、一日に多くて3カットくらいしか撮れませんでした」
その出来映えについて、
「どちらかというと、よくできたな、と気に入った感じでした、篠田さんは。井筒監督は結構喜んでいましたね」
と福本。
また、篠田はイマジカでの試写に訪れたある関係者に、この合成シーンに関して、
「コダック(フィルム)を使用したので非常にいい発色になった」
と自慢していたという。

ディレクターズ・カンパニーが倒産した時期に、私は新宿で昇と会った。
昇は、全て差し押さえ状態になっている現在の状況を語りながら、プリント(ポジ)した本編を現像所から持ち出して、隠していると言った。
そして、
「日本じゃ、多分もうだめだから、アメリカに持って行って、売り込もうと思っているんだ」
と熱く語っていた。
その時は、多少の冗談を含んでいる話だと思っていたが、今思うと本心だったに違いない。
当時の模様をディレクターズ・カンパニーの社員であった長澤雅彦は振り返る。
「大変だったというより、物凄かった、あの時は(ディレクターズ・カンパニーの倒産)。
バブルの頃だったので、銀行系の不動産会社がお金を出していて、10億円以上とか。それが回収できないわけですから。それにいろいろな軋轢が絡んで、イマジカはイマジカでネガを出さないとか、たくさんのことが起こりました。
試写用に焼いたプリントが何本かあって、その1セットを篠田さんはずっと持っていました。
だから、なぜ「Love Letter」をシネスコでやったかというと、篠田さんがこれを見てくれと岩井さんに、イマジカで内緒の試写をしたんですよ。それが篠田さん所蔵のプリントだったんです」
これについて、篠田は「映画撮影とは何か~キャメラマン40人の証言」(平凡社刊・山口猛編、佐々木原保志監修)の中で、こう述べている。
「このシネスコに関しては、岩井さんと何度も話をして、そのすごさを強調したのですが、言葉ではわからないから未公開の「東方見聞録」を見てもらいました。すると1カット見ただけで、岩井さんは「篠田さん、これを見たらシネスコしかないじゃないですか」と言って、決まったわけです」(原文まま)
隔月誌「DIRECTOR’S MAGAZINE」(クリーク・アンド・リバー社発行)2007年6・7月号の「伝説のつくり手たち~篠田昇」(文・金子忠義)の記事中で、岩井俊二は答えている。
「Love Letter」とか「四月物語」ではシネスコっていうもっともフィルムよりの世界を篠田さんは力説していました。最初、シネスコって言われても横に長い、ということしか知らなかったんです」
「横長にすると、ともすれば構図というところにハマりがちなんだけれども、篠田さんが目標にしていたシネスコがなぜいいかというイメージは真逆。観客が見ているうちに両サイドが自然に消えていくことで迫力が強調されるんです。もし篠田さんに構図的な話をされてもハマらなかったと思いますよ」

結局アメリカへの売り込みは実現しなかったものの、2年後、岩井俊二にこれを見せ、シネスコの映像の素晴らしさを納得させて、「Love Letter」の撮影にこぎつけた。篠田の執念が形になったわけだ。
しかし、昇はどのようにして、「東方見聞録」のプリントを手に入れたのだろうか。この1セットを入手したと思われる話が長澤から聞けた。
「フィルムの現像が試写会に間に合わなくて、ロールは全部で7巻あったのですが、6巻目まで(プリントが)上がったところで、ぼくはそれを持って新幹線に乗って、死ぬような思いで、京都の試写会場まで届けました。その後、篠田さんが7巻目を追っかけで持ってきたんです」
当時はまだこうした何から何まで自分たちでやる自主制作映画のような仕組みが残されていたようだ。そうした中、多分身近にあったこの1セットを手に入れたと思われる。
しかし、助監督であった長澤の仕事をカメラマン篠田が手伝っているという光景も、一般にはなかなか理解しずらいものがあるのではなかろうか。
後述することになるが、篠田は自分の役割である撮影が終了しても、その作品が出来上がるまで編集や録音などにいろいろと関わっていくのである。ここら辺りも篠田昇の大きな特徴でもあるのだ。
話の続きがおもしろい。
「その日は知っている顔が篠田さんとふたりだけだったので、お疲れお疲れで飲みに行ったんです。やっとまあ、できたという開放感もあって、大酒を食らい、大変でした。
次の日、ぼくは二日酔いで、気持ち悪くて何も食べられない。篠田さんは一見元気なんですよ、おれは全然大丈夫だよって。そして、朝からカツ丼食っているんですよ。
で、その日、試写が無事終わったということで、東映の京都の人たちが接待してくれたんです。高そうな料亭に監督と篠田さんと一緒に行って。
そしたら、篠田さん、見栄張ってカツ丼無理して食ったために、気持ち悪くなりましてね。高級料亭に来ているのに、一口もつけず、一滴も飲まず、ずっと吐いていました」
まったく昇らしいエピソードである。


