2006年の秋、私の知らない“昇”を探る旅が始まった。
私はここで、彼の映像に対する足跡をたどるとともに、短かった人間としての遺物をも
すべて探ろうと考えている。それは彼を知る人がいなくならない限り、時間さえあれば十
分に可能だと思っている。だって、哀しいかな、昇はもうこれ以上成長しないのだから。
まだ始まったばかりの取材の中、これまで篠田昇と関わりのあった人々に会い、そのい
くつかの彼らの思い出話から、自分の忘れていた昇が忽然と甦ってくることがしばしばあ
った。その反面、昇らしからぬことを伺い、自分の記憶と結びつける糸が見つからずに戸惑うこと
もあった。
昇って、一体どんなやつだったっけ?
私は昇の怒ったところを見たことがない。涙を見たこともない。
ビートルズやザ・バンド、リーバイスやコンバースやオメガやレイバン、洋食キッチン
やコーク、アメリカン・ファーマシー、缶詰、らくだの下着・・・。
自分の好きなものの話になるともう夢中になる昇。そんな時の昇はツバを飛ばすのでは
なく、思わずヨダレをこぼし慌てて手の甲で拭いていた、照れ笑いしながら。
こうした好きなものへのこだわり、特別なものへの嗜好性を持っている人間は、程度こ
そ違え、意外と自分たちの周りでもよく見かけるものだ。言わせてもらえば私もそのひと
りだ。
そうとは口に出さずとも、昇はそんなこだわりを“自分の美学”であると態度に示して
いたように思う。得意気な表情に彼の台詞がうかがえた。
そして、篠田昇を知る人物すべてが、この彼の思うところのこだわりの“美学”を認め
ている。それほど、だれに対しても強烈な印象だったのだろう。
《「昇って、自分の持ち物をすぐ自慢するじゃない。別に新しい車なんていくらでも買えるのに、
フォルクス・ワーゲンの古臭いバスなんか乗って、ね。自慢していたんだよ、何年型だっ
て。何年型がいかにいいのかって」
と語る岩城信行の言葉の続きに、“take3”での謎の紐解きのヒントが見え隠れする。
「難しい演技論なんかせずに、こんな話ばかりしてたんだろうな、役者さんたちと」
「今でいうブランド志向とは違うけれど、割とそういうの強かったよね、ブランドみたい
なもの。自分が決めたいいものにこだわる、リーバイスなんかその典型だよね。お金がな
いくせに、そういう自分の趣味というか嗜好というか、好きなものにこだわって、飯食わ
なくてもそれを買うという感じがあった。
そういうのは、どこで生まれたのかなというのが不思議だった。埼玉の田舎の、三郷のあ
んな何もないところで、どうやって身につくのか、って。そんな刺激がどこにあったのか
よって、疑問だった」
だれしも昇のこだわりは知っている。が、そこまでだ。
しかし、育った環境を含めて、なぜこうしたこだわりを持つ人間になったのか、という
原点に迫る後藤和夫の疑問は極めて新鮮な驚きを与えてくれた。それは、そこまで考えようとす
る人間はまずいないからである。
私の画策する本線とは逆行していく、もうひとつの行程。“昇の原点を探る旅”、これまた何とも楽しい旅になりそうだ》
篠田昇が師匠と公言するカメラマン川上皓市は初めて出会った頃を回想する。
「「竜馬暗殺」はATGだから、ものすごい低予算なんですよ。撮影は16ミリ(フィルム)
だったから(作品は35ミリにブローアップ)、助手はぼく(チーフ)と小林(達比古・セ
カンド)でできた。そこに製作の岩城(信行)が昇を連れてきた。ちょうど、撮影機材車
の運転手もいなかったし、16ミリを学校で扱っていたということで、フィルム・チェンジ
くらいはできるだろうということでやってもらうことにした、見習いでね」
撮影助手サードというポジションで晴れて参加したと述懐する岩城とは異なる点が多少
気になるか。(岩城は昇を初めて事務所に連れて行った時、助監督後藤幸一に激怒されたこ
とを覚えていた。多分学生の分際で余計なことをするな、と叱られたと察する)
「その日のロケ終了後、置き場のない撮影機材車を自分んちに持って帰って、翌朝寝坊し
てね、現場に機材が届かなかったことが二回くらいあったけど、仕事では特別問題はなか
ったし、叱ったこともなかったですね」
撮影中はやはり毎晩ゴールデン街に出向いていた。小林、篠田、岩城と話すことはひた
すら大好きな“映画”のことだけ、だったと強調する。
