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2008年07月 アーカイブ

2008年07月04日

take16風景への嗅覚、そして光

この6月、ささやかに開かれた“篠田昇+ポラロイド展”には映画関係者のみならず、多くのファンが訪れたと聞いた。俳優や監督ならいざ知らず、一ムービー・カメラマンが死してなお、このように一般の人々に愛され続けているという話は、これまであまり聞いたことがない。
未だ数多くの人々の心の中に生き続けている篠田昇、というカメラマン。
残された人それぞれに、彼の残した映像の断片が刻み込まれているのだろうか。
私のそれはいつも何かしら動いている。
具体的に挙げると「リリイ・シュシュのすべて」の田園風景のようなものか。
大きくもなく狭くもない空に流れている薄ねずみ色の雲はたおやかな時を刻んでいるし、畑一面に広がる緑の草草は時折吹く強い風にそれぞれが身を任せている。
私はそれに時間の流れを感じるし、時を感じるということは生きていることであり、風の向きを肌に感じるということも然り、だ。
そして、篠田昇の愛した風景もこんなようなものではなかったのか、という思いと重なり合う。それはかつて一緒に撮影した風景の一部のような気もするし、或いは一緒に探し回ったロケハンの記憶なのかもしれない。

「世界の中心で、愛をさけぶ」のロケ地香川県庵治町。このロケ場所をロケハンぎりぎりの状況で探し出したのは篠田昇カメラマンであると、DVD「世界の中心で、愛をさけぶ」の特典スペシャル・メイキングの中で語られている。
これを拝見した時、私は伊豆の多々戸というところを思い出した。
それは30数年前、「ハードボイルド・ハネムーン」のロケハンをしていた6月終わりの時のことだった。
伊豆熱川の別荘地でのロケ場所を決めた後、私たちは車で海岸沿いの国道135号線を南下し、下田市街を過ぎたあたりから道路の左側は人間の高い背丈くらいの木や草が自然の垣根を作っていて、海の全く見えない状態がずっと続いていた。
その途中で突然、昇がちょっと車を止めようと言い出した。
このまま先に進むと国道136号線を左に折れて弓ヶ浜に行く地点だった。車の数は少なかったものの、片側一車線の道は狭く駐車する場所などはどこにもなかった。それでも無理をして車を止め、垣根伝いに歩いていった。
数百メートルほど下田寄りに戻ったところに、人間ひとりくらいが通れるスペースが見つかり、そこを木や草をかき分け入って、しばらく進むと一気に風景が開けた。
そこには美しい砂浜が広がっていた。まだこんなところがあったのか、私たちはお互いに顔を見合わせた。左には大きな崖が海に突き出すようにそびえ立っていた。
人の姿は全くなかった。
海辺に近づいていくと右手方向の少し高台に大きな平屋が見えてきた。が、何か普通ではない異様な雰囲気を漂わせていた。それは、まだ廃屋になって間もない感じだった上、やたら大きくだたっ広い建物の外観が、日本家屋の様相ではないような、どちらかというと西洋風の洒落た造りだったことと、何でこんなものがここにあるのかという場違いな戸惑いのためだった。
しばらくして、今度はだれかが海が変だと言いはじめた。海に目をやると、波の様子がおかしい。三、四百メートルほど真っ直ぐに続く砂浜の真ん中から左半分は全く波がないのに、右半分は波がとても荒いのだ。その時は自然の力の不思議さに感心するしかなかった。
とにかく、人知れず、とてつもなく美しい海岸を私たちは発見した。
この後、吉佐美入田浜や弓ヶ浜まで足を伸ばしたが、その崖に挟まれた絶好のロケーションの比ではなかった。
その浜辺は、多々戸浜海水浴場と名づけられてはいたが、地図にも載っておらず、やはり入り口は昇が見つけた箇所ひとつだけで、当時は地元の人々もあまり利用していなかった。
なぜなら、あの大きくだたっ広い平屋は、米軍基地の療養所だったところで、あの波もサーフィンをするために沖にテトラポットを埋めて人工的に作ったということだった。まだ戦後の進駐軍危険区域の名残りがあったのだろう。
結局、映画のロケ地としては使わなかったが、以後、昇と私と仲間たちは毎年夏になるとこの多々戸を訪れるようになった。だれも知らない私たちの秘密の海辺だった。
やがて、それぞれの道を歩きはじめ、昇と多々戸に行かなくなってから数年後、私はこの多々戸にできた某出版社の保養所に遊びに行く機会を得た。大勢の海水浴客で賑わっていた海には、もうあの時の面影は残されていなかった。

何気ない出来事なのだけれど、昇にはこうした風景を、自分が撮影したい場所を探し出す不思議な嗅覚が備わっていたのだと思わざるをえない。
想像ではあるが、昇はきっといろいろな作品の中のいろいろな場所で、その探り出す能力を発揮していたに違いない。
そしてそれは庵治町とか多々戸とか、単に全体的な大きな地域や特定の場所だけのことではなく、1シーンの中での絶好のカメラ・ポジションやアングルを探し出す行為にも、相通じるものがある嗅覚なのだといえないだろうか。



篠田昇は名カメラマンと称されている。
名カメラマンとは何をもって指すのだろうか。
印象的な映像を撮ることなのだろうか、躍動感に溢れるカメラ・ワークなのだろうか、独特の色を作り出すことなのだろうか、はたまた監督の要求に答えられる技量の持ち主なのだろうか。
作品の内容によってそれぞれだという見解もある。
こうした前提は数多く思いつくが、そうであるようなないような、一言では括るのは難しい定義だ。