取材協力:篠田いづみ

2008年09月08日

take20手持ちへの追求

ディレクターズ・カンパニー倒産のため、「東方見聞録」の劇場公開は絶望的となった。
そんな中、篠田昇は1992年(平成2年)に「欲望だけが愛を殺す」(1992年、監督中原俊)を撮影する。
この作品は、WOWOWのJムービー・ウォーズという一連の映画作品群のひとつとして、テレビ放送用に作られた。
篠田はここで8ミリビデオを使用する。
ビデオ自体は、テレビのドキュメンタリー番組やプロモーション・ビデオ(PV)、CM等で使い慣れたものだったが、監督の要望が2キャメラでということで、簡便性、機動性の高い小型軽量のキヤノン製ハイ・エイトを選択した。
当時キヤノンでは、レンズの交換できる高級機を出していたので、それを篠田は選択したのだ。

それと前後して、「東方見聞録」の流れから、建築家の「高松伸の世界」という映画館での上映目的としないドキュメントを撮っている。監督は同じく井筒和幸。この作品は、3Dのハイビジョンで撮影された。
この作品のプロデューサーだった長澤雅彦は、
「建築物の記録ものなんですが、その頃ソニーが開発していたハイビジョンで、立体3Dで建築物を撮る。要はただキャメラ2台並べただけなんですけど。
当時はまだハイビジョンって機動力のあるキャメラじゃなかったので、巨大な中継車に乗っかって撮影してました。
でも、ただでさえ重たいキャメラが2台、それを篠田さん、手持ちで移動撮影してましたからね、それはすごかった、見ものでした」

極端に重いカメラから軽いカメラと変幻自在に操る篠田昇だが、これらの作品の撮影は、彼の撮影史の中でも特殊な部類に入るといえる。
これまでフィルムでの撮影を主にした篠田は、ミニジブをピィウイドリーに乗せる撮影スタイルの進歩を目指し続けていく。
しかし、この頃、純粋なる手持ち撮影の追及が篠田の中に起こり始めていた。
きっかけは「欲望だけが愛を殺す」のハイ・エイト、本格的に試みを始めたのは、同じくWOWOWのJムービー・ウォーズ作品「来たことのある初めての道」(1993年、監督山川直人)だったと語るのは福本淳。
「8ミリビデオカメラを使った「欲望だけが愛を殺す」では、小型のカメラにスチル用の三脚を付けて、その三脚に別のモニターも付ける。で、その三脚を手で持って、結構動き回っていたんです。
重心も取りやすくなっていて、「これって、ステディカムみたいだな」って、篠田さん。ただ中原さんの作品なので、手持ちはそんなに多くないんです。
それで、「来たことのある初めての道」で、この作品は16ミリで撮影したのですが、監督の山川さんが全部1シーン1カットでやりたいと話されていて、篠田さんは、手持ちじゃなく、もうちょっと安定しているほうがいいと思ったらしく、ぼくにステディカムを作れって、言ってきたんです」
ステディカムというのは、カメラの防振装置の登録商標名で、今ではいたるところで目にすることができる。
マラソン中継で、バイクの後部座席のカメラマンが装備しているものがそうだ。ベストを着て、バネの入ったアームの先にカメラと棒、下にモニターとバッテリーが付いているものだ。揺れを極力押さえ、安定した手持ち撮影画像を可能にした機材である。

