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take17信頼と現場。そして先達の危惧

「東方見聞録」(1992年未公開・監督井筒和幸)の撮影は、1991年(平成3年)の6月から開始されたが、撮影中の事故のため中断する。
その後、撮影は再開され作品は完成するものの、今度は制作会社であるディレクターズ・カンパニーが倒産のため、劇場公開には至らなかった不幸な作品である。

この年、一般公募でディレクターズ・カンパニーに入社し、「東方見聞録」で助監督を務めたのが長澤雅彦であった。
「それまではCMの仕事をしていたんですけれど、映画の世界に入りたかったもんで。ぼくが26(歳)の時です。
最初に付いたのが、井筒組でその時のカメラマンが篠田さんだったんです。助監督で一年半くらい、その後はちょっときっかけがあってプロデューサーになっちゃいました。プロデューサーになってからも、篠田さんや井筒さんとは一緒に仕事はしました。
プロデューサーやるんだったら、すごくいいディレクターがいるから会えよと篠田さんが紹介してくれたのが岩井俊二さんでした。
それで岩井さんと意気投合して作ったのが「Love Letter」(1995年)だったり、「undo」(1994年)だったりなんです。岩井さんの映画デビューした初期の作品のプロデュースをやってました。
ぼくはその後、岩井さんのところを離れたのですが、篠田さんはそのまま続けていました。「MISTY」(1997年・監督三枝健起)でまた一緒に仕事することになりました。ぼくはこの時もプロデューサーをやっていました。
それからぼくが監督になってから(「ココニイルコト」2001年・劇場用初監督作)は、実はいろいろな事情がありまして、ぼくは篠田さんと映画を撮りたかったのですが、なかなかできないでいた。それがあまりにぼくのフラストレーションになって、プロデューサーと切れてしまった。
それでやっと篠田さんとやれたのが、北海道のドラマ(「ノースポイント つばさ」2002年)だったり、ショートフィルム(「ShortCakes」2003年)やCMなんです。
ぼくの職種が変わっても常に篠田さんとの付き合いは続いていて、お亡くなりになる前、篠田さんが入院していた病院がうちのすぐ近所だったので、随分とお見舞いには行きました。
仕事以外の部分でも付き合いはとても深かったと思います」

長澤雅彦はこれまで度々登場している(take8、9、11)が、基本的に年順を追った構成上、篠田との出会いをここまで引きずってしまった。
《これを書き始めた当初は取材させていただいた方たちの話をまとめたインタビュー集的なことを考えていたのだが、昇の時間軸にそれらを付け加えていく現在の構成に切り替えた。長澤に会ったのは、2006年11月のこと。彼と昇との詳しい模様をやっと紹介できる頃になって内心ほっとしている》

さらに深かった長澤の思い出は続く。
「あの頃(90年代)は、映画はシネスコ、パナビジョン、それしか言わなかったですから、篠田さん。いかにパナビジョンでシネスコを撮ることが素晴らしいか、延々と説いて回っていました。
「Love Letter」もそうですし、「MISTY」もそうですし、ぼくは映画界に入って、シネスコしかやったことがなくて、初めてビスタ(*)やった時、フレームが違うので感覚を修正するのにえらい手間がかかりました。
とにかく、ぼくにとっては学校でした。
篠田さんは本当にいい兄貴だったし、最高の兄貴でもあったし、いろいろな新しいものやその処方を教えてくれるし、車にしても酒にしてもそうだし・・・。
同時に映像のことも、とにかくテクニカルなことが大好きな人だから、ぼくのようなある種門外漢、撮影部じゃない人間にでも、このレンズとこのレンズの違い、フィルムで何倍増感とか何分の一減感とか、どういうことを狙うとそうなるのか、その効果とか、徹底して教えてくれましたから。
学校ですね、一番の映像の先生でもありました。
実はぼく、映画がそんなに好きじゃなかったんです。
映画はやりたかったけれど、映画界には入ったけれど、ま、そんなに続けていくとも思っていなかった。実際、大変だったけれど、やれてこれたのは篠田さんがいたから。
何しろ公私共にこの13年間、映画を続けてこれたのは篠田さんのおかげなんです」
*ビスタ=スクリーン・サイズのひとつで、画面縦横比1:1.85とスタンダード・サイズに比べワイドで、これが主流。シネスコはさらにワイドになり、1:2.35となる。

