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篠田昇をめぐる人々 アーカイブ

2007年08月25日

take7 テレビ・ドキュメンタリー時代

1982年(昭和57年)から83年にかけて、師匠のカメラマン川上皓市のもとを離れ、独立
を図る篠田昇であったが、次なる本編(映画)の予定が入っていた訳でもなかった。
昇のカメラマンとしての最初の仕事はテレビのドキュメンタリーものだったと語るのは、
同じ川上から篠田と共に離れた撮影助手(当時)根岸憲一であった。
「東久留米市にあった養護施設を撮りました。それが篠田さんの最初のカメラマンとして
の仕事でした。ぼくは助手でつきました」
しかし、彼はその時の状況、内容についてははっきりと覚えていない。
私は昇から、当時こんな話を聞いた記憶がある。
「今さ、ドキュメンタリーを撮っててさ、車椅子に乗っている身体障害者の親父なんだけ
ど、これがすごく元気でおもしろい親父なんだよ。いろんなところに行って撮影するとい
うことで、今一番行きたいとこどこかって聞いたら何て言ったと思う。トルコ風呂(現在
のソープ)だってよ、ハハーアッ」
養護施設と身体障害者の話が別のものなのか同一のものか。どちらにせよ、具体的な番組
名等は不明のままである。
しかし、ドキュメンタリー番組は現在のようなビデオ撮影の場合、演出(ディレクター)、
演出助手(AD=アシスタント・ディレクター)、カメラマン、VE(ビデオ・エンジニア)
の4人がスタッフの基本構成になるが、根岸が撮影助手についたということは、まだフィ
ルムで撮影が行われていたことを物語る。

篠田昇は1983年(昭和58年)の後半、ドキュメンタリー・ジャパン(以下DJ)の番組
制作に関わることになる。昇をDJに誘ったのは、現在テレビ番組制作会社“えふぶんの
壱”の代表山口秀矢だった。
「大阪の学生時代には、2800本くらい映画は見てました。映画雑誌で「竜馬暗殺」のスタ
ッフ募集をしていたんですよ。ぼくは坂本竜馬の大ファンだったし、卒業して東京に来て
て、ぶらぶらしている頃だったから、そこに電話して。夜、新宿の“ゴールデン・ゲイト”
で黒木(和雄監督)さんと面接っていうか会うことになって・・・」
こうして山口は映画「竜馬暗殺」の製作進行の助手として、製作進行チーフ岩城信行の下
で働くことになった。
「それはもう過酷な現場でした。ぼくは映画はたくさん見ているけど、竜馬のことは人一
倍知っているけど、映画の現場は何一つ知らない。篠田昇とは同年代で同じ最下層のスタ
ッフ、下っ端同士でね、気が合って。昇は撮影機材車を、ぼくは美術品を積んだトラック
をお互い運転してました。
家帰ったら遅刻してしまうので、その日の現場が終わったら、次の日の朝の現場に行って、
トラックの中で寝る。そんな過酷な3カ月でしたね」

新宿“ゴールデン・ゲイト”、今はもう伝説の店。そこは篠田昇にとっても青春という時間
を共有していた忘れがたい場所のひとつだったと思う。それは山口も私も同様であった。
新宿歌舞伎町裏にあった“ゴールデン・ゲイト”は半螺旋の階段を下りた地下一階、50畳
ほどのだだっ広い飲み屋だった。前のキャバレーの居抜きのため、黒の内装、赤い絨毯、
豪華なシャンデリア、クッションのきいたソファーなどがそのままになっていた。ゴール
デン街の小ぢんまりとしたたたずまいとは全く違う趣きであり、“おみっちゃん”というい
つもジーパン姿のママがしきり、山下洋輔や三上寛など常連客によるミニ・コンサートの
ようなものもたまに開かれていた。いつもの店内には、和製のロックやポップス、フォー
クが流れ、ボトル(ホワイト)があればいつまでも飲み続けていられ、出入りも自由であ
った。
ここの「愛情カレーライス」なるものをよく食べていたという山口は、
「店に入ると階段の途中で小林達比古さんが吐いて寝ている、血だらけのやつとすれ違う、
そういう破廉恥でエネルギッシュなところでした。
朝5時半に店が閉まるんですよ。回りの席は全部ソファー、ですから寝れるんです。ぼく
は自分のボトルに歯ブラシを付けてましたから。そこにいれば間違いなく(店の人に)5時
半には起こしてもらえる。で、洗面所で歯を磨いて現場に出かけていきました」

「竜馬暗殺」終了直後、山口は黒木和雄監督に「君は面接の時に歴史が好きだって言って
たな。すぐ来なさい」と電話で呼ばれる。
「TBSの日曜の朝のテレビ番組で「歴史はここに始まる」っていうのがありまして、大
人向けの歴史ドキュメンタリーですね。篠田正浩や実相寺昭雄とか錚々たる映画監督さん
たちが何本かに分けて撮ったものだったのですが、ぼくは黒木さんの助監督に抜擢された
んです、いきなり。この頃黒木さんは「竜馬暗殺」に全力投球されすぎて若干腑抜け状態
で、だからぼくが結構勉強してアイデア出して、重宝がられたんですね」
この後、山口秀矢は脚本を手がけ、黒木和雄監督作品「祭りの準備」の次回作やATG映
画の候補作にもあがったが、時代の変化やATGの倒産等により、映画化が実現すること
はなかった。
こうした憂き目の中、設立直後のドキュメンタリー・ジャパンにディレクターとして参加
する。山口は、自分の演出する番組に、「竜馬暗殺」以後、友人付き合いをしていた篠田昇
を起用した。

83年(昭和58年)に、山口秀矢演出の「ザ・ドキュメント 来日!ちびっこレゲエ」(フ
ジテレビ・7月放送)、同じく「ザ・アジア学生滞日記」(8月放送)、「ドカベン香川危機一
髪」
(10月放送)と立て続けに3本を撮る。ちなみに、DJ作品はすべてビデオで撮影され
た。
「最初の「ちびっこレゲエ」の頃は、手持ち撮影が下手くそでしたね。人間って、ほめら
れて上手になるやつとけなされて上手になるやつと二通りあるでしょ。最初、手持ちのぐ
らぐら感に文句言っていたけれど、それよりかいいところをほめていった方があいつはど
んどんと日々上手くなっていくことに気が付きまして、それからはほめまくりましたよ。
ぼくが昇をほめまくるもんだから、他のディレクターたちがすごいすごいって使い始めた。
けれども、あいつのすごいとこは光の取り入れ方なんですよ。ある人物をインタビューし
てるとするでしょ、被写体よりも背景の光とかに気が行くんだよ、昇は、そういうやつな
の。被写体はぼくが気にしていればいいんだ、みたいな感じで。インタビューを撮るとい
うよりも(まるで映画を撮るように)画角と光を計算して撮っていた。
例えば「ちびっこレゲエ」で、ミュージカル・ユース(イギリスの小中学生からなるレゲ
エ・バンド。ヒット曲「バス・ザ・ダッチー」など)のメンバーひとりひとりのショート・
インタビューを撮ろうとぼくが言ったら、昇はAD(アシスタント・ディレクター)に注
文して、でかい色紙買ってこさせ、ひとりひとりの背景を、赤とか青とか黄色とか緑とか
手間隙かけて撮って、えらく時間がかかったんです。向こうのマネージャーが怒っていて
も、あいつは平気で色紙貼り代えていましたよ。それで、照明を人物の顔に当てないで、
色紙にライト当てて、後ろから逆ライトにして、輪郭がふわーっとにじんで出て、バック
の色がぱちーんと見える、そんな独特のインタビューの撮り方をしてました。今で見たら
普通なんでしょうが、当時としては、新しい手法っていうか、どういうムードでいくか、
一個一個映像を工夫しながら撮っていくのが集積されていくから、不思議な、今まで見た
ことのないような映像が生まれた。
カメラマンというのは、照明がわかっていないとダメなんです。いいなと思うカメラマン
はみんな照明が上手ですよ。(映画での)照明スタッフも結局カメラマンの指示なんですか
ら。それにしても昇は照明が上手かったな。
それとフォグを使いました。当時はまだなかったですよ、フォグ使うドキュメンタリーな
んて。霧ですよ霧、逆光にいくとパァーって光がすっ飛びますよね。こんなミュージック・
クリップみたいな撮り方、いっぱいしたんですよ」

良し悪しは別にして、従来のドキュメンタリーの概念にとらわれず、というよりは分野に
関係なく、新しい映像、おもしろい映像を作り出そうとする篠田昇カメラマンの意欲。し
かし、それは私には漠然とながら、“みんなをびっくりさせてやろう”とする遊び心のような意図があるよ
うにも感じられるのだが。
ま、彼の、メインである被写体よりもその背景(の光)に目が行く、という映像の捉え方
は、今後の大きな課題になることは間違いない。