実は篠田は以前にCM撮影で、本物のステディカムをレンタルして使用したことが1回あった。
「篠田さんは練習もしないで、ぶっつけでやったこともあって、あまり上手くいかなかったんです。それにステディカム自体にも制約があるんですよ。上下できる幅って、40センチくらい、アームの限界なんです。
簡単に上から下に、もしくは低くしたい時は、セッティングを変えなくてはならない。時間がかかるわけです。
篠田さんにしてみれば、大掛かりなセットアップというところから、なるべく簡単に自分が撮りたいものを素直に撮れるような方向性への模索のきっかけなんですけど、正直上手くいかなかった。自分のイメージしたようにはならなかったと思うんですね。
ただ、これまでの手持ちよりかは自由が効くようにはなったと思いますけど」
つまり、篠田は従来の(本物の)ステディカムでは、使いにくかったのか、制約があり過ぎたのか、そのためオリジナルのステディカムの制作を福本に命じたというわけだ。
「ぼくが学生時代に8ミリ(フィルム)をやっていた時に、「小型映画」という8ミリ映画の雑誌があって、それに当時千葉工大で特機を自作していた自主映画の作家の方がご自分で作ったものを載せていたんです。
その中に、8ミリ(フィルム)用のステディカムというものの記事が載っていて、それはT字型の棒をひっくり返したヤジロベエみたいなもので、カメラを乗せて棒を持つと、簡易ステディカムになるというものでした。
なおかつ、それと似たようなもので、実際ムービー用の機材で、ポコカムというアメリカ製のものもあったんです。
その辺をヒントに作りました。
まず16ミリカメラを乗せる台、あと作らなくてはいけないのは、カメラの電源と小さなテレビ(モニター)を乗せないといけないので、モニター用の電源とカメラからモニターにビデオの信号を出す映像ケーブルとかを全部棒の中に仕込めるように作りました。
それにバッテリーを付けて、バッテリーから電力を供給して、カメラの電源、モニター用の電源などに行くようにして。
そしたら、「お前、ステディカムなんだから、カメラ持ってピント送れないんだよ」と。
だから、「無線でピント送れるシステムを作れ」って言われました。
これは撮影中にフォーカスを送るためにレンズに手で触ると、その段階でバランスを崩してしまうからなんですね。だからリモコンでピントの遠隔操作ができる機械を作りました。
「来たことのある初めての道」の撮影は、北海道で1月の7日から始められたので、ぼくは正月を返上して作っていました。篠田さんは先発で行っていて、ぼくは6日にとかに現地に着かなくてはいけない。
とりあえず出来上がったんですけど、持ったら物凄く重い。当たり前って言っちゃあ当たり前なんですけど、普段は肩に担ぐようなカメラを片手で持とうというわけですから、なおかつ電気を供給するためのバッテリーが、いつもの倍の重量で付いているんですから。
多分30秒持てればいいほうかな、っていう感じでした。
作る前にもこうなることは予測できていて、篠田さんに言ったんですけど、「まあいいじゃん、作ってみれば」って。
篠田さんから出発の前の晩、電話がかかってきて、「どうなっている。出来たのか」と聞かれて、ぼくは、出来たんですけど、とにかく重いです。絶対に持てないと思います、と。
でも「いいから、持ってこい」と言われて持っていきました。
撮影開始の前日に着いて、篠田さんに持たせたんです。そしたら、「重い」って言ったんですけど、とりあえず篠田さんはこれで撮影しようと思ったんです、このままで。
次の日の朝、撮影が始まって、それは駅の撮影で、改札に入る前のところからスタートして、改札通って、階段を上がって、ホームに出て、会話があって電車に乗るところまで、1カットなんですよ、約8分くらいの。
それのリハーサル中、ぼくは自作ステディカムを組んでいたら、篠田さんがやってきて、「これじゃ、だめだ」と言って、ぼくが二週間かけて作ったやつを全部ばらばらにしてしまって、ご自分で組み立て始めました。
最終的には、カメラの上に棒が一本付いていて、その横にモニターとピントのリモコン・システム、あとカメラと棒の間に持った時のバランスを整えるヤジロベエ、それだけの形に落ち着いて、その後はそれでずっと撮影されていました」
福本が考案した棒の上にカメラがセットされる形から、篠田は棒の下にぶら下げる形に変えた。
福本によると、歩く振動は多少拾うが、左手でカメラを添えることもできる、このぶら下がり型は持ちやすく、操作も楽になったのだそうだ。

