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篠田昇と映画 アーカイブ

2006年09月19日

はじまり

映画「花とアリス」(岩井俊二監督)や「世界の中心で、愛をさけぶ」(行定勲監督)を撮り終えて、平成16年6月、カメラマン篠田昇は他界した。撮り終えて、という言葉はむなしさを感じるとともに、彼を表現する言葉としては正しくないような気がする。それは、ひとつの映画の始まりと終わりが一体どこにあるのか、多分そんなものありゃしない、ということを私が知っているからかもしれない。だからまだまだ撮り終えてなんかいないぜ、という彼の思惑が聞こえてくるような気がする。



たまに会っていた新宿の飲み屋で彼はよく撮り終えた映画、これから撮る映画の自慢話をした。自慢というと語弊があるかもしれないが、彼を知る人にとっては理解できるニュアンスだと思う。要するに、新しい撮影のアイディアを得々として語るのだ。それは今は一線を離れてしまったが彼と一緒に映画を作っていた私にとっては新鮮で興味深いものであり、楽しいひと時でもあった。


初めてメインカメラを回したエピソード。特別なクレーンを作ったCM撮影。デイライト・フィルム増感のおもしろさ。シネスコのカメラやレンズをアメリカのレンタル会社に借りにいったこと。この時、まだ日本の映画で使われたことのない事実に出くわした彼の喜び。そして、それからしばらくぶりに会った時「これからの映画はデジタルだぜ」と昇らしくない言葉を耳にした私の驚き。
なにぶん酒の席だったので、会話は次から次に別の話題に花を咲かせていった。

また出版編集という仕事柄、彼の噂を耳にする機会もそれなりにあった。現像所泣かせの篠田、機材屋泣かせの篠田、映画番長と呼ばれていた篠田、いつしか「光のマエストロ」とも称されていた等々。

これらの噂の輪郭が、突然の葬式の日の彼を慕う心優しき人々の話ではっきりとした。本当だったんだ。



昇は私の知らないところでたくさんのこと、いろいろなことに挑戦し、自身を高め、映画界に貢献していた。
だが、彼のこれからの活躍は残念ながらもうない。

昇、君は一体どんな素晴らしいことをやってきたんだ。また、やろうとしていたんだ。



私は、もっと篠田昇のことを知りたくなった。

2008年04月10日

take12撮影技法、ひとつの始まり

1985年(昭和60年)、国内では今ひとつ盛り上がりに欠けた“つくば万博”が開催されたこの年の8月、篠田昇は相米慎二監督作品「ラブホテル」で、劇場用映画のカメラマン・デビューを飾る。この作品で新興のヨコハマ映画祭で撮影賞を獲得(ちなみに我が草野球チームのチア・リーダーが審査員のひとりになっていた)。
この時、昇は「ははぁー、もらっちゃったよ。スピーチ、考えなきゃな」と大層に喜んでいた。

「ラブホテル」ではASA500という高感度フィルムを全編に使用するなど、ここからカメラマン篠田昇独自の撮影法が生まれていく。彼と共に仕事をした人々の話を聞いていくと、フィルム選択のみならず、現像、レンズや特機等に至るまで多岐に渡って展開していく様は、まるで秘密武器を編み出しては戦いに挑む軍師、策士のようであった。

一番弟子を自称する根岸憲一は、この「ラブホテル」の撮影には健康上の理由で参加していない。
昇の弟子の多さは有名なようだが、親分肌と慕われた人格とともに、それはいい意味でも悪い意味でも出入りの多さを物語っていると思う。
根岸を筆頭に骨格となった歴代の撮影助手たちには、(取材中現在において)奈良一彦、石井浩一(主に川上皓市に付いていた)、田沢美夫などがいたが、「宇宙の法則」(1990年・監督井筒和幸)から篠田昇のサードに付くことになった福本淳は、その後約10年撮影助手として、右腕としてカメラマン篠田昇を支えていく。今回取材させていただいただれしもが篠田の一番弟子は福本と口を揃えるほど、その師弟関係は密であったようだ。



・助手たちのその後の主な作品
根岸憲一「地獄の警備員」(1992年・監督黒沢清)
奈良一彦「孔雀王」(1988年・監督ラン・ナイチョイ)、「秋桜(コスモス)」(1997年・
監督すずきじゅんいち)他

石井浩一「クレープ」(1993年・監督市川準)、「皆月」(1999年・監督望月六郎)、
「an adolescent 少女」(2001年・監督奥田瑛二)他

田沢美夫「ラバーズ・ラヴァー」(1996年・監督福居ショウジン)他


1988年「宇宙の法則」の撮影から篠田昇の助手に付いた福本淳は、1997年の夏から秋にかけて撮影された「OPEN HOUSE」(1998年・監督行定勲)を最後に、篠田の元を離れ、自立への道を歩む。
詳細は後述することになるが・・・、
時を経て「世界の中心で、愛をさけぶ」(2004年・監督行定勲)のロケ中に、福本は行定監督やスタッフから電話で急な相談を受ける。
「篠田さんの体力が心配だ」「篠田さんが辛そうだ。かなり疲れているみたいだ」
カメラマン篠田昇のバックアップ要請だった。
その撮影前、篠田昇は2002年に見つかった膵臓悪性腫瘍の摘出手術を終え、そのリハビリ期間中も親しい人たちに「ほれ、ベンツ・マーク」と言って、お腹の傷を見せびらかしていたほど回復していた。
しかし、その後肝臓に転移したことが発覚。これについて昇は「みんなには黙っておけ」と妻いづみに固く口止めしていた。
そして「世界の中心で、愛をさけぶ」の撮影に突入する。
福本淳はその要請に、進行中であった自身の仕事と併行にならばという条件で引き受ける。
こうして全編ではないにしろ昔の師弟関係が復活した。
そして、この映画が篠田昇の遺作となった。
何の因縁か、嫌な表現ではあるが、一番弟子は師匠の最後の作品を見取ったのである。



