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篠田昇との思い出 アーカイブ

2006年09月19日

take1 出会い

私は、彼の事をずっと「のぼる」と呼んでいた。



私は高校3年の頃、当時8ミリ映画を作っていた5人の映研仲間と映像制作集団「グループポジポジ」を結成し、「天地衰弱説」を撮った。卒業直後、このメンバーたちと大島渚監督「東京戦争戦後秘話」に出演した。そのギャラで、初の16ミリ「天地衰弱説第二章」を撮り、前作「天地衰弱説」とともに、東京で自主上映を展開した。
しかし、自主上映は思うようにはいかずその難しさを痛感。半ば挫折感の中やがてメンバーとは疎遠になり、翌年の受験を迎えた。


日本大学芸術学部映画学科撮影録音コースに私と昇は同期で入学した。初めは仲のよい、気が合う、友達感覚の付き合いで始まった。ここに岩城信行という友人が加わる。彼は監督コースだったが、私たち3人は常に行動を共にした。なにをしてたかというと、朝はアルバイトでTBSの早朝番組「ヤング720(セブンツーオー)」に客として出演。それから学校へ出向き、授業を終えると新宿のトップスでソーセージとじゃがいもと紅茶で遅い昼めしを食いながら数時間過ごし、アメ横の仲屋商店に行っては入荷したリーバイスのジーパンをあさる毎日だった。

私の大学での主目的は自主制作映画を作るのにいかに金をかけないで済ませるか、ということだった。つまり、自主制作を、大学の授業の一環である課題制作と称して偽りながら、大学の機材や設備をできるだけ利用しようというものだった。
まだまだ映画を撮ることをあきらめてはいなかった。



そんな折り、私は独立プロ作品「空、見たか?」(田辺泰志監督)の撮影と照明スタッフとして参加する機会を得た。プロの撮影テクニック、 照明テクニックを目の当たりに学んだ喜びも大きかったが、ここでの収穫は何よりも「やっぱり映画がまた撮りたい」と私を奮起させたことだった。

撮影が終了し、東京に戻った私はグループポジポジのリーダー的存在であった後藤和夫に相談した。「もう一回、ぼくたちの映画を撮ろうよ」と。彼は即賛成してくれた。私が書いたシノプシスに、後藤が肉付けをし、 「合言葉」というシナリオを完成させた。しかし、昔のメンバーたちはそれぞれ大学へ進学し、勝手な道を歩いている。

私は、昇(と岩城)に声をかけた。
「一緒に、映画を作らないか?」

これが、昇との映画制作への出会いであり、始まりであった。
昇と私が大学1年、秋のことである。






「合言葉」撮影中のスタッフたち。左端にいるのが、若き日の篠田昇。もちろん撮影担当。このポーズは大好きだったビートルズの映画で見たポールかジョンの真似。首から下げているカメラは、ライカの贋物“ニッカ”。昇愛用のカメラであった。

2007年01月17日

take2 自主制作

《平成16年6月篠田昇の葬儀の後、篠田家親族製作(監督岩井俊二)によるDVD「シネマトグラファー篠田昇」という、彼の青春時代から今日までを写真で構成した・・・それはフランス映画の傑作「ラ・ジュテ」のオマージュのように・・・何とも悲しい作品をいただいた。
作品初頭の、ある一枚の写真を見て私は驚いた。慌ててリピートした。その映像は篠田
昇の日大芸術学部の受験票であり、そこには第一志望写真学科、第二志望映画学科と記
されていた。私は知らなかった。昇はそのことを語ったこともなかった。第一志望が映
画ではなく写真だったなんて…》


昭和47年秋。篠田昇が加わった新生映像制作集団グループポジポジは白黒16ミリフィ
ルム自主映画「合言葉」をクランク・インさせた。監督は私、篠田昇が撮影だった。
カメラは学校から借りたアリフレックス2台。その他レンズ、マガジンやバッテリー、
三脚等借りられるものはすべて借りまくった。撮影後も16ミリ用現像タンクや編集室、ア
フレコ・サウンドトラックの収録に使うスタジオも全てにわたって学校の施設を使わせて
もらった。
フィルムはアグファ・ゲバルトの白黒フィルムを学校から格安で購入した。
準備として昇と私は銀紙ホイルの裏側を反射面にしたレフ板を作った。そのままきれいに
張ったものやしわくちゃにして張ったもの、大きさを変えてなど数枚作った。
オール・ロケの撮影は、私の自宅がある東京赤羽西が丘、篠田昇の実家があった埼玉県
三郷市周辺、それに後藤和夫の自宅付近の目白は、洋館のたたずむ洒落た住宅地を中心に
行われた。
西が丘では、まだ国立サッカー場もできておらず、旧陸軍の兵器廠跡地は荒れ野原の状
態であり、三郷も武蔵野線の建設途上にあり、一面の畑の中に巨大な鉄骨が組まれた近代
建築物三郷駅はちょっとした近未来的な不思議な空間を醸し出していた。
これらを私たちは格好のロケ場所として利用した。


「合言葉」撮影中のいくつかの出来事
●明治神宮での撮影後、藪の中から2匹の犬の赤ちゃんを見つけた。まだへその緒をつけ
たままだった。一匹は既に死んでいた。生きていた一匹をタオルに包むと目白の後藤宅へ
急いだ。温くした牛乳をスポイトであげようとするが全く飲もうとする気配がない。へそ
の緒がついているからじゃないか、と昇が言った。私たちはへその緒を切ることにした。
へその緒の根元を糸で縛り、はさみで切った。血が出た。私たちは血を見て動揺し大騒ぎ
した。が、無事赤ちゃん犬はミルクを飲むようになった。

●移動車は、後藤和夫所有のコロナのオートマティック1台のみであったため、総勢最大9
名を乗せて移動することもあった。昇はこのオートマをえらく気に入って(当時はほとん
どの車がマニュアル操作だった)、左足をフロント台に乗せて運転していた。対向車のドラ
イバーがびっくりした顔になるものなら、大声を出して笑っていた。
当時、明治通りと表参道の交差点周辺は地下鉄千代田線の工事のため一面鉄板が敷き詰
められていた。冬の早朝、昇の運転するコロナのオートマティックはスタッフ7名を乗せ
(助手席2名、後部座席4名)、明治通りを渋谷方向に移動中であった。大交差点を渡ろう
とした時、コロナの後部が左右に揺れたかと思いきや、クルッと横に1回転、2回転して、
何事もなかったのごとく、そのまま渋谷に向かった。驚いた我々は昇がわざと仕掛けたも
のだと思っていた。助手席の私は笑いながら昇に声を掛けようとした。昇は顔面蒼白であ
った。

●昇の実家の近くに(といっても車で移動して)、地元で有名な餃子屋があった。餃子屋と
いっても、町外れの小さな食堂のような風情で、餃子の旗が2,3本立っているだけの店だっ
た。ここは地元のおばちゃんたち数名が割烹着姿で調理と客の応対をしていた。焼餃子一
品のみ、一皿6個200円。私たち撮影隊はいつも寄っていた。8名のスタッフで4~50皿
は食っていた。


「合言葉」の撮影は約4ヶ月あまりを要し、完成まで何と10数ヶ月もかかった。製作費数
十万円超低予算の自主制作としては、あまりにも長い時間である。これは作ることの意欲
と面白さを実感はしていたものの、冬休みが過ぎ、単位獲得のためお互い授業に出ていた
ことなど、映画制作に対する学生特有の気持ちと日程の甘さ、集中力への無知を物語って
いる。この時期、私と岩城は何と1週間も体育のスキー合宿に出かけていたこともあった。  
そんなルーズな状況の中、私たち日芸生とは別に社会人としての道を歩み始めていた後藤
和夫は、「お前たち、早く完成させろよ」と苛立ちを覚えていた。


大学時代のいくつかの出来事
●映画学科の授業の中で写真現像の基礎を学ぶため、いつでも地下の暗室を利用し、自由
に写真フィルムの現像、焼付け等を行える実習があった。引き伸ばし機や現像液、焼付け
用の液は使い放題、印画紙代だけが自己負担であった。ここで私と昇は出来うる限りの実
験に夢中になっていた。露光時間を変えたり、現像液の濃度を変えたり、現像液の中で印
画紙を揺らしたり、手で擦ってみたり…。私たち二人があまりにも暗室の中に入ったきり
なので、よく研究室の講師に注意をされた。
昇は御茶ノ水の中古カメラ屋で買ったライカの贋物“ニッカ”のカメラを愛用していた。
アメリカかぶれであった私たちだが、昇のそれは見事に一直線であった。アメ横はもち
ろんのこと、ドラッグ・ストアー、特に「アメリカン・ファーマシー」の名を耳にすると
どこにでも出かけていった。銀座のソニー・ビル地下二階にあった「ソニー・プラザ」で
物を漁っては、五階の日東紅茶専門店でミルクティーを飲むのが決まりになっていた。昇
はいつもミルクティーが運ばれてくると香りを楽しみ、「うーん、さすがリプトン!」とか
「さすがブルックボンド!」とこれらを口癖にしていた。

●私たちはよく元米軍基地のハウスに出かけた。成増、福生、入間、国立、飛田給、横田、
府中、座間、厚木…。米軍関係者独自の平家で、独身用、将校用、何人家族用と様々な作
りの違いはあったが、とにかく大きい、広いというのが最大の特徴だった。これが昇のア
メリカだった。取り壊されるのを待っている地域もあれば、借家にしている地域もあり、
私たちは横田にあった6LDKをとても気に入り、昇を含めた5人で借りようと盛り上がっ
たことがある。結局頓挫することになったが、この時、昇に割り当てられた10畳の部屋に
ついて彼は語っていた。
「でかいダブルベッドを部屋の真ん中にデーンと置いて、それで終わり」。
昇と私は、このハウス周辺で“アメリカっぽい”写真を沢山撮った。それは自分たちの
撮りたい素材というだけでなく、そのポジを売って金にしていた。青山通りと元テレ朝通
りの交差点にある中国飯店の隣のビル地下に六本木ディスコ“ズッケロ”があり、ここで
夜バイトしていた岩城信行が話をつけ、暗い店内に私たちのスライド写真を大量に流し続
けるようにしたのだ。

●昇は初めて自分の愛車を持った。中古の“スバル360”(フォルクスワーゲン・ビートル
タイプを真似た360CCの軽小型車)であった。グループポジポジの次回作「ハードボイルド・ハネムーン」で大活躍することとなる。

●大学の体育の授業では、運動場がないため、地下のアスレチック・ルームを使用するこ
とが多かった。この授業では、昇によるデモンストレーションが恒例になっていた。それ
は昇の力自慢だった。バーベルから器具を使った背筋力など、類まれなる力持ちを披露し、
みんなを驚かしては喜んでいた。


この時期の日記の中に面白い記述を見つけた。
「昭和48年5月25日  昇といると自分がケチでみじめになってくる。どうして昇は
金のことになるといやな人間になるのか。まるで自分中心の中で金全体が存在するような
錯覚になる。とてもいやだ。もっと友達のことや今彼が置かれている立場や雰囲気を考え
るべきだ。後藤(和夫)のために何かをしてやるべきじゃないんだろうか。」(原文まま)

この5月に後藤和夫は結婚式をあげた。勤めていた月刊誌“映画批評”の同僚と結婚前
から同棲しており、住まいは西荻窪駅前のマンションにあった。既に後藤は“映画批評”
編集長の座を断念し(この時点で、雑誌は終了となった)、生活のため運送会社で働いてい
た。これが実に高収入であり、私と昇と岩城の三人はいつも飯とか酒をご馳走になってい
たのだ。
しかも、同時に自主制作という自分たちの力で製作費を捻出しなければならない時期で
もあった。「合言葉」の製作ノートには、フィルム代をはじめ、プリント代、オプチカル処
理代からガソリン代にいたるまで、だれがいくら支払ったかを記入してあり、それを見る
と明らかに昇による入金が少ない。
こうしたことが総じて上記の私の感想になったのかもしれない。まあ、細かいことを気
にする私と正反対で大まかな昇の性格の違いとも言えるのだが。