篠田に頼まれて色紙を買いに行かされたADが、当時27歳、篠田より4つ年下の河口歳彦
(現在DJプロデューサー)であった。
「篠田さんはDJの仕事に6年間に10数本関わっているのですが、メイン・カメラマンと
しては、83年に3本、84年に1本、あと年に1本くらいで、88年のTBS「新世界紀行 
行ってみたいカリブ 南の楽園の島々」
、これは長谷川和彦(映画監督)さんが演出なんで
すが、これが最後だと思います。ぼくの師匠は山口秀矢さんだったので、このあたりの作
品はほとんど篠田さんと一緒にやっていました。本当に楽しいロケの毎日でした。
「ザ・アジア学生滞日記」の時、韓国や中国、タイ、インドネシアなどの国々の22歳くら
いの学生たちが短期留学に来て、東京でホームステイしたり、浅草や首相官邸に行ったり、
それを追いかけていたんです。ロケの最後は京都のホテルでのさよならパーティーだった
んですが、その日、東京から飛行機で向かうはずが台風で飛ばない。車飛ばして京都まで
行きました。そこで、ぼくらも(彼らのために)何かしなくちゃならない、で、山口さん
と篠田さんのギター、篠田さんはサウスポーで、ぼくはボーカルで「レット・イット・ビ
ー」を合唱したんです。大うけでした。
篠田さんは結構身体が硬かったですね。運転してる時も首が回らなかった。後ろを見る時
は身体と一緒に首を回していた。篠田さんは運転が上手い、上手いけれど、大丈夫なのか
なっていう不安がありましたね。それとドキュメンタリーって、カメラ・ワークなんかも特
殊だから、そういう意味ではドキュメンタリー向きではないのかなって。この頃はまだ三
脚もよく使っていて、山口さんがあれ撮れこれ撮れって、手練手管で指示していたように
思います。(山口さんと)友達関係だったから、やり合うこともありましたし。
でもそれなりに味がありました。「ちびっこレゲエ」の長いラスト・シーンなんか感情が入
った撮り方をしている(日本の中学生レゲエ・ミュージシャン“PJ”が彼らとの別れを
惜しむ飛行場でのシーン)。このあと、どんどん(1シーン)1カットの世界に入っていく
んですけどね。
篠田さんがその頃くれたのが「中村あゆみ」のミュージック・ビデオ(篠田撮影による)
で、見たらそれがものすごかった。日比谷公会堂の周りとか勝鬨橋をロケしてて、1シーン
1カットで。照明とかもかなり凝っていてすごい。こんな映像、ぼくの知らない世界でした
から、驚きました」
*中村あゆみ 1984年デビュー。DJ河口によると代表曲「翼の折れたエンジェル」が入っ
ていたということから、85年もしくはそれ以降のMV作品か。

二人の話から察すると、DJが制作するテレビ・ドキュメンタリー番組を撮る前からか、
もしくは並行しながら、昇はミュージック・ビデオ(クリップ)も手がけていたことがわ
かる。(私はこの辺りのことを全く知らない)

同じくDJのディレクター山口恒治は、昇より7つ年下である。
「87年(昭和62年)の「清原クンと桑田クンPart2」(テレビ東京)の夏の3ヵ月間、
桑田(プロ野球巨人)を篠田さんと追いかけてて、その時ずっと一緒でした。大阪、九州
にも行きました。篠田さんの2ドアでサンルーフ付きのクリーム色のベンツ、よく乗せて
もらいましたし、仕事にも使わさせてもらいました。それ乗って、後楽園に行った時、選
手の入り待ちをしているファンの女の子たちがいて、その間をベンツがすぅーって入って
いく。みんな追いかけてくるんですよ。だれが乗っているか、わからないから。ベンツを
止めて、篠田さんが降りると、みんな、なーんだと言ってがっかり。篠田さんはそれを楽
しんでましたね。
確かあの頃じゃないかな、岩井(俊二)くんが出てきて、音楽のプロモーション・ビデオ
を撮り始めた頃だったと思う。篠田さんは音楽のプロモ・ビデオでおもしろいのを撮るや
つがいてね、って話をしてました。付き合いはこの頃から合ったみたいですね」


先の山口秀矢は、篠田昇の葬式の日に配られたDVDを未だに見ることはできないでいる。
「ちびっこレゲエ」の仕上げが終わると、番組プロデューサーでDJの河村社長がむちゃ
くちゃ高い評価をしてくれたんですよ。それで盛り上がって二人で飲みにいって、帰ろう
かなって思っていたら、(昇が)“帰したくない、もっとこの幸福感を持続しようよ”って
感じで、(家に)泊まりに来いっていうことになった。それが初めて中村橋の家に行った時
のことです。昇と一緒にいたこの時間は一生忘れられませんよ」

篠田昇が撮影した「宇宙の法則」(井筒和幸監督)、「グッドモーニング」(中原京平監督)
が公開された1990年(平成2年)に、山口秀矢はテレビ番組制作会社“えふぶんの壱”を
設立する。そこでの篠田の第一回作品が「東京ディズニーランド・タッチザファンタジー」(富
永一監督)だ。
「設立してすぐに入った仕事で、JALからの依頼の、機内に流すプロモーション・ビデ
オなんですよ、20分くらいかな。昇はディズニーランドの外側から、クレーン使って、ぐ
わーって中に入っていく。異常な金の掛かり方なんですが、まっ、いいかっていう感じで
いたら、大赤字になってしまった。設立して即大赤字。でも素晴らしい作品に仕上がって、
いいのを作ってくれたっていうんで、その後仕事はずっと来てましたけど」


取材協力:篠田いづみ

2007年12月27日

take9 写真(スチル)を撮る意味

take2での疑問、篠田昇の「最初は写真を目指していたのか?」について、明快な答えをくれた男に会った。カメラマンの杉山芳明である。実は私は彼と面識があった。遠い昔、昇と杉山の交流の中に私も加わっていた時期があったのだ。

杉山は篠田と大学受験の時に知り合う。きっかけは杉山と篠田の受験番号が続いていたからだ。受験の日、その日は途中から雨が降ってきたという。
「年が一緒ということもあって、すぐに仲良くなったよ。試験が終わって、合格発表の日も時間決めて待ち合わせをした。結局、おれは違う大学の写真学科に行ったんだけれど、昇は日芸の映画(学科)に入った。
あいつは映画(学科)に入ったんだけれど、初めムービーには興味なかったと思うよ。おれは(大学で)写真バリバリにやっていたから、(昇は)一緒に写真やりたくてしょっちゅう遊びに来てたのよ、うちのアパートに。撮影やって現像やって、暗室にずっとこもってね。よーく、泊まっていったよ。
女の子の裸、撮りたいね、なんて言っててさ、いないから自分たちで裸になるのよ。夜、石神井公園に行って、あいつが裸で木に登ってしがみつくのよ、木に抱っこしてさ。夜だから、ロー・シャッターじゃない、辛い格好して蚊に刺されるし。
帰りは帰りで、公園の隣りにある日銀の社宅のリッチなプールに、蚊に刺されてるもんだから、泳ぎに行くのよ、夜中。守衛に追いかけられて、ふるちんで逃げたりしてたよ」
「アパートの下に住んでた双子の大工と8ミリのブルーフィルムの上映会をやったのよ。その映写機を昇が持ってくるんだけど、あいつ馬鹿だから、一番いいところで止めちゃうのよ。焼けちゃうんだよ、フィルムが。フィルムを返しにいく役がおれになってさ、ヤクザのおっさんにえらいどやされて散々な目にあったよ」
昇は大学入学直後の数ヶ月、こうした杉山との写真漬けの毎日を送っていたようだ。

東京練馬区の石神井公園にあった杉山のアパートには、私も遊びに行ったことがあった。杉山と兄が同居していた2階の部屋には、当時私たち(昇や岩城たち)の間で話題になっていた商品、テレビ通販で売っていた省スペース設計・風呂付シャワーがあった。私たちの間で話題になっていたとは、こんなもん買うやつがいるのかよ、という類いのものだった。
約60センチ四方の小さなプラスチックの風呂桶とその四隅にパイプが立ち、頭上約2メートルの高さにシャワーがセットされ、回り全体をビニール布で囲い、風呂に入るにはその小さな桶に縮こまって入り、シャワーを浴びる時は、風呂桶に板を敷き、その上に乗り、シャワーをかける。水は全て風呂桶の栓から流れていく仕組みで、便利なようで不便極まりないセコいものであった。
だが、昇だけはそれを楽しそうに使っていた。

