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2008年09月 アーカイブ

2008年09月08日

take20手持ちへの追求

ディレクターズ・カンパニー倒産のため、「東方見聞録」の劇場公開は絶望的となった。
そんな中、篠田昇は1992年(平成2年)に「欲望だけが愛を殺す」(1992年、監督中原俊)を撮影する。
この作品は、WOWOWのJムービー・ウォーズという一連の映画作品群のひとつとして、テレビ放送用に作られた。
篠田はここで8ミリビデオを使用する。
ビデオ自体は、テレビのドキュメンタリー番組やプロモーション・ビデオ(PV)、CM等で使い慣れたものだったが、監督の要望が2キャメラでということで、簡便性、機動性の高い小型軽量のキヤノン製ハイ・エイトを選択した。
当時キヤノンでは、レンズの交換できる高級機を出していたので、それを篠田は選択したのだ。

それと前後して、「東方見聞録」の流れから、建築家の「高松伸の世界」という映画館での上映目的としないドキュメントを撮っている。監督は同じく井筒和幸。この作品は、3Dのハイビジョンで撮影された。
この作品のプロデューサーだった長澤雅彦は、
「建築物の記録ものなんですが、その頃ソニーが開発していたハイビジョンで、立体3Dで建築物を撮る。要はただキャメラ2台並べただけなんですけど。
当時はまだハイビジョンって機動力のあるキャメラじゃなかったので、巨大な中継車に乗っかって撮影してました。
でも、ただでさえ重たいキャメラが2台、それを篠田さん、手持ちで移動撮影してましたからね、それはすごかった、見ものでした」

極端に重いカメラから軽いカメラと変幻自在に操る篠田昇だが、これらの作品の撮影は、彼の撮影史の中でも特殊な部類に入るといえる。
これまでフィルムでの撮影を主にした篠田は、ミニジブをピィウイドリーに乗せる撮影スタイルの進歩を目指し続けていく。
しかし、この頃、純粋なる手持ち撮影の追及が篠田の中に起こり始めていた。
きっかけは「欲望だけが愛を殺す」のハイ・エイト、本格的に試みを始めたのは、同じくWOWOWのJムービー・ウォーズ作品「来たことのある初めての道」(1993年、監督山川直人)だったと語るのは福本淳。
「8ミリビデオカメラを使った「欲望だけが愛を殺す」では、小型のカメラにスチル用の三脚を付けて、その三脚に別のモニターも付ける。で、その三脚を手で持って、結構動き回っていたんです。
重心も取りやすくなっていて、「これって、ステディカムみたいだな」って、篠田さん。ただ中原さんの作品なので、手持ちはそんなに多くないんです。
それで、「来たことのある初めての道」で、この作品は16ミリで撮影したのですが、監督の山川さんが全部1シーン1カットでやりたいと話されていて、篠田さんは、手持ちじゃなく、もうちょっと安定しているほうがいいと思ったらしく、ぼくにステディカムを作れって、言ってきたんです」
ステディカムというのは、カメラの防振装置の登録商標名で、今ではいたるところで目にすることができる。
マラソン中継で、バイクの後部座席のカメラマンが装備しているものがそうだ。ベストを着て、バネの入ったアームの先にカメラと棒、下にモニターとバッテリーが付いているものだ。揺れを極力押さえ、安定した手持ち撮影画像を可能にした機材である。

