take2での疑問、篠田昇の「最初は写真を目指していたのか?」について、明快な答えをくれた男に会った。カメラマンの杉山芳明である。実は私は彼と面識があった。遠い昔、昇と杉山の交流の中に私も加わっていた時期があったのだ。
杉山は篠田と大学受験の時に知り合う。きっかけは杉山と篠田の受験番号が続いていたからだ。受験の日、その日は途中から雨が降ってきたという。
「年が一緒ということもあって、すぐに仲良くなったよ。試験が終わって、合格発表の日も時間決めて待ち合わせをした。結局、おれは違う大学の写真学科に行ったんだけれど、昇は日芸の映画(学科)に入った。
あいつは映画(学科)に入ったんだけれど、初めムービーには興味なかったと思うよ。おれは(大学で)写真バリバリにやっていたから、(昇は)一緒に写真やりたくてしょっちゅう遊びに来てたのよ、うちのアパートに。撮影やって現像やって、暗室にずっとこもってね。よーく、泊まっていったよ。
女の子の裸、撮りたいね、なんて言っててさ、いないから自分たちで裸になるのよ。夜、石神井公園に行って、あいつが裸で木に登ってしがみつくのよ、木に抱っこしてさ。夜だから、ロー・シャッターじゃない、辛い格好して蚊に刺されるし。
帰りは帰りで、公園の隣りにある日銀の社宅のリッチなプールに、蚊に刺されてるもんだから、泳ぎに行くのよ、夜中。守衛に追いかけられて、ふるちんで逃げたりしてたよ」
「アパートの下に住んでた双子の大工と8ミリのブルーフィルムの上映会をやったのよ。その映写機を昇が持ってくるんだけど、あいつ馬鹿だから、一番いいところで止めちゃうのよ。焼けちゃうんだよ、フィルムが。フィルムを返しにいく役がおれになってさ、ヤクザのおっさんにえらいどやされて散々な目にあったよ」
昇は大学入学直後の数ヶ月、こうした杉山との写真漬けの毎日を送っていたようだ。
東京練馬区の石神井公園にあった杉山のアパートには、私も遊びに行ったことがあった。杉山と兄が同居していた2階の部屋には、当時私たち(昇や岩城たち)の間で話題になっていた商品、テレビ通販で売っていた省スペース設計・風呂付シャワーがあった。私たちの間で話題になっていたとは、こんなもん買うやつがいるのかよ、という類いのものだった。
約60センチ四方の小さなプラスチックの風呂桶とその四隅にパイプが立ち、頭上約2メートルの高さにシャワーがセットされ、回り全体をビニール布で囲い、風呂に入るにはその小さな桶に縮こまって入り、シャワーを浴びる時は、風呂桶に板を敷き、その上に乗り、シャワーをかける。水は全て風呂桶の栓から流れていく仕組みで、便利なようで不便極まりないセコいものであった。
だが、昇だけはそれを楽しそうに使っていた。
昇は杉山との出会いについて、“受験の日の昼休みに入ったキッチンで隣同士になり、知り合ったんだよ”と私や岩城など映画学科の人間に話していた。別に大した意味がある訳でもないのかもしれないが、遠慮なのだろうか、写真を目指していたことを隠していたような気がする。
杉山は続ける。
「それがさ、次第に大学の仲間たち、堀越なんかと綿密になってムービーの方に動いて行ったんだと思うよ」
私が(映像制作集団グループ・ポジポジで)映画を一緒に撮ろうよと、篠田昇に声を掛けたのは、大学1年秋の初めであった。
「それから、ちょっと疎遠になっていたんだけれど、「竜馬暗殺」の時、篠田から電話があって、井上馨の役をやれって。その時、おれはスタジオマンやっていて、下積みだよな、当時のスタジオマンって家帰れないのよ、飯付きの住み込みで、めちゃくちゃ忙しくって。行きたかったよ、映画の現場に。役者やりたいとかじゃなくてさ、なんでもいいから、抜け出したいわけよ、スタジオから。