長澤は自分をも含め、若い映画スタッフに慕われていた理由として、
「とにかく篠田さん本人の感覚が若いですから、年上感というのがないんです。親分肌であっても決して威張っているとか、上から物を言うのも一切なかった。だから、とても付き合いやすかった。
それに新しいことに挑戦する人でしたから。そういう新しいものに対する貪欲さっていうものは、一番ビビッドに反応するのは若い人間だったと思うんですよ。撮影に関する方法論みたいなものですよね。
例えば、ハイライダーっていう電線工事なんかで使われているボックス型のクレーンの作業車、あれを撮影に使っちゃうんですよ。自分で操縦コントロールして、いい高さに、自分がどこでも行けるようにして、(従来の映画用)クレーンのような使い方をしてました。
それで人間を追いかけた時もあるし、それと危険なところでも行けますし・・・」
一回りも二回りもある年齢差を感じさせない感覚の若さが昇にはあったという。
が、私には昇の挑戦していく姿がどこか破天荒なところに、若者たちの心を強く引く魅力があるような気がした。
それは、理論派ではなく肉体行動派。頭で考えるのではなく、身体で覚え考えていく。そうやって、成功と失敗を繰り返しながら、前へ進んでいく実践タイプ、みたいなことか。
そして、かなり精力的なものは感じるものの、悪くとるとある意味、正確性(目算)を欠いた猪突猛進の人ともいえるのではないだろうか。
長澤にはまた会う機会をお願いしようと思っている。そこで聞きたい、その後ハイライダーは使っていたのか、と。
多分、昇のことだ、別の方法を編み出したに違いないと思うのだが。

さらにこうした篠田の人柄だけでなく、仕事への姿勢に共感する人々、とりわけ若い監督や制作者たちに対して、篠田は絶大なる信頼と支持を得ていたことに、ある程度予想はしていたことながら、正直驚いている。
長澤雅彦は言う。
「無邪気で子供のような人でした。とにかく篠田さんと現場にいるとすごく楽しかった。映画の撮影現場って精神的にも肉体的にも非常に厳しくきつい。
篠田さんがいることで、撮影することが、映画を作ることがすごく楽しいと思える、それが何よりでした。みんなを笑わして、盛り上げて、一番元気に振舞っていた。
篠田さんがこうやりたいと言ったら、必ずそれを貫き通す意志があった、この辺でということが一切ない。
大体人間ってどうしても妥協したくなったり、この辺でいいかって思いたくなるんですが、そういうことが一切なかった。徹底してやらないと気がすまない、終わらない人でしたから。
そういう意味では撮影現場は必要以上に大変でもありました。
でも、やっぱりすごい結果を出すから、みんな納得せざるを得ない、プロデューサーにしても監督にしても、(現場にいる)みんなも」
行定勲は、(DVD「世界の中心で、愛をさけぶ」特典映像のインタビューより一部抜粋)
「人間的に言えば、太陽みたいな人ですね。
篠田さんがカーッと燦燦と輝く光を発していて、ぼくらは惑星で、くるくる回っているという思いがしてます、今は、印象としては。
篠田さんは惜しくもこの映画が最後で他界されたんでけど、考えられない。死から最も遠い人。今もぼくの中では生き続けているし、沢山の力を与えてくれるというかスタッフに。
撮影は大変です、篠田さんとやるっていうのは。
絶対、手を抜かない。どんなショットでも手を抜かない。あきらめない。これでいいだろうなんて絶対思わない。絶対自分が思ったとおりに近づけようとする。
もちろん、演出がだめだった時は演出をフォローするしかできないかもしれない。
最高のものをなるべく作って、自分の作品のどのショット見ても「最高だよー」って言うし、本当に人に見てもらおうと思ってる画を作ってた人だと思います」
同じく監督の岩井俊二は、(「写真以上写真未満」翔泳社刊・インタビュー「岩井俊二~カメラマン篠田昇が残した光」記事中より一部抜粋、「まわりの人にとってどんな存在だったか」の質問に対して)
「とにかく彼はムードメイカーでした。彼がいると、とにかく現場がなごむ。なごむというか、彼が強引にも元気を注ぎ込む感じ。ゆえに僕なんかは常に非情な監督業に徹することができた。怒鳴っても、現場はすぐに回復する」
川上皓市は、
「篠田はキャメラマンの仕事というか、現場が大好きだったんじゃないの。ぼくも大好きだけど辛い現場もあるからね。篠田は辛い現場や映画も辛く感じないくらい楽しかったんじゃないかな。そういうタイプの人間なんだな」
とそれぞれは篠田のいた現場を振り返る。

