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2007年08月 アーカイブ

2007年08月02日

take6 ひとり立ち

篠田昇を知る人ならば、だれもが認めるこだわり。このこだわりの美学は、大方、物に
対してである。そして、それは普通っぽいのだけれどどこかちょっと違う、あるいは他人
にはどうでもいいような、そんな些細なこだわり方だ。
この“些細な”ことが実は重要なキーワードだと私は考えている。こだわりはもちろん、些細な出
来事、些細な疑問、些細な発見・・・些細な何かに異様な興味を持っていたし、特別な驚
きを示し、そしてそれを楽しんでいた。それは他人とは違う何かなのだ。
そして、これはある面、性格や嗜好性へとつながっていく。

ここで昇の人柄の輪郭を私なりの記憶の断片で拾ってみた。
・昇は誰にでもやさしく接してはいたが、肌の合わない(嫌い)人間には、以後近づこう
とはしなかった。だから、傍からは嫌いな人間なんていないように見えた(のではないか)。
・子供を叱る昇を何回か見た。それは昇が車を運転していて、横から自転車に乗って飛び
出してきた子供に執拗にクラクションを鳴らしたり、わざわざ車を止めて車道で遊ぶ子供
たちに「こらー、そんなとこで遊んでると轢かれるぞ」と叫ぶものであった。そこまでし
なくてもと少し過剰な気がしたので、聞いてみると「(放っておくと)この次はあいつら、
死ぬことになるからさ」と答えた。
・自分の家(部屋)に人を泊めるのが好きなくせに、人(友人)の家に泊まるのは好きで
はなかった。自分の好きな様に作った場所に居心地を求めていたのだ。
・興味あることには得々と饒舌になり(この時、よくツバをこぼすことがあった)、人に
押し付けるきらいがあった。かといって、他人の好きなことに関知することはなかった。
・小説や漫画はあまり好きではなかったと思われる。私は昇がこの手の本を読んでいる姿
を見たことがなかった。
・冗談が好きで、特に自分の冗談に悦に入ることがあった。大学時代、なぜだか昇と岩城
と私は江古田から池袋に向かう午前の通勤ラッシュに遭遇したことがあった。吊り革に3
人は掴まり、いつものようにおしゃべりをしていた。池袋近くになった頃、信号待ちのた
め停車することが度々起こった。前にすわっていたおばさんが窓越しに「まったく遅いわ
ねぇ」と大きな独り言をあげた。すかさず昇は「この電車は西武(セーブ)だから、さ」。
数秒の間があり、おばさん以下周囲の人たちの大爆笑が起こった。昇の顔はしてやったり
の得意顔になっていた。
・大学時代に後藤和夫とふたりで住もうと西武線沿線のアパート探しをしたが、昇は外観、
部屋の形や内装が気に入らないため、何件見ても決まらなかった。結局、ふたりの計画は
頓挫し、しばらくして昇は中野にアパートを見つける。
「他と非なるものを探すっていう感じだった。注文がものすごくうるさい。そんなもん、
絶対にないと思ったもの。だれの影響なんだろうね、昔でいうハイカラみたいな」
と後藤は言う。
・私や後藤和夫が好んだ性風俗には全く無関心であった。但し、ストリップは一緒に見た
ことがある。
・マージャンや競馬のような賭け事はしなかった。おいちょかぶやポーカーなんかをやっ
た記憶はあるが、特別熱くなることもなかった。パチンコはたまに神保町の人生劇場や江
古田でやっていた。これらは自分から進んでやることはなく、すべて誘われてやっていた。
・大好物はカレーライス、カツ丼、ハンバーグ、餃子、オムライス、豚肉しょうが焼き、
ソース焼きそば、スパゲティーナポリタンなど極めてオーソドックスな、しかも濃い味の
食べ物ばかり(昇の好物として有名な焼肉は、まだ私の知る範疇にはなかった)。
ある日、アメ横での買い物帰りに、世界にこの店にしかない絶品があると昇に連れていか
れたのは、アブアブの近くの奥まったところにある怪しげなレストランだった。その食べ
物の名は「西洋カツ丼」。なんてことはない、ドリアの上に玉子でとじたカツ煮が乗っかっ
ていた、かなりヘビーなものであった。
・キッチン・カロリーのように、キッチンと名の付く食堂が好みだった。理由は食べたい
ものがたくさんあるからだと。
・そういえば、缶詰にも詳しかった。