2007年03月01日

take3 初めてのプロの現場

《平成16年6月、昇の葬儀は私の想像以上に盛大であった。
そして、彼を偲ぶ人々の数に正直驚いた。驚きついでに言わせてもらえば、葬儀に関わった裏方のスタッフの数に、さらに驚かされた。こんなにも大勢の人が昇のために集まったのか。
昇はまだ若かった。
けれど、スタッフは昇よりも一回りも二回りも若い人たちばかりだった。慕われていたんだな。師匠としてだったのか、それとも兄貴のようであったのか、父親のような存在であったのか・・・(それはこれからゆっくりと紐解いていくことにする)。
晩年を含めて、篠田昇と付き合いの深かった長澤雅彦(「夜のピクニック」監督・脚本。彼は昇のことを“篠田さん”と呼ぶ。「Love Letter」他岩井俊二監督作品のプロデューサーとして、「Short
Cakes」
等自身の監督作として、昇と多くの関わりを持つ。長澤氏による回想録は改めて報
告する)によると、葬儀の模様をDVDにまとめる作業の中、エンド・クレジットに篠田
のために集まったスタッフの名を載せようと並べたその数、200名にも及んだそうである。
お通夜、告別式を通して、奇妙というか何とも解せない光景を目にした。
それは役者さんたちの姿だった。彼らがここにいること自体何も不思議なことではない。
が、お通夜の後の芝・増上寺での偲ぶ会にも、翌日の告別式にも列席している何人もの役者さんたちがいた。
私はその方面に関しては疎いのだが、とりわけ気になったのが、マスコミ嫌いとい
われる俳優たち、それと自分の子供と同じくらいの年齢の若い俳優たちであった。
なぜ彼らはマスコミがこぞって群がる格好の場所に、一度ならずとも二度三度と足を運
んでくるのだろうか。
もちろん、昇との永久の別れのために、生前の出会いを偲ぶためということは十分承知してはいるものの、何か釈然としない思いをいだいた。
解せない戸惑いはさらに膨らむ。
映画の撮影では表舞台に立つキャスト(俳優さんたち)と裏で支えるスタッフ(撮影、美術、録音等々)がおり、その中間に監督が互いに指示を出すという構造が通常である。役者たちは演技をするために、必然的に監督もしくは役者同士でのコンセンサスを多くとるはずだ。
その裏方であるカメラマンの昇がどのように役者たちと親密な関係を重ねることができたのだろうか。現場でのわずかな時間の中での彼らのやりとりはどのようなものであったのだろうか。
「花とアリス」に主演したふたりの若い女優が人目をはばからず号泣していた光景は今も忘れられない。
彼らの昇に対する尋常ではない慕い方を見て、私は普通の役者とカメラマンの関係では
ない何かを感じとらずにはいられなかった。》


昭和48年、大学3年の夏、私たちは映画学科課題の16ミリ作品を撮るために伊豆・赤
沢温泉に出かけた。この課題は監督コースと撮影録音コースの人間が互いに組み、1本の作
品に仕上げるもので、この伊豆ロケは監督・脚本岩城信行、撮影篠田昇チームの作品を撮
るためだった。タイトルは「夏の女」。私は役者として参加した。


翌昭和49年、昇は映画プロ・デビューの日を迎えることになる。この経緯については、
親友である岩城信行が大きく関わっていた。
岩城は俗に言う苦学生であった。入学当初から、朝はTBS(昇と私を誘ったテレビ番
組のエキストラなど)から夜は青山にあった高級スーパーマーケット“ユアーズ”、六本木
にあったディスコ“ズッケロ”などでバイトをしていた。当時、広告代理店マッキャンエ
リクソン博報堂にいた高平哲郎(後に放送作家)の仕切りによる業界のパーティーなどの
セッティングもしていた。
その彼が日大芸術学部映画学科に入学した理由として、映画が好きだったというのはご
く当たり前のことであり、高校時代から日活アクションを見まくり、とりわけ原田芳雄の
大ファンであった。
幡ヶ谷の木造アパートに彼は姉と同居していた。彼らは神奈川県平塚の出身で、姉はヒ
ルトンホテルで働いていた。そこをよく映画プロデューサーの奥田喜久丸が利用していた。
その頃、奥田は原田芳雄主演の「無宿人御子神の丈吉 黄昏に閃光が飛んだ」(1973・日活)
をプロデュースしており、それを聞きつけた岩城の姉が、奥田に「うちの弟が原田さんの
ファンで」と話したところ、会わしてくれるとの約束を取り付けた。大学2年になった岩
城はこうして原田芳雄の住む代々木上原駅前の和風喫茶店にて願いを叶えることになる。
それからしばらくして、再び姉から今度原田さんが主演する時代劇のスタッフを探してい
ることを聞きつける。大学3年の冬のことであった。
こうして岩城は「竜馬暗殺」(1974・監督黒木和雄)の製作進行のチーフとして晴れて参加することになったが、
春のクランク・インを前にして、ある日撮影部でサードを探していることを耳にした。す
かさず岩城は格好の人材がいると話し、大学の親友であった篠田昇を連れていったのであ
る。こうして揃った撮影部は、撮影田村正毅、チーフ川上皓市、セカンド小林達比古、そ
してサード篠田昇、今となっては錚々たる面子であった。
「竜馬暗殺」は東京祖師谷大蔵にあった醤油問屋の土蔵を、竜馬の潜伏場所のロケ・セッ
トと事務所代わりにして開始された。やがて撮影は京都へと移されていった。


製作進行をしていた岩城信行は当時のことを思い出す。
「昇はとにかく一生懸命さが評価されていた。いつも大事にカメラと三脚を抱えていた。
当たり前なんだけどね、サードの仕事だから。なにしろ初めてのプロの仕事だし、自分の
命よりも大事そうにしているみたいに、それが印象的だったね。それと忘れられないこと
があった。昇って几帳面だからミスも犯さなかった。田村さんにも川上さんにも小林さん
にも可愛がられていた。それがある日、ポカミスみたいなことがあった。ラッシュで(フ
ィルムに)傷が見つかったんだ。これ絶対サードの責任なのね。原因はわからずじまいだ
ったんだけれど、滅多にめげない大らかな性格の昇でも、ちょっと苦しそうな、辛い表情
をしていた時があった、現場で。あんな顔見たの、最初で最後だったな。」
「撮影が終わるとゴールデン街に直行、朝まで飲んで6時7時にロケ・セットに集合。こ
れが毎日だった。おれの場合、部署が違っていたんだけれど、川上さんに誘われて撮影部
といつも飲んでいた。」
昇も岩城も私も大学の卒業はあきらめていた。この頃、彼らと出会うのはいつも夜のゴ
ールデン街か歌舞伎町裏にあった“ゴールデンゲイト”だった。
ある日、昇の鼻に大きな絆創膏が張られていた。酔っ払ってゴミ箱を蹴ったら、前を歩
いていた撮影部の先輩に当たり、逆に殴られ、鼻の骨を折ったそうだ。
「(竜馬暗殺の)撮影中の時だったけれど、いつもの撮影部と一緒に飲んでいて、酔っ払っ
てゴールデン街の細い道を歩いていたら、出口にベンツが止まっていたんだ。邪魔で通れ
ない。昇が蹴ったんだな、ベンツを。そしたらヤクザがだれだぁーって降りてきた。すか
さず川上さんが「せぇーの」って言った瞬間みんなで一目散に走って逃げたことがあった。
酔っていたから、みんなもう心臓はバクバク、血反吐吐きそうだった。昇のせいでな。」
たったふたつの話で結びつけるのは強引かもしれないが、どうやらこの頃の昇は酔うと
蹴るくせがあったようだ。

昇は自身の言葉で、「竜馬暗殺」は仕上げまでやり、編集も付き合い、最後は黒木和雄監
督の運転手までやったと語っている。

「竜馬暗殺」の仕上げ直後に、昇は次の仕事、「鴎よ、きらめく海を見たか めぐり逢い」
(1975・ATG作品、監督吉田憲一、撮影大津幸四郎、主演高橋洋子、田中健)の撮影に入
る。昇はこの映画を非常に短期間でこなしている。それは、グループポジポジ作品「ハー
ドボイルド・ハネムーン」
のロケハンやキャスティング等がこの年の6月頃から開始され
ていたからだ。

「ハードボイルド・ハネムーン」のシナリオは既に後藤和夫の手によって完成されていた。
~一丁の拳銃を手にしたことから、ハードボイルドの世界に魅せられる若きギャングたち
の物語~この映画はこれまでの私たち自主制作映画とは違い、ストーリー性を持った、か
なり大掛かりなものになりそうであった。後藤を中心に、昇、岩城、私とで行われた製作
プランでは、スポンサーを付けよう、資金カンパをしよう、立派なポスターやパンフレッ
トを作ろう、配役に有名人を使おう、カラーで撮ろう…これまでにない新しい試みとアイ
デアが次々と生まれていった。
監督後藤和夫、製作岩城信行、撮影は篠田昇と私が担当することになった。なぜ撮影が
ふたりなのかというと、私たちは配役としての役割もあったから、その負担を減らす考慮
からそうしたのである。
16ミリフィルム、全編オールカラーに決定した時、昇からアイデアが出た。それはイー
ストマン・コダックのフィルムを使おうということだった。日頃から研究熱心であった昇
と私は、写真(紙焼きやポジ)や8ミリ・フィルムに関して、当時のフィルム・メーカー
の色合いについて分析したことがあった。大まかにいうと、富士フィルムはやや青味がか
っている、小西六サクラ・カラーはやや赤味がかっている、これは日本の四季のせいでは
なかろうか。梅や桜、梅雨や夕立、夏休みの海水浴、祭り、温泉と紅葉、クリスマスや正
月の雪景色等、日本の季節の行事や祭事をうまく撮れるようにと各社が工夫した結果では
なかろうか。笑い話になるが、昇と私はこのことを日本独自の“わび”“さび”の問題にま
で発展させ論じていた。
その点、アメリカのイーストマン・コダックは至って簡単、明るい太陽の下での撮影を
主眼にしたというのが、(当時の)私たちの結論であった。この原色くっきりはっきりの世
界を表現するフィルムを使おうというのが昇のアイデアだった。最大の理由は、より洋画
っぽくしようという狙いであった。
おそらく16ミリ・オールカラーは当時の自主制作映画では初の試みであったろうが、そ
の上イーストマン・コダックのフィルム使用というのは更に駄目押しみたいなものであっ
た。
主人公は後藤和夫、その情婦に実際の彼の妻である後藤妙子。昇、岩城、私の3人は若
きギャングたち、そして老練ギャングに詩人の奥成達、漫画家の長谷邦夫を配した。音楽
中村誠一、ポスター及川正通、パンフレットTBデザイン研究所、ナレーション佐藤慶と
豪華な人々の協力を得た。
この頃、昇は愛用のカメラ“ニッカ”同様、お気に入りの品物を手に入れた。幅30セン
チ程度のソニーのポータブル・ステレオ・カセットデッキTC-2100Aであった。昇はこ
れをいつも持ち歩いていて何でも録音していた。
「ハードボイルド・ハネムーン」に関していえば、スケジュールの都合でどうしても夜中
から朝しか時間が作れなかった佐藤慶を後藤の自宅に招き、ドアや窓に目張りをした仮設
スタジオを作成した。佐藤慶は居間、私たちは台所を録音室にしたナレーション収録にこ
のデッキを使用した。用意が整い、「そろそろ行きましょうか、慶さん」と私たちは合図を
出した。幾分緊張していた私たちをほぐすためか、佐藤慶の第一声は、トリオ・ザ・パン
チで一世を風靡した内藤陳の「ハードボイルドだど」だった。
大活躍したのは直接映画作りとは関係のないロケの移動中だった。撮影での移動車は後
藤のコロナと昇のスバル360と最低でもこの2台、これに録音長谷川(昇と私の同級生で
あった長谷川潤)の車が加わって撮影することが多かった。移動中、昇たちがビートルズ
の歌とメッセージを吹き込み、信号待ちの時、後ろの車にデッキを手渡しするのだ。それ
を聞き、今度は私たちが吉田拓郎や井上陽水でお返しをしていく。これを繰り返した。長
い移動が楽しみになり、特に渋滞中の効果は絶大で、退屈な時間が解消された。

撮影は8月から、西荻窪を皮切りに、横田基地周辺、府中、国立、中野、本郷東大、世
田谷赤堤、三郷、熱川、千葉内房と約二ヶ月に及んだ。


ただ今「ハードボイルド・ハネムーン」撮影中
●この「ハードボイルド・ハネムーン」の映像には光(太陽)と影を意識して撮影された
箇所が出てくる。真夏での撮影ということもあり、撮影設計としてはまずは影をより黒く
しようと昇と了解していた。そのためにND等のフィルターを多用した。アリフレックス
のレンズの裏に、小さく円形に切って張ったフィルターはそれなりに高価なものであった
から、扱いは慎重に行なった。この時、昇がフィルターを喜んで使っていたことを覚えて
いる。

●絶対に入れない渋谷のNHK内でのゲリラ撮影を決行した。真夏の午前中、私たちはそ
こに入ったものの一発勝負と決めていた。ラスト近く、主人公の幻想のシーンであった。
老練ギャングに撃たれた主人公が、無機質な巨大な建物の壁に映る大きな影と光の中を行
き来する。昇の手持ち撮影全開の場面であった。

●若きギャングたちのアジトに、中野にあった昇のアパートを使った。昇は古き良きもの、
アンティーク的なものを好んでいた。元実家の部屋がそうであったように、この古いアパ
ートの一室もなかなか味のある木造作りであった。

●『だが、こうした卑しい街を一人の男が歩いていかねばならない。物語はこの男が隠さ
れた真実を探索する冒険譚だが、それは冒険にふさわしい男の身に起こるのでなければ、
冒険とは言えないであろう。彼のような男が大勢いれば、この世はきわめて安全で、しか
も生きがいがなくなるほど退屈でもないといった、そんな世界になることであろう』
ラスト・シーンは、主人公以下若きギャングたちの勇ましい姿がコンクリートの壁にく
っきりと影で映る数枚の写真映像に、上記の佐藤慶のナレーションがかぶさるものだった。
当初はストップ・モーションの予定であったこのシーンを、低感度フィルムで写真撮影を
し、シルエット写真の再撮をしようと提案したのは昇であった。くっきりとした人物の影
から流れる微妙な影の粒とコンクリート自体の質感を出すためであった。