早稲田大学のシネマ研究会で8ミリ(フィルム)を撮っていた福本淳は、在学中に目指していたプロの世界に触れる。
「浜田毅さんというカメラマンの助手になりたくて、この業界に入りました。「生きているうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」(1985年)「黒いドレスの女」(1987年)とか、崔洋一監督の一連の作品の撮影をやられていて、ぼくはその映像をずっと映画館で見ていて、ものすごく好きだったんです。
で、最初、榎戸(耕史)さんの「ふたりぼっち」(1988年)で、浜田さんの見習いをやったのですが、次の仕事(浜田の)がなかなか決まらなかった。そこで「ふたりぼっち」でセカンドをやられていた柴主(高秀)さんが「宇宙の法則」のセカンドになって、ぼくをサードにと呼んでくれたのです」
カメラマン篠田昇、「ラブホテル」でサードだった田沢美夫が初のチーフ、セカンド柴主高秀、サード福本淳からなる映画「宇宙の法則」撮影部の構成に、新人福本は首を捻る。
「この頃、浜田さんは26年生まれ、篠田さんは27年、昭和24年頃から20年代後半生ま
れの方がキャメラマンになって活躍し始めている時代なんですね。これはぼくなりの印象
で一概に決め付けられるものではないのですが、当時、キャメラマンは角川映画を始め日
本映画の多くを撮られていた三船プロのグループとATG・幻燈社の流れを汲むグループと
があり、この2つのグループは相交わらない関係だったんです。
対立しているとかではなく、もちろん個人的な交流も合ったのだと思いますけど、お互いの助手のやりくりみたいのがなかったんです。
かたや潤沢とまでとはいわないがそれなりの予算で撮っていた三船プロのグループに比べ、田村(正毅)さんや川上(皓市)さんらのグループは、フィルムの端尺に至るまでキャメラマンが管理をするに近い、かなり厳しい状況の中で映画を作ってきた。本当に細かいところまで倹約する映画の作り方をしてきた。
ぼくは三船プロ・グループの浜田さん門下の柴主さんに連れられて、「宇宙の法則」に参加したわけです。
ところが、柴主さんよりもキャリアの少ない、年も大分下の田沢さんがチーフに付いた。
これはもう三船プロ・グループにしてみれば信じられない出来事で、大抜擢なわけなんで
す。そんな状況を作ってしまう篠田さんとの付き合いがこうして始まっていくわけです」
その後、田沢美夫は長いこと篠田のチーフを務め、福本もその下で続けることになっていく。
余談ではあるが、私は昇のデビュー「竜馬暗殺」よりも早くプロの世界を経験した。take1でも書いたが、1971年独立プロ系作品「空、見たか?」(監督田辺泰志)で撮影助手(フォース)に付いたのだが、この時のカメラマンが仙元誠三であった。そして、この後仙元は角川映画で大ブレイクしていく。
2001年9月21日、強制送還された足立正生の帰国を祝うパーティの席上で、久しぶりに仙元(さん)と会い、挨拶をした。この時、福本の言い方を借りれば三船プロ・グループにとって代表的な存在であった仙元(さん)は、こう言っていた。
「これからは、篠(田昇)ちゃんの時代だよ」と。

福本は篠田から、篠田が助手を務めたカメラマン川上皓市、住田望、大津幸四郎、高田昭(「純」監督横山博人)の話をよく聞かされるが、中でも業界の認識や篠田本人の言葉からも、師匠は川上皓市が定説になっている。
しかし、福本に対しては「篠田さんの師匠筋って、どなたなんですかね」なんて話をして
も「俺には師匠はいないよ」みたいな素振りをしていたという。
それは福本の話を聞いていくうちに、次第に理解できるようになる。取材した関係者がよ
く口にする“篠田節”“篠田イズム”というものが、ひとつの体系(形)を現す言葉ではなく、
これまでとは違う新しいことにトライする独自の行動を表現する言葉だとわかってくる。
つまり、篠田昇は前例にとらわれず、常に試行錯誤しつつも変貌を意識して撮っていたカ
メラマンだということだ。

「ほぼ三脚を使わないカメラマンでした」
と語るのは、長澤雅彦。
「でも、手持ちでもありません」
私はその昔、といってもいつを指すのか定かではないのだが、メイン・カメラマンを始め
てからもずっと昇の真骨頂は手持ちによる撮影だと思っていた。CMでクレーンを使い出し
たと聞いた時も手持ちの延長上くらいにしか思っていなかった。私にとって、昇の撮影法
を確認する唯一の手段は、彼の撮影した作品を見るしかなかった。
ある休日、自宅で「リリイ・シュシュのすべて」(DVD)の現場の裏側を収録したメイキングを見た時、異様な驚きを覚えた。
昇が撮影している機械は何なんだ。
そう、それはカメラというより機械のようであった。
鉄骨のようなアームにぶら下がっている箱のようなカメラらしきもの。
撮影者篠田昇の横に置かれていたのはファインダーではなく大きな平板モニター、それを眺めながらその大きな物体を操作していた。

長澤は続ける。
いい姿勢で自分が好きなように動き回れるシステムを常に開発していくことが篠田さんの撮影の方法論でした。それと必要なものは自分で作る。機材屋さんに置いてあるものでも、そんなもん借りたら金がかかるじゃないか、と言って自分で作っていました。
とにかく知能指数が高い人なんでアイデアがすごい。機材そのものに対する考え方ではなく、監督の要求にどう答えるかのやり方が非常に独特でして、えっそんなやり方するのっていう思いもつかないことを随所に見せてました。でも、その分失敗も多かったですけど」
それを目の当たりに見てきたのが福本淳だ。
「篠田さんはデビューした時から、いろいろ新しいことを思い付かれて、ラボ(現像所)や特機のこともありますけど、どんどんと変わっていくカメラマンでした。けれども、劇的に変わっていく時期というのが「ワールドアパートメント・ホラー」(1991年・監督大友克洋)を機に始まったんです」
普通、ムービー・カメラの場合、ハイハットとかカニ足と呼ばれるロー・アングル用の三脚を使っても、構造上カメラは腰くらいの高さになってしまう。
昇は「ワールドアパートメント・ホラー」で地べたを這うくらいのロー・アングルを目論んでいた。
以前から昇は既成のミニジブなる特機を使用していた。人の乗れないクレーンで、「ワールドアパートメント・ホラー」の撮影でも、ほぼ9割をこれで撮っている。
ミニジブは台の上に支柱があり、その上にカメラを取り付けるお釜とバランスをとる重りとが天秤のように棒でつながっているものだ。
これを使った通常のロー・アングル撮影は、
「地べたまで行くとかなり特殊なカメラのセッティングになるんですね。ロー・アングル専用のヘッド(*)というものがあって、板を使ってカメラの下にヘッドがこないようにセッティングできる。そうするとヘッドの分だけ低くすることができる。
ムービー・カメラの場合、重量があるため水平バランスを保つことやスムーズに操作できるよう、三脚側に通称“お釜”と呼ばれる受け皿があり、その上にヘッドと呼ばれる半球上の台を合わせる(いくつか用途に応じた種類がある)。その上にカメラを乗せ、パン棒やクランク・ハンドルにより左右撮影(パン)や上下撮影(ティルト)が可能になる。

でも、これだと高い(レンタル料)し、面倒くさいというので、クランク・インの5日前に、篠田さんは撮影現場に近い日活NK特機さんと親しかったので、そこに頼んで、アルミ製のコの字型の板を作ってきたんです。
普通、(ミニジブの)お釜は上からしか入らないようになっているんですけど、本体と三角形でネジ止めされているだけなんです。このネジをひっくり返してお釜とヘッドを逆さまに付けて、それにコの字板を取り付け、下側の板にカメラを乗せるようにした。これで地べたからのロー・アングルが撮影可能になりました」
こうして、超ロー・アングル撮影は以上のやり方で、その必要がない場合は通常通りの方法で撮影していた。つまり、アングルにより、その都度お釜等カメラ周りの付け替えをしていた。
移動撮影する場合は、このミニジブを車の付いた移動車に乗せて撮影した。
「普通ファインダーはカメラ本体の左側にあります。ということはカメラマンである篠田さんはミニジブのアームの左側に立つわけですよ。
例えば、被写体を追って、アームが右に振れていくとする。被写体よりもアームの動きが先行すると、アームに対して、カメラの位置が左向きに直角近くなる。この時、篠田さんがファインダーを覗くためにはアームの右側にいなければならない。
それができないことを知っていて、ぼくらは撮影を続けていました。
ある時、カメラがかなり高い位置での撮影で、そうしなければいけない状況が起こったんです。この時は、普通の撮影だったので、カメラはヘッドの上に付ける通常の状態だったんです。
篠田さんは「お前、どうすんだよ」って言うわけです。
ぼくはそれまで撮影を続けていて、ふとカメラがぶら下がっている(ロー・アングル撮影時の状態)と(アームの下を)くぐれるのを見ていたから、「篠田さん、カメラぶら下げるとアームが邪魔になってませんよ」という話をしたんです。
そしたら、「えっ?」っていう疑いの眼差しで見られて、「じゃあ、やってみろよ」ということになった。その時はレールを敷いてミニジブ乗せて、カメラぶら下げて、やったんです。そしたら、篠田さん「おお、できたよ」って。
篠田さんって、自分がカメラをオペレートする時の制約が大嫌いな方でしたから、これで制約がひとつなくなったわけです。
これが、篠田さん独特の撮影技法の何かの始まりなんですよ」
まさに長澤の言う「いい姿勢で自分が好きなように動き回れるシステム」であり、制約を取り払うことが篠田撮影技法の極意となる、その大きなきっかけであった。