実は篠田は以前にCM撮影で、本物のステディカムをレンタルして使用したことが1回あった。
「篠田さんは練習もしないで、ぶっつけでやったこともあって、あまり上手くいかなかったんです。それにステディカム自体にも制約があるんですよ。上下できる幅って、40センチくらい、アームの限界なんです。
簡単に上から下に、もしくは低くしたい時は、セッティングを変えなくてはならない。時間がかかるわけです。
篠田さんにしてみれば、大掛かりなセットアップというところから、なるべく簡単に自分が撮りたいものを素直に撮れるような方向性への模索のきっかけなんですけど、正直上手くいかなかった。自分のイメージしたようにはならなかったと思うんですね。
ただ、これまでの手持ちよりかは自由が効くようにはなったと思いますけど」
つまり、篠田は従来の(本物の)ステディカムでは、使いにくかったのか、制約があり過ぎたのか、そのためオリジナルのステディカムの制作を福本に命じたというわけだ。
「ぼくが学生時代に8ミリ(フィルム)をやっていた時に、「小型映画」という8ミリ映画の雑誌があって、それに当時千葉工大で特機を自作していた自主映画の作家の方がご自分で作ったものを載せていたんです。
その中に、8ミリ(フィルム)用のステディカムというものの記事が載っていて、それはT字型の棒をひっくり返したヤジロベエみたいなもので、カメラを乗せて棒を持つと、簡易ステディカムになるというものでした。
なおかつ、それと似たようなもので、実際ムービー用の機材で、ポコカムというアメリカ製のものもあったんです。
その辺をヒントに作りました。
まず16ミリカメラを乗せる台、あと作らなくてはいけないのは、カメラの電源と小さなテレビ(モニター)を乗せないといけないので、モニター用の電源とカメラからモニターにビデオの信号を出す映像ケーブルとかを全部棒の中に仕込めるように作りました。
それにバッテリーを付けて、バッテリーから電力を供給して、カメラの電源、モニター用の電源などに行くようにして。
そしたら、「お前、ステディカムなんだから、カメラ持ってピント送れないんだよ」と。
だから、「無線でピント送れるシステムを作れ」って言われました。
これは撮影中にフォーカスを送るためにレンズに手で触ると、その段階でバランスを崩してしまうからなんですね。だからリモコンでピントの遠隔操作ができる機械を作りました。
「来たことのある初めての道」の撮影は、北海道で1月の7日から始められたので、ぼくは正月を返上して作っていました。篠田さんは先発で行っていて、ぼくは6日にとかに現地に着かなくてはいけない。
とりあえず出来上がったんですけど、持ったら物凄く重い。当たり前って言っちゃあ当たり前なんですけど、普段は肩に担ぐようなカメラを片手で持とうというわけですから、なおかつ電気を供給するためのバッテリーが、いつもの倍の重量で付いているんですから。
多分30秒持てればいいほうかな、っていう感じでした。
作る前にもこうなることは予測できていて、篠田さんに言ったんですけど、「まあいいじゃん、作ってみれば」って。
篠田さんから出発の前の晩、電話がかかってきて、「どうなっている。出来たのか」と聞かれて、ぼくは、出来たんですけど、とにかく重いです。絶対に持てないと思います、と。
でも「いいから、持ってこい」と言われて持っていきました。
撮影開始の前日に着いて、篠田さんに持たせたんです。そしたら、「重い」って言ったんですけど、とりあえず篠田さんはこれで撮影しようと思ったんです、このままで。
次の日の朝、撮影が始まって、それは駅の撮影で、改札に入る前のところからスタートして、改札通って、階段を上がって、ホームに出て、会話があって電車に乗るところまで、1カットなんですよ、約8分くらいの。
それのリハーサル中、ぼくは自作ステディカムを組んでいたら、篠田さんがやってきて、「これじゃ、だめだ」と言って、ぼくが二週間かけて作ったやつを全部ばらばらにしてしまって、ご自分で組み立て始めました。
最終的には、カメラの上に棒が一本付いていて、その横にモニターとピントのリモコン・システム、あとカメラと棒の間に持った時のバランスを整えるヤジロベエ、それだけの形に落ち着いて、その後はそれでずっと撮影されていました」
福本が考案した棒の上にカメラがセットされる形から、篠田は棒の下にぶら下げる形に変えた。
福本によると、歩く振動は多少拾うが、左手でカメラを添えることもできる、このぶら下がり型は持ちやすく、操作も楽になったのだそうだ。