昭和49年12月、完成した「ハードボイルド・ハネムーン」は、新宿安田生命ホール(当
時)を皮切りに、四谷公会堂、高円寺会館など都内各地で自主上映を行なった。
この頃、日本映画はある時代の変化に突入しようとしていた。これまでの自主制作映画
といえば、暗く難解で思想的観念的な私的映画か、地域に密着した地味なドキュメンタリ
ーであった。ところが、私たちグループ・ポジポジ作品のように長編オールカラーのドラ
マ、オリジナル音楽の使用といった、これまでにない志向性を持った自主制作映画が多く
登場し始めた時期でもあった。
東京では、「カレンダー・レクイエム黄色い銃声」(監督伴睦人)、「バイバイ・ラブ」(監
督藤沢勇夫)、「冒険者たち」(監督臼井高瀬)、「御巫(みかむなぎ)の頭のスープ」(監督
小林竜雄)など。大阪では、「暗くなるまで待てない!」(監督大森一樹)などが、ほぼ同
時期に出現した。
これらはそれぞれタイプは異なるものの、プロの俳優やタレントの起用、おかまの美女
が主人公等、非商業映画ながらストーリー性のある、よりエンターテインメント性を持っ
た映画ということで、“新人たちによる新しい映画の流れ”としてマスコミに取り上げられ
た。

そして、昇は「ハードボイルド・ハネムーン」上映のために大阪へ出向いた。そこで出
会うのが、当時私たちと同じく自主制作映画を作っていた井筒和幸であった。

2007年04月25日

take4 結婚と下積み時代

 映画「ハードボイルド・ハネムーン」で次なるステップ・アップを図っていた私たちは想像以上の苦戦を強いられた。マスコミには登場したものの、自主上映の成績は芳しくなかった。先行きは暗かった。
 グループ・ポジポジの事務局を六本木に設置したが、それは私が自分の都合で実家を出た際の住処と兼用でしかなかった。これからどうするか、それぞれの課題となった。
 私は生活のため、アクセサリーの制作と販売のアルバイトを経て、銀座や浅草の路上アクセサリー屋に専念するようになった。

 篠田昇は「竜馬暗殺」に続いて、黒木和雄監督作品「祭りの準備」(1975年、撮影鈴木達夫)の撮影に参加した。この頃、昇は私の転職に対して、「ホリ(私への愛称)は時間を無駄にしている。何であんなつまらないことをしているんだ。勉強してきた撮影の技術をもっと生かすべきだ。撮影助手の仕事だってあるのに…」と話していたという。
 しかし当の私はといえば、職業カメラマンでというより、映画に携わることで食っていくことを真剣に模索していた時期だった。自分たちで好きなように撮っていける映画、それを上映して収益を生む、その構造をどのようにしたらできるのか、ということであった。
 路上アクセサリー業の稼ぎは上々であり、収入のいい仕事にありつけたと内心喜んでいた。ただ先行きというか、映画への希望は全く皆無であった。



 昭和51年10月、昇が24歳の時、都立白鴎高校の同級生であったMさんと結婚をする。
 Mさんは中央大学文学部卒業後、サンリオに入社。意向すべき部署への転籍が得られぬまま、約1年後結婚を理由に退社する。要するにふたりの収入はほぼゼロでのスタートであった。それでも結婚しようとふたりは決めた。昇は結婚指輪は金蒲(ゴールド製の蒲鉾タイプ)に限るというこだわりを通した。

 結婚式はとても質素であった。埼玉県三郷市自宅近所の神社で式をあげ、披露宴もその近くで行なった。後藤と岩城と私が、式や披露宴の模様を撮影し、宴にも参列したが、これが後に両家の些細な問題となった。ごくごく内輪だけでという約束の式に昇の友人たちがいたことを、昇は友人を呼ばなかったMさんの親族に対し、あくまで「撮影するために呼んだのです」と答えていた。

 新居は東京練馬区貫井町、西武池袋線中村橋駅から徒歩5分。築15年の二階建てアパート一階北側角部屋であった。四畳半と六畳、それと四畳程度のキッチン2DK風呂付、家賃三万八千円。
「昇の収入は当てにはできない。私が働いていけば、月12万円くらいはなんとかなる。だから、4万円以下の家賃のところに決めたのです」とMさんは振り返る。
「最初はマシュルーム・カットで色の黒い変なおじさんみたいな印象でした。昇は陸上部にいたのですが、練習しないでいつも校庭の砂場でスコップで砂を掘ったり、ならしていました。陸上部の顧問が優秀な女性指導者でとても厳しかったのです。それで昇の髪を注意したのですが、昇は髪を切ろうしなかった。それで大会には出させてもらえなかったのです。
 2年になると、昇は落語研究会にも籍を置きました。その落研に当時私と仲がよかった男の子がいて、彼を通して昇から交際の申し込みがありました。初めてのデートは銀座でした。私にとって男の子とデートするのは初めてのことなので、うれしくてうれしくてピンクのワンピースを新調しました。昇は(デートに)慣れているらしく、ビートルズのようにヘンリーネックのTシャツにジャケット、黒のネクタイをまいて来ました。私にはそれが似合ってないように思えておかしかった。映画を見て、フルーツパフェを食べて、雨が降ってきたら相合傘でリードしてくれて・・・。すごく昇のことを気に入りました。
 それから、私たちはいつも部活が終わってから一緒に帰るようになりました。学校から上野公園を通り、私の家が日暮里なので、そこまでずっと歩いて。昇はまたそこから常磐線の三河島駅まで歩いて帰っていったんです、三郷まで。亀有駅からバスに乗って帰るんですが、亀有には昇の親友がいて、彼ともしょっちゅう会っていました。だから、昇は勉強する時間がありませんでした(笑)」



 昇との連絡はまだ多くあった。私はその頃、路上アクセサリーの稼ぎがそれなりにあったため六本木から下北沢へと転居し家賃七万円の部屋を借りていた。8畳の和室と12畳のDK、一階建てのため小さな庭も付いていた。Mさんも含め、何回か自宅に呼び、下北沢の夜を楽しんだ。会うたびに昇は言った。中村橋に来いと。いいところだ、飯は食わせてあげると。私は奥さんに食わせてもらっている昇が自信をもって語ることがおかしかった。そしてありがたかった。

 私に転機が訪れた。やくざな路上アクセサリーの世界から足を洗い、新たな職探しをし、小さな出版関連の編集プロダクションに就職した。協力してくれたのは後藤和夫だった。この頃、後藤は漫画原作者として人気の牛次郎事務所に入り、ゴーストライターとして働いていた。私の入った編集プロダクションのオーナーも牛次郎であった。

 私は中村橋に引越すことにした。昇のアパートがあった貫井よりも大分奥にある向山という、中村橋の駅から徒歩20分ものところだった。家賃三万六千円、風呂付。しかし、この界隈のみ都市ガスではなくプロパンガス使用、周りは一面畑という辺鄙なところであった。
 引越し祝いにと昇は自宅にあったタンスをくれた。国立の米軍払い下げの家具屋で買った高さ80センチの小さなタンスを昇はサンドペーパーで磨き、ニスを塗って使っていた。このタンスは一枚板でできているというのが昇の自慢であった。つまり合板ではないので滅茶苦茶重いのである。
 その冬、私はアラジンの石油ストーブを買った。昇に報告した。夫婦ですぐにやってきた。これはいいやつだと、昇の品定めが始まった。灯油を入れ、初めてストーブに火をつけた。私たち三人はパンタの「マーラーズ・パーラー」をかけながら、ストーブの周りをインディアン・ダンスでぐるぐると回った。

 この頃、中村橋駅近くに練馬区営のアスレチック・クラブが建設された。一階に器具を置いたトレーニング・センターと卓球やバレーボールなど球技が使えるようにした体育館のようなものがあり、練馬区民の使用料が200円であったため、利用者は多かった。
 休日になると篠田夫妻とその施設に出向き、卓球やアスレチックをするのが恒例となった頃があった。昇も私もかなり暇な時期であった。

 昇は収入の少ない小規模なCMを数だけは多く撮り続けていた。
「その頃、昇は川上(皓市)さんに付いて、テレビ東京でしか放送しない、16ミリ(フィルム)で撮る安いCMを撮っていた。おれ(岩城信行)との場合、川上さんと助手の昇、おれはCM演出家の黒島さんという人がいて、この人の演出助手をして、4人でよくCMを撮っていた、ナポリのアイスクリームとか。昇は大学の先輩だった住田(望)さんにもよく付いていた。」
 ある休日の昼、私は昇のアパートに遊びにいった。入り口のドアの前に一人前の寿司桶がひとつ置かれていた。昇にそれとなく聞いた、何で一人前なんだ、と。昇は得意げに語った。実は住田さんが遊びにきて、一人前五千円の大トロをとったのだという。ふたりでそれを食べず眺めながら、これは美味そうだな、こっちの方が美味そうじゃないですか、と延々と酒を飲んでいたのだという。何とも貧しいながら、落研育ちの昇らしいやり方だなと笑ってしまった。
 昇の公約どおり、夜アパートに食事に誘われることも多かった。ビールやワインを飲みながら、Mさんの作る料理をいただくのだが、毎度困惑することがあった。性格的に無愛想な私が黙々と料理を食べていると、昇は必ず口に出す言葉があった。「ホリ、どう。おいしいだろ」と必ず言うのだ。私は本当に美味しいと思わない限り、それを口にすることはない性格であることを昇はよく知っているにも関わらず。Mさんに対する心遣い、単純ではあるがこれが昇最高の持ち味なのだと思う。

「ホリ、絨毯欲しくないか」と昇から連絡があった。引越ししたばかりの私は、絨毯の一枚くらいは欲しかった。川上さんが絨毯をくれる、というのだが、昇は買ったばかりのがあるから私に使えといってくれたのである。昇の車で川上さんの家まで絨毯をとりにいった。昇も私もびっくりした。メイド・イン・イングランドの新品ものであったからだ。帰りの車中が大変であった。昇が「うちの絨毯と交換しろ」と言い始めた。

 昇からもらったタンス、川上さんからもらった絨毯、今も大切に使用している。


取材協力:篠田いづみ

2007年06月12日

take5笑顔とこだわり、そして独立するまで

 2006年の秋、私の知らない“昇”を探る旅が始まった。
 私はここで、彼の映像に対する足跡をたどるとともに、短かった人間としての遺物をも
すべて探ろうと考えている。それは彼を知る人がいなくならない限り、時間さえあれば十
分に可能だと思っている。だって、哀しいかな、昇はもうこれ以上成長しないのだから。

 まだ始まったばかりの取材の中、これまで篠田昇と関わりのあった人々に会い、そのい
くつかの彼らの思い出話から、自分の忘れていた昇が忽然と甦ってくることがしばしばあ
った。その反面、昇らしからぬことを伺い、自分の記憶と結びつける糸が見つからずに戸惑うこと
もあった。

 昇って、一体どんなやつだったっけ?