篠田のいる撮影現場。いかにも楽しそうである。ゆとりある緊張感といったらいいのだろうか、映画を作ることはこういうことなんだという、そんな雰囲気が伝わってくる。
長澤や行定のいう、大変な撮影現場とはどのようなものだったのだろうか。その現場の一コマを長澤が語る。
「準備とかで、撮影開始の遅延なんてしょっちゅうでした。
篠田さんの昔の、今は親しくない人は、日本一時間のかかるキャメラマンと言ってました。(フィルム)テストもすごいのですが、撮影中もとにかく本番に行くまでにえらい時間がかかりました。
カメラの動きが複雑だったり、ま、ものを作る人はみんなそうだと思うんですけれど、完璧主義っていう度合いが非常に高い。最高にいいものを作ろうとする。いろいろな手を考え、試す。そういう試行錯誤が常に現場でもありましたから。だから、すごい時間はかかるし、大変だったんです。
ただ、ぼくは初めて映画の世界に入ってやったのが篠田さんで、それ以外のキャメラマンとほとんど仕事してない。だから、確かに時間はかかるなあとは思うものの、他のキャメラマンと比べてどうなのかは全く知らなかった。
監督になってから、別のキャメラマンとやった時、なんて早いんだろうって思って。それが普通のスピードだということをわかるまでに随分かかりました」
業界では、これはかなり有名なことらしく、膨大なフィルム・テスト(詳細後述)などと並び称される、いわゆる篠田伝説のひとつになっている。
さらに長澤は大変な現場の模様を続ける。
「トラブルばっかりでしたね。
「MISTY」の時に、東宝の撮影所で撮影したのですが、1カット、水滴があるんですよ。垂れそうになっている水滴、それ越しに金城(武)くんと豊川(悦司)さんが剣を構え、向き合っている。
立会いの間を取っている場面を、監督が水滴越しに撮りたいと言い出した。ああ、なんていうことを言ってくれたんだ、とみんな思って。
人工の水滴を用意して、それに反転して映るわけなんですけれど、それをどうのこうのって始まって。あくまで水を通した緊張感を、水滴がポタッて垂れた瞬間に切り合うのだろうなと監督は思っていたのですが、そのぎりぎり直前の部分の1カットの準備で、東宝撮影所で値段の一番高いスタジオで、6時間経っても回らない。
準備に入ってから、豊川さんなんか、自転車に乗って所内をぐるぐる回りながら、「始まっちゃったよー、篠田さんのこだわりが・・・」って、ね。豊川さんは篠田さんのことをよく知っているから、もう観念しているわけです。
ぼくはこの途中にスタジオに入った、入ったらそんな状態になっていた。とりあえず、篠田さんのところへ行ったら、「おれだって、回してぇよ」と。何で回せないのか、聞いて、それはしょうがないね、とまた頭を抱える。
で、やっと6時間経って、本番用意、スタート。カット、10秒で終わりました。
そんなことの連続でした」

