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take16風景への嗅覚、そして光

この6月、ささやかに開かれた“篠田昇+ポラロイド展”には映画関係者のみならず、多くのファンが訪れたと聞いた。俳優や監督ならいざ知らず、一ムービー・カメラマンが死してなお、このように一般の人々に愛され続けているという話は、これまであまり聞いたことがない。
未だ数多くの人々の心の中に生き続けている篠田昇、というカメラマン。
残された人それぞれに、彼の残した映像の断片が刻み込まれているのだろうか。
私のそれはいつも何かしら動いている。
具体的に挙げると「リリイ・シュシュのすべて」の田園風景のようなものか。
大きくもなく狭くもない空に流れている薄ねずみ色の雲はたおやかな時を刻んでいるし、畑一面に広がる緑の草草は時折吹く強い風にそれぞれが身を任せている。
私はそれに時間の流れを感じるし、時を感じるということは生きていることであり、風の向きを肌に感じるということも然り、だ。
そして、篠田昇の愛した風景もこんなようなものではなかったのか、という思いと重なり合う。それはかつて一緒に撮影した風景の一部のような気もするし、或いは一緒に探し回ったロケハンの記憶なのかもしれない。

「世界の中心で、愛をさけぶ」のロケ地香川県庵治町。このロケ場所をロケハンぎりぎりの状況で探し出したのは篠田昇カメラマンであると、DVD「世界の中心で、愛をさけぶ」の特典スペシャル・メイキングの中で語られている。
これを拝見した時、私は伊豆の多々戸というところを思い出した。
それは30数年前、「ハードボイルド・ハネムーン」のロケハンをしていた6月終わりの時のことだった。
伊豆熱川の別荘地でのロケ場所を決めた後、私たちは車で海岸沿いの国道135号線を南下し、下田市街を過ぎたあたりから道路の左側は人間の高い背丈くらいの木や草が自然の垣根を作っていて、海の全く見えない状態がずっと続いていた。
その途中で突然、昇がちょっと車を止めようと言い出した。
このまま先に進むと国道136号線を左に折れて弓ヶ浜に行く地点だった。車の数は少なかったものの、片側一車線の道は狭く駐車する場所などはどこにもなかった。それでも無理をして車を止め、垣根伝いに歩いていった。
数百メートルほど下田寄りに戻ったところに、人間ひとりくらいが通れるスペースが見つかり、そこを木や草をかき分け入って、しばらく進むと一気に風景が開けた。
そこには美しい砂浜が広がっていた。まだこんなところがあったのか、私たちはお互いに顔を見合わせた。左には大きな崖が海に突き出すようにそびえ立っていた。
人の姿は全くなかった。
海辺に近づいていくと右手方向の少し高台に大きな平屋が見えてきた。が、何か普通ではない異様な雰囲気を漂わせていた。それは、まだ廃屋になって間もない感じだった上、やたら大きくだたっ広い建物の外観が、日本家屋の様相ではないような、どちらかというと西洋風の洒落た造りだったことと、何でこんなものがここにあるのかという場違いな戸惑いのためだった。
しばらくして、今度はだれかが海が変だと言いはじめた。海に目をやると、波の様子がおかしい。三、四百メートルほど真っ直ぐに続く砂浜の真ん中から左半分は全く波がないのに、右半分は波がとても荒いのだ。その時は自然の力の不思議さに感心するしかなかった。
とにかく、人知れず、とてつもなく美しい海岸を私たちは発見した。
この後、吉佐美入田浜や弓ヶ浜まで足を伸ばしたが、その崖に挟まれた絶好のロケーションの比ではなかった。
その浜辺は、多々戸浜海水浴場と名づけられてはいたが、地図にも載っておらず、やはり入り口は昇が見つけた箇所ひとつだけで、当時は地元の人々もあまり利用していなかった。
なぜなら、あの大きくだたっ広い平屋は、米軍基地の療養所だったところで、あの波もサーフィンをするために沖にテトラポットを埋めて人工的に作ったということだった。まだ戦後の進駐軍危険区域の名残りがあったのだろう。
結局、映画のロケ地としては使わなかったが、以後、昇と私と仲間たちは毎年夏になるとこの多々戸を訪れるようになった。だれも知らない私たちの秘密の海辺だった。
やがて、それぞれの道を歩きはじめ、昇と多々戸に行かなくなってから数年後、私はこの多々戸にできた某出版社の保養所に遊びに行く機会を得た。大勢の海水浴客で賑わっていた海には、もうあの時の面影は残されていなかった。