 私は昇の怒ったところを見たことがない。涙を見たこともない。
 ビートルズやザ・バンド、リーバイスやコンバースやオメガやレイバン、洋食キッチン
やコーク、アメリカン・ファーマシー、缶詰、らくだの下着・・・。
 自分の好きなものの話になるともう夢中になる昇。そんな時の昇はツバを飛ばすのでは
なく、思わずヨダレをこぼし慌てて手の甲で拭いていた、照れ笑いしながら。

 こうした好きなものへのこだわり、特別なものへの嗜好性を持っている人間は、程度こ
そ違え、意外と自分たちの周りでもよく見かけるものだ。言わせてもらえば私もそのひと
りだ。

 そうとは口に出さずとも、昇はそんなこだわりを“自分の美学”であると態度に示して
いたように思う。得意気な表情に彼の台詞がうかがえた。
 そして、篠田昇を知る人物すべてが、この彼の思うところのこだわりの“美学”を認め
ている。それほど、だれに対しても強烈な印象だったのだろう。

《「昇って、自分の持ち物をすぐ自慢するじゃない。別に新しい車なんていくらでも買えるのに、
フォルクス・ワーゲンの古臭いバスなんか乗って、ね。自慢していたんだよ、何年型だっ
て。何年型がいかにいいのかって」
と語る岩城信行の言葉の続きに、“take3”での謎の紐解きのヒントが見え隠れする。
「難しい演技論なんかせずに、こんな話ばかりしてたんだろうな、役者さんたちと

「今でいうブランド志向とは違うけれど、割とそういうの強かったよね、ブランドみたい
なもの。自分が決めたいいものにこだわる、リーバイスなんかその典型だよね。お金がな
いくせに、そういう自分の趣味というか嗜好というか、好きなものにこだわって、飯食わ
なくてもそれを買うという感じがあった。
 そういうのは、どこで生まれたのかなというのが不思議だった。埼玉の田舎の、三郷のあ
んな何もないところで、どうやって身につくのか、って。そんな刺激がどこにあったのか
よって、疑問だった」
 だれしも昇のこだわりは知っている。が、そこまでだ。
 しかし、育った環境を含めて、なぜこうしたこだわりを持つ人間になったのか、という
原点に迫る後藤和夫の疑問は極めて新鮮な驚きを与えてくれた。それは、そこまで考えようとす
る人間はまずいないからである。
 私の画策する本線とは逆行していく、もうひとつの行程。“昇の原点を探る旅”、これまた何とも楽しい旅になりそうだ》


 篠田昇が師匠と公言するカメラマン川上皓市は初めて出会った頃を回想する。
「竜馬暗殺」はATGだから、ものすごい低予算なんですよ。撮影は16ミリ(フィルム)
だったから(作品は35ミリにブローアップ)、助手はぼく(チーフ)と小林(達比古・セ
カンド)でできた。そこに製作の岩城(信行)が昇を連れてきた。ちょうど、撮影機材車
の運転手もいなかったし、16ミリを学校で扱っていたということで、フィルム・チェンジ
くらいはできるだろうということでやってもらうことにした、見習いでね」
 撮影助手サードというポジションで晴れて参加したと述懐する岩城とは異なる点が多少
気になるか。(岩城は昇を初めて事務所に連れて行った時、助監督後藤幸一に激怒されたこ
とを覚えていた。多分学生の分際で余計なことをするな、と叱られたと察する)
「その日のロケ終了後、置き場のない撮影機材車を自分んちに持って帰って、翌朝寝坊し
てね、現場に機材が届かなかったことが二回くらいあったけど、仕事では特別問題はなか
ったし、叱ったこともなかったですね」
 撮影中はやはり毎晩ゴールデン街に出向いていた。小林、篠田、岩城と話すことはひた
すら大好きな“映画”のことだけ、だったと強調する。
「昇もおれによくなついてくれて、先輩後輩という感覚よりかは結構友達っぽい付き合い
をしていた。彼のアパートにもしょっちゅう遊びに行ってたよ、中野の、トイレは共同の。
おれも金なかったから、スチルカメラを質に入れて、酒買って、昇のところへ行って、夜
通し飲んで、大きなダブルベッドに二人で寝て。朝になると、昇は紅茶を入れてくれて、
おれは味噌汁作ってね、そういうのを結構やっていたんだよ」

 現在の邦画の製作状況と比較すれば、まだましだったといえる70年代でも、本編(映画)
に関わっていたフリーランスのカメラマンたちの多くは次から次へと本編を撮れるわけで
はなかったので、その合間にCM撮影の仕事をこなしていた。これはカメラマンだけでな
く、録音や美術などフリーランスの技術職は皆そうしていた。当然、生活のためである。
 篠田昇も同様に、川上皓市(や住田望、他)の助手としてCM撮影をこなしていた。
「CMの助手というのは、チーフとセカンドの二人なんですよ。その頃チーフは小林で、
昇がセカンド、フォーカスマンね。
 でも大きな仕事はこないんです。普通のCMの現場と違うけれど、気心知れた仲間同士で
やれた。それにギャラのことは言わなかったし、気にしなかった。なによりもまず現場が
楽しかった。みんなそう思っていたしね。
 昔はね、CMにもムービーキャメラマンが楽しめる内容のものがあったんですよ。当時は
まだフィルムだったから、モニターを使っていない時代があったわけで、もちろん監督に
は覗いてはもらうけど、キャメラマンが好きにフレームを作れた、光の世界を好きに作れ
た。だから、昔のCM見ると、監督の個性はもちろんだけど、キャメラマンの個性が出て
るんだよね」

 数をこなしていくうちに、撮影助手であった昇はCM製作会社宣映にいた作家壇一雄の
長男・太郎におもしろいやつと気に入られる(氏はしばらくして退社後TVの料理番組や
紀行ものに出演し活躍した)。昇は早速、就職活動をしていた岩城信行をこの壇太郎に紹介
した。面接の翌日に岩城は宣映の社員となった。岩城はこの一件を「竜馬の(時の)お返
し」と呼んでいる。

 この時期、意外と思われるかもしれないが、篠田昇は草野球チームに所属していた。「東京FILMEX」という映画関係者を中心に構成されたチームだった。大林宣彦(映画監
督)総監督、高田純(脚本家)現場監督を筆頭に大久保賢一(映画評論家)、六川則夫(映
画監督)、伴睦人(映画監督)、長崎俊一(映画監督・一度も参加せず)、腰山一生(故・放
送作家)、橋倉正信(フランス映画社)、小西(創造社)、清水俊雄(映画評判家)、後藤和
夫(映画ライター)、そして私堀越一哉(フーテン)の他、出版編集者やイラストレーター
たちによるチームだった。チアリーダーには当時映画評論家の女子大生(現・泉麻人夫人)
もいて、これに昇も途中から加わっていた。
 しかし、昇は陸上競技はやっていたものの、どちらかというと球技は苦手だった。キャ
ッチボールもぎこちなかった。
 昇はこのチームに入ると、多分質流れだと思うのだが、新品のグローブを購入した。メ
ンバーの中には、自分のグローブを持っていないものも多く、チームのぼろグローブを使
ったり、貸し借りをしていた。そのほとんどはササキやミズノ、あるいは無名のといった
国産メーカーのものであったが、昇のそれはローリングス社製、メイド・イン・USAで
あり、これを持っているのはおれひとりだぞといった得意満面で日々グローブを磨いてい
た。
 ある試合でセンターを守っていた昇のところにフライがあがった。ほぼ定位置で捕球し
たかに思えた昇に異変が起こった。ボールが昇の顔面に直撃したのだ。この場面でも笑え
たのだが、これには昇らしいオチがあった。
 昇はグローブもカメラ同様丹念に手入れをしていた。つまり分解して掃除していた。分解といっても単純な作りであったから、結んである革紐を解き、隅々までクリームを塗りこみ、再び革紐を結ぶという程度のものであった。ところが最後に結ばなければならないバスケットウェブ(親指と
人差し指の間の水かきのような部分)の革紐の何箇所かを結び忘れていたのだ。つまり捕球はしたものの、すり抜けてしまったというわけだ。
 この一件が理由ではないだろうが、この日以来、昇は練習や試合に姿を見せることはな
かった。(すっかり忘れていたことであったが、篠田いづみによるとこの時の篠田昇の背番号は「22」だったという。R2D2にあやかったこと、しかも2は昇のラッキーナンバーであるとも話してくれた。しかし、R2D2が本当のことだとしても、その先に見えてくる数字の出所は彼の誕生日である2月2日に由来することは想像できる。そして偶然なのか、命日は22日となった)

 1977年(昭和52年)の秋、少年院のある群馬県大間々町のロケを中心に、東陽一監督作品「サード」の撮影が始まる。川上皓市のキャメラマン、デビューの作品である。そして、チーフに小林達比古、昇はセカンド、フォーカスマンとして共に昇格した。
「篠田はね、フォーカスがうまかった。それと技術的にいろいろ工夫するのが得意でね。
予算がない時、難しい撮影、面倒くさい撮影やカットがある時、すぐね、こうやればでき
ますよって、アイデアを出してくれるんで随分助かったね。
 例えば、スチルカメラで覗いたような設定のカットを撮りたい時、ほらスチルのファイ
ンダーって、真ん中に十字があったり、四隅に撮影範囲の枠が見えたり、いろいろマーク
があったりするでしょ。で、実際にスチルカメラのファインダーからムービーで撮れる仕
掛けを考えてくれたりするんだよ。ムービーで撮った画をオプチカル処理するのではなく、
直接接写レンズを使ったりしてね。いろいろ考えてくれるんだ。ローアングルの移動撮影
するっていう時も、近所にある鉄工所に行って、その道具を作ってもらったりしてくるの
よ。とにかく、相談するとなにか考えてくれたんだ。
 そういう性格は、篠田がひとり立ちしてからもずっとあったよね。新しいこと、やろう
と。機材を自分たちで作っちゃうとかね」

 この後、キャメラマン川上皓市とチーフ小林達比古のコンビは、東陽一監督作品「もう頬づえはつかない」(1979年)、「四季・奈津子」(1980年)、「マノン」(1981年)、「ラブレター」(1981年)を撮り続けていくが、昇はこれに加わっていない。川上の知己でもあるカメラマン住田望のチーフに付いたり、他のカメラマンからの依頼を多く受けていたことが重なったためと思われる。
この時期、制作としてたまにではあるが共に仕事していた岩城信行は語る。
「昇は人柄のせいで、気に入られて、回りからよく誘われていた。売れっ子CMカメラマンからも自分の助手が都合悪い時に、おれんとこでやれって、呼ばれていた。当時のCMカメラマン、売れっ子って、200万円よ、1日のギャラが。今より多分いいよね。昇がいくらもらっていたかは知らないけど」

ちなみに「四季・奈津子」では、昇の中村橋のアパートがロケ・セットとして使用されている。



またこの頃、篠田昇は「ザ・ストリッパー 堕ちて藍」(1981年)と
いう全国各地のストリップ劇場で公開された特殊な劇映画(16ミリ)の撮影を手がけた。カメラマンとして、である。
 話は1975年(昭和50年)にさかのぼる。「ハードボイルド・ハネムーン」の公開もよう
やく落ち着いた頃、私たちグループ・ポジポジの前に、ひとりの角刈りの大柄な男が大阪
から訪ねてきた。メンバーらと新宿三丁目の喫茶店で待ち合わせをした。彼は、私たちの
映画を見て、一緒に映画を撮りたいと思い、大阪芸術大学写真学科を中退し上京してきた
のだという。うれしい話ではあったが、私たちに次回作の目途は立っておらず、とりあえ
ず製作できる段階になったら必ず連絡すると約束し、その場は別れた。
 上京したものの全く当てのないその男は、新宿三丁目にあった新宿モダンアートという
ストリップ劇場に照明係として就職した。そして事あるたびに電話を寄こし、「見に来てよ、
タダだから」と私たちを劇場に誘った。
 そうした付き合いをしていくうちに、いつしか彼はストリップ業界において、その頭角
を現していった。様々なショーの企画や興行を打ちたて、マスコミを利用するその手法に、
スポーツ紙や風俗関連の週刊誌等は、彼を“ストリップ界のつかこうへい”と呼ぶように
なった。こうして、ジョウジ川上の名は世間に知られるまでになる。
 が、こうした表舞台とは別に、彼は金曜日のオールナイト興行で、前衛舞踏やアングラ芝居、自主映画等、日の目を見ない若者たちの活動をストリップ劇場で展開させる。普段のストリップを見に来た酔客は怒鳴り散らす。それでもジョウジ川上は、オールナイトで演じる食えない若者たちを昼間ストリップでアルバイトをさせ、金曜の夜、自らの表現の場として提供していた。
 その一環として、彼は蓄えた資金で映画を作ろうと考えた。それが「ザ・ストリッパー 堕ちて藍」だった。
 監督は劇作家の山崎哲(脚本も)と後藤和夫。山崎は映画のノウハウを知らないため、
実質、現場を仕切ったのは後藤であった。
「昇が1シーン1カットみたいなことを意識していたのかいないのかわからないけど、そ
ういうシーンがあった。手持ちで、観客席からそのまま舞台にカメラが上がっていって、
ストリッパーが踊っているところを舐め回して、また観客席に戻る。相米慎二の影響なの
かな。16ミリカメラだったけど、体力はあったな。でも、金(予算)なかったから、照明
代えるの時間かかるし、意外と面倒臭いんで、カット割したくないから、だから(昇は)
そうしたのかもしれない」
「日のあたらない劇場で踊って頑張っているストリッパーたちへのプレゼント、彼の育てたストリッ
パーたちに対するお礼なんだな、彼がこの映画を作った意味は。フィルムに(形として)残してや
ったんだよ」
 しかし、ジョウジ川上はその後、数冊の自伝や彼のルポルタージュを残しているが、この映画の
ことにはあまり触れていないのだと後藤は心配する。
「理由はわからないけれど、彼にとっては、忘れたい記憶なのかな」
現在、ジョウジ川上こと川上譲治は、ひょんなことから走り出してしまったストリップ業界から足を洗い、母校大阪芸大の大学院に復学し、30数年前の意志を取り戻すべく、本来自身の目標であった「写真」に取り組んでいるという。

