1988年(昭和63年)から約10年弱もの長い間、篠田昇のもとで助手を務めてきた福本淳は、この間、篠田に本気で楯突いたことが2回ほどあった。
「夏の庭」の撮影中に1回、そしてもう1回は「MISTY」の時だった。
1993年夏。
「夏の庭」での撮影期間中、撮影が終了すると、宿泊先のホテルにあったガレージの一角に作られた撮影部用の工房に戻り、篠田から命じられた自家製機材の作成や修繕をするのが日課になっていた福本は、その日もひとりで黙々と作業を続けていた。
他の現場スタッフたちは撮影が終わると大方飲みに出かけた。彼らから声を掛けられることも度々あったが、福本はそれを断り、ひたすら作業をしていた。
そこに「毎日毎日、お前は一体何をやっているんだ」とスチルマンが工房を訪ねてきた。彼は飲みに誘っても断り続けている福本の姿に耐えかねて、酒を持ってやってきた。
「たまには飲めよ」と工房の中にゴザを敷き、他に二人ほどが加わり、酒盛りが始まった。福本はありがたみを感じ、酒をいただきながらも作業の手を休めることはなかった。
そこへ篠田が帰ってきた。篠田はそれを見て、福本を工房から連れ出し、「お前、何やってんだ。明日まで、これができなかったら、撮影できないんだぞ」と怒鳴った。
福本は福本で、自分なりに精一杯やってきている中で、他のスタッフが気を使ってくれたことに対して、それを突っぱねることはできないという思いの丈を、篠田にぶつけた。
初めて二人の真剣な怒りがぶつかりあった翌日の撮影が気になる。
「ぼくが(作業で)やったことが篠田さんの望んでいたとおりにできたかはわからないですが、結局ぼくがいろいろなことを考えて準備していっても、常に課題が生まれる。
例えば、篠田さんに3のことを要求されても、一応5くらいのことを考えて持っていく。だけど、現場に入ると、篠田さんは7くらいのことに引き上げようとする。
そういう意味じゃ、怒られた翌日だけ、特別大変なことになったかというと、そんなことはないんです」
いつものとおりではあったのだが、それなりにいつも大変だったという福本の思いが読み取れる。
篠田は福本にどのような注文を出していたのだろうか。
これまでカメラ本体から、レンズ、フィルター、フィルム、ミニジブやピィウイ等の特機の扱い、自家製ステディカム“NOBOCAM”の開発などの話から、おおよその推測は立つ。
しかし、その多くは、制約を取り払うという大原則に成り立つものの、試行錯誤の積み重ねのせいか、危険やトラブルといったリスクと表裏一体であることも否めない。
ピィウイにミニジブを乗せたはいいがレールや車輪への重量負担による故障、
いつ落ちても不思議ではない「夏の庭」のズームレンズの改造、
長澤雅彦の語る撮影中のセッティング待ち、いわゆる篠田待ち・・・。
そして、福本淳がさらに付け加える。
「篠田さんは、普通にものを使ってくれないカメラマンなんですよ。何でもそうなんですけど、普通には絶対使わない。
例えば、クレーンです。
本来クレーンにはカメラを取り付ける支柱とカメラマンとピントマンが座れる椅子が付いているんです。
で、もっと高さが欲しい時は、プラットホーム(クレーン突端の撮影者が乗る台)に三脚を立てます。その分、二人乗ることは困難になったりしますが、それはそんなに珍しいことではないんですね、よくあるんです。
当時のプラットホームの大きさって、約1.2メートル四方あるんですよ。当然、壁までの距離、ぶつかると危ないので、その分の距離がどうしても必要なんです。
でも、篠田さんはもっと壁ぎりぎりで撮影したい、と。壁ぎりぎりの撮影というものは、このままでは無理なんですね。
でも、プラットホームというのは分解式になっているので、外せるんです。それを外して、ますます危険な状態になってくるんですが、こうすると壁ぎりぎりの撮影ができるんです。
こうやって、篠田さんはクレーンでカメラが壁ぎりぎりの撮影をするようになったんです。
それと、ぼくが助手として一番困ったのは、「夏の庭」の時でした。
少年たちが初めて塀を乗り越えるショットで、少年たちの頭すれすれをカメラが通りたいと、篠田さん。
で、クレーンにカメラが乗ると、少年たちの頭よりも大分上をカメラが通過することになってしまうので、カメラをクレーンの下にぶら下げるんです。これが大変なわけです。
クレーンの下に、お釜(ヘッド)を逆さまに付けて、そこに“コの字”を付けて、カメラをぶら下げて、プラット・ホームに篠田さんが腹ばいに寝っ転がる。
左側からファインダーを出して、右側からはパン棒が出て、覗いてオペレートしているんですが、ファインダーが当たって、どうしても自分が撮りたいところへ振れなかったりする。
お釜を逆さまに付けるのをシャコ万という万力で止めてあるので、出っ張っているんですね、締め付けた部分が、それが当たる。だから、その付け方をオペレートに合わせて、変えていく。さらに大変なことになっていくんです。
ま、このように本当に普通通りには使ってくれないんです。何でもでした」
篠田昇というカメラマンは、アイディアが豊富な分、その負担を背負わなければならない助手泣かせのカメラマンでもあった。
広義に考えれば、助手だけでなく、特機部を含めた撮影回り全ての人々に対しても、何かしらの手を加えさせる、やっかいなカメラマンでもあった。