何気ない出来事なのだけれど、昇にはこうした風景を、自分が撮影したい場所を探し出す不思議な嗅覚が備わっていたのだと思わざるをえない。
想像ではあるが、昇はきっといろいろな作品の中のいろいろな場所で、その探り出す能力を発揮していたに違いない。
そしてそれは庵治町とか多々戸とか、単に全体的な大きな地域や特定の場所だけのことではなく、1シーンの中での絶好のカメラ・ポジションやアングルを探し出す行為にも、相通じるものがある嗅覚なのだといえないだろうか。



篠田昇は名カメラマンと称されている。
名カメラマンとは何をもって指すのだろうか。
印象的な映像を撮ることなのだろうか、躍動感に溢れるカメラ・ワークなのだろうか、独特の色を作り出すことなのだろうか、はたまた監督の要求に答えられる技量の持ち主なのだろうか。
作品の内容によってそれぞれだという見解もある。
こうした前提は数多く思いつくが、そうであるようなないような、一言では括るのは難しい定義だ。

最新作「火垂るの墓」(2008年7月公開・監督日向寺太郎)で、「紙屋悦子の青春」(2006年・監督黒木和雄)以来久々の撮影を担当した川上皓市は、助手時代の昇にカメラマンや映像についての話を数多くした。
「学生時代からそうだったのだけれど、ゴダールやトリュフォーに憧れ、夢中になっていた。「勝手にしやがれ」とか「気狂いピエロ」とか、あの頃の映画が好きなんだという、アメリカの(映画)よりもフランスのほうが好きなんだみたいなことを熱く聞かせたよね。
「アルファビル」なんて特撮なんか一切していないのに、SFものを借りながら、ちゃんとさ、テーマである人間の愛、人間の再生みたいなことをきちっとやっているじゃない。
そういうヌーベル・バーグの話なんかも、いっぱいしましたね」
「ぼくはドキュメンタリーから始めたからノーライトということがあるわけですよ。でもノーライトでもものすごく美しいカットってある。
当時、撮影所で撮られた劇映画でライトいっぱいに使ってやっているのに、ノーライトで撮ったドキュメンタリーの映画よりも負けている、光もそんなに美しくないのがいっぱいあるじゃないか、と。
だから劇映画撮る時も、一回そこからね、否定して、いかにライトを使って表現するのではなく、いかにライトを使わないで表現するかという方向を考えてみようということがあった、「サード」の頃から。
そうすると、例えばネストール・アルメンドロスの映画の光はいいよね、ああいうのを目指そうよ、とかになる。特に影響を受けたヌーベル・バーグのキャメラマンたちの話もしました。
あの頃は、光っていうことについてかなり話しましたね」
「もちろん、劇映画は自然光だけで処理できるものじゃない。ただ当時のぼくたちの状況、ATGとかお金ないからさ、せいぜい使えるライトって5キロくらいしか使えない。いかにライトを当てて表現するなんて考えられない。どうせライトの数がないんだから、いかに少ないライトで、狙いを表現する光を作り出せるか、ということだよね」
「あとフレームでいえば、姫田(真左久)カメラマンのこと。東(陽一)さんなんかは、「赤い殺意」(1964年・監督今村昌平)だったかな、言うわけですよ。姫田さんのフレームはフレームの外に世界が広がって見えると、フレームの中に閉じ込めていないと。そういうフレームを撮れるキャメラマンにならなきゃだめだよ、というようなことを彼から教わるわけですよ。
で、どうしたらいいんだろう、と撮影部で話したり、ね」

そして次第に、カメラマン川上の光に対するアプローチも変化していく。
「自然光を最大限利用して、ノーライトみたいな感じで撮るというのは最初の頃はそうだった、予算がなかったこともあったから。
途中から東(陽一)監督から「ナチュラル・ライティングもいいんだけれど、ナチュラルだけじゃね。当然絞りも開放近くなるよね。そうするとなんとなく、きれいなんだけど、ムードっぽいというか、腰が弱いみたいな、そういう映像になりがちなのよ。だから、ナチュラル・ライティングなんだけれども、もうちょっとクリエイティブな違うライティングにしようよ」という要求が出たりするわけです。
そうするとある程度ライトをきちっと使って、それでもライトを使っているようには見えないんだけれど、ある程度少し絞りを絞って奥行きを作ろう、というふうに、ね」
こういった撮影に対する姿勢ともなる川上の言動を助手である昇は反論することもなく、よく聞いていたし、理解していたという。
そして、昇はデビュー作「ラブホテル」の撮影前、後藤和夫に「アルメンドロスのように撮る」と熱く語った。

