take25私家版「記憶の残像」
私は現在、自分自身の日々のくだらぬ思いを別のブログに書き綴っている。
そこに最近「記憶の残像」という検索によるアクセスが非常に多くなった。
これは、多分「篠田昇の残したもの」take23を読んだ人たちからのメッセージであると了解した。
だが、追悼文を書いた当時のホームページ「記憶の残像」は今はもう露出していない。未練がましく同タイトルでの雑記は継続している、ということだ。
旧「記憶の残像」で書いてきた私の映画(映像)への思いは膨大な量になる。生まれてからこれまでの映像との関わりや想いを書いてきたからだ。
その中に、篠田昇との出会いがあり、一緒に撮った映画があり、別々の道を歩んだ経過もあった。
そして突然の死があった。
昇と“くされ縁”であった本庄克彦の死も、これまた突然であった。
私は昇と本庄の関係を“はっつぁん、くまさん”と称したけれど、それはあながち間違った表現ではないと思っている。
文中最後に締めくくった“もっと聞きたいと思っている”との言葉は本音であり、彼の体調の回復を願っていた。
今、自分勝手な思いではあるが、元気なうちに早く会っておくべきだったと後悔している。
これを書き始めた2006年の暮れの頃に、私は本庄に電話を入れた。こんなブログを書いていきたいので、ぜひ昇の話を聞かせてくれ、と。
彼は、昇との別離の後、理由あって、ひとり暮らしをしているところだった。
彼は、私の申し出を拒んだ。
それは、何を話せばいいのかわからない、おれは昇の秘密も知っている間柄だから、そんなことをお前に書かせるわけにはいかない等々、警戒心でいっぱいだった。
が、昇が金に困っていた頃のこと、付き合った監督のこと、女のこと、話せないことが沢山あるのだと言いつつも、その触りを彼は電話で聞かせてくれた。
言えないと言いながら、話すところが本庄という男だった。
口と中身が裏腹で生きてきた、そんな心優しき男を、昇は大好きだった。
月日が流れ、このブログも何回かこなせた頃、人間篠田昇の輪郭をなぞる時、本庄の存在を抜きに語ることはできないと思い、私はこれまでのブログをプリントアウトして、彼に郵送した。
そして、今年の初め、本庄から電話があった。
「お前の文章なぁー、何が言いたいのか、おれにはやっとわかったんだよ。理解できたよ。
だから会ってもいいぜ、何でも話せると思うようになったよ。
(この時、本庄は映画のシナリオを書いているところだと語っていた)
しかしよー、おれには長澤(雅彦)や福本(淳)が、あんなことを言うのが信じられねぇんだよ、あんな風に。一種尊敬だろ、そんなわけないじゃん。いいとこだらけじゃん、あいつら言っていることはよ」
私「それは、ぼくが言葉のいくつかを選んでいるせいだよ。彼らだって、それなりに大変だった思いを語ってくれているぜ」
「じゃあ、はっきりさせようぜ、会ってよ。
おれは(彼らとは)違うよ、ぼろ糞だよ、あいつのことは」
私「それを聞きたいんだよ」
私は篠田昇の死をきっかけに、このようなブログを始めたが、今回書くことのできなくなった本庄の件が無念でならない
それは、是非とも読んでもらいたかったものだからである。私の想像もできない昇がそこにはいたはずなのである。
そう考えていくと、かなり心情的な気分に偏っているものの、ある一時期ではあるけれど、長いような短いような時間ではあったけれど、昇と親しく付き合っていた私という人間をもっと知っておいてもらうのも必要なのではとの思いに駆られた。
こんな男が「篠田昇の残したもの」を書いているのかと、そう思っていただければ幸いだと願いつつ、今はお倉入り状態になっている旧「記憶の残像」の抜粋を綴ろうと思う。
少し横道にそれることになるが、篠田昇が生きてきた時代背景とともに、サイド・ストーリーにしばしのお付き合いを。
(本ブログ初期の拡大版となる部分を抜粋します。とにかく長く、このブログでの昇との思い出もここから引用しているため、重複する内容も多々ありますので、ご了承ください)
●記憶の残像・抜粋(第18回より)
グループポジポジの『天地衰弱説第二章』(16mm映画白黒)は、各地から上映の引き合いがあった。前作8mmの『天地衰弱説』とのカップリングでの要請だった。
仙台には福田が、大阪には後藤と磯貝がそれぞれフィルム・ロールを抱えて出向いていった。特に大阪では自主映画を数多く集めたプログラムに組まれ、三越劇場で何日か連続で上映した。