昇は杉山との出会いについて、“受験の日の昼休みに入ったキッチンで隣同士になり、知り合ったんだよ”と私や岩城など映画学科の人間に話していた。別に大した意味がある訳でもないのかもしれないが、遠慮なのだろうか、写真を目指していたことを隠していたような気がする。

杉山は続ける。
「それがさ、次第に大学の仲間たち、堀越なんかと綿密になってムービーの方に動いて行ったんだと思うよ」
私が(映像制作集団グループ・ポジポジで)映画を一緒に撮ろうよと、篠田昇に声を掛けたのは、大学1年秋の初めであった。
「それから、ちょっと疎遠になっていたんだけれど、「竜馬暗殺」の時、篠田から電話があって、井上馨の役をやれって。その時、おれはスタジオマンやっていて、下積みだよな、当時のスタジオマンって家帰れないのよ、飯付きの住み込みで、めちゃくちゃ忙しくって。行きたかったよ、映画の現場に。役者やりたいとかじゃなくてさ、なんでもいいから、抜け出したいわけよ、スタジオから。
この時、ああ仕事(の方向)が違っちゃったんだなと感じた、篠田と」

昭和50年代に入って間もなく、当時「週刊プレイボーイ」の巻頭ヌード・グラビアで長年携わっていた篠山紀信が降板、その後に抜擢されたのが杉山芳明であった。
私は新宿の喫茶店かどこかで、「杉山が撮っているぜ」と雑誌プレイボーイを昇に見せた。
かつて篠田と杉山のふたりがいつか撮ろうよと夢を描いていた女の子の裸がまぶしくそこには写されていた。
親友が撮ったということで初めは喜んでいた昇だったが、ページをめくるうちに「よくない、よくない。杉山らしくない」とつぶやきだした。
私は「なぜ?」と聞いてはいけない領域を感じ、声をかけることはしなかった。

その後、杉山は独立し、自身の事務所を開設した。篠田とのつながりは、PV(プロモーション・ビデオ)撮影の依頼だった。最初の頃はプロダクションからの全く無名のアーチストを低予算で作るものが大半だったが、篠田は気軽に応じてくれたという。が、ムービー・カメラマンとして多忙な時期を送るようになると、篠田の撮影助手であった福本淳が務めることになる。
「時間があるとやってきて、おれや福本がPV撮っている横から、ハッセル(ブラッド)でバシバシ撮っていた。うちのアシスタントが篠田のフィルムをよくここで(杉山事務所)現像していた。そういう意味じゃ、PVのカメラマンというより、スチルのカメラマンとしての(事務所への)出入りが多かったよ。ここでルーペでネガのチェックして、アシスタントにこれ焼いてなんて、やっていたものな」
「昇からはPV通してムービーのことをすごく教えてもらった。逆にあいつはスチルのノウハウをここから随分と持っていったと思う。露出とかのちっちゃい細かい問題だけどさ」

ムービー・カメラマンとしての地位を築いてからも、昇と一緒に仕事をしていた関係者の間では昇の写真好きはよく知られている。
平成10年には、「四月物語」(監督岩井俊二)の撮影中、主演の松たか子をポラロイドで撮り下ろした写真展(無料)を銀座で開いていた。(その他、写真に関してはまだ私の知らない沢山のエピソードがあると思われる)

「おれ(杉山)の見方というか、おれの中では、篠田の映像というのは半分スチルで見ているようなところがある。映画のフレームなんかも、ちょっとスチルっぽいよな。岩井(俊二)さんの「スワロウテイル」(平成8年公開)なんか、まるでスチルの世界のよう」
「そういうことでは、あいつの中にはスチルにくすぶっていたところがあったのかもしれない」
「だからさ、昇が48(歳)くらいから、燃えてたよな、相当燃えてたよ、写真に。ハッセル(ブラッド)2台買ったりしてさ。その頃の映画とリンクしていたかどうかはわからないけれど、(ムービーだけでなく)スチルもやりたかった篠田がいたんだ」
昇が48歳の頃といえば、2000年、平成12年のことになる。ちなみにこの年の7月に、「源氏物語・あさきゆめみし」(監督三枝健起)が公開になっているが、前作「死国」(監督長崎俊一)との間隔は1年半、次作「クロエ」(監督利重剛)との間隔はほぼ1年と共に大きく開いている。

そもそも映画とはカメラの前で演じられる世界であり、しかもそこに展開されるのは演出する監督の表現が大方の比重を占める。そして監督の意図するものを映像として具現化していくのが撮影の役割である。当然監督のそれよりも、アイデアや工夫によって、より以上の表現が撮影には可能な場合もあるだろう。しかし、どちらにせよ、監督あっての撮影(者)であることには変わりはない。
ならば、撮影兼監督として全ての表現者となりえるという意味でスチルにこだわっていたのであろうか。

篠田と親しかった長澤雅彦もこの頃、篠田がかなり本格的に写真(スチル)を始めていたことを裏付ける。
「仲間由紀恵さんのお芝居がありまして、ぼくはアート・ディレクターで、宣伝美術もやることになったんです。ポスターのデザインなんかも。篠田さんはハッセルブラッドでスチル撮り始めていたから、やってよって声をかけたんです。
大きな木の下で、木に寄り添っている仲間由紀恵を撮る設定で、茨城の神社の境内に撮影に行ったんですが、あいにく雨が降ってきた。でもこの日しかスケジュールがない。やろうと。そしたら、いきなりクレーンですよ、篠田さん。クレーンでガガガーって上がっていって、映画用のライトがバンバン点いて照明始めてライティングして。で今度はレール敷いてドリー乗せて、ドリーの上に乗って動きながら、バシッバシッバシッ。
スチルの撮影ですよ、こっちは普通にカメラ構えてレフ板とか立てて、自分で歩いて動いてバチッなんて思ってましたから。ぼくはお金の面も管理していたので、たまらないなって思ってました。映画ではそれなりに慣れてきてましたけど、スチルもかよって、驚きましたね。いやー、びっくりしました」
「でも、現像も自分でやって、素晴らしいカラー(作品)になりました」
「ハッセルブラッドに、映画のいわゆる70㎜のムービー・フィルムを詰め替えて、普段自分が映画で使っているフィルムですよね。まるで呼吸するようにカメラが動いて、フィルムに写し撮られる寸前まで、最高のアングル、最高の瞬間を探しながら見ている。少しでも止まったら息ができなくなってしまうみたいな。動く被写体に対しても、動かない被写体に対しても、常に動いていることで、瞬間瞬間を切り取っていったんじゃないですかね。それが映画だけじゃなくて、スチルも。人間だけじゃなくて単なるビルディングの撮影でも、ね。土門拳が「仏像は一瞬一瞬で動いているんだ」っていうことを言っていましたけれど、それと一緒でしょうね。被写体がたとえ物であっても生命を持っていて、一瞬一瞬で動いているという感覚がきっと篠田さんの中にはあったんでしょうね」
長澤の言葉には、映画もスチルも変わらない世界観を持つカメラマン篠田がいる。大林宣彦監督もこんなことを言っていた。『映画というものは、一コマ一コマの積み重ねなんですね』と。

確かに昇にとってはムービーもスチルも分け隔てない感覚なのかもしれない。が、素人の私にとっては、同じ撮影といえども、どうしてもムービーとスチルは違うもののように思えてならない。だから、何ゆえ48歳にしてスチルへの偏りを持ち始めたのか、という疑問が付きまとい、はっきりさせたい欲求にかられる。

《昇は撮られることが好きだった。そして被写体としての昇はいつもカメラを意識していた。常にカメラ目線で、おどけたり、作り笑いをしたり、はにかんだり、そして構えていて決して自然体で写っていることはなかった。彼の作品のメイキングを見てもそう思われるシーン(一瞬ではあるが)が多いことに気付く。しかし、その姿はいかにも楽しそうである。
映画に被写体のカメラ目線はありえない。写真は被写体のカメラ目線が許される。それは時として撮影者やカメラの後ろ側の空気感までも包み込むことがあり、それを主題にすることだってできる。
私は今、昇の大好きだったビートルズの映画「マジカル・ミステリー・ツアー」を思い出している。
カメラの前後左右に関係なく、自由奔放に動き回るビートルズと出演者たち。カメラを見ようが見まいがおかまいなしの映像。しかもそこで繰り広げられる世界は、ばかばかしいほど壮大で美しい。そしてワクワクするほど楽しい。
きっと昇はそんな世界を撮りたかったのだろうか。
結論づけるつもりもないし、漠然とでもあるが、こうした私の知らない昇の一連の行動をたどっていくと、もっともっと遊びたかったに違いない、そんな思いがこみ上げてくる》

取材協力:篠田いづみ

2008年01月17日

take 10 スチル“P.S I love you”