 この映画で、カメラマンとなった篠田昇のチーフを務めたのは、根岸憲一だった。

 続いて、同じく東陽一作品である「ジェラシー・ゲーム」(1982年)、「ザ・レイプ」(1982
年)、「セカンド・ラブ」(1983年)で、再びキャメラマン川上皓市の下、篠田昇は待望のチーフを務めることになる。ちなみにこの3本は約1年の間で撮影された。そして、ここでも根岸憲一はサードとして昇の下で働き、その後も篠田と活動を共にしていく。
「篠田さんのキャメラマン・デビューは「ラブホテル」なんですが、その時の助手(チーフ)が篠田さんの最初の一番弟子といわれているんですよ。
 でも、篠田さんがキャメラマンとして一本立ちした時、最初のチーフはぼくなんですね。テレビのドキュメンタリーもの、これが篠田さんの最初のキャメラマンとしての仕事だったのですが、そのチーフをぼくがやった。最初の映画でも「ザ・ストリッパー~」でぼくがチーフ。両方ともマイナーなんですが、最初の助手はぼくなんです。だから、本当の一番弟子はぼくなんです」
と目を輝かせる根岸憲一。
「自分の中では、技術的に教えられたというものはそんなにないと思います。ただ、自分
がカメラマンとして独立した時、あっそうだったのか、と気付かされたことがありました。
何かトラブルとか感情のずれみたいな、そんなことがスタッフで起こると、くずれたまま
最後までいってしまう。で、失敗したなと後悔することが結構あったんです。その時、あ
あ、だから篠田さんはそうやっていたのか、と。
 篠田さんは最初からあの笑顔です。とっても印象的でしょ、篠田さんの笑っている顔っ
て。笑顔でみんなを迎えて温かい雰囲気を作ってしまう。もう撮影前にがっちり輪を作っ
て仲良しになってしまうんです。気持ちをひとつにするとでもいうんですか。もちろん篠
田さんが中心で、仲良く回りのみんなを自分の世界に入れてしまう。巻き込んじゃうんで
すね。しかもみんなの意見を聞きながら、できるだけ対等でいようとしている。その気持
ちが相手にとって、とても近くに感じるんですね。だから、怒られるんだけど、殴られる
んだけど、なんかまた元の仲良しに戻ってしまう。
 篠田さんは現場でいきなりやろうとすると無理がある、その場で説明しても時間がかか
り過ぎてしまうことを知ってたんだと思います。
 これは篠田さんから学んで理解して、今自分が実践していることです。やるよって始め
るとみんなが同じ考えで動いてくれる。格段に違います」

 前述したように、昇は「セカンド・ラブ」の後、次なるステップとしてムービー・キャメラマンの
道を進むようになる。が、それは篠田昇の意志でもあったのだが、実は師匠川上皓市が昇
の仕事ぶりの異常に気付いた思惑がそうさせたことでもあった。


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取材協力:篠田いづみ

2007年08月02日

take6 ひとり立ち

篠田昇を知る人ならば、だれもが認めるこだわり。このこだわりの美学は、大方、物に
対してである。そして、それは普通っぽいのだけれどどこかちょっと違う、あるいは他人
にはどうでもいいような、そんな些細なこだわり方だ。
この“些細な”ことが実は重要なキーワードだと私は考えている。こだわりはもちろん、些細な出
来事、些細な疑問、些細な発見・・・些細な何かに異様な興味を持っていたし、特別な驚
きを示し、そしてそれを楽しんでいた。それは他人とは違う何かなのだ。
そして、これはある面、性格や嗜好性へとつながっていく。

ここで昇の人柄の輪郭を私なりの記憶の断片で拾ってみた。
・昇は誰にでもやさしく接してはいたが、肌の合わない(嫌い)人間には、以後近づこう
とはしなかった。だから、傍からは嫌いな人間なんていないように見えた(のではないか)。
・子供を叱る昇を何回か見た。それは昇が車を運転していて、横から自転車に乗って飛び
出してきた子供に執拗にクラクションを鳴らしたり、わざわざ車を止めて車道で遊ぶ子供
たちに「こらー、そんなとこで遊んでると轢かれるぞ」と叫ぶものであった。そこまでし
なくてもと少し過剰な気がしたので、聞いてみると「(放っておくと)この次はあいつら、
死ぬことになるからさ」と答えた。
・自分の家(部屋)に人を泊めるのが好きなくせに、人(友人)の家に泊まるのは好きで
はなかった。自分の好きな様に作った場所に居心地を求めていたのだ。
・興味あることには得々と饒舌になり(この時、よくツバをこぼすことがあった)、人に
押し付けるきらいがあった。かといって、他人の好きなことに関知することはなかった。
・小説や漫画はあまり好きではなかったと思われる。私は昇がこの手の本を読んでいる姿
を見たことがなかった。
・冗談が好きで、特に自分の冗談に悦に入ることがあった。大学時代、なぜだか昇と岩城
と私は江古田から池袋に向かう午前の通勤ラッシュに遭遇したことがあった。吊り革に3
人は掴まり、いつものようにおしゃべりをしていた。池袋近くになった頃、信号待ちのた
め停車することが度々起こった。前にすわっていたおばさんが窓越しに「まったく遅いわ
ねぇ」と大きな独り言をあげた。すかさず昇は「この電車は西武(セーブ)だから、さ」。
数秒の間があり、おばさん以下周囲の人たちの大爆笑が起こった。昇の顔はしてやったり
の得意顔になっていた。
・大学時代に後藤和夫とふたりで住もうと西武線沿線のアパート探しをしたが、昇は外観、
部屋の形や内装が気に入らないため、何件見ても決まらなかった。結局、ふたりの計画は
頓挫し、しばらくして昇は中野にアパートを見つける。
「他と非なるものを探すっていう感じだった。注文がものすごくうるさい。そんなもん、
絶対にないと思ったもの。だれの影響なんだろうね、昔でいうハイカラみたいな」
と後藤は言う。
・私や後藤和夫が好んだ性風俗には全く無関心であった。但し、ストリップは一緒に見た
ことがある。
・マージャンや競馬のような賭け事はしなかった。おいちょかぶやポーカーなんかをやっ
た記憶はあるが、特別熱くなることもなかった。パチンコはたまに神保町の人生劇場や江
古田でやっていた。これらは自分から進んでやることはなく、すべて誘われてやっていた。
・大好物はカレーライス、カツ丼、ハンバーグ、餃子、オムライス、豚肉しょうが焼き、
ソース焼きそば、スパゲティーナポリタンなど極めてオーソドックスな、しかも濃い味の
食べ物ばかり(昇の好物として有名な焼肉は、まだ私の知る範疇にはなかった)。
ある日、アメ横での買い物帰りに、世界にこの店にしかない絶品があると昇に連れていか
れたのは、アブアブの近くの奥まったところにある怪しげなレストランだった。その食べ
物の名は「西洋カツ丼」。なんてことはない、ドリアの上に玉子でとじたカツ煮が乗っかっ
ていた、かなりヘビーなものであった。
・キッチン・カロリーのように、キッチンと名の付く食堂が好みだった。理由は食べたい
ものがたくさんあるからだと。
・そういえば、缶詰にも詳しかった。

こうした他愛ないエピソードは、思い出そうと思えば次々に出てくる。
ついでながら、take2にて私は昇の金銭感覚(ケチ)について述べたが、これにまつ
わるおもしろい話が聞けた。
「篠田さんもぼく(長澤雅彦)も割りと暇だった時期がありまして、篠田さんは(Mさん
と別れた後)ひとり暮らしをしていて、練馬の田原電気という電気屋さんの二階に住んで
いました。いづみさんとは付き合いをしてた頃です。このアパートに週三日か四日は泊ま
っていましたね。仕事ないもんだから、篠田さんの白いベンツでプロダクションとかに冷
やかしに出かけた後、酒飲んで、泊まって、朝起きると腹減っているから弁当を買いに行
って、なぜかその時の弁当代はぼくが払っていました。篠田さんは味噌汁作って待ってる
んです」
「照明の中村(裕樹)と飲み屋で話したことがあった。昇って、いつも払わないんじゃな
いかって。やつら(昇と中村)いつも現場やっているじゃない。そうすると撮影終わると
撮影部や照明部のスタッフで風呂に行くのよ。そん時も昇は払わないんだって、中村は言
うのよ。ぼく(川上皓市)が覚えているのは、車。ガソリン入れるのに絶対満タン入れな
いんだよ。10リッターだけとか1000円だけとか。必ずちょっとしか入れないんだ」
なかなか笑えるエピソードだ。しかし、私を含めてだが、みんな何故見逃して済ませて
いたのだろうか。まるで直接、昇に忠告した人はいないみたいだ。

師匠川上皓市は、私がこの「カメラマン篠田昇の残したもの」で解明しようと考えてい
たある疑問を口にした。
「昇はこだわりがすごいじゃない。カメラにしても車にしても。だから映像に対しても絶
対彼なりのこだわりがあったはずなんだよ


1982年から川上皓市のチーフとして、東陽一監督「ザ・レイプ」「ジェラシー・ゲーム」
「セカンド・ラブ」
の撮影につく。
この撮影でサードについた根岸憲一は、
「右に出るものがいないくらい、名チーフでした。川上さんもすごい人なんですが、回り
を仕切って現場を動かすのは篠田さんでした。計算力もすごくて、川上さんでもわからな
かったくらいだったと思います。なにしろカメラマン以上のことを全部こなしてましたか
ら」
と昇の仕事ぶりを絶賛する。
「こういうことだよと一回決めたら、後はもう昇に任せていた。だから現場では監督とフ
レームのこととかに専念できた。どういう風に撮るとか(の撮影設計)は、相変わらず飲
みながら雑談含めて毎日しゃべっているわけですよ、本当に毎日。昇がチーフの頃は楽だ
ったね、何も心配しなくてよかったから」
カメラマン川上皓市の言葉からも信頼しきった関係が素直に見えてくる。

ところが、「セカンド・ラブ」の撮影中、川上皓市はチーフ篠田昇の手際に違和感を感じ
始めた。
「チーフの仕事っていうのは、キャメラマンが考えた光のバランスを、例えばキーライト
の強さとかをメーター上きちっと正確に測るのが仕事で、言われたようにしなくてならな
い。すべての決定はキャメラマンがして、チーフはそれに従うものなんだよ」
が、チーフ昇はある勝手な行動に出た。
「昇は自分で考えた露出をきっているのよ。ぼくには言われたようにやったと言っておい
て、ラッシュ見たら違うということがよく起こった。ぼくの考えと違うバランスできった
りしたカットが多々出てきた。要するに、昇は我慢しきれなくなって自分の表現をやりだ
したんだな。
その時は、何やっているんだお前、言うとおりにやれよ、って怒ったんだけれど・・・。
一方で昇の気持ちはわからないでもなかった。2年間で3本同じキャメラマンのチーフをや
るというのはかなり辛いことだしね、おもしろくもなんともないじゃない。ぼく自身CM
では随分チーフやったけど、劇映画では1本しかやってない。チーフ1本やればもう自分
の世界に行けるんだよ。だから、昇の気持ちがよーくわかった。チーフは何本もやるもん
じゃないというのが、ぼくの考えなんですよ」
そして、川上は続ける。
「でも、ぼくは困るわけさ。こっちの考えた画にあがらないと。光のバランスとかはキャ
メラマンの領域だからね。
で、ここまで来ちゃったんなら、チーフを卒業しなさい、と昇に話したわけだ。
昇は昇で、これまで川上から聞いてきた世界を否定して自分の世界を作ろうという意志が
あったね、かなりはっきりと」

こうして篠田昇はひとり立ちしていくわけだが、まずはテレビのドキュメンタリーもの
を手がけていく(詳細次回)。
そして翌年、「湾岸道路」(監督東陽一)の撮影で、カメラマン川上は再び篠田昇を呼ん
だ。
「2台カメラを使うときのBキャメラマンをやってもらった。その時は一応キャメラマンだ
から、結構うれしそうに撮っていたよ、生き生きしていたな」

昇が抜けた以降、川上皓市の撮影体制に大きな変化が生まれた。
「小林(達比古)や昇とかは考え方とかが一緒のところがあったと思う。だから、このシ
ーンはきちっと光が当たっているんじゃなくて落ち着いたいい調子にやってくれと頼むと、
はーい、渋くですね、ってやってくれる。ラッシュ見ても全然問題ない。そういうイメー
ジがちゃんと伝わりあっている関係だった。
ところが、そんな昇があんなことをしたから、また間違えられちゃ困るから、いちいちチ
ェックするようになっちゃった、ぼく自身が。露出測ってもいちいちチェック、あそこは
どうなっている、ここはどうなっていると細かいところまでいちいちチェック。だから、
昇から後の助手さんたちからはうるさいキャメラマンだと思われていた」

プロデューサーで映画監督でもある親友長澤雅彦は、かつてカメラマン篠田昇の撮影助
手論を聞いている。
「助手たちは、どうしても縦社会だから、上へ上へ上がっていきたいわけですよ。早くセ
カンド、チーフになりたい。篠田さんはサードでは早く機材覚えて、機材管理して、ま、
篠田さんの場合は自分で作った特機などの機材も多くあり、それを覚えるのも大変なんで
すけどね。で、それからセカンドになって、セカンドに長くいろ、セカンドをじっくりや
れって、言ってました。セカンドになってフォーカス送るようになって、そこが一番大事
で面白いとこなんだって。フォーカスを送る作業は違いがわからなければ送れないわけだ
し、実際に回しているカメラの横で、キャメラマンの意図を共有している映像を知る一番
のチャンス、勉強なんだ、と。そういう助手の立場は絶対にカメラマンになった時に役立
つから、と。自分自身の経験からそういうふうに言っているのだと思います。何でみんな
チーフになりたがるのか、チーフなんてカメラマンになってからでもやれる仕事なんだか
ら、チーフは1本2本やってカメラマンになればいい、のだとも言ってました。
しかし、篠田さんって、ものすごく個性的なカメラマンですし、カメラワークもそうです
よね。だから、いつまでも篠田さんのセカンドやっていると特殊なカメラマンなってしま
う心配とか、他のカメラマンについた方が自分のためになると思って、篠田さんから離れ
た助手は、ぼくが知っている限り2,3人はいましたけど。
篠田さんはこの件を、「いゃー、残念だ。意図をもってやっていることを理解してもらえな
いのは残念だ」と言っていましたね」