最新作「火垂るの墓」(2008年7月公開・監督日向寺太郎)で、「紙屋悦子の青春」(2006年・監督黒木和雄)以来久々の撮影を担当した川上皓市は、助手時代の昇にカメラマンや映像についての話を数多くした。
「学生時代からそうだったのだけれど、ゴダールやトリュフォーに憧れ、夢中になっていた。「勝手にしやがれ」とか「気狂いピエロ」とか、あの頃の映画が好きなんだという、アメリカの(映画)よりもフランスのほうが好きなんだみたいなことを熱く聞かせたよね。
「アルファビル」なんて特撮なんか一切していないのに、SFものを借りながら、ちゃんとさ、テーマである人間の愛、人間の再生みたいなことをきちっとやっているじゃない。
そういうヌーベル・バーグの話なんかも、いっぱいしましたね」
「ぼくはドキュメンタリーから始めたからノーライトということがあるわけですよ。でもノーライトでもものすごく美しいカットってある。
当時、撮影所で撮られた劇映画でライトいっぱいに使ってやっているのに、ノーライトで撮ったドキュメンタリーの映画よりも負けている、光もそんなに美しくないのがいっぱいあるじゃないか、と。
だから劇映画撮る時も、一回そこからね、否定して、いかにライトを使って表現するのではなく、いかにライトを使わないで表現するかという方向を考えてみようということがあった、「サード」の頃から。
そうすると、例えばネストール・アルメンドロスの映画の光はいいよね、ああいうのを目指そうよ、とかになる。特に影響を受けたヌーベル・バーグのキャメラマンたちの話もしました。
あの頃は、光っていうことについてかなり話しましたね」
「もちろん、劇映画は自然光だけで処理できるものじゃない。ただ当時のぼくたちの状況、ATGとかお金ないからさ、せいぜい使えるライトって5キロくらいしか使えない。いかにライトを当てて表現するなんて考えられない。どうせライトの数がないんだから、いかに少ないライトで、狙いを表現する光を作り出せるか、ということだよね」
「あとフレームでいえば、姫田(真左久)カメラマンのこと。東(陽一)さんなんかは、「赤い殺意」(1964年・監督今村昌平)だったかな、言うわけですよ。姫田さんのフレームはフレームの外に世界が広がって見えると、フレームの中に閉じ込めていないと。そういうフレームを撮れるキャメラマンにならなきゃだめだよ、というようなことを彼から教わるわけですよ。
で、どうしたらいいんだろう、と撮影部で話したり、ね」

そして次第に、カメラマン川上の光に対するアプローチも変化していく。
「自然光を最大限利用して、ノーライトみたいな感じで撮るというのは最初の頃はそうだった、予算がなかったこともあったから。
途中から東(陽一)監督から「ナチュラル・ライティングもいいんだけれど、ナチュラルだけじゃね。当然絞りも開放近くなるよね。そうするとなんとなく、きれいなんだけど、ムードっぽいというか、腰が弱いみたいな、そういう映像になりがちなのよ。だから、ナチュラル・ライティングなんだけれども、もうちょっとクリエイティブな違うライティングにしようよ」という要求が出たりするわけです。
そうするとある程度ライトをきちっと使って、それでもライトを使っているようには見えないんだけれど、ある程度少し絞りを絞って奥行きを作ろう、というふうに、ね」
こういった撮影に対する姿勢ともなる川上の言動を助手である昇は反論することもなく、よく聞いていたし、理解していたという。
そして、昇はデビュー作「ラブホテル」の撮影前、後藤和夫に「アルメンドロスのように撮る」と熱く語った。

だがしかし、カメラマン篠田の話を聞く立場にいたチーフの福本淳は、こう振り返る。
「篠田さんって、映画が好きだったかどうかは、ぼくにはわからないんです。
自分の作品のことはすごくよくしゃべるんですけど、(他の)映画の話をされた記憶はほとんどないんです。
ぼくは自分で映画を撮ったりして、映画がものすごく好きなところから、この世界に入ったので、同じ自主制作から出発している篠田さんがなぜ映画のことを、映像のことを話さないのか、不思議な感じがしてました。
ぼくが覚えているのは、アメリカン・ニューシネマが大好きだったこと、特に「イージー・ライダー」。あとはシネスコという点で「グランブルー」、映像全般については「セブン」ですかね、そのくらいしかありません」
長澤雅彦も、篠田のハイビジョン撮影の現場に陣中見舞いに行った際、延々とハイビジョンの素晴らしさを説く篠田の姿に、こう言い切っている。
要するに、篠田さんって、自分で撮影している喜び以外に、映画に喜びを見出せない人だったんではないでしょうか」
それは、他人が撮った既成の映画にはまるで興味がなかった、ということなのか。はたまた影響なんか受けていないという誇示だったのか。

この映画への興味については思い当たる節がある。
大学に在学中、過去の名作を鑑賞して、その感想文を提出する映画批評の講義があった。当時、通常の小屋(映画館)では見ることのできない作品が見れるこの授業が、私は楽しみであった。
邦画では、坂東妻三郎唯一の現代ホーム・ドラマ「破れ太鼓」、同じく板妻の「王将」、三船敏郎の「無法松の一生」、「羅生門」など。
洋画では、エイゼンシュタインの「アレキサンドル・ネフスキー」、ジャン・コクトーの「美女と野獣」、実験的映像技法を用いたソビエト大作「戦争と平和」、そして「舞踏会の手帳」とか「ラ・ジュテ」などの古典的な名作が毎週楽しめたのである。
この授業は、映画学科全体の生徒が受ける講義で、映画全体の評論はもちろんのこと、監督、撮影録音、映像、演技の各コースの立場からみた批評も受け付けていた。
ところが昇はこの授業をあまり好きではなかった。私はその理由を、文章を書くことの苦手意識からくるものだとずっと思っていた。しかし、今思えば、それほど過去の映画に関心がなかったせいとも思えてくる。
だからといって、映画に無関心であったということではなく、それなりにその時代の好きな作品の話はよくしていた。
昇と映画の話をして記憶に残っているものを上げてみると、
まず思いつくのは、やはりビートルズ関連で、「ア・ハードデイズ・ナイト」、「レット・イット・ビー」。一緒に見ていると、あの女の子はジョージの恋人のパティさんだよ、あいつはロード・マネージャーのだれだれだとか、端役の人物解説をしてくれた。
特に「ヘルプ」と「マジカル・ミステリー・ツアー」は滅茶苦茶好きであった。
ジョージ・ハリソンの「バングラデシュのコンサート」、リンゴ・スターが役者として出演した「キャンディ」、「マジック・クリスチャン」もそのシュールでバカバカしいおかしさがお気に入りの映画だった。
音楽関連でも好きなアーティストだったウッディ&アーロ・ガスリー親子、ドノヴァン、ディラン絡みの「アリスのレストラン」、「ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯」、「北国の帝王」。
ザ・バンドの「ラスト・ワルツ」。
ピンク・フロイド関連で「谷」(劇場未公開。多分アテネ・フランセあたりで見た)。
アメリカン・ニューシネマでは先に上がった「イージー・ライダー」はもちろんだが、「ファイブ・イージー・ピーセス」は特に好きだった。
その他「いちご白書」、「マッシュ」、「ラスト・ショー」、「グライド・イン・ブルー」、「さすらいのカウボーイ」、「少年は虹を渡る」などなどを思い出す。中でも「スケアクロウ」も大好きな映画のひとつだった。
また当時、テレビ朝日系の深夜で繰り返し放映されていた「茂みの中の欲望」もそのサイケな映像が好きで「昨日見た?」「見た見た」なんてやっていた。
結構たくさんの作品が上がったが、これらは影響を受けたというより、趣味嗜好の範疇であると解釈しておいたほうがいいだろう。