その後、篠田はこのオリジナル・ステディカムのアイデアを取り入れて、35ミリ・カメラにも応用しようと試みたが、さすが力持ちの篠田でも無理だったという。
しかし、この頃35ミリ・カメラの世界にも、カメラのファインダーの画を小さなビデオカメラで撮って、テレビ・モニターに映すビジコン・システムが開発されるようになり、篠田はこの方法を利用し、小型の液晶モニターを見ながら、手持ちで撮影するスタイルを確立することになる。
それがカメラ、パナフレックスに応用した、本家ステディカムよりも軽く、小回りの効くNOBOCAM(ノボカム)である(完成品ではないが)。
その際に使うビジコン・システムも、篠田の場合、全て自家製であった。
福本は「夏の庭」(1994年、監督相米慎二)の時に、作らされた。
「当時、このビジコンは借りると、カメラ一台分のお金が必要でした。何でそんな金、払わなくちゃいけないんだ、とご自分でCCDのカメラを買ってきて、こういういいCCDカメラがあるから、それを付けろと。付ける仕組みを説明されて。
作ったんですが、でも手製でしかない。フレームがちょっとずれたりすると丁寧に合わして元通りにする。でも、うまくいかない時もあるんで、そんな時は手でグリグリグリッてやるわけですよ。それはそれで通用するんですが、そうすると今度は二度と付かなくなるんです」
同様の現場に居合わせた長澤雅彦も、
「カメラマンと同じ画を共有できるビジコンを、純正のものはお金がかかるんで、篠田さんはもったいないと自分で作り出すわけです。秋葉原で買ってきたCCDカメラにリードを繋げるようにして。
これがよく故障するんですよ。回そうとすると画が出てこなかったり。それで分解し始めるんですよ、現場で。
どこがおかしいんだろう、テスター持って来い、で、ハンダゴテで繋ぎ始める。そんなことで、カメラが回らず撮影はストップしたまま。
機材作るのはいいんですけど、自家製もいいんですけど、トラブルの連続、そんなことの繰り返しでしたね」
と笑う。
こうしたどこかパーフェクトではない無勝手流のやり方は、一見滑稽さを伴う。
が、篠田の優れたところは、失敗を苦にせず、次へのステップを踏むことなのではないか。ここがだめなら、こうしたらどうか。ここをこう変えれば解決できるのでは、という飽くなき探求の精神にあるのではなかろうか。
この常に次に進もうとする前向きな態度は、行定勲監督、長澤雅彦らがいう“絶対にあきらめない”、“やろうと思ったら、必ず貫き通す”という篠田の撮影スタイルを評する言葉とオーバーラップする。
そして、滑稽さを伴うからこそ、憎めない男として、愛すべき人間として、篠田昇は“あった”のではないだろうか。


取材協力:篠田いづみ

2008年09月19日

take21手持ちの進化形とレンズ

1993年1月、篠田昇に本編の撮影依頼がくる。
映画撮影デビュー作「ラブホテル」以来の、厳密にいえば、「お引越し」の助っ人撮影を間に挟んだ相米慎二監督作品「夏の庭」(1994年)だった。
篠田は舞台となる神戸の街をロケハン中、いくつかのアイディアを思いついたと、「映画撮影」No.123(日本映画撮影監督協会発行)で記している。
「神戸は背後に雄大な山々を頂いており、人物や街並みと共に是非ともそれらを収めたかった」
そして、
「少年たちとお爺さんの身長差(演じる三國連太郎は180センチ以上)も考えると、上下のフレーム幅がある方が有利」
という理由で、
「通常のビスタサイズよりも上下の幅が広い、ヨーロピアンビスタ(画面サイズ1:1.66)を選択した」
さらに、
「神戸に着いた瞬間に感じたのは、コントラストの少ないフラットな光の街だということだった。小学校のグラウンドなど、土の色は黄色で明るく、その影響か樹々のグリーンも明るく感じられる」
そのため、これまで使い知り尽くしていたデイライト・タイプのフィルム、イーストマン5297の使用から、
「コントラストや色の彩度が高くしっかりした画面が撮れる低感度フィルム、イーストマン5245をメインで使い、フラットな光源を補って画面が甘くなることを防ごうと考えた」
さらに、篠田のプランは広がる。
「増感現像という特殊な処理を部分的に行う」
ことによって、フィルムのトーンを変えた。これは再三増感や減感の話を福本淳から聞いていることと同じ理由によるものだ。
「通常、低感度のフィルムを増感することは皆無といってよい」
それを敢えて試みたのは、
「昨今のフィルムの性能アップには目覚しいものがあるが、それがアダとなり、ボロボロの家や庭の雑草などが、実際よりもきれいに写される危惧があった。
5245は粒子が細かく、増感してもほとんど画面の荒れが目立たないが、色バランスには崩れが生じ、黒の締まりが悪くなる。
映画では当然ながら黒の締まりが重視されるが、私はそれを逆手にとったのだ」
では、どこら辺りにその増感を施したのか。
「子供たちが庭の雑草をむしり終え、お爺さんとの間に友情が芽生えはじめるシーンまで行っている」
よって、そのシーンは、
「思惑は功を奏し、画面に独特の寂れた感じを与えた」
と、篠田昇は自信あり気に述べている。