だがしかし、カメラマン篠田の話を聞く立場にいたチーフの福本淳は、こう振り返る。
「篠田さんって、映画が好きだったかどうかは、ぼくにはわからないんです。
自分の作品のことはすごくよくしゃべるんですけど、(他の)映画の話をされた記憶はほとんどないんです。
ぼくは自分で映画を撮ったりして、映画がものすごく好きなところから、この世界に入ったので、同じ自主制作から出発している篠田さんがなぜ映画のことを、映像のことを話さないのか、不思議な感じがしてました。
ぼくが覚えているのは、アメリカン・ニューシネマが大好きだったこと、特に「イージー・ライダー」。あとはシネスコという点で「グランブルー」、映像全般については「セブン」ですかね、そのくらいしかありません」
長澤雅彦も、篠田のハイビジョン撮影の現場に陣中見舞いに行った際、延々とハイビジョンの素晴らしさを説く篠田の姿に、こう言い切っている。
要するに、篠田さんって、自分で撮影している喜び以外に、映画に喜びを見出せない人だったんではないでしょうか」
それは、他人が撮った既成の映画にはまるで興味がなかった、ということなのか。はたまた影響なんか受けていないという誇示だったのか。

この映画への興味については思い当たる節がある。
大学に在学中、過去の名作を鑑賞して、その感想文を提出する映画批評の講義があった。当時、通常の小屋(映画館)では見ることのできない作品が見れるこの授業が、私は楽しみであった。
邦画では、坂東妻三郎唯一の現代ホーム・ドラマ「破れ太鼓」、同じく板妻の「王将」、三船敏郎の「無法松の一生」、「羅生門」など。
洋画では、エイゼンシュタインの「アレキサンドル・ネフスキー」、ジャン・コクトーの「美女と野獣」、実験的映像技法を用いたソビエト大作「戦争と平和」、そして「舞踏会の手帳」とか「ラ・ジュテ」などの古典的な名作が毎週楽しめたのである。
この授業は、映画学科全体の生徒が受ける講義で、映画全体の評論はもちろんのこと、監督、撮影録音、映像、演技の各コースの立場からみた批評も受け付けていた。
ところが昇はこの授業をあまり好きではなかった。私はその理由を、文章を書くことの苦手意識からくるものだとずっと思っていた。しかし、今思えば、それほど過去の映画に関心がなかったせいとも思えてくる。
だからといって、映画に無関心であったということではなく、それなりにその時代の好きな作品の話はよくしていた。
昇と映画の話をして記憶に残っているものを上げてみると、
まず思いつくのは、やはりビートルズ関連で、「ア・ハードデイズ・ナイト」、「レット・イット・ビー」。一緒に見ていると、あの女の子はジョージの恋人のパティさんだよ、あいつはロード・マネージャーのだれだれだとか、端役の人物解説をしてくれた。
特に「ヘルプ」と「マジカル・ミステリー・ツアー」は滅茶苦茶好きであった。
ジョージ・ハリソンの「バングラデシュのコンサート」、リンゴ・スターが役者として出演した「キャンディ」、「マジック・クリスチャン」もそのシュールでバカバカしいおかしさがお気に入りの映画だった。
音楽関連でも好きなアーティストだったウッディ&アーロ・ガスリー親子、ドノヴァン、ディラン絡みの「アリスのレストラン」、「ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯」、「北国の帝王」。
ザ・バンドの「ラスト・ワルツ」。
ピンク・フロイド関連で「谷」(劇場未公開。多分アテネ・フランセあたりで見た)。
アメリカン・ニューシネマでは先に上がった「イージー・ライダー」はもちろんだが、「ファイブ・イージー・ピーセス」は特に好きだった。
その他「いちご白書」、「マッシュ」、「ラスト・ショー」、「グライド・イン・ブルー」、「さすらいのカウボーイ」、「少年は虹を渡る」などなどを思い出す。中でも「スケアクロウ」も大好きな映画のひとつだった。
また当時、テレビ朝日系の深夜で繰り返し放映されていた「茂みの中の欲望」もそのサイケな映像が好きで「昨日見た?」「見た見た」なんてやっていた。
結構たくさんの作品が上がったが、これらは影響を受けたというより、趣味嗜好の範疇であると解釈しておいたほうがいいだろう。