撮影助手であった昇は、それだけではないにしろ、川上皓市から光について習得していくが、それがそのまま“光のマエストロ”という称号に結びつくのかというと、それははなはだ疑問である。
私はどのような経緯で彼がこのように称されたのかは知らないが、彼のことを語っていく上で一番わかりやすい表現としてサブタイトルに付けてしまった。今はこの表現は篠田昇の代名詞にはふさわしくないと思うようになっている。
その川上皓市は東陽一監督や黒木和雄監督から多くのことを学んだと言っている。中でも、光とフレームについては最重要のテーマのひとつであることを認識し、それらを篠田(だけでなく助手たちに)に伝えていった。
だが、光とフレームというのは川上や篠田だけの問題ではなく、カメラマンであれば当然持つべき普通の、かつ不可欠な要素だといえよう。もちろん光に関しても、フレームに関しても、様々な表現方法があり、その奥は深いし、一概に語られるべき性質のものでもない。またそれぞれ別々に分けられるものでもない。
この他にもたくさんの撮影技術、知識も重要な要素として伴うであろう。
私たち観客は、スクリーンという枠の中に、それらが一緒くたになったものを見るのである。
ゆえに私たちがカメラマンという仕事の評価を許されるのであれば、それは光でもなく、フレームでもない何かを見つけなければならないのではないだろうか。
さらに篠田昇の場合、映像大変革期とも言うべきデジタルの潮流に乗った、先駆けともいうべきカメラマンであったことを、何よりも重要なターニング・ポイントとして付け加えなければならない。これ抜きで篠田昇は語れないのである。(岩井監督との出会いあたりにて、詳細予定)

しかしながら、その光は、篠田昇の大きな特徴のひとつであったことは紛れもない事実であろう。
福本淳は光に関して、篠田から明確に教えられたことがある。
「いわゆる逆光です。逆光で撮るということが最も画を豊かにさせることだというのは、篠田さんのどの作品にも一貫していることだったし、極力、極端なことをいうとライティングしない、普通の日明かりの中の、自然な光だけで撮れることが一番リアルにドラマを語れるというふうに考えていましたから」
私たちは写真を始める時、順光で撮ることをマニュアルで教えられている。いわゆる撮影者の背に太陽(発光体)を置くことで、被写体に正面から光が当たるようにすればはっきりときれいに撮れる。逆に逆光にすると被写体は黒くわからなくなってしまう、と。
篠田の考えは、撮る映像の狙いやテクニカルな要素が入り込むと思われるが、これとは反対である。
「だから、篠田さんと仕事をしているとハレーションを切るのがものすごく大変でした。常になにかしらのライトがカメラに向かってきている。
さらに篠田さんはフィルターを結構入れる方だったので、すごくフレアを引きやすい、ハレーションを引きやすい。ハレーションを切ること自体でも結構大変なんですが、(カメラが)被写体に近くて動いているのを切るのはものすごく大変なんですよ。そんなことが毎度毎度でした。
撮影をしていて、照明技師はあそこにライトを置きたい、篠田さんもあそこの逆目のライトがいい。で、それはフレーム的に入るの入らないという話になる。
ライトを置いてみてから、篠田さんに確認してもらう。篠田さんはOKと言う。
で、実際撮影が始まるとどう考えてもライトが入るんですね。篠田さん、あそこにライトが、おおわかったわかったって言うんですけど、結果ラッシュ見ても入っている。
これがだめかというと絶対にだめということはないんです。だめな時もあるんですけど、逆にいい場合もある。
これに関して篠田さんは、あんまり不満とか、ぼくらを責めたりということはありませんでした。
篠田さんはどこかで(目論見として)敢えて入れていたんじゃないですかね
ただ中途半端な(ハレーションの)入り方をする時がそれでもあって、これはさすがに嫌がっていました。
フィルターが入ってなければ、本来ハレーションだけなんで、切ることはできます。
フィルターがレンズの前に入ることによって、これが散るんです。
散るのをカメラから少し離れたところで切ろうとするんですが、カメラは被写体に近いので、それをできないことも多々ある。
そんな時にレンズの前に、切るための黒い蓋を付けたりとかいろいろなことをする。するとハレーションは半分は切れているんですが、半分は切れていない状態があって、それがアップを撮っている時に、しかも手持ちなので、これがフワフワ動く。
こういう中途半端は嫌がりました」



1991年、カメラマン篠田昇は新たなる本編「東方見聞録」(1992年未公開・監督井筒和幸)に取り掛かるが、ここでひとりの男と出会う。生涯の知己、長澤雅彦である。


取材協力:篠田いづみ

2008年07月17日

take17信頼と現場。そして先達の危惧

「東方見聞録」(1992年未公開・監督井筒和幸)の撮影は、1991年(平成3年)の6月から開始されたが、撮影中の事故のため中断する。
その後、撮影は再開され作品は完成するものの、今度は制作会社であるディレクターズ・カンパニーが倒産のため、劇場公開には至らなかった不幸な作品である。