その頃、自主映画というものは大変珍しく、また上映する場所も設備のある公民館などでその数はかなり限られていた。
が、独立プロの記録映画や作品などと 合わせて、それを精力的に上映する映研等のグループが地方都市を中心に多くあった。そういった若者たちに呼ばれ、シンポジウムのようなものも上映と合わせて開かれていた。
秋に入ると、グループポジポジの面々は、相変わらず会うには会っていたが、次の映画を撮る話もなく、みんな将来のこと、大学に進むことを意識し始めていた。ぼく自身も代々木ゼミナールに入り、時々授業を受け、試験に臨んだ。が、3年時に習うはずであった科目は全くわからず、その成績は惨憺たるものだった。
昭和46年3月、福岡はICUに、福田は早稲田の政経に、磯貝は北大に、橋本は成城大(翌年都立大へ編入)へとそれぞれは散っていき、後藤は大学には進まなかった。
ぼくは、日大芸術学部映画学科に入学した。迷わず撮影録音コースを選択した。
自分の学力では、国立も私立のいい大学も無理だと悟ったせいもあったが、好きな撮影の勉強もいいかな、と思ったからだ。
ここでは、撮影機材も豊富だし、施設も整っていたから、今後の自分たちの映画製作に何かと利用できるかもしれないという目論みもあった。
入学式には出られなかった。前の晩に飲んだ酒のせいで、行く途中、西武池袋線の駅で気持ち悪くなり、吐いてしまい、駅長室で寝ていたからだ。
何になりたいのかもわからず、このままこの大学へ進んでもいいのだろうかという精神的曖昧な苦悩と、大したことではないくせに酒に侵されていく肉体の衰えの不安を大げさに交えて、この入学式に出られなかった様子を、“文学”の授業で書いたら、先生から呼び出され、ほめられた。ただ、タイトルが文と合っていないと注意された。そのタイトルは「わたしは老人」だった。
ぼくは作文の感想批評を受けたのは、多分小学校以来のことなので、新鮮に感じ、文を書くのもなかなかおもしろいものだ、とこの時思った。
撮影録音コースの授業は思っていた以上に楽しかった。
当時学長であった登川直樹の映画鑑賞後に感想を書く授業、ここで、かの傑作の声名高い『ラ・ジュテ』や実験的映像技法を試みたソビエト大作『戦争と平和』、ジュリアン・ディビビエ監督の名作『舞踏会の手帖』、エイゼンシュテインの野心作『アレクサンドル・ネフスキー』、ジャン・コクトーの幻想映像『美女と野獣』、そして邦画では、阪東妻三郎唯一の現代ホーム・ドラマ『破れ太鼓』、同じく阪妻の『王将』、三船敏郎の『無法松の一生』、『羅生門』など古典的な名作が毎週楽しめた。
元カメラマンの撮影体験談、かつて活躍した監督の撮影所の話、実際にセットを組んでの撮影実技、8㎜による課題実習・・・、撮影と録音の理論技術面ばかりでない授業はこの上なくおもしろかった。
この頃、心中では漠然とだが、(映画の)カメラマンを目指そうと決意にも似た気持ちをもち始めていた。
初夏の頃、泰子(「東京戦争戦後秘話」の主演女優)から電話が入った。撮影の仕事があるから一緒に行かないか、と。ぼくたちは成島東一郎さんの事務所“キャビネット・オブ・エヌ”に出かけた。
待っていたのは、カメラマン仙元誠三であった。泰子はちょい役で声をかけられていた。仙元さんは、その映画の撮影助手をやらないか、とぼくを誘った。食事と寝床は確保するがギャラはなし、という条件だった。ぼくは即OKをした。
映画は『空、見たか?』、監督は新藤兼人の助監督をしていた田辺泰志という角刈りの太鼓腹おじさんだった。この映画は、岡山県倉敷のシネ・クラブの人たちを中心に、支援とボランティアで製作された、当時では(今でもか)珍しい形態のものであった。
撮影は、田辺監督の地元倉敷と瀬戸内海を中心に、京都市内、丹後で行なわれた。
俳優さんの宿舎は田辺監督の実家のとんかつ屋の2階、撮影隊の宿舎は地元富豪の離れ、助監督等スタッフはミーティングに使われた広い一軒家に間借りした。
助監督たちは、田辺監督の弟をチーフに、彼の早稲田大学の友人たちが集まった。みんな映画経験のないド素人たちであった。
一軒家は、宿舎やミーティングだけでなく、スタッフやキャストの朝食や夕食の場でもあった。スタッフ・キャストがほぼ揃った夕食の時、各自自己紹介をした。
その時、出演者の吉田日出子が友人と称して、ひとりの若者をみんなに紹介した。写真では見たことがあったが、それが彼だとは気付かなかった。ぼくは興奮した。憧れの人物“はっぴいえんど”の松本隆であった。