その後、篠田はこのオリジナル・ステディカムのアイデアを取り入れて、35ミリ・カメラにも応用しようと試みたが、さすが力持ちの篠田でも無理だったという。
しかし、この頃35ミリ・カメラの世界にも、カメラのファインダーの画を小さなビデオカメラで撮って、テレビ・モニターに映すビジコン・システムが開発されるようになり、篠田はこの方法を利用し、小型の液晶モニターを見ながら、手持ちで撮影するスタイルを確立することになる。
それがカメラ、パナフレックスに応用した、本家ステディカムよりも軽く、小回りの効くNOBOCAM(ノボカム)である(完成品ではないが)。
その際に使うビジコン・システムも、篠田の場合、全て自家製であった。
福本は「夏の庭」(1994年、監督相米慎二)の時に、作らされた。
「当時、このビジコンは借りると、カメラ一台分のお金が必要でした。何でそんな金、払わなくちゃいけないんだ、とご自分でCCDのカメラを買ってきて、こういういいCCDカメラがあるから、それを付けろと。付ける仕組みを説明されて。
作ったんですが、でも手製でしかない。フレームがちょっとずれたりすると丁寧に合わして元通りにする。でも、うまくいかない時もあるんで、そんな時は手でグリグリグリッてやるわけですよ。それはそれで通用するんですが、そうすると今度は二度と付かなくなるんです」
同様の現場に居合わせた長澤雅彦も、
「カメラマンと同じ画を共有できるビジコンを、純正のものはお金がかかるんで、篠田さんはもったいないと自分で作り出すわけです。秋葉原で買ってきたCCDカメラにリードを繋げるようにして。
これがよく故障するんですよ。回そうとすると画が出てこなかったり。それで分解し始めるんですよ、現場で。
どこがおかしいんだろう、テスター持って来い、で、ハンダゴテで繋ぎ始める。そんなことで、カメラが回らず撮影はストップしたまま。
機材作るのはいいんですけど、自家製もいいんですけど、トラブルの連続、そんなことの繰り返しでしたね」
と笑う。
こうしたどこかパーフェクトではない無勝手流のやり方は、一見滑稽さを伴う。
が、篠田の優れたところは、失敗を苦にせず、次へのステップを踏むことなのではないか。ここがだめなら、こうしたらどうか。ここをこう変えれば解決できるのでは、という飽くなき探求の精神にあるのではなかろうか。
この常に次に進もうとする前向きな態度は、行定勲監督、長澤雅彦らがいう“絶対にあきらめない”、“やろうと思ったら、必ず貫き通す”という篠田の撮影スタイルを評する言葉とオーバーラップする。
そして、滑稽さを伴うからこそ、憎めない男として、愛すべき人間として、篠田昇は“あった”のではないだろうか。


取材協力:篠田いづみ

2008年09月19日

take21手持ちの進化形とレンズ

1993年1月、篠田昇に本編の撮影依頼がくる。
映画撮影デビュー作「ラブホテル」以来の、厳密にいえば、「お引越し」の助っ人撮影を間に挟んだ相米慎二監督作品「夏の庭」(1994年)だった。
篠田は舞台となる神戸の街をロケハン中、いくつかのアイディアを思いついたと、「映画撮影」No.123(日本映画撮影監督協会発行)で記している。
「神戸は背後に雄大な山々を頂いており、人物や街並みと共に是非ともそれらを収めたかった」
そして、
「少年たちとお爺さんの身長差(演じる三國連太郎は180センチ以上)も考えると、上下のフレーム幅がある方が有利」
という理由で、
「通常のビスタサイズよりも上下の幅が広い、ヨーロピアンビスタ(画面サイズ1:1.66)を選択した」
さらに、
「神戸に着いた瞬間に感じたのは、コントラストの少ないフラットな光の街だということだった。小学校のグラウンドなど、土の色は黄色で明るく、その影響か樹々のグリーンも明るく感じられる」
そのため、これまで使い知り尽くしていたデイライト・タイプのフィルム、イーストマン5297の使用から、
「コントラストや色の彩度が高くしっかりした画面が撮れる低感度フィルム、イーストマン5245をメインで使い、フラットな光源を補って画面が甘くなることを防ごうと考えた」
さらに、篠田のプランは広がる。
「増感現像という特殊な処理を部分的に行う」
ことによって、フィルムのトーンを変えた。これは再三増感や減感の話を福本淳から聞いていることと同じ理由によるものだ。
「通常、低感度のフィルムを増感することは皆無といってよい」
それを敢えて試みたのは、
「昨今のフィルムの性能アップには目覚しいものがあるが、それがアダとなり、ボロボロの家や庭の雑草などが、実際よりもきれいに写される危惧があった。
5245は粒子が細かく、増感してもほとんど画面の荒れが目立たないが、色バランスには崩れが生じ、黒の締まりが悪くなる。
映画では当然ながら黒の締まりが重視されるが、私はそれを逆手にとったのだ」
では、どこら辺りにその増感を施したのか。
「子供たちが庭の雑草をむしり終え、お爺さんとの間に友情が芽生えはじめるシーンまで行っている」
よって、そのシーンは、
「思惑は功を奏し、画面に独特の寂れた感じを与えた」
と、篠田昇は自信あり気に述べている。



