take12撮影技法、ひとつの始まり
1985年(昭和60年)、国内では今ひとつ盛り上がりに欠けた“つくば万博”が開催されたこの年の8月、篠田昇は相米慎二監督作品「ラブホテル」で、劇場用映画のカメラマン・デビューを飾る。この作品で新興のヨコハマ映画祭で撮影賞を獲得(ちなみに我が草野球チームのチア・リーダーが審査員のひとりになっていた)。
この時、昇は「ははぁー、もらっちゃったよ。スピーチ、考えなきゃな」と大層に喜んでいた。
「ラブホテル」ではASA500という高感度フィルムを全編に使用するなど、ここからカメラマン篠田昇独自の撮影法が生まれていく。彼と共に仕事をした人々の話を聞いていくと、フィルム選択のみならず、現像、レンズや特機等に至るまで多岐に渡って展開していく様は、まるで秘密武器を編み出しては戦いに挑む軍師、策士のようであった。
一番弟子を自称する根岸憲一は、この「ラブホテル」の撮影には健康上の理由で参加していない。
昇の弟子の多さは有名なようだが、親分肌と慕われた人格とともに、それはいい意味でも悪い意味でも出入りの多さを物語っていると思う。
根岸を筆頭に骨格となった歴代の撮影助手たちには、(取材中現在において)奈良一彦、石井浩一(主に川上皓市に付いていた)、田沢美夫などがいたが、「宇宙の法則」(1990年・監督井筒和幸)から篠田昇のサードに付くことになった福本淳は、その後約10年撮影助手として、右腕としてカメラマン篠田昇を支えていく。今回取材させていただいただれしもが篠田の一番弟子は福本と口を揃えるほど、その師弟関係は密であったようだ。
・助手たちのその後の主な作品
*根岸憲一「地獄の警備員」(1992年・監督黒沢清)
*奈良一彦「孔雀王」(1988年・監督ラン・ナイチョイ)、「秋桜(コスモス)」(1997年・
監督すずきじゅんいち)他
*石井浩一「クレープ」(1993年・監督市川準)、「皆月」(1999年・監督望月六郎)、
「an adolescent 少女」(2001年・監督奥田瑛二)他
*田沢美夫「ラバーズ・ラヴァー」(1996年・監督福居ショウジン)他
1988年「宇宙の法則」の撮影から篠田昇の助手に付いた福本淳は、1997年の夏から秋にかけて撮影された「OPEN HOUSE」(1998年・監督行定勲)を最後に、篠田の元を離れ、自立への道を歩む。
詳細は後述することになるが・・・、
時を経て「世界の中心で、愛をさけぶ」(2004年・監督行定勲)のロケ中に、福本は行定監督やスタッフから電話で急な相談を受ける。
「篠田さんの体力が心配だ」「篠田さんが辛そうだ。かなり疲れているみたいだ」
カメラマン篠田昇のバックアップ要請だった。
その撮影前、篠田昇は2002年に見つかった膵臓悪性腫瘍の摘出手術を終え、そのリハビリ期間中も親しい人たちに「ほれ、ベンツ・マーク」と言って、お腹の傷を見せびらかしていたほど回復していた。
しかし、その後肝臓に転移したことが発覚。これについて昇は「みんなには黙っておけ」と妻いづみに固く口止めしていた。
そして「世界の中心で、愛をさけぶ」の撮影に突入する。
福本淳はその要請に、進行中であった自身の仕事と併行にならばという条件で引き受ける。
こうして全編ではないにしろ昔の師弟関係が復活した。
そして、この映画が篠田昇の遺作となった。
何の因縁か、嫌な表現ではあるが、一番弟子は師匠の最後の作品を見取ったのである。
早稲田大学のシネマ研究会で8ミリ(フィルム)を撮っていた福本淳は、在学中に目指していたプロの世界に触れる。
「浜田毅さんというカメラマンの助手になりたくて、この業界に入りました。「生きているうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」(1985年)や「黒いドレスの女」(1987年)とか、崔洋一監督の一連の作品の撮影をやられていて、ぼくはその映像をずっと映画館で見ていて、ものすごく好きだったんです。
で、最初、榎戸(耕史)さんの「ふたりぼっち」(1988年)で、浜田さんの見習いをやったのですが、次の仕事(浜田の)がなかなか決まらなかった。そこで「ふたりぼっち」でセカンドをやられていた柴主(高秀)さんが「宇宙の法則」のセカンドになって、ぼくをサードにと呼んでくれたのです」
カメラマン篠田昇、「ラブホテル」でサードだった田沢美夫が初のチーフ、セカンド柴主高秀、サード福本淳からなる映画「宇宙の法則」撮影部の構成に、新人福本は首を捻る。