この年、一般公募でディレクターズ・カンパニーに入社し、「東方見聞録」で助監督を務めたのが長澤雅彦であった。
「それまではCMの仕事をしていたんですけれど、映画の世界に入りたかったもんで。ぼくが26(歳)の時です。
最初に付いたのが、井筒組でその時のカメラマンが篠田さんだったんです。助監督で一年半くらい、その後はちょっときっかけがあってプロデューサーになっちゃいました。プロデューサーになってからも、篠田さんや井筒さんとは一緒に仕事はしました。
プロデューサーやるんだったら、すごくいいディレクターがいるから会えよと篠田さんが紹介してくれたのが岩井俊二さんでした。
それで岩井さんと意気投合して作ったのが「Love Letter」(1995年)だったり、「undo」(1994年)だったりなんです。岩井さんの映画デビューした初期の作品のプロデュースをやってました。
ぼくはその後、岩井さんのところを離れたのですが、篠田さんはそのまま続けていました。「MISTY」(1997年・監督三枝健起)でまた一緒に仕事することになりました。ぼくはこの時もプロデューサーをやっていました。
それからぼくが監督になってから(「ココニイルコト」2001年・劇場用初監督作)は、実はいろいろな事情がありまして、ぼくは篠田さんと映画を撮りたかったのですが、なかなかできないでいた。それがあまりにぼくのフラストレーションになって、プロデューサーと切れてしまった。
それでやっと篠田さんとやれたのが、北海道のドラマ(「ノースポイント つばさ」2002年)だったり、ショートフィルム(「ShortCakes」2003年)やCMなんです。
ぼくの職種が変わっても常に篠田さんとの付き合いは続いていて、お亡くなりになる前、篠田さんが入院していた病院がうちのすぐ近所だったので、随分とお見舞いには行きました。
仕事以外の部分でも付き合いはとても深かったと思います」

長澤雅彦はこれまで度々登場している(take8、9、11)が、基本的に年順を追った構成上、篠田との出会いをここまで引きずってしまった。
《これを書き始めた当初は取材させていただいた方たちの話をまとめたインタビュー集的なことを考えていたのだが、昇の時間軸にそれらを付け加えていく現在の構成に切り替えた。長澤に会ったのは、2006年11月のこと。彼と昇との詳しい模様をやっと紹介できる頃になって内心ほっとしている》

さらに深かった長澤の思い出は続く。
「あの頃(90年代)は、映画はシネスコ、パナビジョン、それしか言わなかったですから、篠田さん。いかにパナビジョンでシネスコを撮ることが素晴らしいか、延々と説いて回っていました。
「Love Letter」もそうですし、「MISTY」もそうですし、ぼくは映画界に入って、シネスコしかやったことがなくて、初めてビスタ(*)やった時、フレームが違うので感覚を修正するのにえらい手間がかかりました。
とにかく、ぼくにとっては学校でした。
篠田さんは本当にいい兄貴だったし、最高の兄貴でもあったし、いろいろな新しいものやその処方を教えてくれるし、車にしても酒にしてもそうだし・・・。
同時に映像のことも、とにかくテクニカルなことが大好きな人だから、ぼくのようなある種門外漢、撮影部じゃない人間にでも、このレンズとこのレンズの違い、フィルムで何倍増感とか何分の一減感とか、どういうことを狙うとそうなるのか、その効果とか、徹底して教えてくれましたから。
学校ですね、一番の映像の先生でもありました。
実はぼく、映画がそんなに好きじゃなかったんです。
映画はやりたかったけれど、映画界には入ったけれど、ま、そんなに続けていくとも思っていなかった。実際、大変だったけれど、やれてこれたのは篠田さんがいたから。
何しろ公私共にこの13年間、映画を続けてこれたのは篠田さんのおかげなんです」
*ビスタ=スクリーン・サイズのひとつで、画面縦横比1:1.85とスタンダード・サイズに比べワイドで、これが主流。シネスコはさらにワイドになり、1:2.35となる。

長澤は自分をも含め、若い映画スタッフに慕われていた理由として、
「とにかく篠田さん本人の感覚が若いですから、年上感というのがないんです。親分肌であっても決して威張っているとか、上から物を言うのも一切なかった。だから、とても付き合いやすかった。
それに新しいことに挑戦する人でしたから。そういう新しいものに対する貪欲さっていうものは、一番ビビッドに反応するのは若い人間だったと思うんですよ。撮影に関する方法論みたいなものですよね。
例えば、ハイライダーっていう電線工事なんかで使われているボックス型のクレーンの作業車、あれを撮影に使っちゃうんですよ。自分で操縦コントロールして、いい高さに、自分がどこでも行けるようにして、(従来の映画用)クレーンのような使い方をしてました。
それで人間を追いかけた時もあるし、それと危険なところでも行けますし・・・」
一回りも二回りもある年齢差を感じさせない感覚の若さが昇にはあったという。
が、私には昇の挑戦していく姿がどこか破天荒なところに、若者たちの心を強く引く魅力があるような気がした。
それは、理論派ではなく肉体行動派。頭で考えるのではなく、身体で覚え考えていく。そうやって、成功と失敗を繰り返しながら、前へ進んでいく実践タイプ、みたいなことか。
そして、かなり精力的なものは感じるものの、悪くとるとある意味、正確性(目算)を欠いた猪突猛進の人ともいえるのではないだろうか。
長澤にはまた会う機会をお願いしようと思っている。そこで聞きたい、その後ハイライダーは使っていたのか、と。
多分、昇のことだ、別の方法を編み出したに違いないと思うのだが。