「夏の庭」の撮影は、7月後半から開始された。
篠田のアイディアが実行されていく中、もうひとつ注目すべき撮影法のポイントがあった。それは手持ち撮影の進化だった。
スタッフの宿舎用としてホテルを借りていたが、そのホテルの下に製作部が借りた美術倉庫のガレージがあり、その一角に撮影部用の工房が設けられた。それを仕切っていたのは、セカンドであった福本淳だった。
「この撮影で、ぼくが篠田さんに付いてやってきたことがかなり円熟期を迎えたというか、ピークに差し掛かっていたというか、そんな時期だったんです。
撮影自体は相米監督の作品なんで、毎日大変は大変なんですが、夜のシーンはそんなになかったんです。朝は早いんですが、滅茶苦茶深夜までというのはなかった。
で、撮影が終わって(工房へ)帰ると、フィルムはサードに任せて、ぼくは篠田さんからああしろこうしろといろいろ要求があった、その言われたことを作ったり、修理したり、ドリルや卓上ドリル、加工用の道具を使って。
その頃の主な仕事は、手製のステディカムやビジコン関連のものだったんですね。「来たことのある初めての道」での最大の失敗は重量なんです。とにかく、そこから軽量化することを何度も繰り返していた。
レンタルのビジコンは性能がよく信頼性とか安定性とかがいいという反面、(値段が)高い、重いというデメリットもある。
ですから、手製にすると、この重量が雲泥の差で軽くなる。
それと篠田さんはフィルターを沢山使う方だから、二枚とか三枚とか入れることのできる特殊なマット・ボックスというのが必要になってくる。
それは大体フィルターを入れる部分とかは金属でてきていて、重いんです。それを手持ちの時は軽くしてくれという篠田さんの要求に対して、プラスチックの素材を買ってきて、切って、フィルターが入るようにして、レンズにそのまま付けれるようにした。
というように、軽い素材イコール軟い素材を使って、どんどん軽量化をしていって、「夏の庭」の時の手持ちは、これまで肩に乗せて撮っていたものが、横に、脇にカメラを抱え込んでとか、手のひらに乗せてとかになって、ファインダーではなく液晶のモニターを見て撮影していました。
しかし、篠田さんって、宇宙一握力の強い人ですから、手持ちでカメラを握ると、その握るところにマット・ボックスがあると、変な力が加わって、閉まるのが閉まらなくなったり、いろいろとトラブルが起こる。そういった修復を繰り返しやってました」

この手持ちの、NOBOCAMシステムは試行錯誤を続けながら改良に改良を重ねていくが、そのほぼ完成に近い形で撮影されたのが、「突然炎のごとく」(1994年、監督井筒和幸、P長澤雅彦)だったと、福本は言う。
「16ミリで、全編手持ちなんです、「突然炎のごとく」は。「来たことのある初めての道」の進化版ですね。この時は、ヤジロベエとかじゃなくて、単純にカメラと液晶モニターとピント用のリモコンが付いていて、カメラに棒が付いている状態で全編撮影しました。
この頃の16ミリのカメラって、いい機種とか出たりしているんですけど、そういうのはレンズが大きくなって、よりいいレンズになっている。
篠田さんはその大きなレンズは絞りが三枚絞りといって、三角形なんですが、それが好きじゃないので、昔のこんな小さなクック社のレンズを使う。
クックのレンズのほうが絞りの枚数が多いし、解像度は若干落ちるんですけど、味があるので、好きなんです。わざわざクックのレンズで撮影するので、そうするとカメラの世代がひと昔のものになる、マウントの形自体が違うので。その辺でもちょっと軽量化されるんですね。
「東方見聞録」の時に買ったガラスのフィルターというのが、一枚4×5.65インチの大きさなんです、いわゆるパナ・サイズと呼ばれる規格の大きさなんです。
これを使うわけなんですが、そのクックのレンズって、本当に小さいので付けるのが大変なんです。そのマット・ボックスとかも、軽量の素材で、プラスチックとかで作りながら撮影してました。
パナ・サイズのフィルターは小さいなりに切って加工してしまえば、軽量化になると思われるでしょうが、そうすると今度は35ミリで使用できなくなってしまう。やはり基本は35ミリですし、枚数も限られていますし。
ぼくが篠田さんとやってきた作品の中でも、全編通して手持ち撮影して、相当面白くできたのが、「突然炎のごとく」なのかなって思っています」