この時、ああ仕事(の方向)が違っちゃったんだなと感じた、篠田と」
昭和50年代に入って間もなく、当時「週刊プレイボーイ」の巻頭ヌード・グラビアで長年携わっていた篠山紀信が降板、その後に抜擢されたのが杉山芳明であった。
私は新宿の喫茶店かどこかで、「杉山が撮っているぜ」と雑誌プレイボーイを昇に見せた。
かつて篠田と杉山のふたりがいつか撮ろうよと夢を描いていた女の子の裸がまぶしくそこには写されていた。
親友が撮ったということで初めは喜んでいた昇だったが、ページをめくるうちに「よくない、よくない。杉山らしくない」とつぶやきだした。
私は「なぜ?」と聞いてはいけない領域を感じ、声をかけることはしなかった。
その後、杉山は独立し、自身の事務所を開設した。篠田とのつながりは、PV(プロモーション・ビデオ)撮影の依頼だった。最初の頃はプロダクションからの全く無名のアーチストを低予算で作るものが大半だったが、篠田は気軽に応じてくれたという。が、ムービー・カメラマンとして多忙な時期を送るようになると、篠田の撮影助手であった福本淳が務めることになる。
「時間があるとやってきて、おれや福本がPV撮っている横から、ハッセル(ブラッド)でバシバシ撮っていた。うちのアシスタントが篠田のフィルムをよくここで(杉山事務所)現像していた。そういう意味じゃ、PVのカメラマンというより、スチルのカメラマンとしての(事務所への)出入りが多かったよ。ここでルーペでネガのチェックして、アシスタントにこれ焼いてなんて、やっていたものな」
「昇からはPV通してムービーのことをすごく教えてもらった。逆にあいつはスチルのノウハウをここから随分と持っていったと思う。露出とかのちっちゃい細かい問題だけどさ」
ムービー・カメラマンとしての地位を築いてからも、昇と一緒に仕事をしていた関係者の間では昇の写真好きはよく知られている。
平成10年には、「四月物語」(監督岩井俊二)の撮影中、主演の松たか子をポラロイドで撮り下ろした写真展(無料)を銀座で開いていた。(その他、写真に関してはまだ私の知らない沢山のエピソードがあると思われる)
「おれ(杉山)の見方というか、おれの中では、篠田の映像というのは半分スチルで見ているようなところがある。映画のフレームなんかも、ちょっとスチルっぽいよな。岩井(俊二)さんの「スワロウテイル」(平成8年公開)なんか、まるでスチルの世界のよう」
「そういうことでは、あいつの中にはスチルにくすぶっていたところがあったのかもしれない」
「だからさ、昇が48(歳)くらいから、燃えてたよな、相当燃えてたよ、写真に。ハッセル(ブラッド)2台買ったりしてさ。その頃の映画とリンクしていたかどうかはわからないけれど、(ムービーだけでなく)スチルもやりたかった篠田がいたんだ」
昇が48歳の頃といえば、2000年、平成12年のことになる。ちなみにこの年の7月に、「源氏物語・あさきゆめみし」(監督三枝健起)が公開になっているが、前作「死国」(監督長崎俊一)との間隔は1年半、次作「クロエ」(監督利重剛)との間隔はほぼ1年と共に大きく開いている。
そもそも映画とはカメラの前で演じられる世界であり、しかもそこに展開されるのは演出する監督の表現が大方の比重を占める。そして監督の意図するものを映像として具現化していくのが撮影の役割である。当然監督のそれよりも、アイデアや工夫によって、より以上の表現が撮影には可能な場合もあるだろう。しかし、どちらにせよ、監督あっての撮影(者)であることには変わりはない。
ならば、撮影兼監督として全ての表現者となりえるという意味でスチルにこだわっていたのであろうか。
篠田と親しかった長澤雅彦もこの頃、篠田がかなり本格的に写真(スチル)を始めていたことを裏付ける。