「この頃、浜田さんは26年生まれ、篠田さんは27年、昭和24年頃から20年代後半生ま
れの方がキャメラマンになって活躍し始めている時代なんですね。これはぼくなりの印象
で一概に決め付けられるものではないのですが、当時、キャメラマンは角川映画を始め日
本映画の多くを撮られていた三船プロのグループとATG・幻燈社の流れを汲むグループと
があり、この2つのグループは相交わらない関係だったんです。
対立しているとかではなく、もちろん個人的な交流も合ったのだと思いますけど、お互いの助手のやりくりみたいのがなかったんです。
かたや潤沢とまでとはいわないがそれなりの予算で撮っていた三船プロのグループに比べ、田村(正毅)さんや川上(皓市)さんらのグループは、フィルムの端尺に至るまでキャメラマンが管理をするに近い、かなり厳しい状況の中で映画を作ってきた。本当に細かいところまで倹約する映画の作り方をしてきた。
ぼくは三船プロ・グループの浜田さん門下の柴主さんに連れられて、「宇宙の法則」に参加したわけです。
ところが、柴主さんよりもキャリアの少ない、年も大分下の田沢さんがチーフに付いた。
これはもう三船プロ・グループにしてみれば信じられない出来事で、大抜擢なわけなんで
す。そんな状況を作ってしまう篠田さんとの付き合いがこうして始まっていくわけです」
その後、田沢美夫は長いこと篠田のチーフを務め、福本もその下で続けることになっていく。
余談ではあるが、私は昇のデビュー「竜馬暗殺」よりも早くプロの世界を経験した。take1でも書いたが、1971年独立プロ系作品「空、見たか?」(監督田辺泰志)で撮影助手(フォース)に付いたのだが、この時のカメラマンが仙元誠三であった。そして、この後仙元は角川映画で大ブレイクしていく。
2001年9月21日、強制送還された足立正生の帰国を祝うパーティの席上で、久しぶりに仙元(さん)と会い、挨拶をした。この時、福本の言い方を借りれば三船プロ・グループにとって代表的な存在であった仙元(さん)は、こう言っていた。
「これからは、篠(田昇)ちゃんの時代だよ」と。
福本は篠田から、篠田が助手を務めたカメラマン川上皓市、住田望、大津幸四郎、高田昭(「純」監督横山博人)の話をよく聞かされるが、中でも業界の認識や篠田本人の言葉からも、師匠は川上皓市が定説になっている。
しかし、福本に対しては「篠田さんの師匠筋って、どなたなんですかね」なんて話をして
も「俺には師匠はいないよ」みたいな素振りをしていたという。
それは福本の話を聞いていくうちに、次第に理解できるようになる。取材した関係者がよ
く口にする“篠田節”“篠田イズム”というものが、ひとつの体系(形)を現す言葉ではなく、
これまでとは違う新しいことにトライする独自の行動を表現する言葉だとわかってくる。
つまり、篠田昇は前例にとらわれず、常に試行錯誤しつつも変貌を意識して撮っていたカ
メラマンだということだ。
「ほぼ三脚を使わないカメラマンでした」
と語るのは、長澤雅彦。
「でも、手持ちでもありません」
私はその昔、といってもいつを指すのか定かではないのだが、メイン・カメラマンを始め
てからもずっと昇の真骨頂は手持ちによる撮影だと思っていた。CMでクレーンを使い出し
たと聞いた時も手持ちの延長上くらいにしか思っていなかった。私にとって、昇の撮影法
を確認する唯一の手段は、彼の撮影した作品を見るしかなかった。
ある休日、自宅で「リリイ・シュシュのすべて」(DVD)の現場の裏側を収録したメイキングを見た時、異様な驚きを覚えた。
昇が撮影している機械は何なんだ。
そう、それはカメラというより機械のようであった。
鉄骨のようなアームにぶら下がっている箱のようなカメラらしきもの。
撮影者篠田昇の横に置かれていたのはファインダーではなく大きな平板モニター、それを眺めながらその大きな物体を操作していた。
長澤は続ける。
「いい姿勢で自分が好きなように動き回れるシステムを常に開発していくことが篠田さんの撮影の方法論でした。それと必要なものは自分で作る。機材屋さんに置いてあるものでも、そんなもん借りたら金がかかるじゃないか、と言って自分で作っていました。
とにかく知能指数が高い人なんでアイデアがすごい。機材そのものに対する考え方ではなく、監督の要求にどう答えるかのやり方が非常に独特でして、えっそんなやり方するのっていう思いもつかないことを随所に見せてました。でも、その分失敗も多かったですけど」