福本の話によると、この手持ちスタイルは以後、岩井俊二監督作品へと継承されていくのだという。

「夏の庭」の撮影中の記録も、篠田は「映画撮影」に記している。
「さて、物語が中盤まで進むと、嵐の夜にお爺さんが子供たちに戦争体験を語るシーンがある。キャメラは家の中をグルリと移動し、その間約7分という長いカットだ。
これをいかに撮影するかということで、監督と前夜に打ち合わせをした。監督は「シーン前半は広めのレンズで、三國さんが苦い思い出にのめり込んでいく後半は長めのレンズがいいな」と提案されたが、私はあまりズームレンズが好きでなく、ワイドと長めの中間の50㎜レンズを使ってみる、という妥協案に達した。
このカットは最初、ハンディカメラで撮りはじめ、途中でクレーンに移し替えるのだが、映画用のズームレンズは大きくて重量もあり、7分ともなれば、1.000ftの大きなマガジンを付けて撮影せねばならない。が、できる限り監督の要望には応えたい。すぐさまキャメラレンタル店に連絡をったが、あいにく貸し出し中という。残された手段は自分で作るのみであった。
翌日は午後より撮影予定で、私は早朝から神戸の中古カメラ店を訪問。そして、レンズ後部を切断して繋げば使えそうなものが1本見つかり、1万4千円にて購入する。昼前よりリハーサルが始まったが、やはり50㎜レンズではどうしても芝居がつかみとれず、購入したレンズの改造に着手した。
結局リハーサルの間、4時間かかったが、これが予想以上にいいものに仕上がった。この手製ズームレンズは、後半、子供たちがサッカー試合の帰り、お爺さんの家に立ち寄るシーンで再度使用している」(原文まま。但し下線部誤字表記修正)

この時の撮影風景を、福本は思い出す。
「台風のシーンなんですよ。三國さんが戦争に行って、残した家族の話を子供たちにするシーンなんです。
少年たちがコスモスが心配だから、台風の中、家の中に入るところから、お爺さんが語り終えるところまで、1カットなんです、多分7、8分のカットです。
撮影前にリハーサルは丸一日くらいかけてやっているんですけど、篠田さんは「いゃー、これはズームしないとだめだな」って、言ったんです。
当時は映画のズームレンズって、非常に大きくて重い、しかも至近のピントも5フィートまでしかこないし、絞りも4、暗いんです。夜の室内の撮影で、絞りをとれるだけのライティングすることも難しい。
「ズームしないとだめだなあ」「手持ちにもしなきゃいけないしなあ」というのが、リハーサルが終わった日の篠田さんの感想でした。
両立しないわけなんです、ムービーの機材では。
ぼくはこの時、手持ちを優先させるのかなって思っていました。
で、本番の日、夜の撮影なので、午後から準備開始でした。
そうしたら、篠田さんが「おい、いいの、あったよ」って、スチルのタムロン製のズームレンズを持ってきたんです。ものすごく小さいのを。多分、午前中に中古カメラ屋だかに行って、探してきたんですね。
スチルのレンズを付けろって言うわけですよ。もちろん、そのまま付くわけがない。
ムービーとスチルのレンズって、バックフォーカスといって、スチルのほうが焦点を結ぶ距離が短いんですね。
なおかつ、スチルのレンズには絞り用のリングが入っているので、これを取らないとバックがこないだろうからといって、篠田さんはレンズを分解し始めたんです。
絞りのリングを外してしまうと絞りの調節が外からは効かなくなって、下に隠れている棒で絞りをいじる、そういう状態にして。
ぼくはぼくでアクリルでマウントを作り始めた。バックが合わせられるように何枚か作りました。
で、マウント付けて、レンズをカメラにはめて、ピントを見て、バックが合っているか調べて。バックの調節って、1ミリ以下の世界なんで、ピントがくるまで、マウントのアクリル板をやすりで削っていくんです。
チョッチョッて削って、カメラに付けて見て、もうちょいだから、またチョッチョッて削って。あ、行き過ぎた、行き過ぎると今度は紙をその分乗せるんですよ。そうやって作っていきました。
元のレンズにネジが切ってあって、そのネジ山を、ほんとに細いネジ山を開けて、接着剤で埋めて、付けて、ピントもきて、ズームもできて、絞りも明るいし、万々歳。
ところが、レンズは小さいんですが、カメラ自体は1000フィート巻きという10分撮れるフィルム・マガジンを付けないといけないので、カメラ自体はでかいんですよ、それに重いし。
普通、ムービー用のレンズの場合、レンズの部分を持っても大丈夫なんですが、ちゃんと固定されているから。
ま、あまり持つことはないんですが、何かの拍子で当たったりすることがよくある。
それが篠田さんとぼくが作ったレンズだと、当たるとポロッって落ちちゃうんです。
本当に気が遠くなるくらい、コロッ、コロッ落ちて、そのたびに接着剤で付けて、というのを繰り返して、一時はもう撮れないんじゃないかって思うくらいでした。
本番って声がかかった時、助手がカメラを篠田さんのところまで、肩まで、よいしょっと上げようとした時に、当たってポロッと、とか。
それに、この撮影というのは、ちょっと普通じゃないんですよ。
三國さんの、お爺さんの話というのは、ひとつのこの映画の肝だったりするんで、まず、子供たちが台風の中をわぁーと入ってくるまでは、手持ちでラフに撮っておいて、メインの居間に入って、お爺さんが座って語り始めてからは、割とどっしり構えなくてはならない。
最初、あやふやなレンズが付いているカメラを篠田さんは手持ちで歩いて撮っていて、それをみんなでフォローしながら、レールの上にピィウイが乗っていて、そこに雲台が付いてまして、そこに撮影しながら、カメラをそぉーとはめていく。
それがはまったら、篠田さんは不安定なレンズでズームをしだす。こんなことをやらなくてはならなかった。
でも、撮ったんですよ。見ても他のレンズと比べて解像度が低いとか、そういったことが全くなくて、すごいきれいな映像に仕上がってました。
ムービーにスチルのレンズを使おうなんて、こんなことを考える人って、いませんよね」
手持ち撮影の状態から、篠田の場合はピィウイになるが、三脚など固定された雲台に撮影しながら、はめていく作業を、福本は“脱着”と呼んでいる。
篠田の撮影では結構やっている方法なのだが、普通あまり聞かないやり方と思われる。