こうした他愛ないエピソードは、思い出そうと思えば次々に出てくる。
ついでながら、take2にて私は昇の金銭感覚(ケチ)について述べたが、これにまつ
わるおもしろい話が聞けた。
「篠田さんもぼく(長澤雅彦)も割りと暇だった時期がありまして、篠田さんは(Mさん
と別れた後)ひとり暮らしをしていて、練馬の田原電気という電気屋さんの二階に住んで
いました。いづみさんとは付き合いをしてた頃です。このアパートに週三日か四日は泊ま
っていましたね。仕事ないもんだから、篠田さんの白いベンツでプロダクションとかに冷
やかしに出かけた後、酒飲んで、泊まって、朝起きると腹減っているから弁当を買いに行
って、なぜかその時の弁当代はぼくが払っていました。篠田さんは味噌汁作って待ってる
んです」
「照明の中村(裕樹)と飲み屋で話したことがあった。昇って、いつも払わないんじゃな
いかって。やつら(昇と中村)いつも現場やっているじゃない。そうすると撮影終わると
撮影部や照明部のスタッフで風呂に行くのよ。そん時も昇は払わないんだって、中村は言
うのよ。ぼく(川上皓市)が覚えているのは、車。ガソリン入れるのに絶対満タン入れな
いんだよ。10リッターだけとか1000円だけとか。必ずちょっとしか入れないんだ」
なかなか笑えるエピソードだ。しかし、私を含めてだが、みんな何故見逃して済ませて
いたのだろうか。まるで直接、昇に忠告した人はいないみたいだ。

師匠川上皓市は、私がこの「カメラマン篠田昇の残したもの」で解明しようと考えてい
たある疑問を口にした。
「昇はこだわりがすごいじゃない。カメラにしても車にしても。だから映像に対しても絶
対彼なりのこだわりがあったはずなんだよ


1982年から川上皓市のチーフとして、東陽一監督「ザ・レイプ」「ジェラシー・ゲーム」
「セカンド・ラブ」
の撮影につく。
この撮影でサードについた根岸憲一は、
「右に出るものがいないくらい、名チーフでした。川上さんもすごい人なんですが、回り
を仕切って現場を動かすのは篠田さんでした。計算力もすごくて、川上さんでもわからな
かったくらいだったと思います。なにしろカメラマン以上のことを全部こなしてましたか
ら」
と昇の仕事ぶりを絶賛する。
「こういうことだよと一回決めたら、後はもう昇に任せていた。だから現場では監督とフ
レームのこととかに専念できた。どういう風に撮るとか(の撮影設計)は、相変わらず飲
みながら雑談含めて毎日しゃべっているわけですよ、本当に毎日。昇がチーフの頃は楽だ
ったね、何も心配しなくてよかったから」
カメラマン川上皓市の言葉からも信頼しきった関係が素直に見えてくる。

ところが、「セカンド・ラブ」の撮影中、川上皓市はチーフ篠田昇の手際に違和感を感じ
始めた。
「チーフの仕事っていうのは、キャメラマンが考えた光のバランスを、例えばキーライト
の強さとかをメーター上きちっと正確に測るのが仕事で、言われたようにしなくてならな
い。すべての決定はキャメラマンがして、チーフはそれに従うものなんだよ」
が、チーフ昇はある勝手な行動に出た。
「昇は自分で考えた露出をきっているのよ。ぼくには言われたようにやったと言っておい
て、ラッシュ見たら違うということがよく起こった。ぼくの考えと違うバランスできった
りしたカットが多々出てきた。要するに、昇は我慢しきれなくなって自分の表現をやりだ
したんだな。
その時は、何やっているんだお前、言うとおりにやれよ、って怒ったんだけれど・・・。
一方で昇の気持ちはわからないでもなかった。2年間で3本同じキャメラマンのチーフをや
るというのはかなり辛いことだしね、おもしろくもなんともないじゃない。ぼく自身CM
では随分チーフやったけど、劇映画では1本しかやってない。チーフ1本やればもう自分
の世界に行けるんだよ。だから、昇の気持ちがよーくわかった。チーフは何本もやるもん
じゃないというのが、ぼくの考えなんですよ」
そして、川上は続ける。
「でも、ぼくは困るわけさ。こっちの考えた画にあがらないと。光のバランスとかはキャ
メラマンの領域だからね。
で、ここまで来ちゃったんなら、チーフを卒業しなさい、と昇に話したわけだ。
昇は昇で、これまで川上から聞いてきた世界を否定して自分の世界を作ろうという意志が
あったね、かなりはっきりと」