「昇もおれによくなついてくれて、先輩後輩という感覚よりかは結構友達っぽい付き合い
をしていた。彼のアパートにもしょっちゅう遊びに行ってたよ、中野の、トイレは共同の。
おれも金なかったから、スチルカメラを質に入れて、酒買って、昇のところへ行って、夜
通し飲んで、大きなダブルベッドに二人で寝て。朝になると、昇は紅茶を入れてくれて、
おれは味噌汁作ってね、そういうのを結構やっていたんだよ」
現在の邦画の製作状況と比較すれば、まだましだったといえる70年代でも、本編(映画)
に関わっていたフリーランスのカメラマンたちの多くは次から次へと本編を撮れるわけで
はなかったので、その合間にCM撮影の仕事をこなしていた。これはカメラマンだけでな
く、録音や美術などフリーランスの技術職は皆そうしていた。当然、生活のためである。
篠田昇も同様に、川上皓市(や住田望、他)の助手としてCM撮影をこなしていた。
「CMの助手というのは、チーフとセカンドの二人なんですよ。その頃チーフは小林で、
昇がセカンド、フォーカスマンね。
でも大きな仕事はこないんです。普通のCMの現場と違うけれど、気心知れた仲間同士で
やれた。それにギャラのことは言わなかったし、気にしなかった。なによりもまず現場が
楽しかった。みんなそう思っていたしね。
昔はね、CMにもムービーキャメラマンが楽しめる内容のものがあったんですよ。当時は
まだフィルムだったから、モニターを使っていない時代があったわけで、もちろん監督に
は覗いてはもらうけど、キャメラマンが好きにフレームを作れた、光の世界を好きに作れ
た。だから、昔のCM見ると、監督の個性はもちろんだけど、キャメラマンの個性が出て
るんだよね」
数をこなしていくうちに、撮影助手であった昇はCM製作会社宣映にいた作家壇一雄の
長男・太郎におもしろいやつと気に入られる(氏はしばらくして退社後TVの料理番組や
紀行ものに出演し活躍した)。昇は早速、就職活動をしていた岩城信行をこの壇太郎に紹介
した。面接の翌日に岩城は宣映の社員となった。岩城はこの一件を「竜馬の(時の)お返
し」と呼んでいる。
この時期、意外と思われるかもしれないが、篠田昇は草野球チームに所属していた。「東京FILMEX」という映画関係者を中心に構成されたチームだった。大林宣彦(映画監
督)総監督、高田純(脚本家)現場監督を筆頭に大久保賢一(映画評論家)、六川則夫(映
画監督)、伴睦人(映画監督)、長崎俊一(映画監督・一度も参加せず)、腰山一生(故・放
送作家)、橋倉正信(フランス映画社)、小西(創造社)、清水俊雄(映画評判家)、後藤和
夫(映画ライター)、そして私堀越一哉(フーテン)の他、出版編集者やイラストレーター
たちによるチームだった。チアリーダーには当時映画評論家の女子大生(現・泉麻人夫人)
もいて、これに昇も途中から加わっていた。
しかし、昇は陸上競技はやっていたものの、どちらかというと球技は苦手だった。キャ
ッチボールもぎこちなかった。
昇はこのチームに入ると、多分質流れだと思うのだが、新品のグローブを購入した。メ
ンバーの中には、自分のグローブを持っていないものも多く、チームのぼろグローブを使
ったり、貸し借りをしていた。そのほとんどはササキやミズノ、あるいは無名のといった
国産メーカーのものであったが、昇のそれはローリングス社製、メイド・イン・USAで
あり、これを持っているのはおれひとりだぞといった得意満面で日々グローブを磨いてい
た。
ある試合でセンターを守っていた昇のところにフライがあがった。ほぼ定位置で捕球し
たかに思えた昇に異変が起こった。ボールが昇の顔面に直撃したのだ。この場面でも笑え
たのだが、これには昇らしいオチがあった。
昇はグローブもカメラ同様丹念に手入れをしていた。つまり分解して掃除していた。分解といっても単純な作りであったから、結んである革紐を解き、隅々までクリームを塗りこみ、再び革紐を結ぶという程度のものであった。ところが最後に結ばなければならないバスケットウェブ(親指と
人差し指の間の水かきのような部分)の革紐の何箇所かを結び忘れていたのだ。つまり捕球はしたものの、すり抜けてしまったというわけだ。
この一件が理由ではないだろうが、この日以来、昇は練習や試合に姿を見せることはな