そして、レンズ。
篠田は「映画撮影」の中で、20年以上も前に設計されたパナビジョンのSPシリーズのレンズを使用したとある。その理由としては、フィルム5245のコントラストの高さを考慮し、解像度のいいシャープなレンズを使うことは不適当だからとしている。
しかも、「ラブホテル」を撮影した1985年の頃までが、このSPシリーズ全盛の時であり、篠田は、日本に20セット近くあったレンズ全てをチェックし、データを取っていた。
篠田いわく、レンズの型番は同じでも、解像度やキャラクターがかなり違うのだ、と。
そして時が経ち、あるCM撮影で、このSPシリーズを使用しようとしたら、既に3セットしかなく、しかも篠田が使おうとしたレンズはパナ本社に返却されていたという。
それを篠田は、パナの日本代理店である三和映材を通して、返却(交換)を依頼した。
そのレンズが「夏の庭」で使われることになったのだそうだ。

福本は言う。
「篠田さんのレンズの知識は、半端じゃありません」
半端ではない篠田のレンズに関する知識とは、一体どのようなものだったのだろうか。


取材協力:篠田いづみ

2008年09月30日

take22作り続けるということ

1988年(昭和63年)から約10年弱もの長い間、篠田昇のもとで助手を務めてきた福本淳は、この間、篠田に本気で楯突いたことが2回ほどあった。
「夏の庭」の撮影中に1回、そしてもう1回は「MISTY」の時だった。

1993年夏。
「夏の庭」での撮影期間中、撮影が終了すると、宿泊先のホテルにあったガレージの一角に作られた撮影部用の工房に戻り、篠田から命じられた自家製機材の作成や修繕をするのが日課になっていた福本は、その日もひとりで黙々と作業を続けていた。
他の現場スタッフたちは撮影が終わると大方飲みに出かけた。彼らから声を掛けられることも度々あったが、福本はそれを断り、ひたすら作業をしていた。
そこに「毎日毎日、お前は一体何をやっているんだ」とスチルマンが工房を訪ねてきた。彼は飲みに誘っても断り続けている福本の姿に耐えかねて、酒を持ってやってきた。
「たまには飲めよ」と工房の中にゴザを敷き、他に二人ほどが加わり、酒盛りが始まった。福本はありがたみを感じ、酒をいただきながらも作業の手を休めることはなかった。
そこへ篠田が帰ってきた。篠田はそれを見て、福本を工房から連れ出し、「お前、何やってんだ。明日まで、これができなかったら、撮影できないんだぞ」と怒鳴った。
福本は福本で、自分なりに精一杯やってきている中で、他のスタッフが気を使ってくれたことに対して、それを突っぱねることはできないという思いの丈を、篠田にぶつけた。