さらに、福本は篠田の助手に付いてから四本目にあたる、この「ワールドアパートメント・ホラー」の撮影中、篠田がぼそっとつぶやいた一言から、彼の根底に流れる撮影理念を知ることになる。


取材協力:篠田いづみ

2008年05月07日

take13 終わりなき進化

篠田昇は季刊誌「映画撮影」(日本映画撮影監督協会発行)の中で、何回か自ら手掛けた作品についての撮影技術論や撮影報告を載せているが、「NO.100」(1988年)で「パイレーツによろしく」(1988年・監督後藤幸一)を取り上げている。この作品は昇にとって「ラブホテル」(1985年・監督相米慎二)、「やるときゃやるぜ!」(1987年・監督山名兌二)に続く劇場公開映画3作目にあたり、14年前の「竜馬暗殺」で当時チーフ助監督だった後藤幸一との再会の作でもあり、かなり感慨深いものがあったようだ。
この中で昇は日本映画で初めて使用したというパンサードリーについて記述している。
「撮影の90%がキャメラをパンサードリーに載せて行われた。これは従来のエレマックドリーと同様に、床が平面であれば縦横方向はもちろん、直角・円形移動とをレール無しでやって退け、更にリモートコントロールを駆使して、指先1本でキャメラと私とフォーカスマンを搭載したまま、スムーズな上下運動とスピードコントロールができるという画期的なパワーを持っている。
(中略)この作品のように20畳、30畳のワンフロアーの中を立ったり座ったりする動きを、また現代の生活空間そのものを自然に違和感なく表現するには、パンサードリーの導入が不可欠であった。
もはや、クレーン、ドリー、etc.を“特機”と呼ぶ時代は終わりつつあるのだ。私はこの「パイレーツによろしく」を撮り終えた瞬間、この機材を誰でもがあたり前に駆使することを確信した。」(原文まま)
つまり、この時点から昇の考えの中に、自らの撮影法として(従来でいう)“特機”の必要性が芽生えていたのだといえる。と同時に、最後の言葉は昇のカメラマンとしての進むべき道を示唆している。
つまり、従来クレーンやドリーなどの特機と呼ばれたものの扱いは特機専門のオペレーターに任せていたシステムから、“誰でも”とは自分もしくは全てのカメラマンという意味であり、その誰でもが操る時代になるのだと自信を持って語っている。
全部自分でやらないと気がすまない性格にも一因するだろうが、確かに昇はこの後、言葉通り特機を撮影機材の一部として試行錯誤を繰り返しながらも自分流に改造を重ね、撮影に取り込んでいく。
*ドリー(Dolly)=カメラとオペレーターを乗せる移動撮影用の台車のことで、据付ヘッドが油圧、空気圧、電動等で上下できるようになっており、移動方法はタイヤ式、レール式などがある。ドイツのパンサー社のパンサードリー、アメリカ・チャップマン社のフィッシャードリー、その軽用版のピィウイドリーなどがあり、日本ではパンサーとピィウイが主に映画で使われている。
*パンサードリー=台車が正方形で、その真ん中に三段式の支柱があり電動で伸び縮みできるような仕組みになっている。折り畳みの四本足を伸ばし、着脱式の鉄板をその上に乗せてカメラマンやフォーカスマンのスペースを確保する。パンサーの特長はカメラマン自身で上下させられること、そして曲線(円)移動ができること。

蛇足ではあるが、実はこの季刊誌「映画撮影」に書いた撮影報告は直接篠田昇本人が書いたものではない。文章を書くことを苦手としていた昇は口述筆記とまとめを前妻のMさんに頼んでいた。彼女と別れた後は、昇に相談され、私が若いフリーランス・ライターを紹介していた。



「ワールドアパートメント・ホラー」(1991年監督大友克洋)は35ミリ(フィルム)で製作された作品だが、もともとは16ミリで撮るほどの低予算だった。
しかし、監督の大友も撮影の篠田もこの作品は是が非でも35ミリで行きたいと考えた。二人は35ミリで撮るための障害を取り除くためにはどうするかを話し合っていたと福本淳は振り返る。
「篠田さんは、カメラをタダで借りてくると言ってました。それは三和映材というレンタルの会社がありまして、そこでもはや現役ではないすごく古いカメラを、使われていないのだからタダで貸してよと。レンズも使っていない玉(レンズのこと)でいいよと。
で、本当にだれも使わないBLのⅠ型(アリフレックス社)という小さなカメラとレンズを借りてきました。すごく小さなレンズで、レンズに小さな金具が付いていて、その金具でピントを送るクック(Cooke)というメーカーのものでした。
世界でもシュナイダーとかツァイスとかいろいろなメーカーがそのようなレンズを作っているのですが、日本で一番在庫があるし、篠田さんもこのクック玉を欲しがっていました。
14.5ミリから100ミリまで12本くらい、ズームもありましたが、結局はみんな単焦点(のレンズ)で撮りました。
なおかつ同録(同時録音)の撮影なので、古いカメラで同録する場合、レンズの回りに防音ブリンプというものを付けるんです。
これって、多分篠田さんが十数年前の「サード」(1978年)で使っていたのと同じ機材なんですよ」
季刊誌「映画撮影」NO.112(1991年)での篠田昇の「ワールドアパートメント・ホラー」撮影記によると、
「デイ・シーンは廊下にある台所の窓(2階)と1階に通じる階段からだけの光りで薄暗く、ナイターは廊下の天井の蛍光灯と階段に吊るされた裸電球をキーライトとして、全体にローキーな画調にしたかった」
「自然光(蛍光灯、電球も含めて)に近い光で撮影したかった」
そのためにデイライト・タイプの高感度フィルム、イーストマン5297を選択したとある。
このフィルムは「パイレーツによろしく」「SO WHAT」(1988年・監督山川直人)、「噛む女」(1988年・監督神代辰巳)で使用し、「宇宙の法則」(1990年・監督井筒和幸)に至っては全編に使用したという使い慣れたフィルムだった。
「16ミリではいかにフィルムの性能が飛躍的に進歩した現在でも、高感度フィルムの粒状性は決して良くなく、今回のようにローキーなトーンでは特に暗部のディテール、黒のしまり具合いなどに問題が生じる」
「ASA250の5297を全編2倍増感してASA500で撮影したい。(中略)増感することによる若干の粒子の荒れは、この作品のイメージを表現するのにふさわしい」
という撮影設計が、35ミリへの選択を余儀なくさせ、福本淳の話でのカメラとレンズの選択に繋がっていったものと思われる。
作品にもよるのだろうが、当時の昇の「ライト(灯)を見た目に近く、自然に再現する」イーストマン5297の例のように、カメラマンには気に入ったフィルム、使い慣れたフィルムがあり、まずそれをどう使い分けていくかを考えるという。
それはメーカーの違いもあるだろうし、タイプ、色味、コントラスト、発色等理由は好みを含め様々であるが、ある意味カメラマンの特徴を推し量るベーシックな要素だといえる。
だが、これから数年後、カメラマン篠田昇はフィルム選択をしない百八十度違った映像へのアプローチを試みていくことになる。
彼にとっては未知の領域、デジタルの世界が待ち受けていた。
そしてそれは運命的邂逅ともいうべき岩井俊二との出会いでもあった。