取材協力:篠田いづみ

2007年10月30日

take8 【番外編】白いベンツ

まだまだ沢山の人の話を聞かねばならない。が、自分の都合も加えて先に進まない日々が続く。早く形だけでも篠田昇の映像観や撮影法に触れていきたいのだが・・・。
本編は昇がようやく独立したあたりにたどり着いたが、この頃に関する話の中に、やたらと登場するのが、“白いベンツ”だ。

「映画の世界に進まれてからも時々会社(ドキュメンタリー・ジャパン)に遊びに来ていました。何か白いオープン・カーみたいな車で、ベンツでしたっけ。篠田さんは車は結構好きでしたね、ああいうアンティック系のものが。小物にしてもそうでしたね、ちょっとお洒落な感じで。」(プロデューサー河口歳彦)

「昇がテレビから映画で活躍していくようになってからも、時々うちの会社(えふぶんの壱)にも遊びに来てましたよ、一年に4、5回くらいかな、ふらっと。ひとりで来てました、車で、ベンツね、自慢しに来てたんです。映画の話をよくしてましたね、山口も早く映画作れって、叱咤激励されてました。」(えふぶんの壱代表山口秀矢)

80年代の後半から90年代にかけて、年に数回は昇と会っていたが、大方新宿の飲み屋で会っていたせいか、私はこの白いベンツを見た記憶がない。
ただ、昇が
「この前さ、石井聡互をさ、おれのベンツに乗せてやったらさ、サンルーフから身体のり出して、おおはしゃぎ。あいつは狂ってる」と自慢していたことを覚えている。

ついでながら、その数年前「今、車、何乗ってるの?」との私の問いに、なぜだか「アスカ(いすゞ)」と恥ずかしそうに話していたことも思い出した。



「東京ディズニーランド タッチ・ザ・ファンタジー」を完成させた1990年(平成2年)の暮れに、私は偶然、昇に会った。その頃、私の会社は新宿御苑の近くにあり、会社に戻ろうとしていた時、商店街の一角をものものしい撮影隊が占めており、その真ん中には高さ10数メートルの大きなクレーンが立っていた。その天辺に昇がいた。「ワールド・アパートメント・ホラー」(91年大友克洋監督)の撮影であった。
撮影中でないことを確認した私は、昇に声を掛けた。昇は手を振った。3軒隣りのマンションに私の事務所があるから時間あったら寄れ、と伝えた。昇はオッケーと答えたが、結局は来なかった。

「ぼくはベンツの古いやつばかり乗っているんですけど。篠田さんの影響で」
と語るのは長澤雅彦。長澤は岩井俊二監督「ラブレター」のプロデューサーであった。
「篠田さんはとにかく自分の車で現場に行くのが何より大好きで、車じゃないと動かない。ロケバスに乗るのも嫌いでした。
「ラブレター」で北海道に行った時も、監督車にするからおれのベンツ乗せていいかって、フェリーに。現場移動とかも全部篠田さんのベンツでやっていました。
どこへ行くにも車、ベンツでした。
しかも古いやつが大好きで、いかに昔のベンツが素晴らしいか、洗脳されるように聞いていました。
女優の室井滋さん、彼女も多分、篠田さんの被害者、一緒に勧められた古いベンツを買ってましたから。
篠田さんが平塚に古いシャンペン・ゴールドのベンツを買いに行く時、ぼくもクーペなんかががほしいなって言ったんですよ。
そしたら、長澤、いいのあったよ、おれが買うところにあったよって。つまり一緒に見に行こうや、なんです。要するに篠田さんは自分の都合で修理の車も持っていかなくてはならない、運転手がもうひとり必要だったんです。
でも一緒に行って、これはいいぞっていうのを試乗して買いましたけど、ぼくも」

これからもこの白いベンツはいろいろな方の話に登場すると思われる。こだわりの人、昇の中でも一際特別なものであったようだ。


取材協力:篠田いづみ

2008年11月25日

take25私家版「記憶の残像」

私は現在、自分自身の日々のくだらぬ思いを別のブログに書き綴っている。
そこに最近「記憶の残像」という検索によるアクセスが非常に多くなった。
これは、多分「篠田昇の残したもの」take23を読んだ人たちからのメッセージであると了解した。
だが、追悼文を書いた当時のホームページ「記憶の残像」は今はもう露出していない。未練がましく同タイトルでの雑記は継続している、ということだ。
旧「記憶の残像」で書いてきた私の映画(映像)への思いは膨大な量になる。生まれてからこれまでの映像との関わりや想いを書いてきたからだ。
その中に、篠田昇との出会いがあり、一緒に撮った映画があり、別々の道を歩んだ経過もあった。
そして突然の死があった。

昇と“くされ縁”であった本庄克彦の死も、これまた突然であった。
私は昇と本庄の関係を“はっつぁん、くまさん”と称したけれど、それはあながち間違った表現ではないと思っている。
文中最後に締めくくった“もっと聞きたいと思っている”との言葉は本音であり、彼の体調の回復を願っていた。
今、自分勝手な思いではあるが、元気なうちに早く会っておくべきだったと後悔している。

これを書き始めた2006年の暮れの頃に、私は本庄に電話を入れた。こんなブログを書いていきたいので、ぜひ昇の話を聞かせてくれ、と。
彼は、昇との別離の後、理由あって、ひとり暮らしをしているところだった。
彼は、私の申し出を拒んだ。
それは、何を話せばいいのかわからない、おれは昇の秘密も知っている間柄だから、そんなことをお前に書かせるわけにはいかない等々、警戒心でいっぱいだった。
が、昇が金に困っていた頃のこと、付き合った監督のこと、女のこと、話せないことが沢山あるのだと言いつつも、その触りを彼は電話で聞かせてくれた。
言えないと言いながら、話すところが本庄という男だった。
口と中身が裏腹で生きてきた、そんな心優しき男を、昇は大好きだった。

月日が流れ、このブログも何回かこなせた頃、人間篠田昇の輪郭をなぞる時、本庄の存在を抜きに語ることはできないと思い、私はこれまでのブログをプリントアウトして、彼に郵送した。
そして、今年の初め、本庄から電話があった。
「お前の文章なぁー、何が言いたいのか、おれにはやっとわかったんだよ。理解できたよ。
だから会ってもいいぜ、何でも話せると思うようになったよ。
(この時、本庄は映画のシナリオを書いているところだと語っていた)
しかしよー、おれには長澤(雅彦)や福本(淳)が、あんなことを言うのが信じられねぇんだよ、あんな風に。一種尊敬だろ、そんなわけないじゃん。いいとこだらけじゃん、あいつら言っていることはよ」
私「それは、ぼくが言葉のいくつかを選んでいるせいだよ。彼らだって、それなりに大変だった思いを語ってくれているぜ」
「じゃあ、はっきりさせようぜ、会ってよ。
おれは(彼らとは)違うよ、ぼろ糞だよ、あいつのことは」
私「それを聞きたいんだよ」

私は篠田昇の死をきっかけに、このようなブログを始めたが、今回書くことのできなくなった本庄の件が無念でならない
それは、是非とも読んでもらいたかったものだからである。私の想像もできない昇がそこにはいたはずなのである。
そう考えていくと、かなり心情的な気分に偏っているものの、ある一時期ではあるけれど、長いような短いような時間ではあったけれど、昇と親しく付き合っていた私という人間をもっと知っておいてもらうのも必要なのではとの思いに駆られた。
こんな男が「篠田昇の残したもの」を書いているのかと、そう思っていただければ幸いだと願いつつ、今はお倉入り状態になっている旧「記憶の残像」の抜粋を綴ろうと思う。
少し横道にそれることになるが、篠田昇が生きてきた時代背景とともに、サイド・ストーリーにしばしのお付き合いを。
(本ブログ初期の拡大版となる部分を抜粋します。とにかく長く、このブログでの昇との思い出もここから引用しているため、重複する内容も多々ありますので、ご了承ください)





●記憶の残像・抜粋(第18回より)
 グループポジポジの『天地衰弱説第二章』(16mm映画白黒)は、各地から上映の引き合いがあった。前作8mmの『天地衰弱説』とのカップリングでの要請だった。
 仙台には福田が、大阪には後藤と磯貝がそれぞれフィルム・ロールを抱えて出向いていった。特に大阪では自主映画を数多く集めたプログラムに組まれ、三越劇場で何日か連続で上映した。
 その頃、自主映画というものは大変珍しく、また上映する場所も設備のある公民館などでその数はかなり限られていた。
 が、独立プロの記録映画や作品などと 合わせて、それを精力的に上映する映研等のグループが地方都市を中心に多くあった。そういった若者たちに呼ばれ、シンポジウムのようなものも上映と合わせて開かれていた。

 秋に入ると、グループポジポジの面々は、相変わらず会うには会っていたが、次の映画を撮る話もなく、みんな将来のこと、大学に進むことを意識し始めていた。ぼく自身も代々木ゼミナールに入り、時々授業を受け、試験に臨んだ。が、3年時に習うはずであった科目は全くわからず、その成績は惨憺たるものだった。
 
 昭和46年3月、福岡はICUに、福田は早稲田の政経に、磯貝は北大に、橋本は成城大(翌年都立大へ編入)へとそれぞれは散っていき、後藤は大学には進まなかった。
 ぼくは、日大芸術学部映画学科に入学した。迷わず撮影録音コースを選択した。
 自分の学力では、国立も私立のいい大学も無理だと悟ったせいもあったが、好きな撮影の勉強もいいかな、と思ったからだ。
 ここでは、撮影機材も豊富だし、施設も整っていたから、今後の自分たちの映画製作に何かと利用できるかもしれないという目論みもあった。
 入学式には出られなかった。前の晩に飲んだ酒のせいで、行く途中、西武池袋線の駅で気持ち悪くなり、吐いてしまい、駅長室で寝ていたからだ。
 何になりたいのかもわからず、このままこの大学へ進んでもいいのだろうかという精神的曖昧な苦悩と、大したことではないくせに酒に侵されていく肉体の衰えの不安を大げさに交えて、この入学式に出られなかった様子を、“文学”の授業で書いたら、先生から呼び出され、ほめられた。ただ、タイトルが文と合っていないと注意された。そのタイトルは「わたしは老人」だった。
 ぼくは作文の感想批評を受けたのは、多分小学校以来のことなので、新鮮に感じ、文を書くのもなかなかおもしろいものだ、とこの時思った。

 撮影録音コースの授業は思っていた以上に楽しかった。
 当時学長であった登川直樹の映画鑑賞後に感想を書く授業、ここで、かの傑作の声名高い『ラ・ジュテ』や実験的映像技法を試みたソビエト大作『戦争と平和』、ジュリアン・ディビビエ監督の名作『舞踏会の手帖』、エイゼンシュテインの野心作『アレクサンドル・ネフスキー』、ジャン・コクトーの幻想映像『美女と野獣』、そして邦画では、阪東妻三郎唯一の現代ホーム・ドラマ『破れ太鼓』、同じく阪妻の『王将』、三船敏郎の『無法松の一生』、『羅生門』など古典的な名作が毎週楽しめた。
 元カメラマンの撮影体験談、かつて活躍した監督の撮影所の話、実際にセットを組んでの撮影実技、8㎜による課題実習・・・、撮影と録音の理論技術面ばかりでない授業はこの上なくおもしろかった。
 この頃、心中では漠然とだが、(映画の)カメラマンを目指そうと決意にも似た気持ちをもち始めていた。
 
 初夏の頃、泰子(「東京戦争戦後秘話」の主演女優)から電話が入った。撮影の仕事があるから一緒に行かないか、と。ぼくたちは成島東一郎さんの事務所“キャビネット・オブ・エヌ”に出かけた。
 待っていたのは、カメラマン仙元誠三であった。泰子はちょい役で声をかけられていた。仙元さんは、その映画の撮影助手をやらないか、とぼくを誘った。食事と寝床は確保するがギャラはなし、という条件だった。ぼくは即OKをした。
 映画は『空、見たか?』、監督は新藤兼人の助監督をしていた田辺泰志という角刈りの太鼓腹おじさんだった。この映画は、岡山県倉敷のシネ・クラブの人たちを中心に、支援とボランティアで製作された、当時では(今でもか)珍しい形態のものであった。
 撮影は、田辺監督の地元倉敷と瀬戸内海を中心に、京都市内、丹後で行なわれた。
俳優さんの宿舎は田辺監督の実家のとんかつ屋の2階、撮影隊の宿舎は地元富豪の離れ、助監督等スタッフはミーティングに使われた広い一軒家に間借りした。
助監督たちは、田辺監督の弟をチーフに、彼の早稲田大学の友人たちが集まった。みんな映画経験のないド素人たちであった。
 一軒家は、宿舎やミーティングだけでなく、スタッフやキャストの朝食や夕食の場でもあった。スタッフ・キャストがほぼ揃った夕食の時、各自自己紹介をした。
その時、出演者の吉田日出子が友人と称して、ひとりの若者をみんなに紹介した。写真では見たことがあったが、それが彼だとは気付かなかった。ぼくは興奮した。憧れの人物“はっぴいえんど”の松本隆であった。
 