昇の二回忌の法事の席で、行定監督がこの時間のかかる篠田の撮影について回顧していたことがあった。
そして、それに対して篠田は「ユキ、時間はたっぷりあるんだから」(篠田は行定のことを「ユキ」と呼んでいた)と答えたという。
私は聞き取りにくい場所にいたため、多分、行定の話のニュアンスとは違う受け取り方をしているのかもしれないが、これが「世界の中心で、愛をさけぶ」の現場でのことだとしたら、随分と意味深な言葉である。単に現場での会話の域を越え、残されし者たちへのメッセージにも聞こえてくる。
そう考えると、昇のたっぷりと使ってきた撮影現場での時間とは、彼の生きている証そのものだったように思えてくる。

もうひとつ、篠田のいる現場では、怒鳴る殴る蹴るが有名だった。
篠田いづみも告別式の挨拶で、「今日は怒らないでね」と送り出したと話している。
そして、「だめだった」と帰ってくる昇。
「それは日常的に起こるんです。殴るんじゃなくて頭を叩く、小突くみたいなことは全く普通のようにするんですけど、それは悪意のあることではないし、怒鳴るのもしばらくするとケラケラと笑っているんです。
やっぱり助手が思うように動かないから、時にはカツ入れて、進めるために言うんです。
基本的に現場で怒る篠田さんの姿を目の当たりにしている人たちは山のようにいますが、なんら悪意を感じていないようなことだと思います」
と福本淳は話す。
ただ若かりし頃の篠田は、
「いつも帰ってくると昇は怒っていました。本当に鈍い、自分の思うとおりにやってくれないって、苛立っていました。住田(望)さんや川上(皓市)さんに付いた時はほとんど怒られていなかったみたい。必死に真剣にやっていたから、自分だったら、こんなバカなことはしないという思いなんでしょう。
性格的に厳しい人ではなかったけれど、できない助手たちにいつも苛苛していました」
と先妻のMさんは中村橋時代の昇を思い出していた。
いつの頃から、昇は若い助手たちから慕われる、愛のあるカメラマンになっていったのであろうか。

そして、長澤は篠田と面識のない人間なら意外と思う篠田のユニークな一面を突く。
「大体、篠田さんを知っている人はみんな言うと思うけれど、人の話、聞いていないんですよ。
自分のやりたいっていう思いを、とにかくアーティストだから、どんな作品だろうが監督だろうが、自分はこういうことをやりたいんだと思うことをやるだけなんです。とにかくやるだけ。
ただそれを押し付けるんでもなく、あの人間性でもっていたと思います。まあ、篠田さんがやるんならしょうがないね、みんな笑って付いていくしかないね、という感じですね。
作品のことも考えてなかったかもしれない。
この作品と自分との関係の中で、こういう撮影をするんだ、おれがこういう画を撮るんだ、こんな素晴らしい画を撮ったら作品だって必ずよくなるはずだ。
その一点突破主義というか、そこの純粋さだけで撮っていたように思えます。だから篠田さんの真似をしようとしてもやっぱり無理なんです、他のキャメラマンが」
寄れるだけ寄って美しい画を撮れるカメラマンは他にいないと語る行定の言葉と同様に、篠田は篠田独自の映像として今なお生き続けているのだ、と彼らの言葉からはそう読み取れる。
「作品のことも考えてなかったかもしれない」という長澤の言葉も、監督(=作品)に左右されることのない自らの意志と解釈した福本淳のマスター・レンズの話(take15)に通じるものがあり、自ら決めたことを遮二無二全うしようとする昇の性格が垣間見えてくる。