こうして篠田昇はひとり立ちしていくわけだが、まずはテレビのドキュメンタリーもの
を手がけていく(詳細次回)。
そして翌年、「湾岸道路」(監督東陽一)の撮影で、カメラマン川上は再び篠田昇を呼ん
だ。
「2台カメラを使うときのBキャメラマンをやってもらった。その時は一応キャメラマンだ
から、結構うれしそうに撮っていたよ、生き生きしていたな」

昇が抜けた以降、川上皓市の撮影体制に大きな変化が生まれた。
「小林(達比古)や昇とかは考え方とかが一緒のところがあったと思う。だから、このシ
ーンはきちっと光が当たっているんじゃなくて落ち着いたいい調子にやってくれと頼むと、
はーい、渋くですね、ってやってくれる。ラッシュ見ても全然問題ない。そういうイメー
ジがちゃんと伝わりあっている関係だった。
ところが、そんな昇があんなことをしたから、また間違えられちゃ困るから、いちいちチ
ェックするようになっちゃった、ぼく自身が。露出測ってもいちいちチェック、あそこは
どうなっている、ここはどうなっていると細かいところまでいちいちチェック。だから、
昇から後の助手さんたちからはうるさいキャメラマンだと思われていた」

プロデューサーで映画監督でもある親友長澤雅彦は、かつてカメラマン篠田昇の撮影助
手論を聞いている。
「助手たちは、どうしても縦社会だから、上へ上へ上がっていきたいわけですよ。早くセ
カンド、チーフになりたい。篠田さんはサードでは早く機材覚えて、機材管理して、ま、
篠田さんの場合は自分で作った特機などの機材も多くあり、それを覚えるのも大変なんで
すけどね。で、それからセカンドになって、セカンドに長くいろ、セカンドをじっくりや
れって、言ってました。セカンドになってフォーカス送るようになって、そこが一番大事
で面白いとこなんだって。フォーカスを送る作業は違いがわからなければ送れないわけだ
し、実際に回しているカメラの横で、キャメラマンの意図を共有している映像を知る一番
のチャンス、勉強なんだ、と。そういう助手の立場は絶対にカメラマンになった時に役立
つから、と。自分自身の経験からそういうふうに言っているのだと思います。何でみんな
チーフになりたがるのか、チーフなんてカメラマンになってからでもやれる仕事なんだか
ら、チーフは1本2本やってカメラマンになればいい、のだとも言ってました。
しかし、篠田さんって、ものすごく個性的なカメラマンですし、カメラワークもそうです
よね。だから、いつまでも篠田さんのセカンドやっていると特殊なカメラマンなってしま
う心配とか、他のカメラマンについた方が自分のためになると思って、篠田さんから離れ
た助手は、ぼくが知っている限り2,3人はいましたけど。
篠田さんはこの件を、「いゃー、残念だ。意図をもってやっていることを理解してもらえな
いのは残念だ」と言っていましたね」

取材協力:篠田いづみ

2007年08月25日

take7 テレビ・ドキュメンタリー時代

1982年(昭和57年)から83年にかけて、師匠のカメラマン川上皓市のもとを離れ、独立
を図る篠田昇であったが、次なる本編(映画)の予定が入っていた訳でもなかった。
昇のカメラマンとしての最初の仕事はテレビのドキュメンタリーものだったと語るのは、
同じ川上から篠田と共に離れた撮影助手(当時)根岸憲一であった。
「東久留米市にあった養護施設を撮りました。それが篠田さんの最初のカメラマンとして
の仕事でした。ぼくは助手でつきました」
しかし、彼はその時の状況、内容についてははっきりと覚えていない。
私は昇から、当時こんな話を聞いた記憶がある。
「今さ、ドキュメンタリーを撮っててさ、車椅子に乗っている身体障害者の親父なんだけ
ど、これがすごく元気でおもしろい親父なんだよ。いろんなところに行って撮影するとい
うことで、今一番行きたいとこどこかって聞いたら何て言ったと思う。トルコ風呂(現在
のソープ)だってよ、ハハーアッ」
養護施設と身体障害者の話が別のものなのか同一のものか。どちらにせよ、具体的な番組
名等は不明のままである。
しかし、ドキュメンタリー番組は現在のようなビデオ撮影の場合、演出(ディレクター)、
演出助手(AD=アシスタント・ディレクター)、カメラマン、VE(ビデオ・エンジニア)
の4人がスタッフの基本構成になるが、根岸が撮影助手についたということは、まだフィ
ルムで撮影が行われていたことを物語る。