「夏の庭」の撮影は、7月後半から開始された。
篠田のアイディアが実行されていく中、もうひとつ注目すべき撮影法のポイントがあった。それは手持ち撮影の進化だった。
スタッフの宿舎用としてホテルを借りていたが、そのホテルの下に製作部が借りた美術倉庫のガレージがあり、その一角に撮影部用の工房が設けられた。それを仕切っていたのは、セカンドであった福本淳だった。
「この撮影で、ぼくが篠田さんに付いてやってきたことがかなり円熟期を迎えたというか、ピークに差し掛かっていたというか、そんな時期だったんです。
撮影自体は相米監督の作品なんで、毎日大変は大変なんですが、夜のシーンはそんなになかったんです。朝は早いんですが、滅茶苦茶深夜までというのはなかった。
で、撮影が終わって(工房へ)帰ると、フィルムはサードに任せて、ぼくは篠田さんからああしろこうしろといろいろ要求があった、その言われたことを作ったり、修理したり、ドリルや卓上ドリル、加工用の道具を使って。
その頃の主な仕事は、手製のステディカムやビジコン関連のものだったんですね。「来たことのある初めての道」での最大の失敗は重量なんです。とにかく、そこから軽量化することを何度も繰り返していた。
レンタルのビジコンは性能がよく信頼性とか安定性とかがいいという反面、(値段が)高い、重いというデメリットもある。
ですから、手製にすると、この重量が雲泥の差で軽くなる。
それと篠田さんはフィルターを沢山使う方だから、二枚とか三枚とか入れることのできる特殊なマット・ボックスというのが必要になってくる。
それは大体フィルターを入れる部分とかは金属でてきていて、重いんです。それを手持ちの時は軽くしてくれという篠田さんの要求に対して、プラスチックの素材を買ってきて、切って、フィルターが入るようにして、レンズにそのまま付けれるようにした。
というように、軽い素材イコール軟い素材を使って、どんどん軽量化をしていって、「夏の庭」の時の手持ちは、これまで肩に乗せて撮っていたものが、横に、脇にカメラを抱え込んでとか、手のひらに乗せてとかになって、ファインダーではなく液晶のモニターを見て撮影していました。
しかし、篠田さんって、宇宙一握力の強い人ですから、手持ちでカメラを握ると、その握るところにマット・ボックスがあると、変な力が加わって、閉まるのが閉まらなくなったり、いろいろとトラブルが起こる。そういった修復を繰り返しやってました」

この手持ちの、NOBOCAMシステムは試行錯誤を続けながら改良に改良を重ねていくが、そのほぼ完成に近い形で撮影されたのが、「突然炎のごとく」(1994年、監督井筒和幸、P長澤雅彦)だったと、福本は言う。
「16ミリで、全編手持ちなんです、「突然炎のごとく」は。「来たことのある初めての道」の進化版ですね。この時は、ヤジロベエとかじゃなくて、単純にカメラと液晶モニターとピント用のリモコンが付いていて、カメラに棒が付いている状態で全編撮影しました。
この頃の16ミリのカメラって、いい機種とか出たりしているんですけど、そういうのはレンズが大きくなって、よりいいレンズになっている。
篠田さんはその大きなレンズは絞りが三枚絞りといって、三角形なんですが、それが好きじゃないので、昔のこんな小さなクック社のレンズを使う。
クックのレンズのほうが絞りの枚数が多いし、解像度は若干落ちるんですけど、味があるので、好きなんです。わざわざクックのレンズで撮影するので、そうするとカメラの世代がひと昔のものになる、マウントの形自体が違うので。その辺でもちょっと軽量化されるんですね。
「東方見聞録」の時に買ったガラスのフィルターというのが、一枚4×5.65インチの大きさなんです、いわゆるパナ・サイズと呼ばれる規格の大きさなんです。
これを使うわけなんですが、そのクックのレンズって、本当に小さいので付けるのが大変なんです。そのマット・ボックスとかも、軽量の素材で、プラスチックとかで作りながら撮影してました。
パナ・サイズのフィルターは小さいなりに切って加工してしまえば、軽量化になると思われるでしょうが、そうすると今度は35ミリで使用できなくなってしまう。やはり基本は35ミリですし、枚数も限られていますし。
ぼくが篠田さんとやってきた作品の中でも、全編通して手持ち撮影して、相当面白くできたのが、「突然炎のごとく」なのかなって思っています」