篠田昇と杉山芳明との友情関係はお互いの距離間を保ちつつ、30年以上継続していた。
だが、この間同じカメラマンであったにも関わらず、ムービーとスチルとの違いによって、共同の仕事をすることはなかった。
「やっぱし、何かの縁なんだろうな。
(映画)「世界の中心で、愛をさけぶ」のビジュアル本の話が小学館から来たのよ、本編の撮影はもう始まっていたんだけれど。まさか行定(勲)が監督で、篠田が撮影なんて思ってなかったから、おれは映画のスチルマンとしては遠慮しようと、うちのアシスタントの井上(貴之)を入れたんだ。でも(スタッフ・リストを)よく見ると篠田の名前があるじゃない、こりゃ行かんとやばいと思って、四国(撮影現場)へすぐ飛んでいったんだ。
あの作品があいつの遺作になっちゃったんだけれど、そのビジュアル本がおれとあいつの初めてのセッションだったんだよ。こんなことって、あるんだよな。おれとあいつの最初で最後のコラボだよ。
でもおれは4日間しか現場には行かなかったので、あんまり撮ってないんだ。大方あいつのフィルムでプリントしてる」

また昇のスチル撮影について、かつて昇の撮影助手を経験した根岸憲一は、こんなことを語っていた。
「ライカとかのカメラでスロー・シャッターで撮るじゃないですか。普通(手持ち撮影の限界は)1/16くらいまでなんですが、篠田さんだと1/8も止めちゃう。呼吸もあるんでしょうが、集中力と腕の力は並外れていましたね」

今回の取材をした人々の話の中にも、篠田の映画での武勇伝に、この力技が数多く登場してくる。
そろそろ、そこらあたりに触れていきたいと考えている。


取材協力:篠田いづみ

2008年02月08日

take11【番外編】伝説の花見

もう30年前のことになろうか、昇と私がそれぞれの道を歩み始めて間もない頃、
「この前、村山貯水池に花見に行ったんだ。いい桜見つけたんだけど、もう朝から雷と暴風雨でさ。テント立てて宴会やったけど、やってるのは俺たちだけ。子供たちも来てたんだけど、楽しいわけないじゃない、もう帰ろうよ帰ろうよって騒ぎ始めて。いい加減酔っ払ってきて、しかも土砂降りも止みそうもないから帰ろうかということになったんだ。
帰りの西武線、台風みたいな日だから客がひとりもいないんだよ。で、車両の真ん中にゴザ敷いて宴会の続きを始めたんだ。そしたら、また子供たちが騒いで、「大人は狂ってる。お前たちは狂ってる。昇は狂ってる」って泣き始めたんだ。おかしいだろ、楽しかったな」
とうれしそうに昇は話していた。
これは推測するに、撮影部の先輩である川上皓市、小林達比古、あるいは住田望の家族たちとの交流の一コマだったと思われる。
そして、
「ぼく(長澤雅彦)が篠田さんと出会った頃はもう始まっていまして、親しくなり始めた13年くらい前(2007年取材)には、撮影助手とかディレクターとかぼくとか何人かのこじんまりとした花見でした。多くて30~40人くらいかな、上智大学の近辺、桜並木の高さがこう下から眺めると丁度いい具合で、風情があるいい場所でした。それと集まりやすいのと大学の便所を借りれたんです。後半はニューオータニに行ってましたけど。
最初の頃は篠田さんがひとりでやってくれたんです。それから人が増えてきたので2,3千円の会費を払って、お酒はみんなの持ち寄り、食べ物はとりあえず篠田さんが揃えてくれて。焼肉は必ずやってました。
篠田さんがだんだん売れっ子になってくると人が増えすぎちゃって、200人だか300人だか。だから最後の頃は篠田さんに紹介してもらわないとわからない人のほうが多かった」

「ぼく(根岸憲一)は仕事で行けなかったんですが、とにかくすごい人数が、何百人とかが上智の土手を占領して、自前で屋台まで出しちゃったりしてますから。スタッフは篠田さんに声かけられれば当然ハァと行きますが、タレントや役者さんたちがいっぱい集まっちゃって、回りも大騒ぎになって。それで警察が来て、取り止めになったって聞きました。伝説ですね、篠田さんの人徳で有名人がこんなに来て。他に聞いたことないですよね」

恒例の花見が取り止めになったという記憶はないと長澤雅彦は言う。
「ただ警察沙汰は毎年でしたね。あんだけの大人数が焼肉やって焼き鳥やって鍋やって、相当なことをやってますから。基本的には公道ですからね。
下に赤絨毯を敷くんですよ。芸能人も急に増えまして、通行人もびっくりしてました。あれ、松たか子じゃないかって。
昼から始まって夜中の12時くらいまでやっていました。みんなベロベロになるんですよ。篠田さんの年間の最大行事でした。篠田さんと関わった人間であそこに行ったことのない人って、ひとりもいないと思います」
これだけ大勢の人間を昇はどのように取り仕切ったのだろうか。
「次第に大変になってきたので、篠田さんと仲のよかった制作プロダクションが会場設定とか調達とかするようになってきました。最後はある芸能プロダクションが共同開催みたいな形でやってくれて、お金関係はそこが出してくれてたような気がします」
この花見の席でも昇は昇らしい行動を見せてくれる。
「笑ってしまうのは、普通花見なんかの様子はビデオで撮りますよね。篠田さんは35ミリのムービーキャメラを持ってまして、アリフレックスの2Cっていう小型のキャメラを。それにフィルムをつめて、花見なのに35ミリのキャメラ回して遊んでいるんですよ。みんなの酒飲んでいる姿を撮って。
で、二、三日後に連絡があって、ラッシュやるから来い、と。イマジカの第一試写室でその花見の映像を無理やり見せられて、10分くらい、音はないんですけど。ホームビデオみたいな映像を映画のキャメラで、しかもイマジカで現像させて、試写室とって、映写させて、そんなことする人いませんよね」

撮影部のリーダーとして撮影現場を仕切るのは当然のことであろうが、こと花見に関しても昇は親分肌というか大将のような存在であったようだ。
昇の告別式当日、会場へ出向く直前に喪主篠田いづみはフォルクスワーゲン・バスに乗り、昇と共にここ上智の土手を訪れ、別れを告げている。それほど昇にとって思い出深いところだったことがうかがえる。

もうひとつ昇が率先していた恒例のイベントがあった。
「それと昔は新年会というのがあったんです、篠田さんの家で。最初は駐車場だったですかね、あとからは家の三階に移りましたけど。餃子とかものすごい量を作りますけど残らないんです。夜中までやっていて、みんな最終電車で帰りました。
ある年の新年会に、絶対来いって言われて、いつなら大丈夫か、もしお前がだめなら日を代えるからと。きっとぼく(根岸憲一)にだけじゃなくて、みんなにもそういう気持ちを、お前に来てほしいんだ、という気持ちを伝えているんだと思いますよ」
長澤雅彦も昇の人柄を懐かしむ。
「現在の家では三、四回くらいですかね、そう多くはないんですが、新年会は。それもなくなりましたね、篠田さんの身体の調子とは関係なく。あまりにも大変だったんですよ、家に入りきらなくなったんです。限界をはるかに超える人数でしたから。
篠田さんって、どんな人にも分け隔てないんで、政治的というか営業というか会社のえらい人とかを優先的に呼ぶとか絶対にしない人だったから、どんな小さな役割の人であっても、仲良くなったやつは必ず呼ぶ、そういう姿勢の人でしたから。どんな人でも声かけてましたから、数が収まりきれなくなったんです。人間を選ばない、そんな人だった」


取材協力:篠田いづみ


2008年07月17日

take17信頼と現場。そして先達の危惧

「東方見聞録」(1992年未公開・監督井筒和幸)の撮影は、1991年(平成3年)の6月から開始されたが、撮影中の事故のため中断する。
その後、撮影は再開され作品は完成するものの、今度は制作会社であるディレクターズ・カンパニーが倒産のため、劇場公開には至らなかった不幸な作品である。