さらにこうした篠田の人柄だけでなく、仕事への姿勢に共感する人々、とりわけ若い監督や制作者たちに対して、篠田は絶大なる信頼と支持を得ていたことに、ある程度予想はしていたことながら、正直驚いている。
長澤雅彦は言う。
「無邪気で子供のような人でした。とにかく篠田さんと現場にいるとすごく楽しかった。映画の撮影現場って精神的にも肉体的にも非常に厳しくきつい。
篠田さんがいることで、撮影することが、映画を作ることがすごく楽しいと思える、それが何よりでした。みんなを笑わして、盛り上げて、一番元気に振舞っていた。
篠田さんがこうやりたいと言ったら、必ずそれを貫き通す意志があった、この辺でということが一切ない。
大体人間ってどうしても妥協したくなったり、この辺でいいかって思いたくなるんですが、そういうことが一切なかった。徹底してやらないと気がすまない、終わらない人でしたから。
そういう意味では撮影現場は必要以上に大変でもありました。
でも、やっぱりすごい結果を出すから、みんな納得せざるを得ない、プロデューサーにしても監督にしても、(現場にいる)みんなも」
行定勲は、(DVD「世界の中心で、愛をさけぶ」特典映像のインタビューより一部抜粋)
「人間的に言えば、太陽みたいな人ですね。
篠田さんがカーッと燦燦と輝く光を発していて、ぼくらは惑星で、くるくる回っているという思いがしてます、今は、印象としては。
篠田さんは惜しくもこの映画が最後で他界されたんでけど、考えられない。死から最も遠い人。今もぼくの中では生き続けているし、沢山の力を与えてくれるというかスタッフに。
撮影は大変です、篠田さんとやるっていうのは。
絶対、手を抜かない。どんなショットでも手を抜かない。あきらめない。これでいいだろうなんて絶対思わない。絶対自分が思ったとおりに近づけようとする。
もちろん、演出がだめだった時は演出をフォローするしかできないかもしれない。
最高のものをなるべく作って、自分の作品のどのショット見ても「最高だよー」って言うし、本当に人に見てもらおうと思ってる画を作ってた人だと思います」
同じく監督の岩井俊二は、(「写真以上写真未満」翔泳社刊・インタビュー「岩井俊二~カメラマン篠田昇が残した光」記事中より一部抜粋、「まわりの人にとってどんな存在だったか」の質問に対して)
「とにかく彼はムードメイカーでした。彼がいると、とにかく現場がなごむ。なごむというか、彼が強引にも元気を注ぎ込む感じ。ゆえに僕なんかは常に非情な監督業に徹することができた。怒鳴っても、現場はすぐに回復する」
川上皓市は、
「篠田はキャメラマンの仕事というか、現場が大好きだったんじゃないの。ぼくも大好きだけど辛い現場もあるからね。篠田は辛い現場や映画も辛く感じないくらい楽しかったんじゃないかな。そういうタイプの人間なんだな」
とそれぞれは篠田のいた現場を振り返る。

篠田のいる撮影現場。いかにも楽しそうである。ゆとりある緊張感といったらいいのだろうか、映画を作ることはこういうことなんだという、そんな雰囲気が伝わってくる。
長澤や行定のいう、大変な撮影現場とはどのようなものだったのだろうか。その現場の一コマを長澤が語る。
「準備とかで、撮影開始の遅延なんてしょっちゅうでした。
篠田さんの昔の、今は親しくない人は、日本一時間のかかるキャメラマンと言ってました。(フィルム)テストもすごいのですが、撮影中もとにかく本番に行くまでにえらい時間がかかりました。
カメラの動きが複雑だったり、ま、ものを作る人はみんなそうだと思うんですけれど、完璧主義っていう度合いが非常に高い。最高にいいものを作ろうとする。いろいろな手を考え、試す。そういう試行錯誤が常に現場でもありましたから。だから、すごい時間はかかるし、大変だったんです。
ただ、ぼくは初めて映画の世界に入ってやったのが篠田さんで、それ以外のキャメラマンとほとんど仕事してない。だから、確かに時間はかかるなあとは思うものの、他のキャメラマンと比べてどうなのかは全く知らなかった。
監督になってから、別のキャメラマンとやった時、なんて早いんだろうって思って。それが普通のスピードだということをわかるまでに随分かかりました」
業界では、これはかなり有名なことらしく、膨大なフィルム・テスト(詳細後述)などと並び称される、いわゆる篠田伝説のひとつになっている。
さらに長澤は大変な現場の模様を続ける。
「トラブルばっかりでしたね。
「MISTY」の時に、東宝の撮影所で撮影したのですが、1カット、水滴があるんですよ。垂れそうになっている水滴、それ越しに金城(武)くんと豊川(悦司)さんが剣を構え、向き合っている。
立会いの間を取っている場面を、監督が水滴越しに撮りたいと言い出した。ああ、なんていうことを言ってくれたんだ、とみんな思って。
人工の水滴を用意して、それに反転して映るわけなんですけれど、それをどうのこうのって始まって。あくまで水を通した緊張感を、水滴がポタッて垂れた瞬間に切り合うのだろうなと監督は思っていたのですが、そのぎりぎり直前の部分の1カットの準備で、東宝撮影所で値段の一番高いスタジオで、6時間経っても回らない。
準備に入ってから、豊川さんなんか、自転車に乗って所内をぐるぐる回りながら、「始まっちゃったよー、篠田さんのこだわりが・・・」って、ね。豊川さんは篠田さんのことをよく知っているから、もう観念しているわけです。
ぼくはこの途中にスタジオに入った、入ったらそんな状態になっていた。とりあえず、篠田さんのところへ行ったら、「おれだって、回してぇよ」と。何で回せないのか、聞いて、それはしょうがないね、とまた頭を抱える。
で、やっと6時間経って、本番用意、スタート。カット、10秒で終わりました。
そんなことの連続でした」

昇の二回忌の法事の席で、行定監督がこの時間のかかる篠田の撮影について回顧していたことがあった。
そして、それに対して篠田は「ユキ、時間はたっぷりあるんだから」(篠田は行定のことを「ユキ」と呼んでいた)と答えたという。
私は聞き取りにくい場所にいたため、多分、行定の話のニュアンスとは違う受け取り方をしているのかもしれないが、これが「世界の中心で、愛をさけぶ」の現場でのことだとしたら、随分と意味深な言葉である。単に現場での会話の域を越え、残されし者たちへのメッセージにも聞こえてくる。
そう考えると、昇のたっぷりと使ってきた撮影現場での時間とは、彼の生きている証そのものだったように思えてくる。

もうひとつ、篠田のいる現場では、怒鳴る殴る蹴るが有名だった。
篠田いづみも告別式の挨拶で、「今日は怒らないでね」と送り出したと話している。
そして、「だめだった」と帰ってくる昇。
「それは日常的に起こるんです。殴るんじゃなくて頭を叩く、小突くみたいなことは全く普通のようにするんですけど、それは悪意のあることではないし、怒鳴るのもしばらくするとケラケラと笑っているんです。
やっぱり助手が思うように動かないから、時にはカツ入れて、進めるために言うんです。
基本的に現場で怒る篠田さんの姿を目の当たりにしている人たちは山のようにいますが、なんら悪意を感じていないようなことだと思います」
と福本淳は話す。
ただ若かりし頃の篠田は、
「いつも帰ってくると昇は怒っていました。本当に鈍い、自分の思うとおりにやってくれないって、苛立っていました。住田(望)さんや川上(皓市)さんに付いた時はほとんど怒られていなかったみたい。必死に真剣にやっていたから、自分だったら、こんなバカなことはしないという思いなんでしょう。
性格的に厳しい人ではなかったけれど、できない助手たちにいつも苛苛していました」
と先妻のMさんは中村橋時代の昇を思い出していた。
いつの頃から、昇は若い助手たちから慕われる、愛のあるカメラマンになっていったのであろうか。