篠田昇は1983年(昭和58年)の後半、ドキュメンタリー・ジャパン(以下DJ)の番組
制作に関わることになる。昇をDJに誘ったのは、現在テレビ番組制作会社“えふぶんの
壱”の代表山口秀矢だった。
「大阪の学生時代には、2800本くらい映画は見てました。映画雑誌で「竜馬暗殺」のスタ
ッフ募集をしていたんですよ。ぼくは坂本竜馬の大ファンだったし、卒業して東京に来て
て、ぶらぶらしている頃だったから、そこに電話して。夜、新宿の“ゴールデン・ゲイト”
で黒木(和雄監督)さんと面接っていうか会うことになって・・・」
こうして山口は映画「竜馬暗殺」の製作進行の助手として、製作進行チーフ岩城信行の下
で働くことになった。
「それはもう過酷な現場でした。ぼくは映画はたくさん見ているけど、竜馬のことは人一
倍知っているけど、映画の現場は何一つ知らない。篠田昇とは同年代で同じ最下層のスタ
ッフ、下っ端同士でね、気が合って。昇は撮影機材車を、ぼくは美術品を積んだトラック
をお互い運転してました。
家帰ったら遅刻してしまうので、その日の現場が終わったら、次の日の朝の現場に行って、
トラックの中で寝る。そんな過酷な3カ月でしたね」

新宿“ゴールデン・ゲイト”、今はもう伝説の店。そこは篠田昇にとっても青春という時間
を共有していた忘れがたい場所のひとつだったと思う。それは山口も私も同様であった。
新宿歌舞伎町裏にあった“ゴールデン・ゲイト”は半螺旋の階段を下りた地下一階、50畳
ほどのだだっ広い飲み屋だった。前のキャバレーの居抜きのため、黒の内装、赤い絨毯、
豪華なシャンデリア、クッションのきいたソファーなどがそのままになっていた。ゴール
デン街の小ぢんまりとしたたたずまいとは全く違う趣きであり、“おみっちゃん”というい
つもジーパン姿のママがしきり、山下洋輔や三上寛など常連客によるミニ・コンサートの
ようなものもたまに開かれていた。いつもの店内には、和製のロックやポップス、フォー
クが流れ、ボトル(ホワイト)があればいつまでも飲み続けていられ、出入りも自由であ
った。
ここの「愛情カレーライス」なるものをよく食べていたという山口は、
「店に入ると階段の途中で小林達比古さんが吐いて寝ている、血だらけのやつとすれ違う、
そういう破廉恥でエネルギッシュなところでした。
朝5時半に店が閉まるんですよ。回りの席は全部ソファー、ですから寝れるんです。ぼく
は自分のボトルに歯ブラシを付けてましたから。そこにいれば間違いなく(店の人に)5時
半には起こしてもらえる。で、洗面所で歯を磨いて現場に出かけていきました」

「竜馬暗殺」終了直後、山口は黒木和雄監督に「君は面接の時に歴史が好きだって言って
たな。すぐ来なさい」と電話で呼ばれる。
「TBSの日曜の朝のテレビ番組で「歴史はここに始まる」っていうのがありまして、大
人向けの歴史ドキュメンタリーですね。篠田正浩や実相寺昭雄とか錚々たる映画監督さん
たちが何本かに分けて撮ったものだったのですが、ぼくは黒木さんの助監督に抜擢された
んです、いきなり。この頃黒木さんは「竜馬暗殺」に全力投球されすぎて若干腑抜け状態
で、だからぼくが結構勉強してアイデア出して、重宝がられたんですね」
この後、山口秀矢は脚本を手がけ、黒木和雄監督作品「祭りの準備」の次回作やATG映
画の候補作にもあがったが、時代の変化やATGの倒産等により、映画化が実現すること
はなかった。
こうした憂き目の中、設立直後のドキュメンタリー・ジャパンにディレクターとして参加
する。山口は、自分の演出する番組に、「竜馬暗殺」以後、友人付き合いをしていた篠田昇
を起用した。

