take20手持ちへの追求
ディレクターズ・カンパニー倒産のため、「東方見聞録」の劇場公開は絶望的となった。
そんな中、篠田昇は1992年(平成2年)に「欲望だけが愛を殺す」(1992年、監督中原俊)を撮影する。
この作品は、WOWOWのJムービー・ウォーズという一連の映画作品群のひとつとして、テレビ放送用に作られた。
篠田はここで8ミリビデオを使用する。
ビデオ自体は、テレビのドキュメンタリー番組やプロモーション・ビデオ(PV)、CM等で使い慣れたものだったが、監督の要望が2キャメラでということで、簡便性、機動性の高い小型軽量のキヤノン製ハイ・エイトを選択した。
当時キヤノンでは、レンズの交換できる高級機を出していたので、それを篠田は選択したのだ。
それと前後して、「東方見聞録」の流れから、建築家の「高松伸の世界」という映画館での上映目的としないドキュメントを撮っている。監督は同じく井筒和幸。この作品は、3Dのハイビジョンで撮影された。
この作品のプロデューサーだった長澤雅彦は、
「建築物の記録ものなんですが、その頃ソニーが開発していたハイビジョンで、立体3Dで建築物を撮る。要はただキャメラ2台並べただけなんですけど。
当時はまだハイビジョンって機動力のあるキャメラじゃなかったので、巨大な中継車に乗っかって撮影してました。
でも、ただでさえ重たいキャメラが2台、それを篠田さん、手持ちで移動撮影してましたからね、それはすごかった、見ものでした」
極端に重いカメラから軽いカメラと変幻自在に操る篠田昇だが、これらの作品の撮影は、彼の撮影史の中でも特殊な部類に入るといえる。
これまでフィルムでの撮影を主にした篠田は、ミニジブをピィウイドリーに乗せる撮影スタイルの進歩を目指し続けていく。
しかし、この頃、純粋なる手持ち撮影の追及が篠田の中に起こり始めていた。
きっかけは「欲望だけが愛を殺す」のハイ・エイト、本格的に試みを始めたのは、同じくWOWOWのJムービー・ウォーズ作品「来たことのある初めての道」(1993年、監督山川直人)だったと語るのは福本淳。
「8ミリビデオカメラを使った「欲望だけが愛を殺す」では、小型のカメラにスチル用の三脚を付けて、その三脚に別のモニターも付ける。で、その三脚を手で持って、結構動き回っていたんです。
重心も取りやすくなっていて、「これって、ステディカムみたいだな」って、篠田さん。ただ中原さんの作品なので、手持ちはそんなに多くないんです。
それで、「来たことのある初めての道」で、この作品は16ミリで撮影したのですが、監督の山川さんが全部1シーン1カットでやりたいと話されていて、篠田さんは、手持ちじゃなく、もうちょっと安定しているほうがいいと思ったらしく、ぼくにステディカムを作れって、言ってきたんです」
ステディカムというのは、カメラの防振装置の登録商標名で、今ではいたるところで目にすることができる。
マラソン中継で、バイクの後部座席のカメラマンが装備しているものがそうだ。ベストを着て、バネの入ったアームの先にカメラと棒、下にモニターとバッテリーが付いているものだ。揺れを極力押さえ、安定した手持ち撮影画像を可能にした機材である。
実は篠田は以前にCM撮影で、本物のステディカムをレンタルして使用したことが1回あった。
「篠田さんは練習もしないで、ぶっつけでやったこともあって、あまり上手くいかなかったんです。それにステディカム自体にも制約があるんですよ。上下できる幅って、40センチくらい、アームの限界なんです。
簡単に上から下に、もしくは低くしたい時は、セッティングを変えなくてはならない。時間がかかるわけです。
篠田さんにしてみれば、大掛かりなセットアップというところから、なるべく簡単に自分が撮りたいものを素直に撮れるような方向性への模索のきっかけなんですけど、正直上手くいかなかった。自分のイメージしたようにはならなかったと思うんですね。
ただ、これまでの手持ちよりかは自由が効くようにはなったと思いますけど」
つまり、篠田は従来の(本物の)ステディカムでは、使いにくかったのか、制約があり過ぎたのか、そのためオリジナルのステディカムの制作を福本に命じたというわけだ。
「ぼくが学生時代に8ミリ(フィルム)をやっていた時に、「小型映画」という8ミリ映画の雑誌があって、それに当時千葉工大で特機を自作していた自主映画の作家の方がご自分で作ったものを載せていたんです。
その中に、8ミリ(フィルム)用のステディカムというものの記事が載っていて、それはT字型の棒をひっくり返したヤジロベエみたいなもので、カメラを乗せて棒を持つと、簡易ステディカムになるというものでした。
なおかつ、それと似たようなもので、実際ムービー用の機材で、ポコカムというアメリカ製のものもあったんです。
その辺をヒントに作りました。
まず16ミリカメラを乗せる台、あと作らなくてはいけないのは、カメラの電源と小さなテレビ(モニター)を乗せないといけないので、モニター用の電源とカメラからモニターにビデオの信号を出す映像ケーブルとかを全部棒の中に仕込めるように作りました。
それにバッテリーを付けて、バッテリーから電力を供給して、カメラの電源、モニター用の電源などに行くようにして。
