take23くされ縁
公私にわたって、篠田昇と最も長く付き合った男がいる。名は、本庄克彦という。
彼は日大芸術学部映画学科の同期で、岩城信行と同じ監督コースで学んでいた。
巨体ながら猫背で内股、肩まで伸ばしたライオンのような長髪、そのモンスターのような風体は学校の中でも一際目立った存在であった。
私たちの名付けた彼の仇名は“ホンジョレ・ビッチョレ”。
彼は、岩城や私たちのグループとは別に、彼を中心としたグループを作っていた。私たちとの大きな違いは、反戦活動をしていたことだ。
そのため、彼は座間の米軍基地に出向くことが頻繁にあり、ジェーン・フォンダやドナルド・サザーランドが反戦活動で来日した時も応援に駆けつけていた。
そうした彼は、当時まだ国内では手に入らないアメリカ産物資を基地内で貰ったり買ってきたりしていた。
その戦利品に、昇は身も心も奪われていた。
コカ・コーラのロング・サイズ、メーカー刻印のジッポー、コンバースのバスケットシューズ、リーバイスのジーンズに各州のロゴ入りTシャツ・・・、それら全てに付いている“made in U.S.A”の文字を確かめる昇の目は、まるで少年のように輝いていた。
今年6月、ささやかに行われた篠田昇+ポラロイド展で、若き日の昇が米軍ハウスの前で、右手こぶしを高く上げている一枚のモノクロ写真が展示されていた。
その撮影者が本庄である。
大学生当時、本庄は井の頭線吉祥寺駅ふたつ手前の三鷹台にあった実家から、江古田の学校へ通っていた。
大学を出た後も、昇はよく本庄の実家を訪ねていたという。
本庄は、東映動画を経て、広告制作会社電通PROXのディレクター及びプロデューサーとして、自身のCM作品の撮影を昇に依頼し、交流を深めていた。
また、昇が再婚をし、練馬の家を持った時も、車で20分の近いところに住んでいたため、家族同士の付き合いもしていた。
昇が亡くなった時、私は自分の会社のホーム・ページ「DVDアルファルファ」に「記憶の残像」というエッセイもどきを連載しており、丁度、昇との出会いや自主映画の活動のことを書いていた時期であった。
昇は、「いつも楽しみに読んでいるよ」とのメッセージを、その年の1月後半に届いた遅い年賀状に添えてくれた。
私はここで追悼文を書いたが、本庄が登場するので、それを記すことにする。
【記憶の残像】
~記憶というものは、いい加減なものである。それが現実だったのか、夢か空想か、今となってはわからない。そんな歪なかげろうを辿って・・・~
●番外編 追悼
これを読んでくれているみなさんも、新聞等でご存知かとは思いますが、ここに登場する(これからも登場します)我が友“篠田昇”ムービーカメラマンが亡くなりました。
6月22日午前4時のことでした。
その日の夜中にぼくは目が醒めました。目覚まし時計を見ると2時半を指していました。いつもは再び眠りにつくのですが、この日はなぜか完全に覚醒していたので、起き、氷水を飲み、テレビをつけ、眠たくなるまでボーッとすることにしました。
テレビでは、昔のドラマ「赤い衝撃」をやっており、車椅子に乗った山口百恵の元から三浦友和が走り去っていく場面が映っていました。チャンネルを回すと、「プロポーズ」という、とてもくだらない映画が流れていました。
寝ている途中に起きて、眠れないのでテレビを見るなんてことは、ここ何年もないことでした。
やがて明るくなり始めた東の空をボケーッと眺めていると、東北東の方向に低く、星がひとつ輝いていました。
そして、かなり明るくなってから、ぼくは再び眠りにつきました。
昇の死を知ったのは、翌日23日の昼でした。
テレビ番組制作会社の友人からその旨の電話があり、通夜と告別式の日取りを伝えてきました。その時、死因はまだ不明でした。