福本の話によると、この手持ちスタイルは以後、岩井俊二監督作品へと継承されていくのだという。

「夏の庭」の撮影中の記録も、篠田は「映画撮影」に記している。
「さて、物語が中盤まで進むと、嵐の夜にお爺さんが子供たちに戦争体験を語るシーンがある。キャメラは家の中をグルリと移動し、その間約7分という長いカットだ。
これをいかに撮影するかということで、監督と前夜に打ち合わせをした。監督は「シーン前半は広めのレンズで、三國さんが苦い思い出にのめり込んでいく後半は長めのレンズがいいな」と提案されたが、私はあまりズームレンズが好きでなく、ワイドと長めの中間の50㎜レンズを使ってみる、という妥協案に達した。
このカットは最初、ハンディカメラで撮りはじめ、途中でクレーンに移し替えるのだが、映画用のズームレンズは大きくて重量もあり、7分ともなれば、1.000ftの大きなマガジンを付けて撮影せねばならない。が、できる限り監督の要望には応えたい。すぐさまキャメラレンタル店に連絡をったが、あいにく貸し出し中という。残された手段は自分で作るのみであった。
翌日は午後より撮影予定で、私は早朝から神戸の中古カメラ店を訪問。そして、レンズ後部を切断して繋げば使えそうなものが1本見つかり、1万4千円にて購入する。昼前よりリハーサルが始まったが、やはり50㎜レンズではどうしても芝居がつかみとれず、購入したレンズの改造に着手した。
結局リハーサルの間、4時間かかったが、これが予想以上にいいものに仕上がった。この手製ズームレンズは、後半、子供たちがサッカー試合の帰り、お爺さんの家に立ち寄るシーンで再度使用している」(原文まま。但し下線部誤字表記修正)

