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take18シネスコと極端な寄りの原型

カメラマン篠田昇は、なぜシネスコを使おうとしたのだろうか。
「映画撮影とは何か~キャメラマン40人の証言」(平凡社刊・山口猛編、監修佐々木原保志)の中で、篠田はシネスコについて語っている。
「日本ではいつの間にかシネスコを止めてしまって、なんでもビスタという具合になってますけど、それはたんにテレビで映画を放映する関係に過ぎず、僕は間違った方向だと思います。
シネスコにはシネスコのよさがあり、一般的にはスペクタクル映画など、広がりのある絵と迫力のある映像が持ち味のように考えられています。けれども、僕がシネスコにこだわったのは、シネスコがビスタに比べれば倍近い焦点距離の長いレンズを使用するために、たとえば狭い部屋でもワイド・レンズを使用せずに、人間の見た目に近く、自然に見せることができるからです。(中略、太字著者記す)
僕は前からシネスコでやってみたくて、井筒監督の「東方見聞録」のときに初めてやってみました。僕が子供のころからみていたのはシネスコだし、映画館でニュース映画が終わり、予告編も終わって、いよいよ本編に入るというとき、シネスコだとスクリーンがグッと開く。あのすごさは映画ならではの醍醐味でしょう」(原文まま)

子供の頃の映画環境も、同書にある。
「母の実家が両国にあり、両国日活という映画館の隣で喫茶店をしていて、そこで封切る映画は家族は無料でした。
僕は埼玉の三郷で生まれましたが、小学校の低学年から両国日活で封切る映画―その当時は映画は裕次郎、小林旭の活躍する日活しかないと思っていた―を週末になると、兄と二人でいつも見ていました」(原文まま)
当時、邦画界は全盛を極め、1週間から2週間という短いサイクルに、新作2本が同時に上映されるという、今では考えられない量産体制にあった。
本編とは直接関係はないが、昇と同年である私の映画環境も伝えておこうと思う。
私が見た最初の映画は東映動画の「白蛇伝」で、小学2年の時であった。
私の育った赤羽には、東映、日活、東宝の邦画館と赤羽オリンピア劇場という2本立て洋画専門館があったが、もっぱら通ったのは、小学生の高学年になってからであり、赤羽オリンピア劇場と駅から大分離れた岩淵というところにあった東宝だった。
赤羽オリンピア劇場は子供から老人までを無理矢理入れようとしていたのか、ディズニー・アニメ「ピーターパン」とロバート・アルドリッチ監督のスペクタル史劇「ソドムとゴモラ」が併映されるような、そんな奇妙な2本立ての映画館だった。
東宝では、社長シリーズ、駅前シリーズから若大将シリーズと、「ゴジラ」でブレイクしていた特撮ものを併映していて、特に私は社長シリーズのフランキー堺が演じる変な外国人が大好きであった。人の耳たぶを触るくせのあるハワイ二世に子供ながら大爆笑していた。
昇のよく見ていた日活では、裕次郎や旭には全く関心がなく、吉永小百合の青春ものをたまに見ていた程度だったと思う。