かった。(すっかり忘れていたことであったが、篠田いづみによるとこの時の篠田昇の背番号は「22」だったという。R2D2にあやかったこと、しかも2は昇のラッキーナンバーであるとも話してくれた。しかし、R2D2が本当のことだとしても、その先に見えてくる数字の出所は彼の誕生日である2月2日に由来することは想像できる。そして偶然なのか、命日は22日となった)
1977年(昭和52年)の秋、少年院のある群馬県大間々町のロケを中心に、東陽一監督作品「サード」の撮影が始まる。川上皓市のキャメラマン、デビューの作品である。そして、チーフに小林達比古、昇はセカンド、フォーカスマンとして共に昇格した。
「篠田はね、フォーカスがうまかった。それと技術的にいろいろ工夫するのが得意でね。
予算がない時、難しい撮影、面倒くさい撮影やカットがある時、すぐね、こうやればでき
ますよって、アイデアを出してくれるんで随分助かったね。
例えば、スチルカメラで覗いたような設定のカットを撮りたい時、ほらスチルのファイ
ンダーって、真ん中に十字があったり、四隅に撮影範囲の枠が見えたり、いろいろマーク
があったりするでしょ。で、実際にスチルカメラのファインダーからムービーで撮れる仕
掛けを考えてくれたりするんだよ。ムービーで撮った画をオプチカル処理するのではなく、
直接接写レンズを使ったりしてね。いろいろ考えてくれるんだ。ローアングルの移動撮影
するっていう時も、近所にある鉄工所に行って、その道具を作ってもらったりしてくるの
よ。とにかく、相談するとなにか考えてくれたんだ。
そういう性格は、篠田がひとり立ちしてからもずっとあったよね。新しいこと、やろう
と。機材を自分たちで作っちゃうとかね」
この後、キャメラマン川上皓市とチーフ小林達比古のコンビは、東陽一監督作品「もう頬づえはつかない」(1979年)、「四季・奈津子」(1980年)、「マノン」(1981年)、「ラブレター」(1981年)を撮り続けていくが、昇はこれに加わっていない。川上の知己でもあるカメラマン住田望のチーフに付いたり、他のカメラマンからの依頼を多く受けていたことが重なったためと思われる。
この時期、制作としてたまにではあるが共に仕事していた岩城信行は語る。
「昇は人柄のせいで、気に入られて、回りからよく誘われていた。売れっ子CMカメラマンからも自分の助手が都合悪い時に、おれんとこでやれって、呼ばれていた。当時のCMカメラマン、売れっ子って、200万円よ、1日のギャラが。今より多分いいよね。昇がいくらもらっていたかは知らないけど」
ちなみに「四季・奈津子」では、昇の中村橋のアパートがロケ・セットとして使用されている。
またこの頃、篠田昇は
「ザ・ストリッパー 堕ちて藍」(1981年)と
いう全国各地のストリップ劇場で公開された特殊な劇映画(16ミリ)の撮影を手がけた。カメラマンとして、である。
話は1975年(昭和50年)にさかのぼる。
「ハードボイルド・ハネムーン」の公開もよう
やく落ち着いた頃、私たちグループ・ポジポジの前に、ひとりの角刈りの大柄な男が大阪
から訪ねてきた。メンバーらと新宿三丁目の喫茶店で待ち合わせをした。彼は、私たちの
映画を見て、一緒に映画を撮りたいと思い、大阪芸術大学写真学科を中退し上京してきた
のだという。うれしい話ではあったが、私たちに次回作の目途は立っておらず、とりあえ
ず製作できる段階になったら必ず連絡すると約束し、その場は別れた。
上京したものの全く当てのないその男は、新宿三丁目にあった新宿モダンアートという
ストリップ劇場に照明係として就職した。そして事あるたびに電話を寄こし、「見に来てよ、
タダだから」と私たちを劇場に誘った。
そうした付き合いをしていくうちに、いつしか彼はストリップ業界において、その頭角
を現していった。様々なショーの企画や興行を打ちたて、マスコミを利用するその手法に、
スポーツ紙や風俗関連の週刊誌等は、彼を“ストリップ界のつかこうへい”と呼ぶように
なった。こうして、ジョウジ川上の名は世間に知られるまでになる。
が、こうした表舞台とは別に、彼は金曜日のオールナイト興行で、前衛舞踏やアングラ芝居、自主映画等、日の目を見ない若者たちの活動をストリップ劇場で展開させる。普段のストリップを見に来た酔客は怒鳴り散らす。それでもジョウジ川上は、オールナイトで演じる食えない若者たちを昼間ストリップでアルバイトをさせ、金曜の夜、自らの表現の場として提供していた。