撮影助手であった昇は、それだけではないにしろ、川上皓市から光について習得していくが、それがそのまま“光のマエストロ”という称号に結びつくのかというと、それははなはだ疑問である。
私はどのような経緯で彼がこのように称されたのかは知らないが、彼のことを語っていく上で一番わかりやすい表現としてサブタイトルに付けてしまった。今はこの表現は篠田昇の代名詞にはふさわしくないと思うようになっている。
その川上皓市は東陽一監督や黒木和雄監督から多くのことを学んだと言っている。中でも、光とフレームについては最重要のテーマのひとつであることを認識し、それらを篠田(だけでなく助手たちに)に伝えていった。
だが、光とフレームというのは川上や篠田だけの問題ではなく、カメラマンであれば当然持つべき普通の、かつ不可欠な要素だといえよう。もちろん光に関しても、フレームに関しても、様々な表現方法があり、その奥は深いし、一概に語られるべき性質のものでもない。またそれぞれ別々に分けられるものでもない。
この他にもたくさんの撮影技術、知識も重要な要素として伴うであろう。
私たち観客は、スクリーンという枠の中に、それらが一緒くたになったものを見るのである。
ゆえに私たちがカメラマンという仕事の評価を許されるのであれば、それは光でもなく、フレームでもない何かを見つけなければならないのではないだろうか。
さらに篠田昇の場合、映像大変革期とも言うべきデジタルの潮流に乗った、先駆けともいうべきカメラマンであったことを、何よりも重要なターニング・ポイントとして付け加えなければならない。これ抜きで篠田昇は語れないのである。(岩井監督との出会いあたりにて、詳細予定)

しかしながら、その光は、篠田昇の大きな特徴のひとつであったことは紛れもない事実であろう。
福本淳は光に関して、篠田から明確に教えられたことがある。
「いわゆる逆光です。逆光で撮るということが最も画を豊かにさせることだというのは、篠田さんのどの作品にも一貫していることだったし、極力、極端なことをいうとライティングしない、普通の日明かりの中の、自然な光だけで撮れることが一番リアルにドラマを語れるというふうに考えていましたから」
私たちは写真を始める時、順光で撮ることをマニュアルで教えられている。いわゆる撮影者の背に太陽(発光体)を置くことで、被写体に正面から光が当たるようにすればはっきりときれいに撮れる。逆に逆光にすると被写体は黒くわからなくなってしまう、と。
篠田の考えは、撮る映像の狙いやテクニカルな要素が入り込むと思われるが、これとは反対である。
「だから、篠田さんと仕事をしているとハレーションを切るのがものすごく大変でした。常になにかしらのライトがカメラに向かってきている。
さらに篠田さんはフィルターを結構入れる方だったので、すごくフレアを引きやすい、ハレーションを引きやすい。ハレーションを切ること自体でも結構大変なんですが、(カメラが)被写体に近くて動いているのを切るのはものすごく大変なんですよ。そんなことが毎度毎度でした。
撮影をしていて、照明技師はあそこにライトを置きたい、篠田さんもあそこの逆目のライトがいい。で、それはフレーム的に入るの入らないという話になる。
ライトを置いてみてから、篠田さんに確認してもらう。篠田さんはOKと言う。
で、実際撮影が始まるとどう考えてもライトが入るんですね。篠田さん、あそこにライトが、おおわかったわかったって言うんですけど、結果ラッシュ見ても入っている。
これがだめかというと絶対にだめということはないんです。だめな時もあるんですけど、逆にいい場合もある。
これに関して篠田さんは、あんまり不満とか、ぼくらを責めたりということはありませんでした。
篠田さんはどこかで(目論見として)敢えて入れていたんじゃないですかね
ただ中途半端な(ハレーションの)入り方をする時がそれでもあって、これはさすがに嫌がっていました。
フィルターが入ってなければ、本来ハレーションだけなんで、切ることはできます。
フィルターがレンズの前に入ることによって、これが散るんです。
散るのをカメラから少し離れたところで切ろうとするんですが、カメラは被写体に近いので、それをできないことも多々ある。
そんな時にレンズの前に、切るための黒い蓋を付けたりとかいろいろなことをする。するとハレーションは半分は切れているんですが、半分は切れていない状態があって、それがアップを撮っている時に、しかも手持ちなので、これがフワフワ動く。
こういう中途半端は嫌がりました」



1991年、カメラマン篠田昇は新たなる本編「東方見聞録」(1992年未公開・監督井筒和幸)に取り掛かるが、ここでひとりの男と出会う。生涯の知己、長澤雅彦である。


取材協力:篠田いづみ

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2008年07月04日 13:38に投稿されたエントリーのページです。

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