さて、「東方見聞録」の話が来た時、シネスコを使おうと決めた篠田昇。
シネスコのカメラを取り扱うアメリカ・パナビジョン社の日本での代理店は三和映材で、カメラ本体は全世界共通のレンタル方式になっていた。カメラは三和映材に頼むとして、当然カメラに伴うレンズやフィルターについても同様に考えていた。
ところが、その肝心のレンズとフィルターに少々問題が起こった。
この頃、日本にあるシネスコのレンズは「寅さん」シリーズで使っていたものしかなく、それを篠田は解像度が悪いので使えないと判断した。
レンズをアメリカの本社から取り寄せるか、取り寄せてもテストが必要になるので時間がかかる、それをどうクリアーにするか。こちらから出向いて選びにいくか、などいくつかの方法を模索していた。
フィルターも同様で、当初6ヶ月予定していた長期の撮影期間であるならば、借りるより買えてしまうのでは、という撮影部の案も出ていた。
撮影助手の福本淳は、アメリカに行って、レンズのテストをして、ついでにフィルターも買って、こりぁ面白そうだなと割と気楽に構えていた。
ところが、
「ある日、篠田さんが、お前、計算しろと。
6ヶ月間借りるフィルター代とアメリカに行った場合の費用を出して比べろと。絶対に行くほうが安いからって、飛行機代はおれが何とかするからって。で、滞在費、宿泊のコンドミニアム代やレンタカー代、毎日の飲食費、そしてフィルターの購入費も入れて計算したら、確かに行くほうが安かったんです。
その明細をプロデューサーに見せて、結果篠田さんと田沢さんとぼくと3人で行くことになったんです、一週間。
アメリカのパナ本社では、わざわざ日本からレンズのテストをしにきたということで、結構珍しがられたというか、有名な副社長とか技術者たち全部に紹介されたり、ぼくらの担当者という方も付けていただいたり、非常に丁寧な扱いを受けました。
篠田さんは、当時ちょうど映画産業自体が斜陽になっていて、アメリカでも映画館に客を呼び戻すために、大画面大音響で見せようと、シネスコが再び増え始めていた時期なんですね、それと同じことを日本でもやりたいんだ、と話されて、だからテストをさせてほしい、と。
カタログ上でしか知らない新型のレンズを含めて、ぼくらは毎日午前中にパナ本社の試写室に行って、前の日にテストした試写を見るんです。
向こうの技術者も見ているんで、ここがいい、あそこが悪いと、それを照合して、このレンズは今いいのがないからもっと他のを持ってきますとかき集めてもらう。トータル50本から70本近くのレンズがありましたね。
レンズの性能テストなんで、実際フィルムで撮る前に、テストする機材があるんです。一通り全部のレンズをプロジェクションで見て、その中からある程度レンズを選んで、それをまずスタジオで撮って、ピントの性能をチェックし、最終的にほぼ固まったところで、今度は外に出てまた撮るという具合いです。
シネスコって、非球面レンズが前に入っていて、真ん中のピントはきているんだけれど、周辺のピントは甘くなる傾向がある。その状態が一番いいものを求めて、ずっとテストを繰り返しました。夜中近くまで、本社で撮影して、帰って寝て、翌日その現像を見ると。
結局、30、35、40、50、75、100、150、800ミリ、ズームの9本を借りました。
フィルターもパナ本社で買えるので、NDが3枚、プロミストが8枚、フォグが5枚、グラデーションが2枚、フォーラライザービューと全部で19枚くらい買いました。ガラス製なので、管理さえきちっとやっていれば、ずっと使えるわけです。
最後の日に、買ったフィルター一式をジェラルミン・ケースに入れて持ってきてくれたのですが、そのケースには、「シトパティヨース・ノボル・シノダ」(撮影篠田昇)というプレートが彫って貼ってあったんです」

この「東方見聞録」を筆頭に、篠田は以後、「Love Letter」(1995年、監督岩井俊二)「MISTY」(1997年、監督三枝健起)「四月物語」(1998年、監督岩井俊二)「クロエ」(2001年、監督利重剛)「真夜中まで」(2001年、監督和田誠)、そして「世界の中心で、愛をさけぶ」(2004年、監督行定勲)といったシネスコによる作品を撮っていく。

実は、この「東方見聞録」には、シネスコだけでなく、その後の篠田というカメラマンの撮影法を確立していく様々な試みが盛り込まれている。
ピィウイドリーにミニジブ(クレーン)を乗せたこともそのひとつで、これは極めて重要な出来事といえる。
「ワールドアパートメント・ホラー」では、本来ピィウイドリーを使いたかったが、予算の関係上、簡易なフォーカスドリーの上にミニジブを乗せて撮影に臨んだことは既に伝えた。その延長上の組み合わせだった。
「東方見聞録」の撮影現場の模様を福本淳は語る。
「滝がメイン・セットの時、とにかく足場がかなり悪い。篠田さんがここからそこまで行きたいという。そうすると足場を作りレールを敷く。
それでも、篠田さんが思っているポジションからちょっと変わったりすることが多々あるんです。
ですから、そんな状況下で、ピィウイドリーの上で、カメラをこっちに出したり、いろいろと乗せ方を工夫してセット・アップをして対処していた。そうやって、やっと篠田さんがオペレートできる体勢を作るのが、毎回大変な作業でした。
それをずっと続けていたんですが、ある時、篠田さんがミニジブを乗っけようと言い出した。ピィウイにミニジブを乗せろ、と。
こんなことをした人間は日本じゃ多分篠田さんが初めてだと思います。
ただミニジブが乗るとかなり自由度が増すわけです。
ピィウイだけですと、上下約60センチの動きはできますけれど、しかもこれを操作するのは特機部の別のオペレーターがやるんですが、ミニジブを付けると1メートル50くらいは、倍以上は確実に動ける、篠田さんひとりで。それでなおかつ、コの字(take12)を付ければ、ピィウイの上を何とか篠田さんが歩くスペースも確保できる。
ただ基本的に、ピィウイ自体、カメラ本体の重さに耐えられるように作られてはいるんですが、ミニジブを乗せるということは、カメラのバランスをとるウエイトとアームの重さも加わることになるので、本来設定されている重さの3倍くらいになる。
完全なる加重状態なんです。ピィウイの正しい使い方ではないということですかね」
この時、撮影の応援に行った根岸憲一の話によると、何回も壊しては特機のレンタル会社に持ってこさせていたという。
一方から見れば、機材屋泣かせのとんでもない代物(やり方)でもあった。
ただ縛られている制約を取り払っていく昇の姿勢は相変わらず健在のようだ。