この年、一般公募でディレクターズ・カンパニーに入社し、「東方見聞録」で助監督を務めたのが長澤雅彦であった。
「それまではCMの仕事をしていたんですけれど、映画の世界に入りたかったもんで。ぼくが26(歳)の時です。
最初に付いたのが、井筒組でその時のカメラマンが篠田さんだったんです。助監督で一年半くらい、その後はちょっときっかけがあってプロデューサーになっちゃいました。プロデューサーになってからも、篠田さんや井筒さんとは一緒に仕事はしました。
プロデューサーやるんだったら、すごくいいディレクターがいるから会えよと篠田さんが紹介してくれたのが岩井俊二さんでした。
それで岩井さんと意気投合して作ったのが「Love Letter」(1995年)だったり、「undo」(1994年)だったりなんです。岩井さんの映画デビューした初期の作品のプロデュースをやってました。
ぼくはその後、岩井さんのところを離れたのですが、篠田さんはそのまま続けていました。「MISTY」(1997年・監督三枝健起)でまた一緒に仕事することになりました。ぼくはこの時もプロデューサーをやっていました。
それからぼくが監督になってから(「ココニイルコト」2001年・劇場用初監督作)は、実はいろいろな事情がありまして、ぼくは篠田さんと映画を撮りたかったのですが、なかなかできないでいた。それがあまりにぼくのフラストレーションになって、プロデューサーと切れてしまった。
それでやっと篠田さんとやれたのが、北海道のドラマ(「ノースポイント つばさ」2002年)だったり、ショートフィルム(「ShortCakes」2003年)やCMなんです。
ぼくの職種が変わっても常に篠田さんとの付き合いは続いていて、お亡くなりになる前、篠田さんが入院していた病院がうちのすぐ近所だったので、随分とお見舞いには行きました。
仕事以外の部分でも付き合いはとても深かったと思います」

長澤雅彦はこれまで度々登場している(take8、9、11)が、基本的に年順を追った構成上、篠田との出会いをここまで引きずってしまった。
《これを書き始めた当初は取材させていただいた方たちの話をまとめたインタビュー集的なことを考えていたのだが、昇の時間軸にそれらを付け加えていく現在の構成に切り替えた。長澤に会ったのは、2006年11月のこと。彼と昇との詳しい模様をやっと紹介できる頃になって内心ほっとしている》

さらに深かった長澤の思い出は続く。
「あの頃(90年代)は、映画はシネスコ、パナビジョン、それしか言わなかったですから、篠田さん。いかにパナビジョンでシネスコを撮ることが素晴らしいか、延々と説いて回っていました。
「Love Letter」もそうですし、「MISTY」もそうですし、ぼくは映画界に入って、シネスコしかやったことがなくて、初めてビスタ(*)やった時、フレームが違うので感覚を修正するのにえらい手間がかかりました。
とにかく、ぼくにとっては学校でした。
篠田さんは本当にいい兄貴だったし、最高の兄貴でもあったし、いろいろな新しいものやその処方を教えてくれるし、車にしても酒にしてもそうだし・・・。
同時に映像のことも、とにかくテクニカルなことが大好きな人だから、ぼくのようなある種門外漢、撮影部じゃない人間にでも、このレンズとこのレンズの違い、フィルムで何倍増感とか何分の一減感とか、どういうことを狙うとそうなるのか、その効果とか、徹底して教えてくれましたから。
学校ですね、一番の映像の先生でもありました。
実はぼく、映画がそんなに好きじゃなかったんです。
映画はやりたかったけれど、映画界には入ったけれど、ま、そんなに続けていくとも思っていなかった。実際、大変だったけれど、やれてこれたのは篠田さんがいたから。
何しろ公私共にこの13年間、映画を続けてこれたのは篠田さんのおかげなんです」
*ビスタ=スクリーン・サイズのひとつで、画面縦横比1:1.85とスタンダード・サイズに比べワイドで、これが主流。シネスコはさらにワイドになり、1:2.35となる。

長澤は自分をも含め、若い映画スタッフに慕われていた理由として、
「とにかく篠田さん本人の感覚が若いですから、年上感というのがないんです。親分肌であっても決して威張っているとか、上から物を言うのも一切なかった。だから、とても付き合いやすかった。
それに新しいことに挑戦する人でしたから。そういう新しいものに対する貪欲さっていうものは、一番ビビッドに反応するのは若い人間だったと思うんですよ。撮影に関する方法論みたいなものですよね。
例えば、ハイライダーっていう電線工事なんかで使われているボックス型のクレーンの作業車、あれを撮影に使っちゃうんですよ。自分で操縦コントロールして、いい高さに、自分がどこでも行けるようにして、(従来の映画用)クレーンのような使い方をしてました。
それで人間を追いかけた時もあるし、それと危険なところでも行けますし・・・」
一回りも二回りもある年齢差を感じさせない感覚の若さが昇にはあったという。
が、私には昇の挑戦していく姿がどこか破天荒なところに、若者たちの心を強く引く魅力があるような気がした。
それは、理論派ではなく肉体行動派。頭で考えるのではなく、身体で覚え考えていく。そうやって、成功と失敗を繰り返しながら、前へ進んでいく実践タイプ、みたいなことか。
そして、かなり精力的なものは感じるものの、悪くとるとある意味、正確性(目算)を欠いた猪突猛進の人ともいえるのではないだろうか。
長澤にはまた会う機会をお願いしようと思っている。そこで聞きたい、その後ハイライダーは使っていたのか、と。
多分、昇のことだ、別の方法を編み出したに違いないと思うのだが。

さらにこうした篠田の人柄だけでなく、仕事への姿勢に共感する人々、とりわけ若い監督や制作者たちに対して、篠田は絶大なる信頼と支持を得ていたことに、ある程度予想はしていたことながら、正直驚いている。
長澤雅彦は言う。
「無邪気で子供のような人でした。とにかく篠田さんと現場にいるとすごく楽しかった。映画の撮影現場って精神的にも肉体的にも非常に厳しくきつい。
篠田さんがいることで、撮影することが、映画を作ることがすごく楽しいと思える、それが何よりでした。みんなを笑わして、盛り上げて、一番元気に振舞っていた。
篠田さんがこうやりたいと言ったら、必ずそれを貫き通す意志があった、この辺でということが一切ない。
大体人間ってどうしても妥協したくなったり、この辺でいいかって思いたくなるんですが、そういうことが一切なかった。徹底してやらないと気がすまない、終わらない人でしたから。
そういう意味では撮影現場は必要以上に大変でもありました。
でも、やっぱりすごい結果を出すから、みんな納得せざるを得ない、プロデューサーにしても監督にしても、(現場にいる)みんなも」
行定勲は、(DVD「世界の中心で、愛をさけぶ」特典映像のインタビューより一部抜粋)
「人間的に言えば、太陽みたいな人ですね。
篠田さんがカーッと燦燦と輝く光を発していて、ぼくらは惑星で、くるくる回っているという思いがしてます、今は、印象としては。
篠田さんは惜しくもこの映画が最後で他界されたんでけど、考えられない。死から最も遠い人。今もぼくの中では生き続けているし、沢山の力を与えてくれるというかスタッフに。
撮影は大変です、篠田さんとやるっていうのは。
絶対、手を抜かない。どんなショットでも手を抜かない。あきらめない。これでいいだろうなんて絶対思わない。絶対自分が思ったとおりに近づけようとする。
もちろん、演出がだめだった時は演出をフォローするしかできないかもしれない。
最高のものをなるべく作って、自分の作品のどのショット見ても「最高だよー」って言うし、本当に人に見てもらおうと思ってる画を作ってた人だと思います」
同じく監督の岩井俊二は、(「写真以上写真未満」翔泳社刊・インタビュー「岩井俊二~カメラマン篠田昇が残した光」記事中より一部抜粋、「まわりの人にとってどんな存在だったか」の質問に対して)
「とにかく彼はムードメイカーでした。彼がいると、とにかく現場がなごむ。なごむというか、彼が強引にも元気を注ぎ込む感じ。ゆえに僕なんかは常に非情な監督業に徹することができた。怒鳴っても、現場はすぐに回復する」
川上皓市は、
「篠田はキャメラマンの仕事というか、現場が大好きだったんじゃないの。ぼくも大好きだけど辛い現場もあるからね。篠田は辛い現場や映画も辛く感じないくらい楽しかったんじゃないかな。そういうタイプの人間なんだな」
とそれぞれは篠田のいた現場を振り返る。