 普通、映画撮影のスタッフ構成は、カメラマン、主に露出を計るファースト、メジャーで距離を計るセカンド、フィルムの詰め替えをするサードと役割が決まっ ており、ぼくは普通の撮影では存在しないフォースという、その他使い走りのなんでも屋だった。しかも、この撮影隊は、照明も兼任していた。
 セットを組んでいる時、セカンドで照明チーフの倉田さんから、「堀越、ケント紙買ってこい」と言われた。ケント紙なんて、倉敷で売っているのか。どこ行けばいいんだ、どれくらい必要なのか、一切は不明だ。聞き返したら絶対に怒鳴られることはわかっていた。状況を見て判断するしかなかった。
 しかし、状況を判断する力量すら、ぼくにはなかった。自転車に乗り、紙屋はどこですか、文房具屋はどこですか、と訪ねて回った。紙屋が見つかり、ケント紙はあったが、いろいろと重さがあり、その選別がわからない。何種類かを買って、現場に戻った。
 戻るとすかさず、「ライト2つ、持って来い」と指示が出る。ライトはバッテリーと対になっており、このバッテリーがえらく重いのだ。両肩にバッテリーを担ぎ、手にライトと支柱を持ち、指定の場所に持っていく。この「持って来い」は持っていくことだけの意味だけではなく、セッティングすることを含んでいる。それをしないとゲンコツや罵声が飛んだ。
 とにかく、初めて本格的に参加した撮影現場は修羅場であった。
 初日の撮影が終わり、遅い夕食をとり、カメラやレンズの掃除、フィルムの装着、フィルターの整理、今日撮影したフィルムのナンバーの整理、バッテリーの充電、機材の整頓、明日必要な機材を即運び出せるように準備・・・、へとへとになりながら、深夜寝床についた。
 午前4時起床。眠い目をこすりながら、小便に行く。ワァオー、チンチンが真っ赤赤だ。何をしても起きないくらい疲れ切って熟睡している新人に、マジックインクで塗りたくる、先輩たちの洗礼だった。
 “お尻を掘られなくて、よかったよかった”と、ぼくは今日もまた元気な撮影に出かけていった。

 昭和46年8月15日にクランク・インした『空、見たか?』の撮影は、岡山県倉敷市、瀬戸内海を中心に順調に進んだ。
 時は1960年、物語は主人公が高校3年の夏に始まる。この主人公が、セックスに明け暮れ、放浪の旅に出、そして結婚してもなお心の赴くままに生きていく、そういう話の映画であった。

 初日は、市郊外にあった倉敷東商業高校で、教室内から裏山まで、終日目一杯を使った。ここでぼくは、初めて“太陽”の担当になった。
 映画というのは、いくつかのシーンで成立している。そのシーンはまたいくつかのカットから成り立つ。
 例えば、アウトドアでの向き合った男女の会話のシーンがあるとする。男がしゃべっているカットは晴れているのに、切り換えした女のカットが曇っていたのでは、同時間ではない違和感のある映像になってしまう。このため、晴れのシーンは、基本的にずっと晴れた状態で撮影しなければならない。
 この日は、晴れてはいたけれど、雲の多い天気であった。そのため、雲の動きを予測して、雲の合間から太陽が顔を出すのが何秒後か、そして何秒くらい陽を差し続けるのかを、監督やカメラマンに大声で伝えるのだ。
 楽しかった。すでに撮影や照明の準備は終わっているので、みんなはぼくの声を待っている状態だ。予想が外れると罵声が飛んだが、クランク・インしたばかりなので、みんなにも余裕があり、笑いながら進んでいった。
 校庭では硬式野球部が練習をしており、ぼくも休憩の合い間、打たしてもらったりしていた。
 まむしがいるという裏山では、いきなりのセックス・シーンがあり、ぼくは仙元さんが崖から落ちないように崖っぷちで支えたり、レフで俳優さんのお尻などを照らしたりした。

 木ネジ2本5円の領収書をめぐり、金物屋のばばぁと喧嘩をしたり、苦しいながら撮影していることだけで毎日が充実していたのに、監督の実家のとんかつ屋でごちそうになったり、ボランティアの女の子とデートしたり・・・、泰子と喫茶店や美術館を回り、素晴らしい倉敷の町を堪能したり・・・、ぼくの二十歳の夏は、異郷の地で弾け飛んでいた。

 仙元さんは、撮影の待機状態の時、撮影スタッフみんなに、「(セッティングされた)カメラ、覗いてもいいよ」と気を使ってくれた。ぼくは勉強になるため、お言葉に甘えてよく覗いた。が、他の撮影スタッフはだれも覗こうとしなかった。
 撮影開始から、しばらく経ったある日、雨のため、撮影が中止になった。
 スタッフ全員が集合し、田辺泰志監督を中心に、反省を含めた意見の交換会が開かれた。ぼくは、部分的な演出について、監督に尋ねたりした。演出陣からも撮影についての質問が出た。
 が、仙元さん以下撮影スタッフの面々は黙ったまま、返事をしないし、しゃべらない。余計なことは言わないという雰囲気だ。たまに仙元さんが一言二言、言葉を返すだけ。
 この時、共同で映画を作るという、ぼくの思っていた映画作り、これまでぼくたちがやってきたものとは、かなり違うものを感じとった。
 撮影スタッフは“プロの集団”であり、その技術を最大限活用してフィルムに残すこと、それが彼らの仕事であると、後になって気付いた。任された仕事をだれに指示されることなく、自分たちの力で全うしていく。それが俺たちプロの仕事なんだと。
 すごい、と思った。が、同時にこういう映画作りでの撮影は正直つまらないな、とも当時若かったぼくは思った。
 完全なる縦社会で構成されているプロの世界、将来漠然とだが映画カメラマンを目指そうと考えていたぼくは、この時多分自分にはなじめない世界かもしれない、と思った。

 そして、しばらく経った頃、銭湯で一緒になった仙元さんがぼくの隣りに座り、神妙な顔をして、「ホリちゃん、髪、切らない?」とたずねてきた。
 ぼくは、「何でですか?」と答えたものの、髪を切る気は微塵もなかった。話はとんかつ屋で働く少年の役で出演してほしい、ということだった。この役は、主人公と結婚した奥さんの実家がとんかつ屋をやっており、主人公は店を継ぐ。その店で働く家出少年の役で、自分の彼女も主人公にとられてしまう、情けなく悲しい役だった。ぼくは、興味はあったものの、「髪は切りません」と断った。
 しかし、結果は、髪を切らなくても、出演することになった。
 本番になると主演の吉沢健は、ぼくと目を合わせると必ず吹いてしまい、「お前、真面目にやれよ」とぼくに当たった。
 
 撮影も終わりに近づき、残すは京都市内、丹後の撮影だけとなった。みんなが京都に出かけていった時、ぼくと助監督2名は倉敷に残り、荷造りや後片付けを やることになった。その2日間、時間に余裕が生まれ、ぼくはずっと考えていた。プロの世界で生きていくべきか。
 そして、決めた。プロの世界に入り、撮影助手を経て、カメラマンになる夢は捨てようと。自分のやりたいことは、自分の撮りたい映画を撮っていくことだと、強く思ったからだ。
 そんな思いを胸に秘め、助監督たちと、次の撮影地丹後へと向かった。

♪トマトやアンズやリンゴを買って
 汽車に乗ったは良かったが
 明るい星に眠られず
 トマトを捨ててボトルを買った
 ここはどこ?
 ここは火の河
 ここを過ぎ……

 アンズやリンゴを小脇にかかえ
 汽車を降りたは良かったが
 空の底吹く風ばかり
 アンズを捨ててボトルを開けた
 ここはどこ?
 ここは地の果て
 ここを過ぎ……

 トマトもアンズもリンゴも捨てて
 激しい夢も醒めはてて
 涙のような酒びたり
 ボトルを捨てて、もう帰れない……
 ここはどこ?
 ここは地獄だ
 ここを飛べ!

(『空、見たか?』の主題歌「長い長い旅の報告」清水哲男作詞)


 東京に戻ると、大学に進まなかった後藤は、できたてホヤホヤの日本映像学校、通称“原宿学校”に通い、映画の勉強をしていた。
 ぼくは、時々彼と酒を飲み、『空、見たか?』で経験した本格的撮影の話をした。そして、ぼくの胸の思いを告げた。再び、自分たちの映画を撮りたいのだ、と。
 後藤もそう考えていた。この頃、ぼくたちは、自主制作(映画)で食っていくことを本気で考えていた。

 ぼくは解散状態にあったグループポジポジを再結成すべく、大学にいた仲の良い二人の男をメンバーに誘った。
 この二人とはいつも一緒に行動していた。授業が終わるとよく行ったのが、新宿紀伊國屋裏手にあった喫茶店トップスの2Fだった。ここで、“紅茶”と“じゃがいもとソーセージ”を注文した。これがぼくたちの定番メニューであった。
 ガリガリの長身でモデル顔、いつも女を連れていたジゴロのような平塚出身の岩城信行。
 ビートルズの熱狂的ファンで、「来日した時、皇居のお堀を何人か泳いで捕まっただろ、あれおれの仲間」などと自慢していた都立白鴎高校出身の篠田昇。
 彼は、カメラマンとして井筒和幸監督、相米慎二監督等の作品に関わり、現在主に岩井俊二監督作品の撮影監督として活躍している篠田昇、その人であった。


以下、旧「記憶の残像」は、直接「篠田昇の残したもの」とは関係がないので、別な形で紹介できるよう、考えています。

取材協力:篠田いづみ

2009年06月24日

take30【番外編】死生観

昇は、自らものを語る人間ではなかった。

私は昇との付き合いの中で、彼の涙を一度も見たことがなかった。


映画「ハードボイルド・ハネムーン」を撮り終えて、しばらく経った頃、昇の父が亡くなった。
突然の事であった。
私は後藤和夫と岩城信行と後藤の愛車ボロナ(ボロいコロナ)で、三郷の実家に駆けつけた。1、2年前に新築された実家のだだっ広い一階に、昇の父は眠っていた。

昇の母が、亡くなった時の様子を説明してくれた。
いつものように工場での仕事が早めに終わり、近所の中川に投網をしに出掛けていった。家に帰ってくると、すごく疲れたと言い、ごろんと横になり、いびきをかきながら、そのまま亡くなったと淡々と話した。

不謹慎ではあるが、私はこの時、その様子を語る昇の母がまるで日常の立ち話のように語るのが不思議でならなかった。悲しいという感情がどこにも挿入されないのである。
もちろん、私たちの手前やなるたけ心配をさせない配慮だったのかもしれない。
そばにいた昇も、世間話でも聞いているように普段と変わりない笑顔を時折浮かべていた。

こうした篠田家の、もしくは昇に対するある種の違和感を、先妻であるMさんも感じとっていた。
「昇の家庭は、お父さんとお母さんがものすごく仲がよかったんです。
昇はよくふたりの仲がよい様子をうれしそうに話してくれました。

ある日突然、電話がかかってきて、お父さんが亡くなったと。
ふたりでタクシーに乗って三郷まで行きました。
死に目にも会えない、突然死んでしまった、50歳くらいの早すぎる死・・・、でも車の中で平然としているんですね、彼は。
もちろん、遺体を見たら泣いたりもしたんですけれど、葬式の時も泣いたんですけれど、お父さんのこと大好きだったから。
でも、ショックとか気落ちした気配がまるでないんです。
どうしてこんな平常心でいられるのか、不思議でなりませんでした」


Mさんはいわゆる文学少女であった。家庭環境等のいろいろな事情もあることだろうが、小説や映画に影響を受け、常に“死とは何か”を意識していた乙女であった。
そんな彼女が、働き盛りの昇のお父さんが突然死んでしまったことについて、昇と話すことは自然の成り行きだった。
「私は、なぜ今死ななくてはならないのか、お父さんの死が理不尽に思えて、そう考えると生きていくことってむなしいと彼に話しました。
そうしたら、昇はそんなことは考える必要がないって答えました。
そういうことを考えることはすごく愚かだとも言いました。
いつ死ぬかなんてだれにもわからない。生きていくことに意味があり、死ぬことを考えて生きていくこと自体がつまらないことなんだって。
そんなことを考えている時間があるのなら、毎日毎日楽しく、そんなことを考える余裕もないくらいに生きていけって。