初めて二人の真剣な怒りがぶつかりあった翌日の撮影が気になる。
「ぼくが(作業で)やったことが篠田さんの望んでいたとおりにできたかはわからないですが、結局ぼくがいろいろなことを考えて準備していっても、常に課題が生まれる。
例えば、篠田さんに3のことを要求されても、一応5くらいのことを考えて持っていく。だけど、現場に入ると、篠田さんは7くらいのことに引き上げようとする。
そういう意味じゃ、怒られた翌日だけ、特別大変なことになったかというと、そんなことはないんです」
いつものとおりではあったのだが、それなりにいつも大変だったという福本の思いが読み取れる。

篠田は福本にどのような注文を出していたのだろうか。
これまでカメラ本体から、レンズ、フィルター、フィルム、ミニジブやピィウイ等の特機の扱い、自家製ステディカム“NOBOCAM”の開発などの話から、おおよその推測は立つ。
しかし、その多くは、制約を取り払うという大原則に成り立つものの、試行錯誤の積み重ねのせいか、危険やトラブルといったリスクと表裏一体であることも否めない。
ピィウイにミニジブを乗せたはいいがレールや車輪への重量負担による故障、
いつ落ちても不思議ではない「夏の庭」のズームレンズの改造、
長澤雅彦の語る撮影中のセッティング待ち、いわゆる篠田待ち・・・。
そして、福本淳がさらに付け加える。
「篠田さんは、普通にものを使ってくれないカメラマンなんですよ。何でもそうなんですけど、普通には絶対使わない。
例えば、クレーンです。
本来クレーンにはカメラを取り付ける支柱とカメラマンとピントマンが座れる椅子が付いているんです。
で、もっと高さが欲しい時は、プラットホーム(クレーン突端の撮影者が乗る台)に三脚を立てます。その分、二人乗ることは困難になったりしますが、それはそんなに珍しいことではないんですね、よくあるんです。
当時のプラットホームの大きさって、約1.2メートル四方あるんですよ。当然、壁までの距離、ぶつかると危ないので、その分の距離がどうしても必要なんです。
でも、篠田さんはもっと壁ぎりぎりで撮影したい、と。壁ぎりぎりの撮影というものは、このままでは無理なんですね。
でも、プラットホームというのは分解式になっているので、外せるんです。それを外して、ますます危険な状態になってくるんですが、こうすると壁ぎりぎりの撮影ができるんです。
こうやって、篠田さんはクレーンでカメラが壁ぎりぎりの撮影をするようになったんです。
それと、ぼくが助手として一番困ったのは、「夏の庭」の時でした。
少年たちが初めて塀を乗り越えるショットで、少年たちの頭すれすれをカメラが通りたいと、篠田さん。
で、クレーンにカメラが乗ると、少年たちの頭よりも大分上をカメラが通過することになってしまうので、カメラをクレーンの下にぶら下げるんです。これが大変なわけです。
クレーンの下に、お釜(ヘッド)を逆さまに付けて、そこに“コの字”を付けて、カメラをぶら下げて、プラット・ホームに篠田さんが腹ばいに寝っ転がる。
左側からファインダーを出して、右側からはパン棒が出て、覗いてオペレートしているんですが、ファインダーが当たって、どうしても自分が撮りたいところへ振れなかったりする。
お釜を逆さまに付けるのをシャコ万という万力で止めてあるので、出っ張っているんですね、締め付けた部分が、それが当たる。だから、その付け方をオペレートに合わせて、変えていく。さらに大変なことになっていくんです。
ま、このように本当に普通通りには使ってくれないんです。何でもでした」
篠田昇というカメラマンは、アイディアが豊富な分、その負担を背負わなければならない助手泣かせのカメラマンでもあった。
広義に考えれば、助手だけでなく、特機部を含めた撮影回り全ての人々に対しても、何かしらの手を加えさせる、やっかいなカメラマンでもあった。
ただ、それが行定監督や長澤の言う妥協しない撮影、やると決めたらとことんやる篠田の姿勢として、高い評価と信頼に繋がっているのも、また事実である。
篠田昇は、
普通のことはやらない
“誰もがやらないことを考え出す”
“人のやったことがないことにこだわる”
“常識はずれを良しとする”
それはつまり、
“常に新しいものを作り、新しいことをやり続ける”ことであり、それはまるでアルバムを発表する度に世界を驚かせたザ・ビートルズのスタイル(在り方というか生き方というか)と、規模こそ違え、私にはダブって見えてくる。
ひょっとすると篠田昇は、ビートルズの心の中の一員として、挑戦というポリシーを貫いていたのかもしれない。それが篠田のプライドでもあったのか。
ただ彼の性格として、“人を驚かすのが大好き”というレベルの一面を持ち合わせていたということも付け加えておく。