その後、次々に彼を知る友人から電話がかかってきましたが、状況がよくわかっていないためか、しばらく会っていないせいか、極めて落ち着いて応対していました。
そして、夕方近く、本庄という大学の同期の男から電話がかかってきました。
彼はCM制作に携わる仕事柄、昇とも親しくしていて、家も近くにあるため家族ぐるみの付き合いもしていました。
彼はゆっくりと話すものの、話の内容と言い方で取り乱していることは感じとれました。
彼は、昇の病状の経緯を刻々と語りました。
始めの内はわかりにくい経緯に聞きかえしていましたが、次第に昇がその病魔“癌”と闘っていた状況が克明に思い描かれてきたとたん、涙がどっと溢れ出てきました。
あとはもう、黙って本庄の話を聞くだけで精一杯でした。
本庄は最後に言いました。
「涙が枯れるまで泣くなんて、初めてだよぉ。初めての経験だよなぁ。堀越よぉー、お前も辛いだろぉー!」。
ぼくは思わず電話を切りました。
嗚咽がいつまでもいつまでも続きました。いつ号泣に変わるかもしれないので、慌てて会社を飛び出しました。公園で気持ちを落ち着かせようとするのですが、涙は止まりませんでした。
翌日、石神井公園にある昇の家に初めて行きました。
妻のいづみさんが出迎えてくれました。彼女とは、結婚式以来の再会で特に親しくしていたわけではありませんでした。
彼女は昇のところに案内してくれました。彼を映した写真や映像では前髪で隠れてわからないと思いますが、もともと昇の顔は侍顔でりりしく、特に眉は太く10時10分だったのですが、その死に顔の眉は8時20分でした。
巨漢だった割には、その棺はぼくが収まるくらいの小さな寸法に見えました。後で聞いてわかったのですが、かなり体重が減っていたそうです。
地下にある仕事部屋を見せてもらいました。ひんやりと空調のいきとどいた、コンクリートと鉄骨で組み立てられた間接照明のその部屋には、三脚に立てられた旧式の35mmカメラ、写真の現像装置と引伸し機、ヒッチコックなどの本数冊とビートルズ、ザ・バンドのLPレコード数枚、むき出しの古いレコードプ レーヤー、自身で撮影した写真のファイル、そして一番奥には、それらが眺められるように二人掛けの大きなソファーがデーンと置かれていました。
昔、大学時代に遊んだ昇の部屋を思い出すくらいに雰囲気がとても似ていました。
いづみさんがこれをどう整理したらいいのか、と大きな衣装ケースを見せてくれました。中は昔撮った様々な写真でいっぱいでした。それを一枚一枚見ていきました。
大学時代、お互いに撮りあった写真が出てきました。後藤和夫の結婚式に出席した写真もありました。一緒に撮った映画の撮影中の写真もありました。
マジック(インキ)で“kazuya’s box”と書かれた印画紙箱が出てきました。そこには、ぼくが課題で撮った赤羽の街の風景が何枚も入っていました。しょうもない写真なのに、そんなものまで残していました。
思えば、昔から昇は撮影を楽しんでいました。工夫をしたりして遊んでいました。
手持ち撮影が好きでした。乳母車での移動撮影もよくしました。パン(ニング)も変幻自在と言うか無茶苦茶でした。
フィルターを重ねてどんな映像になるか実験もしていました。動く絵だけでなく写真を使った静止画の再撮影もよくしました。レンズに半分ポマードを塗ったり色セロハンを貼ったりして様々なソフトフォーカスを作りました。
また、当時タブーであったガラスに撮影中の自分の姿が映ろうが、全く気にしない図太さも持ち合わせていました。
そんな創意工夫の遊び心が彼の持ち味となり、現在の地位を築いていったのだと思います。