そして、長澤は篠田と面識のない人間なら意外と思う篠田のユニークな一面を突く。
「大体、篠田さんを知っている人はみんな言うと思うけれど、人の話、聞いていないんですよ。
自分のやりたいっていう思いを、とにかくアーティストだから、どんな作品だろうが監督だろうが、自分はこういうことをやりたいんだと思うことをやるだけなんです。とにかくやるだけ。
ただそれを押し付けるんでもなく、あの人間性でもっていたと思います。まあ、篠田さんがやるんならしょうがないね、みんな笑って付いていくしかないね、という感じですね。
作品のことも考えてなかったかもしれない。
この作品と自分との関係の中で、こういう撮影をするんだ、おれがこういう画を撮るんだ、こんな素晴らしい画を撮ったら作品だって必ずよくなるはずだ。
その一点突破主義というか、そこの純粋さだけで撮っていたように思えます。だから篠田さんの真似をしようとしてもやっぱり無理なんです、他のキャメラマンが」
寄れるだけ寄って美しい画を撮れるカメラマンは他にいないと語る行定の言葉と同様に、篠田は篠田独自の映像として今なお生き続けているのだ、と彼らの言葉からはそう読み取れる。
「作品のことも考えてなかったかもしれない」という長澤の言葉も、監督(=作品)に左右されることのない自らの意志と解釈した福本淳のマスター・レンズの話(take15)に通じるものがあり、自ら決めたことを遮二無二全うしようとする昇の性格が垣間見えてくる。

だが、こうしたある意味強引ともとれる撮影の側面に危惧していたのが、師匠である川上皓市である。
「昇はキャメラマンになってから、いつも新しいことにチャレンジしていて、そのことは非常に大事なことだと思うし、いいことなんだけれども、そのことが時々裏目に出るというか、自分がやろうとする技術のほうに気持ちがちょっと行っちゃって、そこに映る人間に興味が入りきってないんじゃないかと感じる映画が多々あるわけですよ。
後半というか、「東方見聞録」のあのあたりから。「ダンボールハウス・ガール」とか「MISTY」なんかもそうですね。
「MISTY」はシネスコを手持ちでやっているわけでしょ。そうすることが狙いなのか、狙いだとしたら、ぼくは上手くいってないと思う。ただ見づらいだけだった。
ちゃんと芝居(役者という人間)を見てないんだな。撮っている時は気持ちを込めているのかもしれないけど、結果そうなっているよね。
ぼくの助手の頃は、ぼくはその当時から特別新しいことをやろうとか思っていないんだけど、技術よりは、ま、撮影部は技術パートだから技術のことは大事なんだけれど、技術よりはそこに映っている人間のほうに興味を持とうという話をずっと、しょっちゅうやっていたわけですよ。そういう話を毎晩のようにしていた。
もちろん、人間に興味がないわけじゃないと思うんだけど、昇がやろうとする技術の面が映画からすごく目立つというか、人間に向かうべき眼差しよりも技術にいっているように感じるところがある。
今、昇が一生懸命にやろうとしている技術が、逆に邪魔になることがあるんじゃないかって思うんだよ。
そういう意味では、岩井俊二の「Love Letter」なんかは、昇の中では一番いいんじゃないかって思っている。それは技術じゃなくて映画の中の人間を一生懸命に見てるなって感じがするからね」

川上の言う「技術よりも人間を見よう」とは、どういうことなのか。
誤解がないよう補足させてもらうと、ここでの川上の話は、講師をしている大学での実習の際、小手先のテクニックを優先する生徒たちの対応を正そうとする、カメラマンの在り方についての話であり、篠田を特定しているものではない。
「撮影ってどういうことなのかというと、まずその作品の世界を描けるように、じっくりと人間(役)を見つめたり、その世界観を考えたりするのが、先じゃないのかということなんだよ、技術のことより。
ぼくらプロでも、要するに技術のことが常に話題にしがちで、中身を考えることよりも前に技術のことが問題になったりする。それが非常にだめなことだと思う。技術なんて後から付いていけばいいんだよ。
例えば、まず本(脚本)を読んで、中身について監督と打ち合わせする、全部に対して、どういうことなのかって。
だったら、ここはこんな風に撮ろうとか。当然そのシーンを生かすために、その人物を生かすために、こんな光でどうですか、と。
ここには森の中でのナイト・シーンと書いてあるけれども、ナイト・シーンじゃなくて、真昼間の森の中で、太陽が木の枝から木洩れ日がうわーっと、スモーク炊いて、ビームも作って、ちょっとロング目のシルエットで、きれいな光の中でやるのも手じゃないのって、あるよね。
でも、一見すごい美しい映像なんだけれども、そこで行われていることが嫌なことだったりする場合がある。
だから、まず最初にそのシーンの、そのカットの意味を捕まえないといけない。その上でこう撮るのが正しいのかどうか。脚本に書いてある全てのことについて、ちゃんと意味なり狙いなりを理解しないで、意味も考えずに、ただそういう自分勝手なことだけやったって、だめなんだよ」

川上は、カメラマンとしての目標とは何か、との私の問いに、その答えは難しいとし、自身の理想の撮影を語ってくれた。
「光にしてもフレームにしても、技術が主張し過ぎたらだめだと思う、ぼくはそう思う。
映画を見る人が、光とかフレームのことに目がいってしまっちゃいけない。色とかが、強調され過ぎて、すごくおしゃべりだなあと思われるのがとても嫌なんです、ぼくは。
見終わった後に残るのは、映画の中で演じられる人物とか物語が記憶に残ればいいわけで、撮影なんかあったのかよ、というのがね、それができたらそれが最も優れた撮影だと思う」
今、篠田が生きていたならば、何と答えるだろうか。
川上は言う。
「昇はキャメラマンになってから、ぼくのそういう考えの方向性とはちょっと違うほうへ行ったっていうことは感じているんだ」と。
どちらが正しいとかいうことではなく、昇は独自の道を選んでいたような気がする。
しかし、その昇の選んだ道とは・・・。この先、明確な“光”が見えてくるのだろうか。