話は「ワールドアパートメント・ホラー」に戻す。この撮影の9割にミニジブというミニクレーンが使われていたことは既に伝えた。「パイレーツによろしく」の時のパンサー同様、撮影の状況にもよるのだろうが、その使用頻度の高さは、昇にとって(当時)扱いやすい、お気に入りの道具であったことを物語る。
そして福本は、篠田昇は「ワールドアパートメント・ホラー」の撮影を機に、このミニジブを中心にオリジナリティ溢れる使用法を展開していくのだと続ける。
「このミニジブが移動車に乗っかるのは、「ワールドアパートメント・ホラー」から始まっているんです。
この時の移動車はものすごく安価なフォーカスドリーという折りたたみ式の軽量のもので、レールがプラスチックなんです。タイヤもプラスチックみたいなものの上に枕木も布製で、16ミリやビデオの軽いカメラでの撮影に使われるものなんです。だから、その上に(35ミリの)カメラとミニジブが乗るとかなりな重量なんですよ。
普通、篠田さんはカメラを持ったまま自分で歩くんですけれど、その台の上に板を出してあげて、篠田さんがその上に乗ってカメラのオペレートをする場合もあるんです。こうなるとものすごい重量になっちゃって、移動車のタイヤが壊れたことがこの撮影で二回くらいありました」
「映画撮影」No.112では、本来はピィウイドリー(詳細は後述)を使いたかったのだが、予算が許さなかったので、その代用としてフォーカスドリーとミニジブの組み合わせを考えたのだと昇は語っている。

「ワールドアパートメント・ホラー」の撮影は、基本的にセットで行われた。主人公の二階の部屋と廊下である。
オープンの屋外撮影は最初と最後のシーンのみ、アパートの一階と、二階に続く階段部分がロケ・セットだった。
この一階と階段のロケ・セットで撮影中、昇はずっとクレーンを使っていたが、階段を上がっていくシーンで、人物を追うためにミニジブを組もうと言い出した。
「(ミニジブを)組むことは組めるけれど、動けないんですよ。後ろに壁とかがあって。
そん時、ぼそって篠田さんが言うわけですよ、「お前、動けねぇじゃねぇかよ」って。
ぼくとしてもその通りなんで、「はい」としか言いようがない。
そしたら、「そこまでカメラの視点がなくなるような撮り方を今までやってきたのに、何でここでカメラを動かさないで撮らなきゃいけないんだ」みたいなことを言われたんです。
カメラって、ひとつの視点じゃないですか。それはカメラマンにとっても観客にとってもひとつの視点になっている。そのひとつの視点が動かないで横にだけパンをする、それって客観的だという気持ちが篠田さんの中にあると思うんです。
そういう客観的な映像じゃないのをずっと撮りたいんだ、と。
だから、(カメラを)ミニジブに付けるのはいいが、パンしなきゃいけないことが嫌だったんですね。視点が被写体と一緒になのか、もう少し被写体に対して“気持ち”が入っていく方向のことをやろうとしているんです。その言葉がものすごく印象に残っています」
カメラの視点がなくなるように撮る、とはどういうことなのか。
視点のあるなしなのか強弱なのか、観客にカメラの存在を意識させないという意味なのか。
客観的でない映像を撮るとはどういうことなのか。どちらにせよ、かなり重要なキーワードである。

同じく、被写体に対して“気持ち”が入るとはどういうことなのだろうか。
ある日、多摩美術大学の講師(詳細は後述の予定)をしていた昇に呼ばれた根岸憲一は、
「来いと言われたから行ったんで、何で呼ばれたのかはわかりませんでした。学校のスタジオにはレールが敷かれてあり、移動車とビデオカメラがありました。
篠田さんは自分で作った簡易クレーンをもってきて、生徒たちにこんな簡単な移動車とクレーンでもすごい画が撮れるんだよと説明して、実際にやって見せるんです。
そしたら、モニターを見ていた生徒たちから「オワーッ、すごい!」っていう歓声が上がるんですよ。こんな簡単な仕掛けでこんなすごい画が撮れちゃうんだ、みたいな。
ぼくはいつも見慣れているんだけれど、みんながこんなに大騒ぎするほどすごいもんなんだ、篠田さんの技術ってすごいって、驚いたことがありました。
篠田さんの画って見てもらえればわかりますが、ブレるんです、揺れるんです。手持ち(撮影)でブレたり揺れたり(被写体から)はずれたり、そうなりながらも一生懸命に気持ちをぐぐぐって集約していく、それがピタッと決まって感動に繋がるんだと思います」
長澤雅彦も篠田の気持ちのあり方について、スチル撮影(take9)ではあるが、
「まるで呼吸するようにカメラが動いて、フィルムに写し撮られる寸前まで、最高のアングル、最高の瞬間を探しながら見ている。~常に動いていることで、瞬間瞬間を切り取っていった」
と評している。
カメラの視点がなくなるように撮る。
客観的でない映像を撮る。
被写体に対して“気持ち”が入る。
これらはどこかでシンクロするのであろうか。今は答えらしきものはない。
疑問を残したまま、なおかつその疑問を解くために、先を進める。

福本は「ワールドアパートメント・ホラー」の撮影に於いて、これまでに経験のない異様な撮影光景を目にした。
「ほとんどの場合、カメラが被写体のこの辺(30~40センチくらいの近距離)にあるんですよ。そんなに寄るのって普通ないと思うんですが、それはそれは徹底していました。
クック玉という古いレンズを使っていたので、ピント自体は1・何フィートくらいはくるんですけれど。
「宇宙の法則」では長回しが多かったので、ぼくの中にはそういう印象はなかったですし、「ラブホテル」あたりの作品を見ても、そういう画ってあまりないんです」
篠田昇が劇的に変化していく撮影法のひとつ、作品の半ばから後半の多くに、執拗に見られる“寄り”のショットの始まりである。