だが、こうしたある意味強引ともとれる撮影の側面に危惧していたのが、師匠である川上皓市である。
「昇はキャメラマンになってから、いつも新しいことにチャレンジしていて、そのことは非常に大事なことだと思うし、いいことなんだけれども、そのことが時々裏目に出るというか、自分がやろうとする技術のほうに気持ちがちょっと行っちゃって、そこに映る人間に興味が入りきってないんじゃないかと感じる映画が多々あるわけですよ。
後半というか、「東方見聞録」のあのあたりから。「ダンボールハウス・ガール」とか「MISTY」なんかもそうですね。
「MISTY」はシネスコを手持ちでやっているわけでしょ。そうすることが狙いなのか、狙いだとしたら、ぼくは上手くいってないと思う。ただ見づらいだけだった。
ちゃんと芝居(役者という人間)を見てないんだな。撮っている時は気持ちを込めているのかもしれないけど、結果そうなっているよね。
ぼくの助手の頃は、ぼくはその当時から特別新しいことをやろうとか思っていないんだけど、技術よりは、ま、撮影部は技術パートだから技術のことは大事なんだけれど、技術よりはそこに映っている人間のほうに興味を持とうという話をずっと、しょっちゅうやっていたわけですよ。そういう話を毎晩のようにしていた。
もちろん、人間に興味がないわけじゃないと思うんだけど、昇がやろうとする技術の面が映画からすごく目立つというか、人間に向かうべき眼差しよりも技術にいっているように感じるところがある。
今、昇が一生懸命にやろうとしている技術が、逆に邪魔になることがあるんじゃないかって思うんだよ。
そういう意味では、岩井俊二の「Love Letter」なんかは、昇の中では一番いいんじゃないかって思っている。それは技術じゃなくて映画の中の人間を一生懸命に見てるなって感じがするからね」

川上の言う「技術よりも人間を見よう」とは、どういうことなのか。
誤解がないよう補足させてもらうと、ここでの川上の話は、講師をしている大学での実習の際、小手先のテクニックを優先する生徒たちの対応を正そうとする、カメラマンの在り方についての話であり、篠田を特定しているものではない。
「撮影ってどういうことなのかというと、まずその作品の世界を描けるように、じっくりと人間(役)を見つめたり、その世界観を考えたりするのが、先じゃないのかということなんだよ、技術のことより。
ぼくらプロでも、要するに技術のことが常に話題にしがちで、中身を考えることよりも前に技術のことが問題になったりする。それが非常にだめなことだと思う。技術なんて後から付いていけばいいんだよ。
例えば、まず本(脚本)を読んで、中身について監督と打ち合わせする、全部に対して、どういうことなのかって。
だったら、ここはこんな風に撮ろうとか。当然そのシーンを生かすために、その人物を生かすために、こんな光でどうですか、と。
ここには森の中でのナイト・シーンと書いてあるけれども、ナイト・シーンじゃなくて、真昼間の森の中で、太陽が木の枝から木洩れ日がうわーっと、スモーク炊いて、ビームも作って、ちょっとロング目のシルエットで、きれいな光の中でやるのも手じゃないのって、あるよね。
でも、一見すごい美しい映像なんだけれども、そこで行われていることが嫌なことだったりする場合がある。
だから、まず最初にそのシーンの、そのカットの意味を捕まえないといけない。その上でこう撮るのが正しいのかどうか。脚本に書いてある全てのことについて、ちゃんと意味なり狙いなりを理解しないで、意味も考えずに、ただそういう自分勝手なことだけやったって、だめなんだよ」

川上は、カメラマンとしての目標とは何か、との私の問いに、その答えは難しいとし、自身の理想の撮影を語ってくれた。
「光にしてもフレームにしても、技術が主張し過ぎたらだめだと思う、ぼくはそう思う。
映画を見る人が、光とかフレームのことに目がいってしまっちゃいけない。色とかが、強調され過ぎて、すごくおしゃべりだなあと思われるのがとても嫌なんです、ぼくは。
見終わった後に残るのは、映画の中で演じられる人物とか物語が記憶に残ればいいわけで、撮影なんかあったのかよ、というのがね、それができたらそれが最も優れた撮影だと思う」
今、篠田が生きていたならば、何と答えるだろうか。
川上は言う。
「昇はキャメラマンになってから、ぼくのそういう考えの方向性とはちょっと違うほうへ行ったっていうことは感じているんだ」と。
どちらが正しいとかいうことではなく、昇は独自の道を選んでいたような気がする。
しかし、その昇の選んだ道とは・・・。この先、明確な“光”が見えてくるのだろうか。


取材協力:篠田いづみ

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2008年07月17日 12:58に投稿されたエントリーのページです。

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