取材協力:篠田いづみ

2008年07月30日

take18シネスコと極端な寄りの原型

カメラマン篠田昇は、なぜシネスコを使おうとしたのだろうか。
「映画撮影とは何か~キャメラマン40人の証言」(平凡社刊・山口猛編、監修佐々木原保志)の中で、篠田はシネスコについて語っている。
「日本ではいつの間にかシネスコを止めてしまって、なんでもビスタという具合になってますけど、それはたんにテレビで映画を放映する関係に過ぎず、僕は間違った方向だと思います。
シネスコにはシネスコのよさがあり、一般的にはスペクタクル映画など、広がりのある絵と迫力のある映像が持ち味のように考えられています。けれども、僕がシネスコにこだわったのは、シネスコがビスタに比べれば倍近い焦点距離の長いレンズを使用するために、たとえば狭い部屋でもワイド・レンズを使用せずに、人間の見た目に近く、自然に見せることができるからです。(中略、太字著者記す)
僕は前からシネスコでやってみたくて、井筒監督の「東方見聞録」のときに初めてやってみました。僕が子供のころからみていたのはシネスコだし、映画館でニュース映画が終わり、予告編も終わって、いよいよ本編に入るというとき、シネスコだとスクリーンがグッと開く。あのすごさは映画ならではの醍醐味でしょう」(原文まま)

子供の頃の映画環境も、同書にある。
「母の実家が両国にあり、両国日活という映画館の隣で喫茶店をしていて、そこで封切る映画は家族は無料でした。
僕は埼玉の三郷で生まれましたが、小学校の低学年から両国日活で封切る映画―その当時は映画は裕次郎、小林旭の活躍する日活しかないと思っていた―を週末になると、兄と二人でいつも見ていました」(原文まま)
当時、邦画界は全盛を極め、1週間から2週間という短いサイクルに、新作2本が同時に上映されるという、今では考えられない量産体制にあった。
本編とは直接関係はないが、昇と同年である私の映画環境も伝えておこうと思う。
私が見た最初の映画は東映動画の「白蛇伝」で、小学2年の時であった。
私の育った赤羽には、東映、日活、東宝の邦画館と赤羽オリンピア劇場という2本立て洋画専門館があったが、もっぱら通ったのは、小学生の高学年になってからであり、赤羽オリンピア劇場と駅から大分離れた岩淵というところにあった東宝だった。
赤羽オリンピア劇場は子供から老人までを無理矢理入れようとしていたのか、ディズニー・アニメ「ピーターパン」とロバート・アルドリッチ監督のスペクタル史劇「ソドムとゴモラ」が併映されるような、そんな奇妙な2本立ての映画館だった。
東宝では、社長シリーズ、駅前シリーズから若大将シリーズと、「ゴジラ」でブレイクしていた特撮ものを併映していて、特に私は社長シリーズのフランキー堺が演じる変な外国人が大好きであった。人の耳たぶを触るくせのあるハワイ二世に子供ながら大爆笑していた。
昇のよく見ていた日活では、裕次郎や旭には全く関心がなく、吉永小百合の青春ものをたまに見ていた程度だったと思う。

さて、「東方見聞録」の話が来た時、シネスコを使おうと決めた篠田昇。
シネスコのカメラを取り扱うアメリカ・パナビジョン社の日本での代理店は三和映材で、カメラ本体は全世界共通のレンタル方式になっていた。カメラは三和映材に頼むとして、当然カメラに伴うレンズやフィルターについても同様に考えていた。
ところが、その肝心のレンズとフィルターに少々問題が起こった。
この頃、日本にあるシネスコのレンズは「寅さん」シリーズで使っていたものしかなく、それを篠田は解像度が悪いので使えないと判断した。
レンズをアメリカの本社から取り寄せるか、取り寄せてもテストが必要になるので時間がかかる、それをどうクリアーにするか。こちらから出向いて選びにいくか、などいくつかの方法を模索していた。
フィルターも同様で、当初6ヶ月予定していた長期の撮影期間であるならば、借りるより買えてしまうのでは、という撮影部の案も出ていた。
撮影助手の福本淳は、アメリカに行って、レンズのテストをして、ついでにフィルターも買って、こりぁ面白そうだなと割と気楽に構えていた。
ところが、
「ある日、篠田さんが、お前、計算しろと。
6ヶ月間借りるフィルター代とアメリカに行った場合の費用を出して比べろと。絶対に行くほうが安いからって、飛行機代はおれが何とかするからって。で、滞在費、宿泊のコンドミニアム代やレンタカー代、毎日の飲食費、そしてフィルターの購入費も入れて計算したら、確かに行くほうが安かったんです。
その明細をプロデューサーに見せて、結果篠田さんと田沢さんとぼくと3人で行くことになったんです、一週間。
アメリカのパナ本社では、わざわざ日本からレンズのテストをしにきたということで、結構珍しがられたというか、有名な副社長とか技術者たち全部に紹介されたり、ぼくらの担当者という方も付けていただいたり、非常に丁寧な扱いを受けました。
篠田さんは、当時ちょうど映画産業自体が斜陽になっていて、アメリカでも映画館に客を呼び戻すために、大画面大音響で見せようと、シネスコが再び増え始めていた時期なんですね、それと同じことを日本でもやりたいんだ、と話されて、だからテストをさせてほしい、と。
カタログ上でしか知らない新型のレンズを含めて、ぼくらは毎日午前中にパナ本社の試写室に行って、前の日にテストした試写を見るんです。
向こうの技術者も見ているんで、ここがいい、あそこが悪いと、それを照合して、このレンズは今いいのがないからもっと他のを持ってきますとかき集めてもらう。トータル50本から70本近くのレンズがありましたね。
レンズの性能テストなんで、実際フィルムで撮る前に、テストする機材があるんです。一通り全部のレンズをプロジェクションで見て、その中からある程度レンズを選んで、それをまずスタジオで撮って、ピントの性能をチェックし、最終的にほぼ固まったところで、今度は外に出てまた撮るという具合いです。
シネスコって、非球面レンズが前に入っていて、真ん中のピントはきているんだけれど、周辺のピントは甘くなる傾向がある。その状態が一番いいものを求めて、ずっとテストを繰り返しました。夜中近くまで、本社で撮影して、帰って寝て、翌日その現像を見ると。
結局、30、35、40、50、75、100、150、800ミリ、ズームの9本を借りました。
フィルターもパナ本社で買えるので、NDが3枚、プロミストが8枚、フォグが5枚、グラデーションが2枚、フォーラライザービューと全部で19枚くらい買いました。ガラス製なので、管理さえきちっとやっていれば、ずっと使えるわけです。
最後の日に、買ったフィルター一式をジェラルミン・ケースに入れて持ってきてくれたのですが、そのケースには、「シトパティヨース・ノボル・シノダ」(撮影篠田昇)というプレートが彫って貼ってあったんです」