篠田のいる撮影現場。いかにも楽しそうである。ゆとりある緊張感といったらいいのだろうか、映画を作ることはこういうことなんだという、そんな雰囲気が伝わってくる。
長澤や行定のいう、大変な撮影現場とはどのようなものだったのだろうか。その現場の一コマを長澤が語る。
「準備とかで、撮影開始の遅延なんてしょっちゅうでした。
篠田さんの昔の、今は親しくない人は、日本一時間のかかるキャメラマンと言ってました。(フィルム)テストもすごいのですが、撮影中もとにかく本番に行くまでにえらい時間がかかりました。
カメラの動きが複雑だったり、ま、ものを作る人はみんなそうだと思うんですけれど、完璧主義っていう度合いが非常に高い。最高にいいものを作ろうとする。いろいろな手を考え、試す。そういう試行錯誤が常に現場でもありましたから。だから、すごい時間はかかるし、大変だったんです。
ただ、ぼくは初めて映画の世界に入ってやったのが篠田さんで、それ以外のキャメラマンとほとんど仕事してない。だから、確かに時間はかかるなあとは思うものの、他のキャメラマンと比べてどうなのかは全く知らなかった。
監督になってから、別のキャメラマンとやった時、なんて早いんだろうって思って。それが普通のスピードだということをわかるまでに随分かかりました」
業界では、これはかなり有名なことらしく、膨大なフィルム・テスト(詳細後述)などと並び称される、いわゆる篠田伝説のひとつになっている。
さらに長澤は大変な現場の模様を続ける。
「トラブルばっかりでしたね。
「MISTY」の時に、東宝の撮影所で撮影したのですが、1カット、水滴があるんですよ。垂れそうになっている水滴、それ越しに金城(武)くんと豊川(悦司)さんが剣を構え、向き合っている。
立会いの間を取っている場面を、監督が水滴越しに撮りたいと言い出した。ああ、なんていうことを言ってくれたんだ、とみんな思って。
人工の水滴を用意して、それに反転して映るわけなんですけれど、それをどうのこうのって始まって。あくまで水を通した緊張感を、水滴がポタッて垂れた瞬間に切り合うのだろうなと監督は思っていたのですが、そのぎりぎり直前の部分の1カットの準備で、東宝撮影所で値段の一番高いスタジオで、6時間経っても回らない。
準備に入ってから、豊川さんなんか、自転車に乗って所内をぐるぐる回りながら、「始まっちゃったよー、篠田さんのこだわりが・・・」って、ね。豊川さんは篠田さんのことをよく知っているから、もう観念しているわけです。
ぼくはこの途中にスタジオに入った、入ったらそんな状態になっていた。とりあえず、篠田さんのところへ行ったら、「おれだって、回してぇよ」と。何で回せないのか、聞いて、それはしょうがないね、とまた頭を抱える。
で、やっと6時間経って、本番用意、スタート。カット、10秒で終わりました。
そんなことの連続でした」

昇の二回忌の法事の席で、行定監督がこの時間のかかる篠田の撮影について回顧していたことがあった。
そして、それに対して篠田は「ユキ、時間はたっぷりあるんだから」(篠田は行定のことを「ユキ」と呼んでいた)と答えたという。
私は聞き取りにくい場所にいたため、多分、行定の話のニュアンスとは違う受け取り方をしているのかもしれないが、これが「世界の中心で、愛をさけぶ」の現場でのことだとしたら、随分と意味深な言葉である。単に現場での会話の域を越え、残されし者たちへのメッセージにも聞こえてくる。
そう考えると、昇のたっぷりと使ってきた撮影現場での時間とは、彼の生きている証そのものだったように思えてくる。

もうひとつ、篠田のいる現場では、怒鳴る殴る蹴るが有名だった。
篠田いづみも告別式の挨拶で、「今日は怒らないでね」と送り出したと話している。
そして、「だめだった」と帰ってくる昇。
「それは日常的に起こるんです。殴るんじゃなくて頭を叩く、小突くみたいなことは全く普通のようにするんですけど、それは悪意のあることではないし、怒鳴るのもしばらくするとケラケラと笑っているんです。
やっぱり助手が思うように動かないから、時にはカツ入れて、進めるために言うんです。
基本的に現場で怒る篠田さんの姿を目の当たりにしている人たちは山のようにいますが、なんら悪意を感じていないようなことだと思います」
と福本淳は話す。
ただ若かりし頃の篠田は、
「いつも帰ってくると昇は怒っていました。本当に鈍い、自分の思うとおりにやってくれないって、苛立っていました。住田(望)さんや川上(皓市)さんに付いた時はほとんど怒られていなかったみたい。必死に真剣にやっていたから、自分だったら、こんなバカなことはしないという思いなんでしょう。
性格的に厳しい人ではなかったけれど、できない助手たちにいつも苛苛していました」
と先妻のMさんは中村橋時代の昇を思い出していた。
いつの頃から、昇は若い助手たちから慕われる、愛のあるカメラマンになっていったのであろうか。

そして、長澤は篠田と面識のない人間なら意外と思う篠田のユニークな一面を突く。
「大体、篠田さんを知っている人はみんな言うと思うけれど、人の話、聞いていないんですよ。
自分のやりたいっていう思いを、とにかくアーティストだから、どんな作品だろうが監督だろうが、自分はこういうことをやりたいんだと思うことをやるだけなんです。とにかくやるだけ。
ただそれを押し付けるんでもなく、あの人間性でもっていたと思います。まあ、篠田さんがやるんならしょうがないね、みんな笑って付いていくしかないね、という感じですね。
作品のことも考えてなかったかもしれない。
この作品と自分との関係の中で、こういう撮影をするんだ、おれがこういう画を撮るんだ、こんな素晴らしい画を撮ったら作品だって必ずよくなるはずだ。
その一点突破主義というか、そこの純粋さだけで撮っていたように思えます。だから篠田さんの真似をしようとしてもやっぱり無理なんです、他のキャメラマンが」
寄れるだけ寄って美しい画を撮れるカメラマンは他にいないと語る行定の言葉と同様に、篠田は篠田独自の映像として今なお生き続けているのだ、と彼らの言葉からはそう読み取れる。
「作品のことも考えてなかったかもしれない」という長澤の言葉も、監督(=作品)に左右されることのない自らの意志と解釈した福本淳のマスター・レンズの話(take15)に通じるものがあり、自ら決めたことを遮二無二全うしようとする昇の性格が垣間見えてくる。

だが、こうしたある意味強引ともとれる撮影の側面に危惧していたのが、師匠である川上皓市である。
「昇はキャメラマンになってから、いつも新しいことにチャレンジしていて、そのことは非常に大事なことだと思うし、いいことなんだけれども、そのことが時々裏目に出るというか、自分がやろうとする技術のほうに気持ちがちょっと行っちゃって、そこに映る人間に興味が入りきってないんじゃないかと感じる映画が多々あるわけですよ。
後半というか、「東方見聞録」のあのあたりから。「ダンボールハウス・ガール」とか「MISTY」なんかもそうですね。
「MISTY」はシネスコを手持ちでやっているわけでしょ。そうすることが狙いなのか、狙いだとしたら、ぼくは上手くいってないと思う。ただ見づらいだけだった。
ちゃんと芝居(役者という人間)を見てないんだな。撮っている時は気持ちを込めているのかもしれないけど、結果そうなっているよね。
ぼくの助手の頃は、ぼくはその当時から特別新しいことをやろうとか思っていないんだけど、技術よりは、ま、撮影部は技術パートだから技術のことは大事なんだけれど、技術よりはそこに映っている人間のほうに興味を持とうという話をずっと、しょっちゅうやっていたわけですよ。そういう話を毎晩のようにしていた。
もちろん、人間に興味がないわけじゃないと思うんだけど、昇がやろうとする技術の面が映画からすごく目立つというか、人間に向かうべき眼差しよりも技術にいっているように感じるところがある。
今、昇が一生懸命にやろうとしている技術が、逆に邪魔になることがあるんじゃないかって思うんだよ。
そういう意味では、岩井俊二の「Love Letter」なんかは、昇の中では一番いいんじゃないかって思っている。それは技術じゃなくて映画の中の人間を一生懸命に見てるなって感じがするからね」

川上の言う「技術よりも人間を見よう」とは、どういうことなのか。
誤解がないよう補足させてもらうと、ここでの川上の話は、講師をしている大学での実習の際、小手先のテクニックを優先する生徒たちの対応を正そうとする、カメラマンの在り方についての話であり、篠田を特定しているものではない。
「撮影ってどういうことなのかというと、まずその作品の世界を描けるように、じっくりと人間(役)を見つめたり、その世界観を考えたりするのが、先じゃないのかということなんだよ、技術のことより。
ぼくらプロでも、要するに技術のことが常に話題にしがちで、中身を考えることよりも前に技術のことが問題になったりする。それが非常にだめなことだと思う。技術なんて後から付いていけばいいんだよ。
例えば、まず本(脚本)を読んで、中身について監督と打ち合わせする、全部に対して、どういうことなのかって。
だったら、ここはこんな風に撮ろうとか。当然そのシーンを生かすために、その人物を生かすために、こんな光でどうですか、と。
ここには森の中でのナイト・シーンと書いてあるけれども、ナイト・シーンじゃなくて、真昼間の森の中で、太陽が木の枝から木洩れ日がうわーっと、スモーク炊いて、ビームも作って、ちょっとロング目のシルエットで、きれいな光の中でやるのも手じゃないのって、あるよね。
でも、一見すごい美しい映像なんだけれども、そこで行われていることが嫌なことだったりする場合がある。
だから、まず最初にそのシーンの、そのカットの意味を捕まえないといけない。その上でこう撮るのが正しいのかどうか。脚本に書いてある全てのことについて、ちゃんと意味なり狙いなりを理解しないで、意味も考えずに、ただそういう自分勝手なことだけやったって、だめなんだよ」