この時の撮影風景を、福本は思い出す。
「台風のシーンなんですよ。三國さんが戦争に行って、残した家族の話を子供たちにするシーンなんです。
少年たちがコスモスが心配だから、台風の中、家の中に入るところから、お爺さんが語り終えるところまで、1カットなんです、多分7、8分のカットです。
撮影前にリハーサルは丸一日くらいかけてやっているんですけど、篠田さんは「いゃー、これはズームしないとだめだな」って、言ったんです。
当時は映画のズームレンズって、非常に大きくて重い、しかも至近のピントも5フィートまでしかこないし、絞りも4、暗いんです。夜の室内の撮影で、絞りをとれるだけのライティングすることも難しい。
「ズームしないとだめだなあ」「手持ちにもしなきゃいけないしなあ」というのが、リハーサルが終わった日の篠田さんの感想でした。
両立しないわけなんです、ムービーの機材では。
ぼくはこの時、手持ちを優先させるのかなって思っていました。
で、本番の日、夜の撮影なので、午後から準備開始でした。
そうしたら、篠田さんが「おい、いいの、あったよ」って、スチルのタムロン製のズームレンズを持ってきたんです。ものすごく小さいのを。多分、午前中に中古カメラ屋だかに行って、探してきたんですね。
スチルのレンズを付けろって言うわけですよ。もちろん、そのまま付くわけがない。
ムービーとスチルのレンズって、バックフォーカスといって、スチルのほうが焦点を結ぶ距離が短いんですね。
なおかつ、スチルのレンズには絞り用のリングが入っているので、これを取らないとバックがこないだろうからといって、篠田さんはレンズを分解し始めたんです。
絞りのリングを外してしまうと絞りの調節が外からは効かなくなって、下に隠れている棒で絞りをいじる、そういう状態にして。
ぼくはぼくでアクリルでマウントを作り始めた。バックが合わせられるように何枚か作りました。
で、マウント付けて、レンズをカメラにはめて、ピントを見て、バックが合っているか調べて。バックの調節って、1ミリ以下の世界なんで、ピントがくるまで、マウントのアクリル板をやすりで削っていくんです。
チョッチョッて削って、カメラに付けて見て、もうちょいだから、またチョッチョッて削って。あ、行き過ぎた、行き過ぎると今度は紙をその分乗せるんですよ。そうやって作っていきました。
元のレンズにネジが切ってあって、そのネジ山を、ほんとに細いネジ山を開けて、接着剤で埋めて、付けて、ピントもきて、ズームもできて、絞りも明るいし、万々歳。
ところが、レンズは小さいんですが、カメラ自体は1000フィート巻きという10分撮れるフィルム・マガジンを付けないといけないので、カメラ自体はでかいんですよ、それに重いし。
普通、ムービー用のレンズの場合、レンズの部分を持っても大丈夫なんですが、ちゃんと固定されているから。
ま、あまり持つことはないんですが、何かの拍子で当たったりすることがよくある。
それが篠田さんとぼくが作ったレンズだと、当たるとポロッって落ちちゃうんです。
本当に気が遠くなるくらい、コロッ、コロッ落ちて、そのたびに接着剤で付けて、というのを繰り返して、一時はもう撮れないんじゃないかって思うくらいでした。
本番って声がかかった時、助手がカメラを篠田さんのところまで、肩まで、よいしょっと上げようとした時に、当たってポロッと、とか。
それに、この撮影というのは、ちょっと普通じゃないんですよ。
三國さんの、お爺さんの話というのは、ひとつのこの映画の肝だったりするんで、まず、子供たちが台風の中をわぁーと入ってくるまでは、手持ちでラフに撮っておいて、メインの居間に入って、お爺さんが座って語り始めてからは、割とどっしり構えなくてはならない。
最初、あやふやなレンズが付いているカメラを篠田さんは手持ちで歩いて撮っていて、それをみんなでフォローしながら、レールの上にピィウイが乗っていて、そこに雲台が付いてまして、そこに撮影しながら、カメラをそぉーとはめていく。
それがはまったら、篠田さんは不安定なレンズでズームをしだす。こんなことをやらなくてはならなかった。
でも、撮ったんですよ。見ても他のレンズと比べて解像度が低いとか、そういったことが全くなくて、すごいきれいな映像に仕上がってました。
ムービーにスチルのレンズを使おうなんて、こんなことを考える人って、いませんよね」
手持ち撮影の状態から、篠田の場合はピィウイになるが、三脚など固定された雲台に撮影しながら、はめていく作業を、福本は“脱着”と呼んでいる。
篠田の撮影では結構やっている方法なのだが、普通あまり聞かないやり方と思われる。

そして、レンズ。
篠田は「映画撮影」の中で、20年以上も前に設計されたパナビジョンのSPシリーズのレンズを使用したとある。その理由としては、フィルム5245のコントラストの高さを考慮し、解像度のいいシャープなレンズを使うことは不適当だからとしている。
しかも、「ラブホテル」を撮影した1985年の頃までが、このSPシリーズ全盛の時であり、篠田は、日本に20セット近くあったレンズ全てをチェックし、データを取っていた。
篠田いわく、レンズの型番は同じでも、解像度やキャラクターがかなり違うのだ、と。
そして時が経ち、あるCM撮影で、このSPシリーズを使用しようとしたら、既に3セットしかなく、しかも篠田が使おうとしたレンズはパナ本社に返却されていたという。
それを篠田は、パナの日本代理店である三和映材を通して、返却(交換)を依頼した。
そのレンズが「夏の庭」で使われることになったのだそうだ。

福本は言う。
「篠田さんのレンズの知識は、半端じゃありません」
半端ではない篠田のレンズに関する知識とは、一体どのようなものだったのだろうか。


取材協力:篠田いづみ

2009年04月29日

take29知らなかったいくつかの事

映画を中心にテレビCM、テレビドキュメンタリー、ポスター(スチル)、ミュージックビデオ・・・、篠田昇は多くの映像を残していったが、世間的に知られていないことも多いようだ(単に私が知らなかっただけのことなのかもしれないが・・・)。