この「東方見聞録」を筆頭に、篠田は以後、「Love Letter」(1995年、監督岩井俊二)「MISTY」(1997年、監督三枝健起)「四月物語」(1998年、監督岩井俊二)「クロエ」(2001年、監督利重剛)「真夜中まで」(2001年、監督和田誠)、そして「世界の中心で、愛をさけぶ」(2004年、監督行定勲)といったシネスコによる作品を撮っていく。

実は、この「東方見聞録」には、シネスコだけでなく、その後の篠田というカメラマンの撮影法を確立していく様々な試みが盛り込まれている。
ピィウイドリーにミニジブ(クレーン)を乗せたこともそのひとつで、これは極めて重要な出来事といえる。
「ワールドアパートメント・ホラー」では、本来ピィウイドリーを使いたかったが、予算の関係上、簡易なフォーカスドリーの上にミニジブを乗せて撮影に臨んだことは既に伝えた。その延長上の組み合わせだった。
「東方見聞録」の撮影現場の模様を福本淳は語る。
「滝がメイン・セットの時、とにかく足場がかなり悪い。篠田さんがここからそこまで行きたいという。そうすると足場を作りレールを敷く。
それでも、篠田さんが思っているポジションからちょっと変わったりすることが多々あるんです。
ですから、そんな状況下で、ピィウイドリーの上で、カメラをこっちに出したり、いろいろと乗せ方を工夫してセット・アップをして対処していた。そうやって、やっと篠田さんがオペレートできる体勢を作るのが、毎回大変な作業でした。
それをずっと続けていたんですが、ある時、篠田さんがミニジブを乗っけようと言い出した。ピィウイにミニジブを乗せろ、と。
こんなことをした人間は日本じゃ多分篠田さんが初めてだと思います。
ただミニジブが乗るとかなり自由度が増すわけです。
ピィウイだけですと、上下約60センチの動きはできますけれど、しかもこれを操作するのは特機部の別のオペレーターがやるんですが、ミニジブを付けると1メートル50くらいは、倍以上は確実に動ける、篠田さんひとりで。それでなおかつ、コの字(take12)を付ければ、ピィウイの上を何とか篠田さんが歩くスペースも確保できる。
ただ基本的に、ピィウイ自体、カメラ本体の重さに耐えられるように作られてはいるんですが、ミニジブを乗せるということは、カメラのバランスをとるウエイトとアームの重さも加わることになるので、本来設定されている重さの3倍くらいになる。
完全なる加重状態なんです。ピィウイの正しい使い方ではないということですかね」
この時、撮影の応援に行った根岸憲一の話によると、何回も壊しては特機のレンタル会社に持ってこさせていたという。
一方から見れば、機材屋泣かせのとんでもない代物(やり方)でもあった。
ただ縛られている制約を取り払っていく昇の姿勢は相変わらず健在のようだ。

もうひとつ重要なエピソードが隠されている。
福本は、篠田の特徴である極端なワイド・アップ、寄りの撮影(take15)の成り立ちのヒントが、この「東方見聞録」にあったという。
「できるだけ近くで撮ることは井筒さんの要求でもあったのですが、(シネスコ用の)アナモ・レンズ自体が普通のレンズとは構成が違うので、最至近距離でも、これも玉によって違うんですけど、1メートル50くらい、そのくらいが最至近のピントの時に、篠田さんは1メートル50よりも近寄って、1メートルとか80センチくらいの距離で撮ろうとする。篠田さんとしてみれば、被写体に近いところであれば、画作りに関しては満足なんですね。ピントは手前の人に近いことにはそれでいいと考えていました。
主人公の緒形(直人)さんを真ん中に、手前に徳井(優)さん、奥にもうひとりという3人縦に並んでいる画を撮りたい。
篠田さんは近寄って一番近いピントを真ん中の緒形さんに合わせる。ぼくがピントはここ(緒形さん)までしかこないんで、というとそれでいいよという。
ところが、監督の井筒さんは、いや、ピントはそこじゃないやろ、徳井やろ、手前やろ、と言うわけです。で、こっち(撮影部)はピントを手前の徳井さんに合わすために下がるわけですよ。
それをまた井筒さんが、下がったらあかん、ってなるんです。
それって、レンズの限界を超えなきゃいけない。
しようがないので、プロクサーというクローズアップ・レンズを入れて、ピントの至近距離をもっと手前に持ってこれるものを使って撮影したんです。
撮っていくうちに、段々と監督から言われる前に、当たり前のようにクローズアップ・レンズを入れることが篠田さんの中で起こり始めたんです」
何と井筒監督の執拗な要求が、極端なワイド・アップ撮影をより確信的にしていく大きなきっかけになっていたのだ。

「その後、シネスコで撮ることになった「Love Letter」とかは、大げさに言えば、50パーセントくらいの頻度で、クローズアップ・レンズの入った状態で、撮影してると思います。
編集でカットは相当に割れていますが、例えば、小樽にいる中山美穂に間違って自分のところに手紙が届くようになる。
その最初の一通目が来た時の室内で、初めて彼女がそれを開くまでのくだりなんかは、単純なお芝居ではなく、お母さんとすれ違うとか複雑な動きがあって、机の前に座って手紙を開く。篠田さんは手持ちで80センチくらいの距離でずっと中山さんに付いて行くんです。
こういう状態ではクローズアップ・レンズを入れないとダメなんですね。
単純にいうとアナモ・レンズの特性ということがあって、本来のレンズでは1メートル50から無限大までピントがくるものが、クローズアップ・レンズを入れることによって、1メートル50が1メートルになって、無限大が5メートルになるものなんです」

川上皓市がいう「東方見聞録」のあたりから、篠田は技術面に偏りを見せ始めているという思惑をよそに、この「東方見聞録」「ワールドアパートメント・ホラー」同様、かなり彼の野心的な技法がちりばめられたエポックな作品といえるのではないだろうか。。


取材協力:篠田いづみ

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