川上は、カメラマンとしての目標とは何か、との私の問いに、その答えは難しいとし、自身の理想の撮影を語ってくれた。
「光にしてもフレームにしても、技術が主張し過ぎたらだめだと思う、ぼくはそう思う。
映画を見る人が、光とかフレームのことに目がいってしまっちゃいけない。色とかが、強調され過ぎて、すごくおしゃべりだなあと思われるのがとても嫌なんです、ぼくは。
見終わった後に残るのは、映画の中で演じられる人物とか物語が記憶に残ればいいわけで、撮影なんかあったのかよ、というのがね、それができたらそれが最も優れた撮影だと思う」
今、篠田が生きていたならば、何と答えるだろうか。
川上は言う。
「昇はキャメラマンになってから、ぼくのそういう考えの方向性とはちょっと違うほうへ行ったっていうことは感じているんだ」と。
どちらが正しいとかいうことではなく、昇は独自の道を選んでいたような気がする。
しかし、その昇の選んだ道とは・・・。この先、明確な“光”が見えてくるのだろうか。


取材協力:篠田いづみ

2008年10月12日

take23くされ縁

公私にわたって、篠田昇と最も長く付き合った男がいる。名は、本庄克彦という。
彼は日大芸術学部映画学科の同期で、岩城信行と同じ監督コースで学んでいた。
巨体ながら猫背で内股、肩まで伸ばしたライオンのような長髪、そのモンスターのような風体は学校の中でも一際目立った存在であった。
私たちの名付けた彼の仇名は“ホンジョレ・ビッチョレ”。
彼は、岩城や私たちのグループとは別に、彼を中心としたグループを作っていた。私たちとの大きな違いは、反戦活動をしていたことだ。
そのため、彼は座間の米軍基地に出向くことが頻繁にあり、ジェーン・フォンダやドナルド・サザーランドが反戦活動で来日した時も応援に駆けつけていた。
そうした彼は、当時まだ国内では手に入らないアメリカ産物資を基地内で貰ったり買ってきたりしていた。
その戦利品に、昇は身も心も奪われていた。
コカ・コーラのロング・サイズ、メーカー刻印のジッポー、コンバースのバスケットシューズ、リーバイスのジーンズに各州のロゴ入りTシャツ・・・、それら全てに付いている“made in U.S.A”の文字を確かめる昇の目は、まるで少年のように輝いていた。

今年6月、ささやかに行われた篠田昇+ポラロイド展で、若き日の昇が米軍ハウスの前で、右手こぶしを高く上げている一枚のモノクロ写真が展示されていた。
その撮影者が本庄である。

大学生当時、本庄は井の頭線吉祥寺駅ふたつ手前の三鷹台にあった実家から、江古田の学校へ通っていた。
大学を出た後も、昇はよく本庄の実家を訪ねていたという。
本庄は、東映動画を経て、広告制作会社電通PROXのディレクター及びプロデューサーとして、自身のCM作品の撮影を昇に依頼し、交流を深めていた。
また、昇が再婚をし、練馬の家を持った時も、車で20分の近いところに住んでいたため、家族同士の付き合いもしていた。

昇が亡くなった時、私は自分の会社のホーム・ページ「DVDアルファルファ」に「記憶の残像」というエッセイもどきを連載しており、丁度、昇との出会いや自主映画の活動のことを書いていた時期であった。
昇は、「いつも楽しみに読んでいるよ」とのメッセージを、その年の1月後半に届いた遅い年賀状に添えてくれた。
私はここで追悼文を書いたが、本庄が登場するので、それを記すことにする。



【記憶の残像】
~記憶というものは、いい加減なものである。それが現実だったのか、夢か空想か、今となってはわからない。そんな歪なかげろうを辿って・・・~
●番外編 追悼
これを読んでくれているみなさんも、新聞等でご存知かとは思いますが、ここに登場する(これからも登場します)我が友“篠田昇”ムービーカメラマンが亡くなりました。
 6月22日午前4時のことでした。

その日の夜中にぼくは目が醒めました。目覚まし時計を見ると2時半を指していました。いつもは再び眠りにつくのですが、この日はなぜか完全に覚醒していたので、起き、氷水を飲み、テレビをつけ、眠たくなるまでボーッとすることにしました。
テレビでは、昔のドラマ「赤い衝撃」をやっており、車椅子に乗った山口百恵の元から三浦友和が走り去っていく場面が映っていました。チャンネルを回すと、「プロポーズ」という、とてもくだらない映画が流れていました。
寝ている途中に起きて、眠れないのでテレビを見るなんてことは、ここ何年もないことでした。
やがて明るくなり始めた東の空をボケーッと眺めていると、東北東の方向に低く、星がひとつ輝いていました。
そして、かなり明るくなってから、ぼくは再び眠りにつきました。

昇の死を知ったのは、翌日23日の昼でした。

テレビ番組制作会社の友人からその旨の電話があり、通夜と告別式の日取りを伝えてきました。その時、死因はまだ不明でした。
その後、次々に彼を知る友人から電話がかかってきましたが、状況がよくわかっていないためか、しばらく会っていないせいか、極めて落ち着いて応対していました。
そして、夕方近く、本庄という大学の同期の男から電話がかかってきました。
彼はCM制作に携わる仕事柄、昇とも親しくしていて、家も近くにあるため家族ぐるみの付き合いもしていました。
彼はゆっくりと話すものの、話の内容と言い方で取り乱していることは感じとれました。
彼は、昇の病状の経緯を刻々と語りました。
始めの内はわかりにくい経緯に聞きかえしていましたが、次第に昇がその病魔“癌”と闘っていた状況が克明に思い描かれてきたとたん、涙がどっと溢れ出てきました。
あとはもう、黙って本庄の話を聞くだけで精一杯でした。

本庄は最後に言いました。
「涙が枯れるまで泣くなんて、初めてだよぉ。初めての経験だよなぁ。堀越よぉー、お前も辛いだろぉー!」。
ぼくは思わず電話を切りました。
嗚咽がいつまでもいつまでも続きました。いつ号泣に変わるかもしれないので、慌てて会社を飛び出しました。公園で気持ちを落ち着かせようとするのですが、涙は止まりませんでした。

翌日、石神井公園にある昇の家に初めて行きました。
妻のいづみさんが出迎えてくれました。彼女とは、結婚式以来の再会で特に親しくしていたわけではありませんでした。
彼女は昇のところに案内してくれました。彼を映した写真や映像では前髪で隠れてわからないと思いますが、もともと昇の顔は侍顔でりりしく、特に眉は太く10時10分だったのですが、その死に顔の眉は8時20分でした。
巨漢だった割には、その棺はぼくが収まるくらいの小さな寸法に見えました。後で聞いてわかったのですが、かなり体重が減っていたそうです。

地下にある仕事部屋を見せてもらいました。ひんやりと空調のいきとどいた、コンクリートと鉄骨で組み立てられた間接照明のその部屋には、三脚に立てられた旧式の35mmカメラ、写真の現像装置と引伸し機、ヒッチコックなどの本数冊とビートルズ、ザ・バンドのLPレコード数枚、むき出しの古いレコードプ レーヤー、自身で撮影した写真のファイル、そして一番奥には、それらが眺められるように二人掛けの大きなソファーがデーンと置かれていました。
昔、大学時代に遊んだ昇の部屋を思い出すくらいに雰囲気がとても似ていました。
 いづみさんがこれをどう整理したらいいのか、と大きな衣装ケースを見せてくれました。中は昔撮った様々な写真でいっぱいでした。それを一枚一枚見ていきました。
大学時代、お互いに撮りあった写真が出てきました。後藤和夫の結婚式に出席した写真もありました。一緒に撮った映画の撮影中の写真もありました。
マジック(インキ)で“kazuya’s box”と書かれた印画紙箱が出てきました。そこには、ぼくが課題で撮った赤羽の街の風景が何枚も入っていました。しょうもない写真なのに、そんなものまで残していました。

思えば、昔から昇は撮影を楽しんでいました。工夫をしたりして遊んでいました。
手持ち撮影が好きでした。乳母車での移動撮影もよくしました。パン(ニング)も変幻自在と言うか無茶苦茶でした。
フィルターを重ねてどんな映像になるか実験もしていました。動く絵だけでなく写真を使った静止画の再撮影もよくしました。レンズに半分ポマードを塗ったり色セロハンを貼ったりして様々なソフトフォーカスを作りました。
また、当時タブーであったガラスに撮影中の自分の姿が映ろうが、全く気にしない図太さも持ち合わせていました。
そんな創意工夫の遊び心が彼の持ち味となり、現在の地位を築いていったのだと思います。