この時、私は昇のことを、生きていくことや物事に悩まない人なんだ、私とは違う人間なんだなあと見ていました。


ところが、離婚して大分経ってから、私は肝臓を病んで、入退院を繰り返すようになった。
病室の隣りが集中治療室で、死ぬ間際の人が入ってきて、夜中になると遺族たちの泣き声が聞こえてくる。
同室のおばあさんは肝臓の末期癌で、死ぬという恐怖で全然眠ることができない。
そういうことをずっと見ていたの。
自分はすぐ死ぬことはないものの、どんどん悪化し、そうなれば死ぬだけだろうなと、かなり落ち込んでいました。
インターフェロンを投与すると熱が40度くらい出るんです。それで解熱剤で熱を下げて。こうやって肝臓のウイルスを撲滅していく治療なんです。
この時、やれることって、本を読むことくらいなんです。
姪や甥が本をもってきてくれました。昔の世界名作の本を。
それを読んでいるとなぜか気持ちが明るくなるんですね。
なぜなら、これって、みんないいことをする話だからなんですよ。
人間の悪いところなんか見ていないからなんですね」

そんな時、彼女は昇のことを思い出した。
一緒に暮らしていた頃、今日だれだれがどうしたとか、その人と楽しかったこと面白かったこと、必ず彼女に話してくれた昇のことを。
どんなにつまらないことでも、失敗であっても、その人が好きだということを踏まえて、面白おかしく話す昇のことを。
人を嫌ったり、憎んだりすることのない、あったとしてもそんなことはすぐに忘れてしまう昇。
そして、あの時の昇の言葉を思い出した。
生きられるなら、目一杯その日を生きていくことが意味あることだって、という言葉を。

「私は今、近所のおばさんおじさんたちと一生懸命に卓球をやっています。大会にも出場しています。
毎日毎日がとても楽しいと思えるようになりました」


昇のこうした死生観というか人生観というか、それに関する単純明快な言葉を耳にした者は、M
さんを含めてそうはいないと思われる。

篠田昇のこだわりも、こうした大きな土台があってこそ成り立っていたのだと考えると、彼の生きていた人生もまんざらでもなかったかと、私には少々安堵にも似た気持ちが芽生えてくるのだった。


取材協力:篠田いづみ

2009年08月12日

take31【番外編】断片的なエピソード

断片①
マイペースを貫いてきたというか、ある意味スタッフ泣かせといわれてきた昇の撮影回りでの言動は、彼の性格もあるのだろうが、撮影助手の原点ともいえるある出来事に大きな起因があるのではと岩城信行は推測する。
「一緒にやった、昇の撮影(助手の)デビューだった「竜馬暗殺」の撮影の時、チーフの川上(皓市)さんとカメラマンの田村(正毅)さんとで、カメラの半絞りを開けるか開けないかで、言い争いが始まった。
絞りはチーフである川上さんの持ち場だったから、一歩も譲らなかったのね、川上さんは。
監督の黒木(和男)さんもしようがなくなって、田村さんの味方について怒るんだけれど、とうとうメイン・スタッフのふたりを相手に、川上さんは自分の言い分を通しちゃったの。
そういう厳しさみたいものを昇は見てたから、頑固さみたいものをずっと見てたから。
初めて経験するプロの世界のお手本であり、親だったからね、川上さんは。
そこから吸収したり、学んだことがその後もかなり影響していることは確かだよね」

篠田昇のポリシー=自分のやりたいように、やりやすいようにやる。
我を通すということは、自分の考えた撮影を貫くことであり、そのやり方は千差万別、人それぞれであろう。
篠田は、映画作りのリーダーである監督を手中に収める方法論をとった。
大量で事細かなテストで細部に至るまでの了解をとり、了解をとったのだから後は好きなように撮る。
もしくは、長澤雅彦や行定勲のように、監督から事前に絶大なる信頼を得ていて、「好きなように撮ってください」と全てを任せられるケースもあった。
いずれにせよ、撮影に関する限り監督を掌握できる状況を作っていった。
大雑把な表現になったが、師匠であり、親であった川上の頑固さ、厳しさとはまた違う信念のベクトルを見つけていったのだ。

その篠田昇は、「映画撮影とは何か」(平凡社・山口猛編、佐々木原保志監修)の中で、川上さんは躾に厳しい人だと語っているが、
「映画の現場ってさ、監督はいろいろなスタッフを全部見ているわけだよ。俳優さんたちも向こう側から現場の連中を絶対見ている。
そこで、たとえテストの時にしても本番の時にしても、照明部が向こうの片隅でなんか、へらへらしているやつがいたら、役者さんにはすぐ目に入りますよ。
へらへら笑いながら緊張感のないような態度はだめなわけで。
そういうことはいちいち(昇に)言ったと思う、そういう気配が見えた時にね。
だれかと冗談言い合いながら、メーター計ったり、あんまり真剣にやっているようには見えない時は、集中しろ、みたいに。
現場では、緊張感が緩む時期があるんですよ、疲れてきた時とか。
そうすると大きな声出して締めないとね、俳優さん全部見ているから。
要するに回りに気を使えっていうこと。普通の礼儀作法と同じようなことなんだよ」
と師匠格川上皓市。
「昇もキャメラマンになってからかなりうるさかったようだね、現場では。
やっぱり最終的には映画のことを思って、なんだよ。少しでも映画をよくしなくちゃいけないという」



断片②
「ハードボイルドハネムーン」の自主上映以後、私たちグループ・ポジポジは自主制作を断念せざるをえない状況を迎えていた。
「70年代後半から、あいつ(昇)はあいつの道、おれ(後藤和夫)はテレビ、岩城(信行)はテレビの広告、それと堀越は路上アクセサリー屋と、それぞれ別の道を選んでバラバラになっていったから、社会人のような、そうじゃないような、生活をね、始めていった。
おれが後悔しているのは、昇から結構電話がかかってきてたんだ、初号を東洋現像所とかでやるから来いと。
「ラブホテル」の時から、ずっとね。
「ラブレター」の時もそうだった。あいつが撮影した映画の度に電話がかかってきた。
でも、あんまり行けなかった。初号なんで平日が多くて、行けなかった。
それは申し訳なかったって、すごく思っている」

昇のまめな性格が垣間見える話だが、この時期、後藤、岩城、私、そして篠田昇のグループ・ポジポジの面々は、ある約束をしていた。
それぞれの道で力をつけた時、もう一度一緒に映画を撮ろう、と。

十数年前にも新宿の飲み屋に集まり、この確認をした。

もう一度昇やみんなと映画を撮る。
それは出版関係の編集プロダクションを経営していた私の最大の夢であった・・・。



断片③
昇にまつわる話の中で、飲み食いの話は非常に多い。
「現場でもコーヒーは一切飲まなかった。
いつもミルクティーで、砂糖大量、ミルク大量のミルクティー、分量がもう決まっているんですよ」

「ビールは全く飲まなかった。いつも日本酒しか飲みませんでした。
ぼく(長澤)が篠田さんの家によく行っていた頃は、家の近所に日本酒飲める焼肉屋があって、そこばっかし行ってましたね」

「でも、晩年近くはビールばかりでしたね。
篠田さん、ビール嫌いなのに何でって聞くと、ビールだと嫌いだから、あまり量飲まなくて済むから、なんて言われてました。切なかったですけれど」(長澤雅彦)

篠田には、飲み方にパターンがあったという。
「一軒めでもうベロベロに酔っ払う。二軒めは福本(淳)とか助手がおぶって連れて行くんですが、完全に寝ている。
三軒めで、目が覚めて、自分はまだ二軒めのつもりなんです。その繰り返しでした」(長澤雅彦)


「篠田さん、トマトは全くだめなんですが、ナポリタンとかケチャップは大好物でしたね。そして、ロケに行くと必ず、河口、オムライスないのか。オムライス食わせろって、言われていたのが、ぼくの一番記憶残っていることですね」(ディレクター河口歳彦)


「実は、「四月物語」の時に、97年の事なんですが、篠田さん、倒れたことがありました。
一方で、三枝(健起)さんが監督で、ぼく(長澤雅彦)がプロデューサーで、NHKのキャンペーンCMを作ってまして、両方一緒にやっていたんです。相当スケジュールがきつかったんです、篠田さん。
ぼくらは朝まで、テレシネといって、フィルムをビデオにする作業をして、その足で、岩井組の「四月物語」の撮影に行ったりしてたんです。
で、過労で倒れちゃった。
慌てて病院に駆けつけたら、「長澤、カツ丼食わせろ」だって。
篠田さん、倒れたんじゃないのって、こっちは思ってますから・・・。
二週間ほどで元気になりましたけど、ま、底なしの体力ですよね」



断片④
「岩井監督の関係で、撮影でオーストラリアに行った時、時間が空いたので、ゴルフが大好きなコーディネーターがゴルフに行こうと言い出した。
ぼく(長澤)も篠田さんもゴルフなんてやらない。でも、やることがないから、暇だから、昼間だし、じぁやろうかということになった。
篠田さん、ドライバーしか使わないんですよ。全部ドライバー、2打めも、パットもドライバー。
はちゃめちゃでしたね。
あんまりスポーツは得意じゃないみたい」



断片⑤
どうでもいいことだけれど、昇は左利きだった。
しかし、それはザ・ビートルズのポールが左利きだったのを、真似ていただけのことかも知れない。

取材協力:篠田いづみ

2010年04月29日

take32【番外編】春の雪

このような原稿を書いていると、年柄年中ではないにしろ、どうしても篠田昇のことを回想する機会が度々おとずれる。
彼と一緒にやったことや彼との会話等々に思いを巡らすと、そういえばあの時こんなことをしたな、あんなことを話したな、と次々に思い出されてはくるものの、ひとつひとつの出来事に脈絡はなく、完全に断片化されたものばかりだ。時間の流れもあやふやなことが多い。

そんな彼との話しの中で、印象深かったものがあった。
昇の自慢の親友の話だった。
中学高校と同級生だった親友は、シンガーソング・ライター小椋佳の弟といっていた。

その親友は、割り箸や木を組み合わせ、それに輪ゴムや電池仕掛けの歯車を噛ませて動かす、昔でいうぜんまい仕掛けのおもちゃ、からくり人形をよく作っていた。
いわゆる創作機械マニアだった。
そんな彼の数ある作品の中で、男女のまぐわい人形という傑作があった。
作品そのものは直接見ただけでは何ともない正常位の人形だったが、これに光(電球)を当て、障子に影絵を映すと、腰の前後運動や手足や頭が微妙に動くという摩訶不思議な代物だった。
これを1階にあった自分の部屋の障子をスクリーンにして、通りすがりの人々に見せ、驚かせていた。
が、本物ではない、その滑稽な動きがおかしく、皆しばし足を止めて眺めていたという。

昇と私が大学在籍中、新聞に早朝の上野公園でジョギング姿の初老の男が死んでいたと報じていた。
当初は不審死で、事故死か事件なのか原因は謎であった。
数日後、ジョギング中の心臓発作で亡くなったことがわかった。
それが創作機械マニアの父親だったと後に昇から聞かされた。

もうひとり昇のお気に入りの親友がいた。
こちらは自転車マニアであった。
三鷹にあるICU(国際基督教大学)に入学し、上野下谷から三鷹まで、毎日自転車通学をしていた。
私はこの男の話を新聞で読んだことがあった。
雨の日も風の日も自転車で通っていた。
往復4、5時間の道のりを毎日毎日通学していた。
とにかく自転車が好きで好きでたまらないのがその理由で、下校時には学校の中庭で曲乗りを披露して、拍手喝采の中、上野下谷へと帰路につくのだった。

こうした昇の愛した人物たちは、業師というか、どこかみんなと違ったある“芸”というか“技術”の持ち主という特徴がある。
昇は自分と同類の匂いを嗅ぎ取っていたのだろうか。


この4月17日、東京に雪が降った。
私は夜中の2時過ぎ、就寝中余りの寒さに目が覚め、ファンヒーターをつけた。
いつもは室温が14、15度なのに、この日は7度であった。
部屋を暖めながら床に付き、再び5時過ぎにファンヒーターを止めようと起き、明るくなっていた外を眺めた。
一面真っ白な上、さらに深深と雪は降り続けていた。

昭和44年、高校生だったMさん(昇の前妻)は、2月2日の昇の誕生日に大好きという意味を込めて、手編みのマフラーと「バレーボール」(バレーのボール)をプレゼントする。
昇は、君の誕生日のプレゼントは何が欲しいと聞いた。
Mさんは、雪が大好きなの、と答えた。
昇は平然と、じゃあ雪をプレゼントする、といった。

この年の4月17日、東京に季節はずれの雪が舞い降りた。
その日はMさん18歳の誕生日であった。


取材協力:篠田いづみ




●お詫び
いくつかの私事情により更新が滞ってしまい、本当にごめんなさい。
これからまだまだ昇についた撮影助手の方々、美術、照明、特機、ソニーの技術者、現像所関係、彼と組んだ映画監督たち、俳優さん・・・、その他昇を語る方々の取材を続けていきますので、今しばらくの辛抱をお願いいたします。


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