取材協力:篠田いづみ

2008年07月04日

take16風景への嗅覚、そして光

この6月、ささやかに開かれた“篠田昇+ポラロイド展”には映画関係者のみならず、多くのファンが訪れたと聞いた。俳優や監督ならいざ知らず、一ムービー・カメラマンが死してなお、このように一般の人々に愛され続けているという話は、これまであまり聞いたことがない。
未だ数多くの人々の心の中に生き続けている篠田昇、というカメラマン。
残された人それぞれに、彼の残した映像の断片が刻み込まれているのだろうか。
私のそれはいつも何かしら動いている。
具体的に挙げると「リリイ・シュシュのすべて」の田園風景のようなものか。
大きくもなく狭くもない空に流れている薄ねずみ色の雲はたおやかな時を刻んでいるし、畑一面に広がる緑の草草は時折吹く強い風にそれぞれが身を任せている。
私はそれに時間の流れを感じるし、時を感じるということは生きていることであり、風の向きを肌に感じるということも然り、だ。
そして、篠田昇の愛した風景もこんなようなものではなかったのか、という思いと重なり合う。それはかつて一緒に撮影した風景の一部のような気もするし、或いは一緒に探し回ったロケハンの記憶なのかもしれない。

「世界の中心で、愛をさけぶ」のロケ地香川県庵治町。このロケ場所をロケハンぎりぎりの状況で探し出したのは篠田昇カメラマンであると、DVD「世界の中心で、愛をさけぶ」の特典スペシャル・メイキングの中で語られている。
これを拝見した時、私は伊豆の多々戸というところを思い出した。
それは30数年前、「ハードボイルド・ハネムーン」のロケハンをしていた6月終わりの時のことだった。
伊豆熱川の別荘地でのロケ場所を決めた後、私たちは車で海岸沿いの国道135号線を南下し、下田市街を過ぎたあたりから道路の左側は人間の高い背丈くらいの木や草が自然の垣根を作っていて、海の全く見えない状態がずっと続いていた。
その途中で突然、昇がちょっと車を止めようと言い出した。
このまま先に進むと国道136号線を左に折れて弓ヶ浜に行く地点だった。車の数は少なかったものの、片側一車線の道は狭く駐車する場所などはどこにもなかった。それでも無理をして車を止め、垣根伝いに歩いていった。
数百メートルほど下田寄りに戻ったところに、人間ひとりくらいが通れるスペースが見つかり、そこを木や草をかき分け入って、しばらく進むと一気に風景が開けた。
そこには美しい砂浜が広がっていた。まだこんなところがあったのか、私たちはお互いに顔を見合わせた。左には大きな崖が海に突き出すようにそびえ立っていた。
人の姿は全くなかった。
海辺に近づいていくと右手方向の少し高台に大きな平屋が見えてきた。が、何か普通ではない異様な雰囲気を漂わせていた。それは、まだ廃屋になって間もない感じだった上、やたら大きくだたっ広い建物の外観が、日本家屋の様相ではないような、どちらかというと西洋風の洒落た造りだったことと、何でこんなものがここにあるのかという場違いな戸惑いのためだった。
しばらくして、今度はだれかが海が変だと言いはじめた。海に目をやると、波の様子がおかしい。三、四百メートルほど真っ直ぐに続く砂浜の真ん中から左半分は全く波がないのに、右半分は波がとても荒いのだ。その時は自然の力の不思議さに感心するしかなかった。
とにかく、人知れず、とてつもなく美しい海岸を私たちは発見した。
この後、吉佐美入田浜や弓ヶ浜まで足を伸ばしたが、その崖に挟まれた絶好のロケーションの比ではなかった。
その浜辺は、多々戸浜海水浴場と名づけられてはいたが、地図にも載っておらず、やはり入り口は昇が見つけた箇所ひとつだけで、当時は地元の人々もあまり利用していなかった。
なぜなら、あの大きくだたっ広い平屋は、米軍基地の療養所だったところで、あの波もサーフィンをするために沖にテトラポットを埋めて人工的に作ったということだった。まだ戦後の進駐軍危険区域の名残りがあったのだろう。
結局、映画のロケ地としては使わなかったが、以後、昇と私と仲間たちは毎年夏になるとこの多々戸を訪れるようになった。だれも知らない私たちの秘密の海辺だった。
やがて、それぞれの道を歩きはじめ、昇と多々戸に行かなくなってから数年後、私はこの多々戸にできた某出版社の保養所に遊びに行く機会を得た。大勢の海水浴客で賑わっていた海には、もうあの時の面影は残されていなかった。

何気ない出来事なのだけれど、昇にはこうした風景を、自分が撮影したい場所を探し出す不思議な嗅覚が備わっていたのだと思わざるをえない。
想像ではあるが、昇はきっといろいろな作品の中のいろいろな場所で、その探り出す能力を発揮していたに違いない。
そしてそれは庵治町とか多々戸とか、単に全体的な大きな地域や特定の場所だけのことではなく、1シーンの中での絶好のカメラ・ポジションやアングルを探し出す行為にも、相通じるものがある嗅覚なのだといえないだろうか。



篠田昇は名カメラマンと称されている。
名カメラマンとは何をもって指すのだろうか。
印象的な映像を撮ることなのだろうか、躍動感に溢れるカメラ・ワークなのだろうか、独特の色を作り出すことなのだろうか、はたまた監督の要求に答えられる技量の持ち主なのだろうか。
作品の内容によってそれぞれだという見解もある。
こうした前提は数多く思いつくが、そうであるようなないような、一言では括るのは難しい定義だ。

最新作「火垂るの墓」(2008年7月公開・監督日向寺太郎)で、「紙屋悦子の青春」(2006年・監督黒木和雄)以来久々の撮影を担当した川上皓市は、助手時代の昇にカメラマンや映像についての話を数多くした。
「学生時代からそうだったのだけれど、ゴダールやトリュフォーに憧れ、夢中になっていた。「勝手にしやがれ」とか「気狂いピエロ」とか、あの頃の映画が好きなんだという、アメリカの(映画)よりもフランスのほうが好きなんだみたいなことを熱く聞かせたよね。
「アルファビル」なんて特撮なんか一切していないのに、SFものを借りながら、ちゃんとさ、テーマである人間の愛、人間の再生みたいなことをきちっとやっているじゃない。
そういうヌーベル・バーグの話なんかも、いっぱいしましたね」
「ぼくはドキュメンタリーから始めたからノーライトということがあるわけですよ。でもノーライトでもものすごく美しいカットってある。
当時、撮影所で撮られた劇映画でライトいっぱいに使ってやっているのに、ノーライトで撮ったドキュメンタリーの映画よりも負けている、光もそんなに美しくないのがいっぱいあるじゃないか、と。
だから劇映画撮る時も、一回そこからね、否定して、いかにライトを使って表現するのではなく、いかにライトを使わないで表現するかという方向を考えてみようということがあった、「サード」の頃から。
そうすると、例えばネストール・アルメンドロスの映画の光はいいよね、ああいうのを目指そうよ、とかになる。特に影響を受けたヌーベル・バーグのキャメラマンたちの話もしました。
あの頃は、光っていうことについてかなり話しましたね」
「もちろん、劇映画は自然光だけで処理できるものじゃない。ただ当時のぼくたちの状況、ATGとかお金ないからさ、せいぜい使えるライトって5キロくらいしか使えない。いかにライトを当てて表現するなんて考えられない。どうせライトの数がないんだから、いかに少ないライトで、狙いを表現する光を作り出せるか、ということだよね」
「あとフレームでいえば、姫田(真左久)カメラマンのこと。東(陽一)さんなんかは、「赤い殺意」(1964年・監督今村昌平)だったかな、言うわけですよ。姫田さんのフレームはフレームの外に世界が広がって見えると、フレームの中に閉じ込めていないと。そういうフレームを撮れるキャメラマンにならなきゃだめだよ、というようなことを彼から教わるわけですよ。
で、どうしたらいいんだろう、と撮影部で話したり、ね」