昇は、事あるごとに弟子や生徒(講師をしていた)たちに、自分の原点は、ぼくたちグループ・ポジポジの映画『ハードボイルド・ハネムーン』であると語っていたそうです。夏に撮ったせいか、随所に光(太陽)と影のシーンがありました。きらきらした波を撮った長回しのシーンもありました。低感度フィルムの写真で撮った、コンクリートに映るぼくたちのシルエットがラストシーンでした。

いづみさんの入れてくれた冷たいお茶が、食道を抜け胃に流れる何ともない感覚に、違和感を覚えながら、ぼくはしばらくぶりに会った我が友のことを振り返りました。
『昇は、昇らしく生きていたんだ』
帰り際にもう一回、別れを言おうと顔を覗きました。
ぼくは、『なんてことはない、変わっちゃいないということじゃないか、昔のまんまじゃないか、おまえは、よ』と、心の中でつぶやいていました。

そしてそれは、ぼくにとって、とてもとても羨ましいことに思えてなりませんでした。



本庄は、直情的な性格の上、歯に衣を着せぬその物言いは、風体もあって、知らぬ人間に威圧的な印象を与える。
福本淳は、
「不思議な方ですね、篠田さんとため口聞ける数少ない方のひとりなんですが、とにかくインパクトの強い不思議な方です」
と話す。

本庄は、自身のディレクター時代に、作品の撮影を昇に頼んでいた。もちろん、長期的な撮影等、篠田の都合で断られたものもあったが、いつも優先的に引き受けてくれたという。
本庄は自分で書いた絵コンテに、必ずレンズ・サイズを記入していた。つまり、本庄の頭の中には、すでに作品映像のイメージは固まっていた。
しかし、昇はそれをいつも無視して崩していった。
撮影の現場では、ディレクター本庄が指示する地上でのフィックス撮影を尻目に、昇は勝手にクレーンに乗って移動撮影を始めようとしている。
「バカヤロー、何やってんだ、のぼるぅ! 降りて来い! このやろー」
「バカヤロー、こっちのほうがいいんだよー」
「違う違う、ここだぁ、ここから、ここから撮れー、バカヤロー」
「まかせておけって、バカヤロー」
こんなやり取りを見ていた照明助手は、本庄に「本当に仲がいいんですか?」と尋ねた。

ある日の夕方、会社にいた本庄に昇から電話がかかってきた。
「ちょっと話があるから、出て来い」
「何だよ」
「いいから、すぐに来いよ」
聞けば、本庄行きつけの中野の寿司屋にいるという。
数時間後、仕事を終えた本庄が寿司屋に出向くと、カウンターにベロンベロンに酔っ払った昇と長澤雅彦がいた。
駆けつけ三杯の本庄。
「で、話って何だよ」
へべれけ状態の昇が一言。
「勘定してくれ」
昇たちは無一文だったのである。

昇の通夜の席で、本庄は涙を浮かべながら、思い出話をしてくれた。
「昇とさあ、ロスに行った時さあ、飛行機、ノースウエストでさ、ファースト・クラスに乗って。昇が酒頼めって言うんだよな。ただなんだよ、飲み放題なんだよ、ファースト・クラスだから。
で、ワインの、一升瓶より、もっとでかいのがあるじゃん。こんなにでかいの。あれ頼めって言うんだよ。バカヤロー、そんなのテメエが頼めって。でも、オレが注文したんだ、注文したのはオレ。
で、ふたりで開けちゃってさ、ベロンベロン。
そしたら、昇がまた、もう1本貰おうぜ、だってよ。バカだよな、あいつは。
スチュワーデス呼んで、もう1本頂戴って。
そしたら、訳わからないんだけど、スチュワーデスに怒鳴られちゃった。怒られちゃった。バカだよな、あいつ」

この連載を開始してから、何度か本庄とコンタクトをとっていたのだが、お互いの都合でなかなか会うことができなかった。今年の7月、やっと昇の葬式以来となる再会をした。
が、彼の体調が思わしくなく、わずかの時間で中座せざるをえなかった。
別れ際に本庄はつぶやいた。
「オレたち、くされ縁だったんだな」

いつか、もっともっと彼と昇の“はっつぁん、くまさん”ぶりを聞きたいと思っている。


取材協力:篠田いづみ


P.S  2008年10月26日本庄克彦永眠す。残念無念。合掌。

2010年06月14日

take33二度目の対峙

カメラマン篠田昇の下で撮影助手をほぼ10年弱務めてきた福本淳を、篠田は本気で怒ったことが二度ほどあった。
一度目は「夏の庭」の時(take22参照)。
そして、二度目は「MISTY」(1997年・監督三枝健起)の作品完成後のことであった。
「ぼく(福本淳)らの世界って、師匠が黒いものを白っていったら、それは白でなくてはならない。それに我慢できなくなって抵抗したということです」
すなわち、それは福本の溜まりに溜まった鬱憤が爆発した瞬間でもあった。

「スワロウテイル」(1996年・監督岩井俊二)の撮影は、大変だったにも関わらず、撮影助手は3人で行なわれた(詳細は後日)。
チーフ福本の下には、伊東伸久がセカンドとして付いた。
撮影は、16ミリと35ミリを混ぜて使うため、しかもこのシーンは16ミリ、このシーンは35ミリということを決めてやっていたのではないため、現場には常にカメラ2台を用意しなければならなかった。
さらに、セカンド伊東の役割に、篠田からのクレームが入った。
「伊東はちょっとピントが下手で、しょっちゅう篠田さんからピントが合っていない、これは責任問題になるから、伊東にピントの練習をさせろって、ぼく(福本)は言われていました、毎度のように。
ぼくはこの大変な状況の中で、カメラ担いで伊東にピントを合わせる練習を相当やったんですが、結局これにぼくは懲りてしまった。
次の撮影で、ぼくは伊東とやりたくないという話を篠田さんにしたら、だったらお前、だれか連れてこい、と」

1996年(平成8年)、「スワロウテイル」の撮影が終了した後、「MISTY」の撮影に入る。
撮影はシネスコで行なわれた。
篠田は、「映画撮影とは何か~キャメラマン40人の証言」(山口猛編・監修佐々木原保志、平凡社)の中で、(リメイク元である)「羅生門」(監督黒澤明)での撮影(宮沢一夫)はモノクロ・スタンダードであったこと、そして屋久島の自然の森の奥行きやスケール感を出すために、カラーのシネスコを使用したとしている。
この「MISTY」の撮影に、福本は新たに藤井昌之を連れてきて、セカンドに置いた。

しかし、ここでも問題が起こった。
「ぼく(福本)とか伊東とかはイエスマンなんですよ。
篠田さんが現場であれやりたい、これやりたいと言ったら、ハイハイってやろうとする。
ウマが合うとでもいうんですかね。
ところが藤井はもう少し頭を利かせて、現場を先に進めようと思うがあまりに、あることをやり始めたら終わらない。だから、(篠田の指示を)できないというタイプなんですね。
篠田さんはぼくや伊東がやっていた時に、できませんという言葉を言われたことがないもんで、相当フラストレーションが溜まったと思うんです。

ぼくはぼくで、「夏の庭」の時にやっていた工房の作業はセカンドの役割なので、チーフであるぼくが関わる必要がなかったんですけれど、藤井にしてみれば、ぼくが作ったものがほとんど現場にあるわけじゃないですか。それでいいじゃないかと。
だから、篠田さんのさらなる要求に応えるために、ぼくもまだ(工房の作業を)続けていたんです。
篠田さんにフラストレーションを溜まらせないようにと、ぼくなりにケアしてやっていたんです」
福本にしてみれば、伊東、藤井と篠田を納得させる人物を添えられない責任というか、全うできないあせりのようなものを、この時感じていたのかもしれない。

「ある時、試写を見たあと、篠田さんが、「やっぱり藤井はどうなっているんだ」みたいなことをいきなり言い出した。
試写室にはまだ何人か残っていたと思うんですけれど・・・、切れちゃいました。
ぼくなりにフォローしているし、一生懸命やってるんだから、そんな言い方はないんじゃないですか、と。
篠田さんは、ぼくの接した態度を含めて、相当怒っていました」


伊東伸久は、「東方見聞録」(1992年・監督井筒和幸)で篠田昇のサードに付いてから、「BeRLiN」(1995年・監督利重剛)でセカンド、「死国」(1999年・監督長崎俊一)でチーフという経緯を踏むが、結局、「MISTY」の直後に撮る「HAPPY PEOPLE」(1997年・監督鈴木浩介)では、再び篠田に呼び戻されている。

こうして、福本淳が篠田の元を去る「OPEN HOUSE」(1998年・監督行定勲)以後、伊東伸久と藤井昌之、このふたりが篠田昇のチーフを交代で務める時期がしばらく続くことになる。

取材協力:篠田いづみ

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