カメラマン篠田昇の下で撮影助手をほぼ10年弱務めてきた福本淳を、篠田は本気で怒ったことが二度ほどあった。
一度目は「夏の庭」の時(take22参照)。
そして、二度目は「MISTY」(1997年・監督三枝健起)の作品完成後のことであった。
「ぼく(福本淳)らの世界って、師匠が黒いものを白っていったら、それは白でなくてはならない。それに我慢できなくなって抵抗したということです」
すなわち、それは福本の溜まりに溜まった鬱憤が爆発した瞬間でもあった。
「スワロウテイル」(1996年・監督岩井俊二)の撮影は、大変だったにも関わらず、撮影助手は3人で行なわれた(詳細は後日)。
チーフ福本の下には、伊東伸久がセカンドとして付いた。
撮影は、16ミリと35ミリを混ぜて使うため、しかもこのシーンは16ミリ、このシーンは35ミリということを決めてやっていたのではないため、現場には常にカメラ2台を用意しなければならなかった。
さらに、セカンド伊東の役割に、篠田からのクレームが入った。
「伊東はちょっとピントが下手で、しょっちゅう篠田さんからピントが合っていない、これは責任問題になるから、伊東にピントの練習をさせろって、ぼく(福本)は言われていました、毎度のように。
ぼくはこの大変な状況の中で、カメラ担いで伊東にピントを合わせる練習を相当やったんですが、結局これにぼくは懲りてしまった。
次の撮影で、ぼくは伊東とやりたくないという話を篠田さんにしたら、だったらお前、だれか連れてこい、と」
1996年(平成8年)、「スワロウテイル」の撮影が終了した後、「MISTY」の撮影に入る。
撮影はシネスコで行なわれた。
篠田は、「映画撮影とは何か~キャメラマン40人の証言」(山口猛編・監修佐々木原保志、平凡社)の中で、(リメイク元である)「羅生門」(監督黒澤明)での撮影(宮沢一夫)はモノクロ・スタンダードであったこと、そして屋久島の自然の森の奥行きやスケール感を出すために、カラーのシネスコを使用したとしている。
この「MISTY」の撮影に、福本は新たに藤井昌之を連れてきて、セカンドに置いた。
しかし、ここでも問題が起こった。
「ぼく(福本)とか伊東とかはイエスマンなんですよ。
篠田さんが現場であれやりたい、これやりたいと言ったら、ハイハイってやろうとする。
ウマが合うとでもいうんですかね。
ところが藤井はもう少し頭を利かせて、現場を先に進めようと思うがあまりに、あることをやり始めたら終わらない。だから、(篠田の指示を)できないというタイプなんですね。
篠田さんはぼくや伊東がやっていた時に、できませんという言葉を言われたことがないもんで、相当フラストレーションが溜まったと思うんです。
ぼくはぼくで、「夏の庭」の時にやっていた工房の作業はセカンドの役割なので、チーフであるぼくが関わる必要がなかったんですけれど、藤井にしてみれば、ぼくが作ったものがほとんど現場にあるわけじゃないですか。それでいいじゃないかと。
だから、篠田さんのさらなる要求に応えるために、ぼくもまだ(工房の作業を)続けていたんです。
篠田さんにフラストレーションを溜まらせないようにと、ぼくなりにケアしてやっていたんです」
福本にしてみれば、伊東、藤井と篠田を納得させる人物を添えられない責任というか、全うできないあせりのようなものを、この時感じていたのかもしれない。
「ある時、試写を見たあと、篠田さんが、「やっぱり藤井はどうなっているんだ」みたいなことをいきなり言い出した。
試写室にはまだ何人か残っていたと思うんですけれど・・・、切れちゃいました。
ぼくなりにフォローしているし、一生懸命やってるんだから、そんな言い方はないんじゃないですか、と。
篠田さんは、ぼくの接した態度を含めて、相当怒っていました」
伊東伸久は、「東方見聞録」(1992年・監督井筒和幸)で篠田昇のサードに付いてから、「BeRLiN」(1995年・監督利重剛)でセカンド、「死国」(1999年・監督長崎俊一)でチーフという経緯を踏むが、結局、「MISTY」の直後に撮る「HAPPY PEOPLE」(1997年・監督鈴木浩介)では、再び篠田に呼び戻されている。
こうして、福本淳が篠田の元を去る「OPEN HOUSE」(1998年・監督行定勲)以後、伊東伸久と藤井昌之、このふたりが篠田昇のチーフを交代で務める時期がしばらく続くことになる。
取材協力:篠田いづみ