そして次第に、カメラマン川上の光に対するアプローチも変化していく。
「自然光を最大限利用して、ノーライトみたいな感じで撮るというのは最初の頃はそうだった、予算がなかったこともあったから。
途中から東(陽一)監督から「ナチュラル・ライティングもいいんだけれど、ナチュラルだけじゃね。当然絞りも開放近くなるよね。そうするとなんとなく、きれいなんだけど、ムードっぽいというか、腰が弱いみたいな、そういう映像になりがちなのよ。だから、ナチュラル・ライティングなんだけれども、もうちょっとクリエイティブな違うライティングにしようよ」という要求が出たりするわけです。
そうするとある程度ライトをきちっと使って、それでもライトを使っているようには見えないんだけれど、ある程度少し絞りを絞って奥行きを作ろう、というふうに、ね」
こういった撮影に対する姿勢ともなる川上の言動を助手である昇は反論することもなく、よく聞いていたし、理解していたという。
そして、昇はデビュー作「ラブホテル」の撮影前、後藤和夫に「アルメンドロスのように撮る」と熱く語った。

だがしかし、カメラマン篠田の話を聞く立場にいたチーフの福本淳は、こう振り返る。
「篠田さんって、映画が好きだったかどうかは、ぼくにはわからないんです。
自分の作品のことはすごくよくしゃべるんですけど、(他の)映画の話をされた記憶はほとんどないんです。
ぼくは自分で映画を撮ったりして、映画がものすごく好きなところから、この世界に入ったので、同じ自主制作から出発している篠田さんがなぜ映画のことを、映像のことを話さないのか、不思議な感じがしてました。
ぼくが覚えているのは、アメリカン・ニューシネマが大好きだったこと、特に「イージー・ライダー」。あとはシネスコという点で「グランブルー」、映像全般については「セブン」ですかね、そのくらいしかありません」
長澤雅彦も、篠田のハイビジョン撮影の現場に陣中見舞いに行った際、延々とハイビジョンの素晴らしさを説く篠田の姿に、こう言い切っている。
要するに、篠田さんって、自分で撮影している喜び以外に、映画に喜びを見出せない人だったんではないでしょうか」
それは、他人が撮った既成の映画にはまるで興味がなかった、ということなのか。はたまた影響なんか受けていないという誇示だったのか。

この映画への興味については思い当たる節がある。
大学に在学中、過去の名作を鑑賞して、その感想文を提出する映画批評の講義があった。当時、通常の小屋(映画館)では見ることのできない作品が見れるこの授業が、私は楽しみであった。
邦画では、坂東妻三郎唯一の現代ホーム・ドラマ「破れ太鼓」、同じく板妻の「王将」、三船敏郎の「無法松の一生」、「羅生門」など。
洋画では、エイゼンシュタインの「アレキサンドル・ネフスキー」、ジャン・コクトーの「美女と野獣」、実験的映像技法を用いたソビエト大作「戦争と平和」、そして「舞踏会の手帳」とか「ラ・ジュテ」などの古典的な名作が毎週楽しめたのである。
この授業は、映画学科全体の生徒が受ける講義で、映画全体の評論はもちろんのこと、監督、撮影録音、映像、演技の各コースの立場からみた批評も受け付けていた。
ところが昇はこの授業をあまり好きではなかった。私はその理由を、文章を書くことの苦手意識からくるものだとずっと思っていた。しかし、今思えば、それほど過去の映画に関心がなかったせいとも思えてくる。
だからといって、映画に無関心であったということではなく、それなりにその時代の好きな作品の話はよくしていた。
昇と映画の話をして記憶に残っているものを上げてみると、
まず思いつくのは、やはりビートルズ関連で、「ア・ハードデイズ・ナイト」、「レット・イット・ビー」。一緒に見ていると、あの女の子はジョージの恋人のパティさんだよ、あいつはロード・マネージャーのだれだれだとか、端役の人物解説をしてくれた。
特に「ヘルプ」と「マジカル・ミステリー・ツアー」は滅茶苦茶好きであった。
ジョージ・ハリソンの「バングラデシュのコンサート」、リンゴ・スターが役者として出演した「キャンディ」、「マジック・クリスチャン」もそのシュールでバカバカしいおかしさがお気に入りの映画だった。
音楽関連でも好きなアーティストだったウッディ&アーロ・ガスリー親子、ドノヴァン、ディラン絡みの「アリスのレストラン」、「ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯」、「北国の帝王」。
ザ・バンドの「ラスト・ワルツ」。
ピンク・フロイド関連で「谷」(劇場未公開。多分アテネ・フランセあたりで見た)。
アメリカン・ニューシネマでは先に上がった「イージー・ライダー」はもちろんだが、「ファイブ・イージー・ピーセス」は特に好きだった。
その他「いちご白書」、「マッシュ」、「ラスト・ショー」、「グライド・イン・ブルー」、「さすらいのカウボーイ」、「少年は虹を渡る」などなどを思い出す。中でも「スケアクロウ」も大好きな映画のひとつだった。
また当時、テレビ朝日系の深夜で繰り返し放映されていた「茂みの中の欲望」もそのサイケな映像が好きで「昨日見た?」「見た見た」なんてやっていた。
結構たくさんの作品が上がったが、これらは影響を受けたというより、趣味嗜好の範疇であると解釈しておいたほうがいいだろう。

撮影助手であった昇は、それだけではないにしろ、川上皓市から光について習得していくが、それがそのまま“光のマエストロ”という称号に結びつくのかというと、それははなはだ疑問である。
私はどのような経緯で彼がこのように称されたのかは知らないが、彼のことを語っていく上で一番わかりやすい表現としてサブタイトルに付けてしまった。今はこの表現は篠田昇の代名詞にはふさわしくないと思うようになっている。
その川上皓市は東陽一監督や黒木和雄監督から多くのことを学んだと言っている。中でも、光とフレームについては最重要のテーマのひとつであることを認識し、それらを篠田(だけでなく助手たちに)に伝えていった。
だが、光とフレームというのは川上や篠田だけの問題ではなく、カメラマンであれば当然持つべき普通の、かつ不可欠な要素だといえよう。もちろん光に関しても、フレームに関しても、様々な表現方法があり、その奥は深いし、一概に語られるべき性質のものでもない。またそれぞれ別々に分けられるものでもない。
この他にもたくさんの撮影技術、知識も重要な要素として伴うであろう。
私たち観客は、スクリーンという枠の中に、それらが一緒くたになったものを見るのである。
ゆえに私たちがカメラマンという仕事の評価を許されるのであれば、それは光でもなく、フレームでもない何かを見つけなければならないのではないだろうか。
さらに篠田昇の場合、映像大変革期とも言うべきデジタルの潮流に乗った、先駆けともいうべきカメラマンであったことを、何よりも重要なターニング・ポイントとして付け加えなければならない。これ抜きで篠田昇は語れないのである。(岩井監督との出会いあたりにて、詳細予定)