もうひとつ重要なエピソードが隠されている。
福本は、篠田の特徴である極端なワイド・アップ、寄りの撮影(take15)の成り立ちのヒントが、この「東方見聞録」にあったという。
「できるだけ近くで撮ることは井筒さんの要求でもあったのですが、(シネスコ用の)アナモ・レンズ自体が普通のレンズとは構成が違うので、最至近距離でも、これも玉によって違うんですけど、1メートル50くらい、そのくらいが最至近のピントの時に、篠田さんは1メートル50よりも近寄って、1メートルとか80センチくらいの距離で撮ろうとする。篠田さんとしてみれば、被写体に近いところであれば、画作りに関しては満足なんですね。ピントは手前の人に近いことにはそれでいいと考えていました。
主人公の緒形(直人)さんを真ん中に、手前に徳井(優)さん、奥にもうひとりという3人縦に並んでいる画を撮りたい。
篠田さんは近寄って一番近いピントを真ん中の緒形さんに合わせる。ぼくがピントはここ(緒形さん)までしかこないんで、というとそれでいいよという。
ところが、監督の井筒さんは、いや、ピントはそこじゃないやろ、徳井やろ、手前やろ、と言うわけです。で、こっち(撮影部)はピントを手前の徳井さんに合わすために下がるわけですよ。
それをまた井筒さんが、下がったらあかん、ってなるんです。
それって、レンズの限界を超えなきゃいけない。
しようがないので、プロクサーというクローズアップ・レンズを入れて、ピントの至近距離をもっと手前に持ってこれるものを使って撮影したんです。
撮っていくうちに、段々と監督から言われる前に、当たり前のようにクローズアップ・レンズを入れることが篠田さんの中で起こり始めたんです」
何と井筒監督の執拗な要求が、極端なワイド・アップ撮影をより確信的にしていく大きなきっかけになっていたのだ。

「その後、シネスコで撮ることになった「Love Letter」とかは、大げさに言えば、50パーセントくらいの頻度で、クローズアップ・レンズの入った状態で、撮影してると思います。
編集でカットは相当に割れていますが、例えば、小樽にいる中山美穂に間違って自分のところに手紙が届くようになる。
その最初の一通目が来た時の室内で、初めて彼女がそれを開くまでのくだりなんかは、単純なお芝居ではなく、お母さんとすれ違うとか複雑な動きがあって、机の前に座って手紙を開く。篠田さんは手持ちで80センチくらいの距離でずっと中山さんに付いて行くんです。
こういう状態ではクローズアップ・レンズを入れないとダメなんですね。
単純にいうとアナモ・レンズの特性ということがあって、本来のレンズでは1メートル50から無限大までピントがくるものが、クローズアップ・レンズを入れることによって、1メートル50が1メートルになって、無限大が5メートルになるものなんです」

川上皓市がいう「東方見聞録」のあたりから、篠田は技術面に偏りを見せ始めているという思惑をよそに、この「東方見聞録」「ワールドアパートメント・ホラー」同様、かなり彼の野心的な技法がちりばめられたエポックな作品といえるのではないだろうか。。


取材協力:篠田いづみ

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2008年07月30日 15:31に投稿されたエントリーのページです。

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