普通、映画撮影のスタッフ構成は、カメラマン、主に露出を計るファースト、メジャーで距離を計るセカンド、フィルムの詰め替えをするサードと役割が決まっ ており、ぼくは普通の撮影では存在しないフォースという、その他使い走りのなんでも屋だった。しかも、この撮影隊は、照明も兼任していた。
セットを組んでいる時、セカンドで照明チーフの倉田さんから、「堀越、ケント紙買ってこい」と言われた。ケント紙なんて、倉敷で売っているのか。どこ行けばいいんだ、どれくらい必要なのか、一切は不明だ。聞き返したら絶対に怒鳴られることはわかっていた。状況を見て判断するしかなかった。
しかし、状況を判断する力量すら、ぼくにはなかった。自転車に乗り、紙屋はどこですか、文房具屋はどこですか、と訪ねて回った。紙屋が見つかり、ケント紙はあったが、いろいろと重さがあり、その選別がわからない。何種類かを買って、現場に戻った。
戻るとすかさず、「ライト2つ、持って来い」と指示が出る。ライトはバッテリーと対になっており、このバッテリーがえらく重いのだ。両肩にバッテリーを担ぎ、手にライトと支柱を持ち、指定の場所に持っていく。この「持って来い」は持っていくことだけの意味だけではなく、セッティングすることを含んでいる。それをしないとゲンコツや罵声が飛んだ。
とにかく、初めて本格的に参加した撮影現場は修羅場であった。
初日の撮影が終わり、遅い夕食をとり、カメラやレンズの掃除、フィルムの装着、フィルターの整理、今日撮影したフィルムのナンバーの整理、バッテリーの充電、機材の整頓、明日必要な機材を即運び出せるように準備・・・、へとへとになりながら、深夜寝床についた。
午前4時起床。眠い目をこすりながら、小便に行く。ワァオー、チンチンが真っ赤赤だ。何をしても起きないくらい疲れ切って熟睡している新人に、マジックインクで塗りたくる、先輩たちの洗礼だった。
“お尻を掘られなくて、よかったよかった”と、ぼくは今日もまた元気な撮影に出かけていった。
昭和46年8月15日にクランク・インした『空、見たか?』の撮影は、岡山県倉敷市、瀬戸内海を中心に順調に進んだ。
時は1960年、物語は主人公が高校3年の夏に始まる。この主人公が、セックスに明け暮れ、放浪の旅に出、そして結婚してもなお心の赴くままに生きていく、そういう話の映画であった。
初日は、市郊外にあった倉敷東商業高校で、教室内から裏山まで、終日目一杯を使った。ここでぼくは、初めて“太陽”の担当になった。
映画というのは、いくつかのシーンで成立している。そのシーンはまたいくつかのカットから成り立つ。
例えば、アウトドアでの向き合った男女の会話のシーンがあるとする。男がしゃべっているカットは晴れているのに、切り換えした女のカットが曇っていたのでは、同時間ではない違和感のある映像になってしまう。このため、晴れのシーンは、基本的にずっと晴れた状態で撮影しなければならない。
この日は、晴れてはいたけれど、雲の多い天気であった。そのため、雲の動きを予測して、雲の合間から太陽が顔を出すのが何秒後か、そして何秒くらい陽を差し続けるのかを、監督やカメラマンに大声で伝えるのだ。
楽しかった。すでに撮影や照明の準備は終わっているので、みんなはぼくの声を待っている状態だ。予想が外れると罵声が飛んだが、クランク・インしたばかりなので、みんなにも余裕があり、笑いながら進んでいった。
校庭では硬式野球部が練習をしており、ぼくも休憩の合い間、打たしてもらったりしていた。
まむしがいるという裏山では、いきなりのセックス・シーンがあり、ぼくは仙元さんが崖から落ちないように崖っぷちで支えたり、レフで俳優さんのお尻などを照らしたりした。
木ネジ2本5円の領収書をめぐり、金物屋のばばぁと喧嘩をしたり、苦しいながら撮影していることだけで毎日が充実していたのに、監督の実家のとんかつ屋でごちそうになったり、ボランティアの女の子とデートしたり・・・、泰子と喫茶店や美術館を回り、素晴らしい倉敷の町を堪能したり・・・、ぼくの二十歳の夏は、異郷の地で弾け飛んでいた。
仙元さんは、撮影の待機状態の時、撮影スタッフみんなに、「(セッティングされた)カメラ、覗いてもいいよ」と気を使ってくれた。ぼくは勉強になるため、お言葉に甘えてよく覗いた。が、他の撮影スタッフはだれも覗こうとしなかった。
撮影開始から、しばらく経ったある日、雨のため、撮影が中止になった。