その一環として、彼は蓄えた資金で映画を作ろうと考えた。それが
「ザ・ストリッパー 堕ちて藍」だった。
監督は劇作家の山崎哲(脚本も)と後藤和夫。山崎は映画のノウハウを知らないため、
実質、現場を仕切ったのは後藤であった。
「昇が1シーン1カットみたいなことを意識していたのかいないのかわからないけど、そ
ういうシーンがあった。手持ちで、観客席からそのまま舞台にカメラが上がっていって、
ストリッパーが踊っているところを舐め回して、また観客席に戻る。相米慎二の影響なの
かな。16ミリカメラだったけど、体力はあったな。でも、金(予算)なかったから、照明
代えるの時間かかるし、意外と面倒臭いんで、カット割したくないから、だから(昇は)
そうしたのかもしれない」
「日のあたらない劇場で踊って頑張っているストリッパーたちへのプレゼント、彼の育てたストリッ
パーたちに対するお礼なんだな、彼がこの映画を作った意味は。フィルムに(形として)残してや
ったんだよ」
しかし、ジョウジ川上はその後、数冊の自伝や彼のルポルタージュを残しているが、この映画の
ことにはあまり触れていないのだと後藤は心配する。
「理由はわからないけれど、彼にとっては、忘れたい記憶なのかな」
現在、ジョウジ川上こと川上譲治は、ひょんなことから走り出してしまったストリップ業界から足を洗い、母校大阪芸大の大学院に復学し、30数年前の意志を取り戻すべく、本来自身の目標であった「写真」に取り組んでいるという。
この映画で、カメラマンとなった篠田昇のチーフを務めたのは、根岸憲一だった。
続いて、同じく東陽一作品である「ジェラシー・ゲーム」(1982年)、「ザ・レイプ」(1982
年)、「セカンド・ラブ」(1983年)で、再びキャメラマン川上皓市の下、篠田昇は待望のチーフを務めることになる。ちなみにこの3本は約1年の間で撮影された。そして、ここでも根岸憲一はサードとして昇の下で働き、その後も篠田と活動を共にしていく。
「篠田さんのキャメラマン・デビューは「ラブホテル」なんですが、その時の助手(チーフ)が篠田さんの最初の一番弟子といわれているんですよ。
でも、篠田さんがキャメラマンとして一本立ちした時、最初のチーフはぼくなんですね。テレビのドキュメンタリーもの、これが篠田さんの最初のキャメラマンとしての仕事だったのですが、そのチーフをぼくがやった。最初の映画でも「ザ・ストリッパー~」でぼくがチーフ。両方ともマイナーなんですが、最初の助手はぼくなんです。だから、本当の一番弟子はぼくなんです」
と目を輝かせる根岸憲一。
「自分の中では、技術的に教えられたというものはそんなにないと思います。ただ、自分
がカメラマンとして独立した時、あっそうだったのか、と気付かされたことがありました。
何かトラブルとか感情のずれみたいな、そんなことがスタッフで起こると、くずれたまま
最後までいってしまう。で、失敗したなと後悔することが結構あったんです。その時、あ
あ、だから篠田さんはそうやっていたのか、と。
篠田さんは最初からあの笑顔です。とっても印象的でしょ、篠田さんの笑っている顔っ
て。笑顔でみんなを迎えて温かい雰囲気を作ってしまう。もう撮影前にがっちり輪を作っ
て仲良しになってしまうんです。気持ちをひとつにするとでもいうんですか。もちろん篠
田さんが中心で、仲良く回りのみんなを自分の世界に入れてしまう。巻き込んじゃうんで
すね。しかもみんなの意見を聞きながら、できるだけ対等でいようとしている。その気持
ちが相手にとって、とても近くに感じるんですね。だから、怒られるんだけど、殴られる
んだけど、なんかまた元の仲良しに戻ってしまう。
篠田さんは現場でいきなりやろうとすると無理がある、その場で説明しても時間がかか
り過ぎてしまうことを知ってたんだと思います。
これは篠田さんから学んで理解して、今自分が実践していることです。やるよって始め
るとみんなが同じ考えで動いてくれる。格段に違います」
前述したように、昇は「セカンド・ラブ」の後、次なるステップとしてムービー・キャメラマンの
道を進むようになる。が、それは篠田昇の意志でもあったのだが、実は師匠川上皓市が昇
の仕事ぶりの異常に気付いた思惑がそうさせたことでもあった。

取材協力:篠田いづみ