そしたら、「お前、ステディカムなんだから、カメラ持ってピント送れないんだよ」と。
だから、「無線でピント送れるシステムを作れ」って言われました。
これは撮影中にフォーカスを送るためにレンズに手で触ると、その段階でバランスを崩してしまうからなんですね。だからリモコンでピントの遠隔操作ができる機械を作りました。
「来たことのある初めての道」の撮影は、北海道で1月の7日から始められたので、ぼくは正月を返上して作っていました。篠田さんは先発で行っていて、ぼくは6日にとかに現地に着かなくてはいけない。
とりあえず出来上がったんですけど、持ったら物凄く重い。当たり前って言っちゃあ当たり前なんですけど、普段は肩に担ぐようなカメラを片手で持とうというわけですから、なおかつ電気を供給するためのバッテリーが、いつもの倍の重量で付いているんですから。
多分30秒持てればいいほうかな、っていう感じでした。
作る前にもこうなることは予測できていて、篠田さんに言ったんですけど、「まあいいじゃん、作ってみれば」って。
篠田さんから出発の前の晩、電話がかかってきて、「どうなっている。出来たのか」と聞かれて、ぼくは、出来たんですけど、とにかく重いです。絶対に持てないと思います、と。
でも「いいから、持ってこい」と言われて持っていきました。
撮影開始の前日に着いて、篠田さんに持たせたんです。そしたら、「重い」って言ったんですけど、とりあえず篠田さんはこれで撮影しようと思ったんです、このままで。
次の日の朝、撮影が始まって、それは駅の撮影で、改札に入る前のところからスタートして、改札通って、階段を上がって、ホームに出て、会話があって電車に乗るところまで、1カットなんですよ、約8分くらいの。
それのリハーサル中、ぼくは自作ステディカムを組んでいたら、篠田さんがやってきて、「これじゃ、だめだ」と言って、ぼくが二週間かけて作ったやつを全部ばらばらにしてしまって、ご自分で組み立て始めました。
最終的には、カメラの上に棒が一本付いていて、その横にモニターとピントのリモコン・システム、あとカメラと棒の間に持った時のバランスを整えるヤジロベエ、それだけの形に落ち着いて、その後はそれでずっと撮影されていました」
福本が考案した棒の上にカメラがセットされる形から、篠田は棒の下にぶら下げる形に変えた。
福本によると、歩く振動は多少拾うが、左手でカメラを添えることもできる、このぶら下がり型は持ちやすく、操作も楽になったのだそうだ。
その後、篠田はこのオリジナル・ステディカムのアイデアを取り入れて、35ミリ・カメラにも応用しようと試みたが、さすが力持ちの篠田でも無理だったという。
しかし、この頃35ミリ・カメラの世界にも、カメラのファインダーの画を小さなビデオカメラで撮って、テレビ・モニターに映すビジコン・システムが開発されるようになり、篠田はこの方法を利用し、小型の液晶モニターを見ながら、手持ちで撮影するスタイルを確立することになる。
それがカメラ、パナフレックスに応用した、本家ステディカムよりも軽く、小回りの効くNOBOCAM(ノボカム)である(完成品ではないが)。
その際に使うビジコン・システムも、篠田の場合、全て自家製であった。
福本は「夏の庭」(1994年、監督相米慎二)の時に、作らされた。
「当時、このビジコンは借りると、カメラ一台分のお金が必要でした。何でそんな金、払わなくちゃいけないんだ、とご自分でCCDのカメラを買ってきて、こういういいCCDカメラがあるから、それを付けろと。付ける仕組みを説明されて。
作ったんですが、でも手製でしかない。フレームがちょっとずれたりすると丁寧に合わして元通りにする。でも、うまくいかない時もあるんで、そんな時は手でグリグリグリッてやるわけですよ。それはそれで通用するんですが、そうすると今度は二度と付かなくなるんです」
同様の現場に居合わせた長澤雅彦も、
「カメラマンと同じ画を共有できるビジコンを、純正のものはお金がかかるんで、篠田さんはもったいないと自分で作り出すわけです。秋葉原で買ってきたCCDカメラにリードを繋げるようにして。
これがよく故障するんですよ。回そうとすると画が出てこなかったり。それで分解し始めるんですよ、現場で。
どこがおかしいんだろう、テスター持って来い、で、ハンダゴテで繋ぎ始める。そんなことで、カメラが回らず撮影はストップしたまま。
機材作るのはいいんですけど、自家製もいいんですけど、トラブルの連続、そんなことの繰り返しでしたね」
と笑う。
こうしたどこかパーフェクトではない無勝手流のやり方は、一見滑稽さを伴う。
が、篠田の優れたところは、失敗を苦にせず、次へのステップを踏むことなのではないか。ここがだめなら、こうしたらどうか。ここをこう変えれば解決できるのでは、という飽くなき探求の精神にあるのではなかろうか。
この常に次に進もうとする前向きな態度は、行定勲監督、長澤雅彦らがいう“絶対にあきらめない”、“やろうと思ったら、必ず貫き通す”という篠田の撮影スタイルを評する言葉とオーバーラップする。
そして、滑稽さを伴うからこそ、憎めない男として、愛すべき人間として、篠田昇は“あった”のではないだろうか。
取材協力:篠田いづみ