そのひとつにテレビ・ドラマのタイトル・バックがある。
この件について、結構本数は撮った記憶はあるのだが、タイトルはもうあやふやになっていると福本淳は話す。
「TBSしかやってません。TBSのドラマです。
TBSには、ドラマのオープニング専門の松原さんという方がいて、TBS全ドラマのオープニングを担当しているんです。
基本的に撮るのは、番組を作っている制作会社なんですが、ぼくが撮ることもありました。
で、この松原さんはかなり映画が好きな人で、岩井監督絡みの篠田さんの映像がとても好きで、篠田さんと是非一緒にやりたいと、オファーしてきたんです。
通常オープニングの映像はビデオ撮影が多いのですが、篠田さんとやる時はフィルムでした。これは篠田さんがこだわっていました、フィルムで撮りたいと。
覚えているのは、「聖者の行進」(98年1月~3月放送。脚本野島伸司)とか「真夏のメリークリスマス」(2000年10月~12月放送)とかですかね。
ドラマって、年間4クールくらいはやってますので、その時、映画撮影の仕事が入ってなければ、年間4回くらいはやっていたことになります」


また、話はずっとさかのぼることになるが、福本によれば、篠田がまだ撮影助手時代に、CM制作を手掛けていた瀧沢正治という人物と出会っている。
瀧沢は東映のCM企画演出を経て、現在制作会社の代表として、東映のメイキングやCM、企業PV制作を行っている(本人未取材。私は遅蒔きながら取材しようと考えています)。
「昔、ジャッキー・チェンが三菱トラックのCMに出演したことがあって、ディレクションは瀧沢さんが、撮影は篠田さんがやりました。
瀧沢さんと篠田さんはその他一緒にCMをたくさんやっているのですが、瀧沢さんという方は、映画を非常に撮りたがっていた。
それで、30分くらいの自主映画を撮ったことがありました。
ぼくがチーフの時なんで、96年から98年の間のどこかだったと思います。
「蚊」という作品で、戦争中の特攻隊みたい人間が、敵地に洞穴を掘って、そこに潜むという、ワン・シチュエーションなんです。
撮影は二晩くらいで撮り終えました。
35ミリのフィルムで、フィルム・タイプは覚えてませんが、八分の一減感している作品で、ものすごくライトを使いましたね。
かなり、面白い作品でした」

瀧沢はその後、製作総指揮・監督として、映画「ベースボールキッズ」(2003年公開)を完成させ、2006年には、映画「瞽女goze」の総指揮・監督として製作発表を行っている。
実は、瀧沢はこの「ベースボールキッズ」の撮影を篠田に撮ってほしいと考えていたのだが、篠田の撮影スケジュールが合わず、実現はできなかった。


井筒和幸監督と「危ない話」(89年7月放送)を撮影していた同時期に、井筒と篠田は、「火山島にて~田島都」というタイトルのビデオ撮影で海外ロケを行っている。
これは、ビデオ制作・販売会社によるグラビア・アイドルたちの一連のソフト・ヌードのシリーズで、同年7月に発売された。定価が何と13200円だったから、まだセル主体であった当時のビデオ事情がうかがえてくる。

そして、しばらく後に、井筒監督とは、幻のビデオと呼ばれる作品を撮ることになる。
「過酷を極めた「PICNIC」の撮影が夜中に終了して、ぼく(福本淳)らは機材の整備をそのまま寝ないでやっていました。
そのビデオ作品の集合が、渋谷のパンテオンに朝の7時半なんです。
篠田さんは撮影終了後、一回家に帰られて。
ぼくは寝ぼけた状態で機材整備をしていたところ、タクシーに放り込まれて、そのままパンテオンに直行。着いたら、井筒組の助監督に引きずり降ろされ、ロケバスに乗せられて、現場に行きました。
現場には篠田さんがいたのですが、相当疲れた様子でした。
そうやって、3週間くらいかけて撮りましたので、ぼくにはかなり印象の強い作品なんです。
篠田さんがビデオでドラマを撮ったのは、これが初めてだったと思います」

そのビデオ作品のタイトルは、「神様のい・う・と・お・り」、94年に製作された。
明治生命(当時)の顧客に贈られる非売品ながら、荻野目洋子、東幹久、仲村トオル、古尾谷雅人と豪華なキャストであり、三つのラブ・ストーリーからなる2時間弱の大作であった。
ちなみに、この「神様のい・う・と・お・り」は、「ルナティックラブ」同様、ガンマ・オフでの体制で撮影され、以前テレビ・ドキュメンタリーで一緒に仕事をしたVE(ビデオ・エンジニア)が付いたと思われる。


取材協力:篠田いづみ


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