昇は、事あるごとに弟子や生徒(講師をしていた)たちに、自分の原点は、ぼくたちグループ・ポジポジの映画『ハードボイルド・ハネムーン』であると語っていたそうです。夏に撮ったせいか、随所に光(太陽)と影のシーンがありました。きらきらした波を撮った長回しのシーンもありました。低感度フィルムの写真で撮った、コンクリートに映るぼくたちのシルエットがラストシーンでした。
いづみさんの入れてくれた冷たいお茶が、食道を抜け胃に流れる何ともない感覚に、違和感を覚えながら、ぼくはしばらくぶりに会った我が友のことを振り返りました。
『昇は、昇らしく生きていたんだ』
帰り際にもう一回、別れを言おうと顔を覗きました。
ぼくは、『なんてことはない、変わっちゃいないということじゃないか、昔のまんまじゃないか、おまえは、よ』と、心の中でつぶやいていました。
そしてそれは、ぼくにとって、とてもとても羨ましいことに思えてなりませんでした。
本庄は、直情的な性格の上、歯に衣を着せぬその物言いは、風体もあって、知らぬ人間に威圧的な印象を与える。
福本淳は、
「不思議な方ですね、篠田さんとため口聞ける数少ない方のひとりなんですが、とにかくインパクトの強い不思議な方です」
と話す。
本庄は、自身のディレクター時代に、作品の撮影を昇に頼んでいた。もちろん、長期的な撮影等、篠田の都合で断られたものもあったが、いつも優先的に引き受けてくれたという。
本庄は自分で書いた絵コンテに、必ずレンズ・サイズを記入していた。つまり、本庄の頭の中には、すでに作品映像のイメージは固まっていた。
しかし、昇はそれをいつも無視して崩していった。
撮影の現場では、ディレクター本庄が指示する地上でのフィックス撮影を尻目に、昇は勝手にクレーンに乗って移動撮影を始めようとしている。
「バカヤロー、何やってんだ、のぼるぅ! 降りて来い! このやろー」
「バカヤロー、こっちのほうがいいんだよー」
「違う違う、ここだぁ、ここから、ここから撮れー、バカヤロー」
「まかせておけって、バカヤロー」
こんなやり取りを見ていた照明助手は、本庄に「本当に仲がいいんですか?」と尋ねた。
ある日の夕方、会社にいた本庄に昇から電話がかかってきた。
「ちょっと話があるから、出て来い」
「何だよ」
「いいから、すぐに来いよ」
聞けば、本庄行きつけの中野の寿司屋にいるという。
数時間後、仕事を終えた本庄が寿司屋に出向くと、カウンターにベロンベロンに酔っ払った昇と長澤雅彦がいた。
駆けつけ三杯の本庄。
「で、話って何だよ」
へべれけ状態の昇が一言。
「勘定してくれ」
昇たちは無一文だったのである。
昇の通夜の席で、本庄は涙を浮かべながら、思い出話をしてくれた。
「昇とさあ、ロスに行った時さあ、飛行機、ノースウエストでさ、ファースト・クラスに乗って。昇が酒頼めって言うんだよな。ただなんだよ、飲み放題なんだよ、ファースト・クラスだから。
で、ワインの、一升瓶より、もっとでかいのがあるじゃん。こんなにでかいの。あれ頼めって言うんだよ。バカヤロー、そんなのテメエが頼めって。でも、オレが注文したんだ、注文したのはオレ。
で、ふたりで開けちゃってさ、ベロンベロン。
そしたら、昇がまた、もう1本貰おうぜ、だってよ。バカだよな、あいつは。
スチュワーデス呼んで、もう1本頂戴って。
そしたら、訳わからないんだけど、スチュワーデスに怒鳴られちゃった。怒られちゃった。バカだよな、あいつ」
この連載を開始してから、何度か本庄とコンタクトをとっていたのだが、お互いの都合でなかなか会うことができなかった。今年の7月、やっと昇の葬式以来となる再会をした。
が、彼の体調が思わしくなく、わずかの時間で中座せざるをえなかった。
別れ際に本庄はつぶやいた。
「オレたち、くされ縁だったんだな」
いつか、もっともっと彼と昇の“はっつぁん、くまさん”ぶりを聞きたいと思っている。
取材協力:篠田いづみ
P.S 2008年10月26日本庄克彦永眠す。残念無念。合掌。