しかし、その一方で、やりたい放題ではなく、しなくてはいけないことにも留意していた。いわゆる当たり前のことながら、常識の意識である。
「常にシステム・アップしていけ、というのが篠田さんの持論でした。ぼくらが機材を作るというのはそういうことなんです。
篠田さんの場合、当然撮影のセット・アップするのに時間がかかる。
篠田さんはそれが嫌なんです。
ピィウイにミニジブを乗せるのが大変なんだろうと、毎回同じことをやっているんだから、それが早くできるようなことをお前らは準備しろ、と。
例えば、ミニジブにカメラを乗せると、カメラ用の電源一個引くだけで、普通のカメラのケーブルって1.2~3メートルしかないので、三脚の下にバッテリーを置く分には繋げば問題ないんですが、ミニジブに乗るとカメラが動く時に足りなくなる。
それを手で持って回ったりするよりかは、長いケーブルを用意して、その長いケーブルがすぐミニジブの支柱にピッと簡単に付くようにしておけ、というようなことなんです」
「借りるよりは、何でも作りゃあいいじゃん、ということで、どんどんと手製の機材が増えていく。ケーブルの本数も増えていくと、今度はバッテリーの分岐をすればいいんじゃないの、って、バッテリーの分岐をする箱を作る。
そのうち、このバッテリーじゃ電源三つ同時に取ると、カメラが回らなくなるとか学習もしたりして、本当に次から次に、いろいろなことをやってました」
「普通、新しいものを作ると、その前のやつは捨てちゃえばいいわけじゃないですか。
それを捨てないでとっておく。しかも、それを常に持ち運ばなければいけない。
初めて助手で来た人は、これが何の時に使うのか、どんな時に使うのか、理解できるまでが大変なんですよ。
みんなによく言われますけど、何でも作って、それを使えるようにして、普通はそんなこと、なかなかしないよ、って。
ぼくもそう思うところはありましたけど」
つまり、自家製機材の開発やパーツの改良、修繕といったものは、撮影そのものの向上だけでなく、作業やセッティングの短縮に繋げる、いわば次の撮影のための作業効率を図るステップ・アップとして、篠田は指示していたのである。

「篠田さんにああしろこうしろと言われて、やってみて、結果、篠田さんの思うようにいかなかったことはいっぱいあります。
篠田さんのすごいところは、ぼくが「できない」って言う前に、「こうすりゃ、できんだろ」って、返ってくることなんです。
だけれども、「こうすりゃ、いいんだよ」ということが、ぼくらの(知識の)範疇を越えているんですね。
ぼくらは撮影助手じゃないですか。作れというものが、機材屋だったら作れるかもしれませんが、ぼくらにそれが作れるのかな、みたいなことをおっしゃる。それは、じゃ作ってみるか、ということなんですけど。
一回、無線でカメラのピントを送る機械を作れって言われたんですが、多分ぼくがキョトンとしていたのだと思います。
そしたら、「あのさ、お前さ、ラジコン・カーのギアなんか使って、うまいことできないのかよ」「よくキュッキュッてやってるだろ、それ機材と同じだろ」って。
ぼくはラジコンなんて知りませんでしたけど、原理は大体わかっていたので、買ってきて作りました」

篠田というカメラマンの特徴は、福本の「ぼくらは撮影助手なのに、何で・・・」という言葉に象徴されている。
福本に限らず、篠田の助手たちは、自分たちは撮影助手なのに、何で機材屋が作るものを作らなければならないのか、どこか疑問を感じていたに違いない。
もしくは、撮影助手以外の仕事をさせられていると、多少の反発を感じていたのだと思う。
しかしながら、それは長澤雅彦が言うように、「篠田さんが言うんだから、ま、言うとおりにやるか」と、ひたすら篠田の大らかな人間性に押し流されていたのではないか。
それは彼の結婚式や葬式に集まった数十人というおびただしい助手たちの数で窺える。彼らはみんな篠田を好きだった、慕っていたのだから。
やはり、篠田は撮影に関わる物を工夫して何でも作ろうとする行為において、特異な撮影法と併せて、他のカメラマンとは大分違っていたのだろう。

最後は、福本のオチで締めくくろう。
「篠田さんは、いづみさんと結婚されて、しばらく経った時期に、ラジコン・ヘリでよく遊ばれていた時がありました。
ぼくは、「いずれはそれで空撮ですか」って、聞いた覚えがあります」


取材協力:篠田いづみ

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