しかしながら、その光は、篠田昇の大きな特徴のひとつであったことは紛れもない事実であろう。
福本淳は光に関して、篠田から明確に教えられたことがある。
「いわゆる逆光です。逆光で撮るということが最も画を豊かにさせることだというのは、篠田さんのどの作品にも一貫していることだったし、極力、極端なことをいうとライティングしない、普通の日明かりの中の、自然な光だけで撮れることが一番リアルにドラマを語れるというふうに考えていましたから」
私たちは写真を始める時、順光で撮ることをマニュアルで教えられている。いわゆる撮影者の背に太陽(発光体)を置くことで、被写体に正面から光が当たるようにすればはっきりときれいに撮れる。逆に逆光にすると被写体は黒くわからなくなってしまう、と。
篠田の考えは、撮る映像の狙いやテクニカルな要素が入り込むと思われるが、これとは反対である。
「だから、篠田さんと仕事をしているとハレーションを切るのがものすごく大変でした。常になにかしらのライトがカメラに向かってきている。
さらに篠田さんはフィルターを結構入れる方だったので、すごくフレアを引きやすい、ハレーションを引きやすい。ハレーションを切ること自体でも結構大変なんですが、(カメラが)被写体に近くて動いているのを切るのはものすごく大変なんですよ。そんなことが毎度毎度でした。
撮影をしていて、照明技師はあそこにライトを置きたい、篠田さんもあそこの逆目のライトがいい。で、それはフレーム的に入るの入らないという話になる。
ライトを置いてみてから、篠田さんに確認してもらう。篠田さんはOKと言う。
で、実際撮影が始まるとどう考えてもライトが入るんですね。篠田さん、あそこにライトが、おおわかったわかったって言うんですけど、結果ラッシュ見ても入っている。
これがだめかというと絶対にだめということはないんです。だめな時もあるんですけど、逆にいい場合もある。
これに関して篠田さんは、あんまり不満とか、ぼくらを責めたりということはありませんでした。
篠田さんはどこかで(目論見として)敢えて入れていたんじゃないですかね
ただ中途半端な(ハレーションの)入り方をする時がそれでもあって、これはさすがに嫌がっていました。
フィルターが入ってなければ、本来ハレーションだけなんで、切ることはできます。
フィルターがレンズの前に入ることによって、これが散るんです。
散るのをカメラから少し離れたところで切ろうとするんですが、カメラは被写体に近いので、それをできないことも多々ある。
そんな時にレンズの前に、切るための黒い蓋を付けたりとかいろいろなことをする。するとハレーションは半分は切れているんですが、半分は切れていない状態があって、それがアップを撮っている時に、しかも手持ちなので、これがフワフワ動く。
こういう中途半端は嫌がりました」



1991年、カメラマン篠田昇は新たなる本編「東方見聞録」(1992年未公開・監督井筒和幸)に取り掛かるが、ここでひとりの男と出会う。生涯の知己、長澤雅彦である。


取材協力:篠田いづみ

2008年12月20日

take27異常なるフィルム・テスト

昇が「ルナティックラブ」(1994年フジ系放送)に関わっていた前後の頃だったと思う。テレビCMで非常に気になる映像が流れていた。
それは明石家さんまが出ていた缶コーヒーのCMで、そのダーク・グリーンがかったトーンの、落ち着いた、暗い、湿った感じの映像は、これまで見たことのないビデオ映像であった。不思議な感覚があった。
それを私は昇が撮ったものと勝手に勘違いし、昇と会った時にそのことを話したら彼は何も語ろうとしなかった。
多分、推測ではあるが、篠田自身が岩井と組んで、彼なりに模索していた時期だったのかもしれない。


さて、プロデューサーとして篠田と一緒に仕事を共にした長澤雅彦が、その関わり合いの中で一番頭を痛めたのは、テスト・フィルムの多さだった。
「常軌を逸してましたから、その量たるや。普通だったら現像所に、これはテストなんだからカウント(料金)しないでね、って頼めるんですが・・・。
「ものすごい量のテスト・フィルムがあがってますよ」とイマジカ(現像所)から電話があって行ってみると、本編よりもテストのフィルム代、現像代のほうが高く付くくらい回しているんですよ、篠田さんは。
カメラだって、普通はテストだから三和映材でパナビジョンとか出してくれるんですが、その回数が普通の映画撮影の時の比じゃない、もう勘弁してくれとか言われまして。
で、篠田さんにもう少し抑えてくれみたいなことは言っても、「ここでテストしておかないと現場でいっぱい時間がかかったりしたら、困るのはお前だよ」って返ってくる。
そりゃそうなんですけどね」

福本淳もテストで滅茶苦茶回す人だったと語る。
「ぼくがチーフだった「スワロウテイル」(1996年、監督岩井俊二)の時でした。
篠田さんしか頼まないような細かな機材とか作り物をするための材料を買うために、これだけの予算が必要であるとプロデューサーと交渉するのは、ぼくの役目だったんです。
電池何本必要だから、こんだけのお金をくださいみたいな話をプロデューサーとしていた時、テストの話になって、「まだ撮影が始まっていないのに、おれがイマジカ(現像所)と決めてきたフィルムの許容尺数の三分の二も回っているんだよ、テストだけで。一体どうなってるんだよ」って、言われた時はびっくりしましたね、返す言葉もありませんでした」

篠田昇は、「Director’s MAGAZINE」September2001号(クリーク・アンド・リバー社発行)で、そのテストについて語っている。
「僕はね、とにかくテストがすごく好きで、本格的な撮影に入る前に、まずテストをいっぱいやるんですよ。
フィルムの種類や現像の仕方を変えて、いろんなルックがつくれるじゃないですか。いつも50パターン以上はつくるでしょうか。
もちろんテストといっても、35ミリのフィルムを回すのですから、通常はお金がかかる。だから、僕は、35ミリや16ミリのカメラを自前で調達し、知り合いのコマーシャル会社などであまっていたり、使い切っていないフィルムをもらってきて、できるだけお金のかからないように工夫する。そうすれば誰にも文句を言われずに思い切りテストができますから。
撮影前に、数十種類のルックを監督といっしょに見ながら、今回の作品のメインはこのルックでいこう! とか、あの場面はこのルックで・・・と、話をしているうちに、どの監督とも自然に信頼関係が築けますね」(原文まま)
長澤や福本の話とは、随分と大きなギャップがあるようだ。
想像するに、上記の篠田の話は節約していくことを余儀なくされた初期の頃、長澤、福本と出会う前の頃のことを主に話しているのではないだろうか。
規模が少しずつ大きくなり始めるにつれ、製作コストに関わる問題へと発展していったように思われる。

しかし、なぜテストで、そんなにも大量のフィルムを回すのだろうか。篠田の話だけで合点はいかない。回すだけの何かがあるはずだ。
「もともと篠田さんは「スワロウテイル」は、70ミリで撮りたいと言っていたんです。フィルム的にいうと65ミリになるんですが。
それが予算的に全編は無理ということになった。そしたら、全部使ってやるというアプローチに変わったんです。全部70ミリで撮れないのなら、65ミリでも35ミリでも16ミリでも、全部使って撮ってやると。
岩井監督も映像のトーンとかにはすごく細かい方なんで、いろんなシーンをどういうライティングでとか、どういう世界観を作るのかとか、テストは相当やったんだと思います」
通常でさえ、大変そうな篠田のテスト、さらに3タイプのフィルムでのテストとなると、それは尋常ではないと察することができる。
加えて、監督岩井の映像へのこだわりも加味されるとなると、これはもう想像を絶するテストとしか言いようがない。
しかし、これらのテストの結果が名画面や印象的な映像を作り出し、名作を生む原動力になっていることも、また絶対的な事実なのである。