83年(昭和58年)に、山口秀矢演出の「ザ・ドキュメント 来日!ちびっこレゲエ」(フ
ジテレビ・7月放送)、同じく「ザ・アジア学生滞日記」(8月放送)、「ドカベン香川危機一
髪」
(10月放送)と立て続けに3本を撮る。ちなみに、DJ作品はすべてビデオで撮影され
た。
「最初の「ちびっこレゲエ」の頃は、手持ち撮影が下手くそでしたね。人間って、ほめら
れて上手になるやつとけなされて上手になるやつと二通りあるでしょ。最初、手持ちのぐ
らぐら感に文句言っていたけれど、それよりかいいところをほめていった方があいつはど
んどんと日々上手くなっていくことに気が付きまして、それからはほめまくりましたよ。
ぼくが昇をほめまくるもんだから、他のディレクターたちがすごいすごいって使い始めた。
けれども、あいつのすごいとこは光の取り入れ方なんですよ。ある人物をインタビューし
てるとするでしょ、被写体よりも背景の光とかに気が行くんだよ、昇は、そういうやつな
の。被写体はぼくが気にしていればいいんだ、みたいな感じで。インタビューを撮るとい
うよりも(まるで映画を撮るように)画角と光を計算して撮っていた。
例えば「ちびっこレゲエ」で、ミュージカル・ユース(イギリスの小中学生からなるレゲ
エ・バンド。ヒット曲「バス・ザ・ダッチー」など)のメンバーひとりひとりのショート・
インタビューを撮ろうとぼくが言ったら、昇はAD(アシスタント・ディレクター)に注
文して、でかい色紙買ってこさせ、ひとりひとりの背景を、赤とか青とか黄色とか緑とか
手間隙かけて撮って、えらく時間がかかったんです。向こうのマネージャーが怒っていて
も、あいつは平気で色紙貼り代えていましたよ。それで、照明を人物の顔に当てないで、
色紙にライト当てて、後ろから逆ライトにして、輪郭がふわーっとにじんで出て、バック
の色がぱちーんと見える、そんな独特のインタビューの撮り方をしてました。今で見たら
普通なんでしょうが、当時としては、新しい手法っていうか、どういうムードでいくか、
一個一個映像を工夫しながら撮っていくのが集積されていくから、不思議な、今まで見た
ことのないような映像が生まれた。
カメラマンというのは、照明がわかっていないとダメなんです。いいなと思うカメラマン
はみんな照明が上手ですよ。(映画での)照明スタッフも結局カメラマンの指示なんですか
ら。それにしても昇は照明が上手かったな。
それとフォグを使いました。当時はまだなかったですよ、フォグ使うドキュメンタリーな
んて。霧ですよ霧、逆光にいくとパァーって光がすっ飛びますよね。こんなミュージック・
クリップみたいな撮り方、いっぱいしたんですよ」

良し悪しは別にして、従来のドキュメンタリーの概念にとらわれず、というよりは分野に
関係なく、新しい映像、おもしろい映像を作り出そうとする篠田昇カメラマンの意欲。し
かし、それは私には漠然とながら、“みんなをびっくりさせてやろう”とする遊び心のような意図があるよ
うにも感じられるのだが。
ま、彼の、メインである被写体よりもその背景(の光)に目が行く、という映像の捉え方
は、今後の大きな課題になることは間違いない。