ただ、それが行定監督や長澤の言う妥協しない撮影、やると決めたらとことんやる篠田の姿勢として、高い評価と信頼に繋がっているのも、また事実である。
篠田昇は、
“普通のことはやらない”
“誰もがやらないことを考え出す”
“人のやったことがないことにこだわる”
“常識はずれを良しとする”
それはつまり、
“常に新しいものを作り、新しいことをやり続ける”ことであり、それはまるでアルバムを発表する度に世界を驚かせたザ・ビートルズのスタイル(在り方というか生き方というか)と、規模こそ違え、私にはダブって見えてくる。
ひょっとすると篠田昇は、ビートルズの心の中の一員として、挑戦というポリシーを貫いていたのかもしれない。それが篠田のプライドでもあったのか。
ただ彼の性格として、“人を驚かすのが大好き”というレベルの一面を持ち合わせていたということも付け加えておく。
しかし、その一方で、やりたい放題ではなく、しなくてはいけないことにも留意していた。いわゆる当たり前のことながら、常識の意識である。
「常にシステム・アップしていけ、というのが篠田さんの持論でした。ぼくらが機材を作るというのはそういうことなんです。
篠田さんの場合、当然撮影のセット・アップするのに時間がかかる。
篠田さんはそれが嫌なんです。
ピィウイにミニジブを乗せるのが大変なんだろうと、毎回同じことをやっているんだから、それが早くできるようなことをお前らは準備しろ、と。
例えば、ミニジブにカメラを乗せると、カメラ用の電源一個引くだけで、普通のカメラのケーブルって1.2~3メートルしかないので、三脚の下にバッテリーを置く分には繋げば問題ないんですが、ミニジブに乗るとカメラが動く時に足りなくなる。
それを手で持って回ったりするよりかは、長いケーブルを用意して、その長いケーブルがすぐミニジブの支柱にピッと簡単に付くようにしておけ、というようなことなんです」
「借りるよりは、何でも作りゃあいいじゃん、ということで、どんどんと手製の機材が増えていく。ケーブルの本数も増えていくと、今度はバッテリーの分岐をすればいいんじゃないの、って、バッテリーの分岐をする箱を作る。
そのうち、このバッテリーじゃ電源三つ同時に取ると、カメラが回らなくなるとか学習もしたりして、本当に次から次に、いろいろなことをやってました」
「普通、新しいものを作ると、その前のやつは捨てちゃえばいいわけじゃないですか。
それを捨てないでとっておく。しかも、それを常に持ち運ばなければいけない。
初めて助手で来た人は、これが何の時に使うのか、どんな時に使うのか、理解できるまでが大変なんですよ。
みんなによく言われますけど、何でも作って、それを使えるようにして、普通はそんなこと、なかなかしないよ、って。
ぼくもそう思うところはありましたけど」
つまり、自家製機材の開発やパーツの改良、修繕といったものは、撮影そのものの向上だけでなく、作業やセッティングの短縮に繋げる、いわば次の撮影のための作業効率を図るステップ・アップとして、篠田は指示していたのである。
「篠田さんにああしろこうしろと言われて、やってみて、結果、篠田さんの思うようにいかなかったことはいっぱいあります。
篠田さんのすごいところは、ぼくが「できない」って言う前に、「こうすりゃ、できんだろ」って、返ってくることなんです。
だけれども、「こうすりゃ、いいんだよ」ということが、ぼくらの(知識の)範疇を越えているんですね。
ぼくらは撮影助手じゃないですか。作れというものが、機材屋だったら作れるかもしれませんが、ぼくらにそれが作れるのかな、みたいなことをおっしゃる。それは、じゃ作ってみるか、ということなんですけど。
一回、無線でカメラのピントを送る機械を作れって言われたんですが、多分ぼくがキョトンとしていたのだと思います。
そしたら、「あのさ、お前さ、ラジコン・カーのギアなんか使って、うまいことできないのかよ」「よくキュッキュッてやってるだろ、それ機材と同じだろ」って。
ぼくはラジコンなんて知りませんでしたけど、原理は大体わかっていたので、買ってきて作りました」
篠田というカメラマンの特徴は、福本の「ぼくらは撮影助手なのに、何で・・・」という言葉に象徴されている。
福本に限らず、篠田の助手たちは、自分たちは撮影助手なのに、何で機材屋が作るものを作らなければならないのか、どこか疑問を感じていたに違いない。
もしくは、撮影助手以外の仕事をさせられていると、多少の反発を感じていたのだと思う。
しかしながら、それは長澤雅彦が言うように、「篠田さんが言うんだから、ま、言うとおりにやるか」と、ひたすら篠田の大らかな人間性に押し流されていたのではないか。
それは彼の結婚式や葬式に集まった数十人というおびただしい助手たちの数で窺える。彼らはみんな篠田を好きだった、慕っていたのだから。
やはり、篠田は撮影に関わる物を工夫して何でも作ろうとする行為において、特異な撮影法と併せて、他のカメラマンとは大分違っていたのだろう。
最後は、福本のオチで締めくくろう。
「篠田さんは、いづみさんと結婚されて、しばらく経った時期に、ラジコン・ヘリでよく遊ばれていた時がありました。
ぼくは、「いずれはそれで空撮ですか」って、聞いた覚えがあります」
取材協力:篠田いづみ