福本淳には強烈な印象を残したテストがあった。
それは、「undo」「PICNIC」の時のことだった。この2作はパッケージ製作になっていて、共に16ミリで撮影された。
「undo」の撮影スケジュールは4日、約2週間の間があり、「PICNIC」は2週間の撮影予定であったが、予定通りには終わるはずもなかった(詳細後述)。
「共に大きな作品ではないので、16ミリで撮影してブローアップするということが大前提でした。
篠田さんの中には、16ミリは所詮16だもんな、みたいな感覚があって、どうすれば16ミリっぽさを紛らわすことができるか、ということでテストが始まりました。この時、とにかく減感、増感のテストをものすごくやりました。
16ミリなので、感度50のフィルムだと粒状性もいいし、コントラストも出るので、これをブローアップすると割りといい調子に上がる。
で、この感度50のフィルムを減感、増感しようということになって、八分の一減感から八倍増感までテストしました。
感度50の八分の一減感するということは、感度6なんです。感度6というと、ほとんど外でしか使えないんですね。
もうひとつ、篠田さんが使い慣れている感度250というフィルムも同じく、八分の一減感から八倍増感までテストしました。
これらのテストは相当面白いテストで、本当に現像を変えることによって、こんなにも映像のトーンが変わるのかということを目の当たりにしたテストだったんです。
テストの最初の被写体は篠田さんの奥さんのいづみさんで、いづみさんをライティングして撮りました。
ノーマル現像も含めると、それぞれ7タイプ、だから全部で14タイプのテストになるわけです。
感度50の八分の一減感は、35ミリまで上げても、16ミリと絶対わからないというような、ものすごくきれいな画になるんですよ、粒状性がきれいなものを、より粒状性がでない方向に現像でいじくっているわけですから、本当にきれいな上がりになるんです。
それに対して、感度50の四倍増感は、感度が200になるのですが、そうすると普通に使えるタイプのフィルムにようやくなる、感度的には。これくらいだったら、粒状性もそんなに悪くないし、コントラストがかなり強くでるようになるんですが、逆にそのコントラストの出方がかっこいいよね、ということもわかってくる。
どんどんと粒状性とコントラストが変わっていくのが見えてくる。
感度250の八分の一減感のほうも、やはり粒状性がすごくよくなるので、16ミリで撮ったようには見えない、という結論になる。
そういう比較のテストを相当にやって、結果、「undo」は感度50のフィルムで増感を基本に、「PICNIC」は感度250の減感でやろうということになりました」

「映画撮影とは何か~キャメラマン40人の証言」(平凡社刊・山口猛編・監修佐々木原保志)でも、篠田昇はこれについて述べている。
「undo」では、かなり思い切った特殊現像をして、テスト撮影だけでも一週間近くかけました。現像だけでなく、岩井さんは美術にも凝る人ですから、セットの部屋、壁の質感、それとフィルム、フィルター、ライティング、現像、メイクのテストをしました。
特殊現像とは、フィルム感度が50しかない低感度フィルムを200に増感、もちろん200の高感度フィルムはありますが、200のフィルムをそのまま使用するのと、低感度のフィルムを増感するのとでは、ルックが全然違ってくる。
とくに低感度のフィルムは増感すると、増感の効果がよく現われるのです。
フィルムはEK(イーストマン・コダック*著者注)。
フジフィルムは増感現像で粒子を出そうとしても出にくく、変化が見られず、色のバランスも崩れない。
それはフィルムの特性としては本当はいいのかもしれない。たとえば夕方、光が足りなくなって増感したときに、今まで使ったフィルムと同じトーンになり、調子は変わらない。
しかし、僕は増感したら、その変化が出たほうがよいと思うので、あえてEKにする。
テストのときにはFKもフジフィルムも両方やってみて、その結果のラッシュをフジフィルムの人も呼んで、なぜ使わないかも説明する。
ライティングに関しては前半は自分たちだけでライトをいじる。基本的なことは僕らはデータを取り、最終的なテスト段階、具体的なライティングをするに当たって、はじめて入ってもらうようにしています。(原文まま。但し下線部誤字修正)

テストに費やす手間隙に関して、現像所の対応はどのようなものだったのだろうか。
「テスト前に篠田さんがラボの方とどれくらいの話をされていたのかは、ぼくは知りません。
ですが、テストをやった時にはもうその現像をすることはわかっているわけですから、現像所としては技術的にはそういった現像をこれまでやったことがないかというと、ないということはないと思います。
イマジカ(現像所)には、温度管理と時間管理をもっていて、現像タイプを変えることによって、温度と時間のどこまでをどうするか、そういうフォーマットがあるんです。
もしかしたら、この時篠田さんがこういうことをやりたいと話をして、それから現像所がテストした上で、そのフォーマットができたのかもしれません。
篠田さんがきっかけになっていた可能性は充分ありますね。
ただ、現像所自体は具体的にそういった技術は持ち合わせていたということです。

篠田さんは、プレゼンするのが巧みな方でしたし、感度50のフィルムを八分の一減感したいというようなことを、これまでやったことのない未知の世界がどれだけ面白いことか、夢みたいな話を得々と語るので、現像所の人って、技術者だから面白がるんですよ。
実際、テストで上がってきたフィルムを見て、あ、こういう違いがここまでできるっていうことを本当に面白がってくれていた。
台本とかも当然読んだ上で、話の流れも把握した上で、作業をされている方たちなんで、そういう意味じゃ、嫌がることなんて、全くないと思います。
篠田さんはよくおっしゃっていました。
「現像所はいろいろな技術を持っているところなんだから、おれがいろいろと言って、おれと一緒にやれば、絶対新しい発見があるはずだ。それが現像所の財産になっていくのだから、人のやっていないことをどんどんやったほうがいいんだ」って」

篠田は、テストは監督との信頼関係を築ける絶好の機会と自ら語っているが、その裏返しとも言うべき重要な意味が含まれている言葉を福本は断片的に語っている。
「監督さんに明らかにその違いがわかるように、テストでは撮っていましたね」
「篠田さんは、例えばノーマル現像と増感と比べて、こっちの見え方のほうが面白いんだけど、どお、って監督に見せているんですよ。
ま、こっちの画のほうがいいでしょ、って監督を説得するためのものでもあったんです」
篠田昇におけるテストの意味は、自分の撮りたい画を、それはトーンといえばいいのだろうか、ぼくはこれで撮りますからいいですね、という監督を納得させるためのプレゼンテーションであり、篠田主導の事前承諾でもあったのだ。
篠田に言わせれば、これだけ充分な確認をとったのだから、後から文句を言われる筋合いはないということだ。
巧みな交渉術がここでも発揮されていたのである。


P.S 「take5」で紹介した映画「ザ・ストリッパー~堕ちて藍」の製作者ジヨウジ川上が、介護する写真家として、2008.12.20付朝日新聞朝刊に掲載されました。


取材協力:篠田いづみ

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