篠田に頼まれて色紙を買いに行かされたADが、当時27歳、篠田より4つ年下の河口歳彦
(現在DJプロデューサー)であった。
「篠田さんはDJの仕事に6年間に10数本関わっているのですが、メイン・カメラマンと
しては、83年に3本、84年に1本、あと年に1本くらいで、88年のTBS「新世界紀行 
行ってみたいカリブ 南の楽園の島々」
、これは長谷川和彦(映画監督)さんが演出なんで
すが、これが最後だと思います。ぼくの師匠は山口秀矢さんだったので、このあたりの作
品はほとんど篠田さんと一緒にやっていました。本当に楽しいロケの毎日でした。
「ザ・アジア学生滞日記」の時、韓国や中国、タイ、インドネシアなどの国々の22歳くら
いの学生たちが短期留学に来て、東京でホームステイしたり、浅草や首相官邸に行ったり、
それを追いかけていたんです。ロケの最後は京都のホテルでのさよならパーティーだった
んですが、その日、東京から飛行機で向かうはずが台風で飛ばない。車飛ばして京都まで
行きました。そこで、ぼくらも(彼らのために)何かしなくちゃならない、で、山口さん
と篠田さんのギター、篠田さんはサウスポーで、ぼくはボーカルで「レット・イット・ビ
ー」を合唱したんです。大うけでした。
篠田さんは結構身体が硬かったですね。運転してる時も首が回らなかった。後ろを見る時
は身体と一緒に首を回していた。篠田さんは運転が上手い、上手いけれど、大丈夫なのか
なっていう不安がありましたね。それとドキュメンタリーって、カメラ・ワークなんかも特
殊だから、そういう意味ではドキュメンタリー向きではないのかなって。この頃はまだ三
脚もよく使っていて、山口さんがあれ撮れこれ撮れって、手練手管で指示していたように
思います。(山口さんと)友達関係だったから、やり合うこともありましたし。
でもそれなりに味がありました。「ちびっこレゲエ」の長いラスト・シーンなんか感情が入
った撮り方をしている(日本の中学生レゲエ・ミュージシャン“PJ”が彼らとの別れを
惜しむ飛行場でのシーン)。このあと、どんどん(1シーン)1カットの世界に入っていく
んですけどね。
篠田さんがその頃くれたのが「中村あゆみ」のミュージック・ビデオ(篠田撮影による)
で、見たらそれがものすごかった。日比谷公会堂の周りとか勝鬨橋をロケしてて、1シーン
1カットで。照明とかもかなり凝っていてすごい。こんな映像、ぼくの知らない世界でした
から、驚きました」
*中村あゆみ 1984年デビュー。DJ河口によると代表曲「翼の折れたエンジェル」が入っ
ていたということから、85年もしくはそれ以降のMV作品か。

二人の話から察すると、DJが制作するテレビ・ドキュメンタリー番組を撮る前からか、
もしくは並行しながら、昇はミュージック・ビデオ(クリップ)も手がけていたことがわ
かる。(私はこの辺りのことを全く知らない)

同じくDJのディレクター山口恒治は、昇より7つ年下である。
「87年(昭和62年)の「清原クンと桑田クンPart2」(テレビ東京)の夏の3ヵ月間、
桑田(プロ野球巨人)を篠田さんと追いかけてて、その時ずっと一緒でした。大阪、九州
にも行きました。篠田さんの2ドアでサンルーフ付きのクリーム色のベンツ、よく乗せて
もらいましたし、仕事にも使わさせてもらいました。それ乗って、後楽園に行った時、選
手の入り待ちをしているファンの女の子たちがいて、その間をベンツがすぅーって入って
いく。みんな追いかけてくるんですよ。だれが乗っているか、わからないから。ベンツを
止めて、篠田さんが降りると、みんな、なーんだと言ってがっかり。篠田さんはそれを楽
しんでましたね。
確かあの頃じゃないかな、岩井(俊二)くんが出てきて、音楽のプロモーション・ビデオ
を撮り始めた頃だったと思う。篠田さんは音楽のプロモ・ビデオでおもしろいのを撮るや
つがいてね、って話をしてました。付き合いはこの頃から合ったみたいですね」


先の山口秀矢は、篠田昇の葬式の日に配られたDVDを未だに見ることはできないでいる。
「ちびっこレゲエ」の仕上げが終わると、番組プロデューサーでDJの河村社長がむちゃ
くちゃ高い評価をしてくれたんですよ。それで盛り上がって二人で飲みにいって、帰ろう
かなって思っていたら、(昇が)“帰したくない、もっとこの幸福感を持続しようよ”って
感じで、(家に)泊まりに来いっていうことになった。それが初めて中村橋の家に行った時
のことです。昇と一緒にいたこの時間は一生忘れられませんよ」

篠田昇が撮影した「宇宙の法則」(井筒和幸監督)、「グッドモーニング」(中原京平監督)
が公開された1990年(平成2年)に、山口秀矢はテレビ番組制作会社“えふぶんの壱”を
設立する。そこでの篠田の第一回作品が「東京ディズニーランド・タッチザファンタジー」(富
永一監督)だ。
「設立してすぐに入った仕事で、JALからの依頼の、機内に流すプロモーション・ビデ
オなんですよ、20分くらいかな。昇はディズニーランドの外側から、クレーン使って、ぐ
わーって中に入っていく。異常な金の掛かり方なんですが、まっ、いいかっていう感じで
いたら、大赤字になってしまった。設立して即大赤字。でも素晴らしい作品に仕上がって、
いいのを作ってくれたっていうんで、その後仕事はずっと来てましたけど」


取材協力:篠田いづみ

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