「仲間由紀恵さんのお芝居がありまして、ぼくはアート・ディレクターで、宣伝美術もやることになったんです。ポスターのデザインなんかも。篠田さんはハッセルブラッドでスチル撮り始めていたから、やってよって声をかけたんです。
大きな木の下で、木に寄り添っている仲間由紀恵を撮る設定で、茨城の神社の境内に撮影に行ったんですが、あいにく雨が降ってきた。でもこの日しかスケジュールがない。やろうと。そしたら、いきなりクレーンですよ、篠田さん。クレーンでガガガーって上がっていって、映画用のライトがバンバン点いて照明始めてライティングして。で今度はレール敷いてドリー乗せて、ドリーの上に乗って動きながら、バシッバシッバシッ。
スチルの撮影ですよ、こっちは普通にカメラ構えてレフ板とか立てて、自分で歩いて動いてバチッなんて思ってましたから。ぼくはお金の面も管理していたので、たまらないなって思ってました。映画ではそれなりに慣れてきてましたけど、スチルもかよって、驚きましたね。いやー、びっくりしました」
「でも、現像も自分でやって、素晴らしいカラー(作品)になりました」
「ハッセルブラッドに、映画のいわゆる70㎜のムービー・フィルムを詰め替えて、普段自分が映画で使っているフィルムですよね。まるで呼吸するようにカメラが動いて、フィルムに写し撮られる寸前まで、最高のアングル、最高の瞬間を探しながら見ている。少しでも止まったら息ができなくなってしまうみたいな。動く被写体に対しても、動かない被写体に対しても、常に動いていることで、瞬間瞬間を切り取っていったんじゃないですかね。それが映画だけじゃなくて、スチルも。人間だけじゃなくて単なるビルディングの撮影でも、ね。土門拳が「仏像は一瞬一瞬で動いているんだ」っていうことを言っていましたけれど、それと一緒でしょうね。被写体がたとえ物であっても生命を持っていて、一瞬一瞬で動いているという感覚がきっと篠田さんの中にはあったんでしょうね」
長澤の言葉には、映画もスチルも変わらない世界観を持つカメラマン篠田がいる。大林宣彦監督もこんなことを言っていた。『映画というものは、一コマ一コマの積み重ねなんですね』と。
確かに昇にとってはムービーもスチルも分け隔てない感覚なのかもしれない。が、素人の私にとっては、同じ撮影といえども、どうしてもムービーとスチルは違うもののように思えてならない。だから、何ゆえ48歳にしてスチルへの偏りを持ち始めたのか、という疑問が付きまとい、はっきりさせたい欲求にかられる。
《昇は撮られることが好きだった。そして被写体としての昇はいつもカメラを意識していた。常にカメラ目線で、おどけたり、作り笑いをしたり、はにかんだり、そして構えていて決して自然体で写っていることはなかった。彼の作品のメイキングを見てもそう思われるシーン(一瞬ではあるが)が多いことに気付く。しかし、その姿はいかにも楽しそうである。
映画に被写体のカメラ目線はありえない。写真は被写体のカメラ目線が許される。それは時として撮影者やカメラの後ろ側の空気感までも包み込むことがあり、それを主題にすることだってできる。
私は今、昇の大好きだったビートルズの映画「マジカル・ミステリー・ツアー」を思い出している。
カメラの前後左右に関係なく、自由奔放に動き回るビートルズと出演者たち。カメラを見ようが見まいがおかまいなしの映像。しかもそこで繰り広げられる世界は、ばかばかしいほど壮大で美しい。そしてワクワクするほど楽しい。
きっと昇はそんな世界を撮りたかったのだろうか。
結論づけるつもりもないし、漠然とでもあるが、こうした私の知らない昇の一連の行動をたどっていくと、もっともっと遊びたかったに違いない、そんな思いがこみ上げてくる》
取材協力:篠田いづみ