それを目の当たりに見てきたのが福本淳だ。
「篠田さんはデビューした時から、いろいろ新しいことを思い付かれて、ラボ(現像所)や特機のこともありますけど、どんどんと変わっていくカメラマンでした。けれども、劇的に変わっていく時期というのが「ワールドアパートメント・ホラー」(1991年・監督大友克洋)を機に始まったんです」
普通、ムービー・カメラの場合、ハイハットとかカニ足と呼ばれるロー・アングル用の三脚を使っても、構造上カメラは腰くらいの高さになってしまう。
昇は「ワールドアパートメント・ホラー」で地べたを這うくらいのロー・アングルを目論んでいた。
以前から昇は既成のミニジブなる特機を使用していた。人の乗れないクレーンで、「ワールドアパートメント・ホラー」の撮影でも、ほぼ9割をこれで撮っている。
ミニジブは台の上に支柱があり、その上にカメラを取り付けるお釜とバランスをとる重りとが天秤のように棒でつながっているものだ。
これを使った通常のロー・アングル撮影は、
「地べたまで行くとかなり特殊なカメラのセッティングになるんですね。ロー・アングル専用のヘッド(*)というものがあって、板を使ってカメラの下にヘッドがこないようにセッティングできる。そうするとヘッドの分だけ低くすることができる。
*ムービー・カメラの場合、重量があるため水平バランスを保つことやスムーズに操作できるよう、三脚側に通称“お釜”と呼ばれる受け皿があり、その上にヘッドと呼ばれる半球上の台を合わせる(いくつか用途に応じた種類がある)。その上にカメラを乗せ、パン棒やクランク・ハンドルにより左右撮影(パン)や上下撮影(ティルト)が可能になる。
でも、これだと高い(レンタル料)し、面倒くさいというので、クランク・インの5日前に、篠田さんは撮影現場に近い日活NK特機さんと親しかったので、そこに頼んで、アルミ製のコの字型の板を作ってきたんです。
普通、(ミニジブの)お釜は上からしか入らないようになっているんですけど、本体と三角形でネジ止めされているだけなんです。このネジをひっくり返してお釜とヘッドを逆さまに付けて、それにコの字板を取り付け、下側の板にカメラを乗せるようにした。これで地べたからのロー・アングルが撮影可能になりました」
こうして、超ロー・アングル撮影は以上のやり方で、その必要がない場合は通常通りの方法で撮影していた。つまり、アングルにより、その都度お釜等カメラ周りの付け替えをしていた。
移動撮影する場合は、このミニジブを車の付いた移動車に乗せて撮影した。
「普通ファインダーはカメラ本体の左側にあります。ということはカメラマンである篠田さんはミニジブのアームの左側に立つわけですよ。
例えば、被写体を追って、アームが右に振れていくとする。被写体よりもアームの動きが先行すると、アームに対して、カメラの位置が左向きに直角近くなる。この時、篠田さんがファインダーを覗くためにはアームの右側にいなければならない。
それができないことを知っていて、ぼくらは撮影を続けていました。
ある時、カメラがかなり高い位置での撮影で、そうしなければいけない状況が起こったんです。この時は、普通の撮影だったので、カメラはヘッドの上に付ける通常の状態だったんです。
篠田さんは「お前、どうすんだよ」って言うわけです。
ぼくはそれまで撮影を続けていて、ふとカメラがぶら下がっている(ロー・アングル撮影時の状態)と(アームの下を)くぐれるのを見ていたから、「篠田さん、カメラぶら下げるとアームが邪魔になってませんよ」という話をしたんです。
そしたら、「えっ?」っていう疑いの眼差しで見られて、「じゃあ、やってみろよ」ということになった。その時はレールを敷いてミニジブ乗せて、カメラぶら下げて、やったんです。そしたら、篠田さん「おお、できたよ」って。
篠田さんって、自分がカメラをオペレートする時の制約が大嫌いな方でしたから、これで制約がひとつなくなったわけです。
これが、篠田さん独特の撮影技法の何かの始まりなんですよ」
まさに長澤の言う「いい姿勢で自分が好きなように動き回れるシステム」であり、制約を取り払うことが篠田撮影技法の極意となる、その大きなきっかけであった。
さらに、福本は篠田の助手に付いてから四本目にあたる、この「ワールドアパートメント・ホラー」の撮影中、篠田がぼそっとつぶやいた一言から、彼の根底に流れる撮影理念を知ることになる。
取材協力:篠田いづみ