スタッフ全員が集合し、田辺泰志監督を中心に、反省を含めた意見の交換会が開かれた。ぼくは、部分的な演出について、監督に尋ねたりした。演出陣からも撮影についての質問が出た。
が、仙元さん以下撮影スタッフの面々は黙ったまま、返事をしないし、しゃべらない。余計なことは言わないという雰囲気だ。たまに仙元さんが一言二言、言葉を返すだけ。
この時、共同で映画を作るという、ぼくの思っていた映画作り、これまでぼくたちがやってきたものとは、かなり違うものを感じとった。
撮影スタッフは“プロの集団”であり、その技術を最大限活用してフィルムに残すこと、それが彼らの仕事であると、後になって気付いた。任された仕事をだれに指示されることなく、自分たちの力で全うしていく。それが俺たちプロの仕事なんだと。
すごい、と思った。が、同時にこういう映画作りでの撮影は正直つまらないな、とも当時若かったぼくは思った。
完全なる縦社会で構成されているプロの世界、将来漠然とだが映画カメラマンを目指そうと考えていたぼくは、この時多分自分にはなじめない世界かもしれない、と思った。
そして、しばらく経った頃、銭湯で一緒になった仙元さんがぼくの隣りに座り、神妙な顔をして、「ホリちゃん、髪、切らない?」とたずねてきた。
ぼくは、「何でですか?」と答えたものの、髪を切る気は微塵もなかった。話はとんかつ屋で働く少年の役で出演してほしい、ということだった。この役は、主人公と結婚した奥さんの実家がとんかつ屋をやっており、主人公は店を継ぐ。その店で働く家出少年の役で、自分の彼女も主人公にとられてしまう、情けなく悲しい役だった。ぼくは、興味はあったものの、「髪は切りません」と断った。
しかし、結果は、髪を切らなくても、出演することになった。
本番になると主演の吉沢健は、ぼくと目を合わせると必ず吹いてしまい、「お前、真面目にやれよ」とぼくに当たった。
撮影も終わりに近づき、残すは京都市内、丹後の撮影だけとなった。みんなが京都に出かけていった時、ぼくと助監督2名は倉敷に残り、荷造りや後片付けを やることになった。その2日間、時間に余裕が生まれ、ぼくはずっと考えていた。プロの世界で生きていくべきか。
そして、決めた。プロの世界に入り、撮影助手を経て、カメラマンになる夢は捨てようと。自分のやりたいことは、自分の撮りたい映画を撮っていくことだと、強く思ったからだ。
そんな思いを胸に秘め、助監督たちと、次の撮影地丹後へと向かった。
♪トマトやアンズやリンゴを買って
汽車に乗ったは良かったが
明るい星に眠られず
トマトを捨ててボトルを買った
ここはどこ?
ここは火の河
ここを過ぎ……
アンズやリンゴを小脇にかかえ
汽車を降りたは良かったが
空の底吹く風ばかり
アンズを捨ててボトルを開けた
ここはどこ?
ここは地の果て
ここを過ぎ……
トマトもアンズもリンゴも捨てて
激しい夢も醒めはてて
涙のような酒びたり
ボトルを捨てて、もう帰れない……
ここはどこ?
ここは地獄だ
ここを飛べ!
(『空、見たか?』の主題歌「長い長い旅の報告」清水哲男作詞)
東京に戻ると、大学に進まなかった後藤は、できたてホヤホヤの日本映像学校、通称“原宿学校”に通い、映画の勉強をしていた。
ぼくは、時々彼と酒を飲み、『空、見たか?』で経験した本格的撮影の話をした。そして、ぼくの胸の思いを告げた。再び、自分たちの映画を撮りたいのだ、と。
後藤もそう考えていた。この頃、ぼくたちは、自主制作(映画)で食っていくことを本気で考えていた。
ぼくは解散状態にあったグループポジポジを再結成すべく、大学にいた仲の良い二人の男をメンバーに誘った。
この二人とはいつも一緒に行動していた。授業が終わるとよく行ったのが、新宿紀伊國屋裏手にあった喫茶店トップスの2Fだった。ここで、“紅茶”と“じゃがいもとソーセージ”を注文した。これがぼくたちの定番メニューであった。
ガリガリの長身でモデル顔、いつも女を連れていたジゴロのような平塚出身の岩城信行。
ビートルズの熱狂的ファンで、「来日した時、皇居のお堀を何人か泳いで捕まっただろ、あれおれの仲間」などと自慢していた都立白鴎高校出身の篠田昇。
彼は、カメラマンとして井筒和幸監督、相米慎二監督等の作品に関わり、現在主に岩井俊二監督作品の撮影監督として活躍している篠田昇、その人であった。
以下、旧「記憶の残像」は、直接「篠田昇の残したもの」とは関係がないので、別な形で紹介できるよう、考えています。
取材協力:篠田いづみ