take4 結婚と下積み時代
映画「ハードボイルド・ハネムーン」で次なるステップ・アップを図っていた私たちは想像以上の苦戦を強いられた。マスコミには登場したものの、自主上映の成績は芳しくなかった。先行きは暗かった。
グループ・ポジポジの事務局を六本木に設置したが、それは私が自分の都合で実家を出た際の住処と兼用でしかなかった。これからどうするか、それぞれの課題となった。
私は生活のため、アクセサリーの制作と販売のアルバイトを経て、銀座や浅草の路上アクセサリー屋に専念するようになった。
篠田昇は「竜馬暗殺」に続いて、黒木和雄監督作品「祭りの準備」(1975年、撮影鈴木達夫)の撮影に参加した。この頃、昇は私の転職に対して、「ホリ(私への愛称)は時間を無駄にしている。何であんなつまらないことをしているんだ。勉強してきた撮影の技術をもっと生かすべきだ。撮影助手の仕事だってあるのに…」と話していたという。
しかし当の私はといえば、職業カメラマンでというより、映画に携わることで食っていくことを真剣に模索していた時期だった。自分たちで好きなように撮っていける映画、それを上映して収益を生む、その構造をどのようにしたらできるのか、ということであった。
路上アクセサリー業の稼ぎは上々であり、収入のいい仕事にありつけたと内心喜んでいた。ただ先行きというか、映画への希望は全く皆無であった。
昭和51年10月、昇が24歳の時、都立白鴎高校の同級生であったMさんと結婚をする。
Mさんは中央大学文学部卒業後、サンリオに入社。意向すべき部署への転籍が得られぬまま、約1年後結婚を理由に退社する。要するにふたりの収入はほぼゼロでのスタートであった。それでも結婚しようとふたりは決めた。昇は結婚指輪は金蒲(ゴールド製の蒲鉾タイプ)に限るというこだわりを通した。
結婚式はとても質素であった。埼玉県三郷市自宅近所の神社で式をあげ、披露宴もその近くで行なった。後藤と岩城と私が、式や披露宴の模様を撮影し、宴にも参列したが、これが後に両家の些細な問題となった。ごくごく内輪だけでという約束の式に昇の友人たちがいたことを、昇は友人を呼ばなかったMさんの親族に対し、あくまで「撮影するために呼んだのです」と答えていた。
新居は東京練馬区貫井町、西武池袋線中村橋駅から徒歩5分。築15年の二階建てアパート一階北側角部屋であった。四畳半と六畳、それと四畳程度のキッチン2DK風呂付、家賃三万八千円。
「昇の収入は当てにはできない。私が働いていけば、月12万円くらいはなんとかなる。だから、4万円以下の家賃のところに決めたのです」とMさんは振り返る。
「最初はマシュルーム・カットで色の黒い変なおじさんみたいな印象でした。昇は陸上部にいたのですが、練習しないでいつも校庭の砂場でスコップで砂を掘ったり、ならしていました。陸上部の顧問が優秀な女性指導者でとても厳しかったのです。それで昇の髪を注意したのですが、昇は髪を切ろうしなかった。それで大会には出させてもらえなかったのです。
2年になると、昇は落語研究会にも籍を置きました。その落研に当時私と仲がよかった男の子がいて、彼を通して昇から交際の申し込みがありました。初めてのデートは銀座でした。私にとって男の子とデートするのは初めてのことなので、うれしくてうれしくてピンクのワンピースを新調しました。昇は(デートに)慣れているらしく、ビートルズのようにヘンリーネックのTシャツにジャケット、黒のネクタイをまいて来ました。私にはそれが似合ってないように思えておかしかった。映画を見て、フルーツパフェを食べて、雨が降ってきたら相合傘でリードしてくれて・・・。すごく昇のことを気に入りました。
それから、私たちはいつも部活が終わってから一緒に帰るようになりました。学校から上野公園を通り、私の家が日暮里なので、そこまでずっと歩いて。昇はまたそこから常磐線の三河島駅まで歩いて帰っていったんです、三郷まで。亀有駅からバスに乗って帰るんですが、亀有には昇の親友がいて、彼ともしょっちゅう会っていました。だから、昇は勉強する時間がありませんでした(笑)」
昇との連絡はまだ多くあった。私はその頃、路上アクセサリーの稼ぎがそれなりにあったため六本木から下北沢へと転居し家賃七万円の部屋を借りていた。8畳の和室と12畳のDK、一階建てのため小さな庭も付いていた。Mさんも含め、何回か自宅に呼び、下北沢の夜を楽しんだ。会うたびに昇は言った。中村橋に来いと。いいところだ、飯は食わせてあげると。私は奥さんに食わせてもらっている昇が自信をもって語ることがおかしかった。そしてありがたかった。
私に転機が訪れた。やくざな路上アクセサリーの世界から足を洗い、新たな職探しをし、小さな出版関連の編集プロダクションに就職した。協力してくれたのは後藤和夫だった。この頃、後藤は漫画原作者として人気の牛次郎事務所に入り、ゴーストライターとして働いていた。私の入った編集プロダクションのオーナーも牛次郎であった。
私は中村橋に引越すことにした。昇のアパートがあった貫井よりも大分奥にある向山という、中村橋の駅から徒歩20分ものところだった。家賃三万六千円、風呂付。しかし、この界隈のみ都市ガスではなくプロパンガス使用、周りは一面畑という辺鄙なところであった。
引越し祝いにと昇は自宅にあったタンスをくれた。国立の米軍払い下げの家具屋で買った高さ80センチの小さなタンスを昇はサンドペーパーで磨き、ニスを塗って使っていた。このタンスは一枚板でできているというのが昇の自慢であった。つまり合板ではないので滅茶苦茶重いのである。
その冬、私はアラジンの石油ストーブを買った。昇に報告した。夫婦ですぐにやってきた。これはいいやつだと、昇の品定めが始まった。灯油を入れ、初めてストーブに火をつけた。私たち三人はパンタの「マーラーズ・パーラー」をかけながら、ストーブの周りをインディアン・ダンスでぐるぐると回った。
この頃、中村橋駅近くに練馬区営のアスレチック・クラブが建設された。一階に器具を置いたトレーニング・センターと卓球やバレーボールなど球技が使えるようにした体育館のようなものがあり、練馬区民の使用料が200円であったため、利用者は多かった。
休日になると篠田夫妻とその施設に出向き、卓球やアスレチックをするのが恒例となった頃があった。昇も私もかなり暇な時期であった。
昇は収入の少ない小規模なCMを数だけは多く撮り続けていた。
「その頃、昇は川上(皓市)さんに付いて、テレビ東京でしか放送しない、16ミリ(フィルム)で撮る安いCMを撮っていた。おれ(岩城信行)との場合、川上さんと助手の昇、おれはCM演出家の黒島さんという人がいて、この人の演出助手をして、4人でよくCMを撮っていた、ナポリのアイスクリームとか。昇は大学の先輩だった住田(望)さんにもよく付いていた。」
ある休日の昼、私は昇のアパートに遊びにいった。入り口のドアの前に一人前の寿司桶がひとつ置かれていた。昇にそれとなく聞いた、何で一人前なんだ、と。昇は得意げに語った。実は住田さんが遊びにきて、一人前五千円の大トロをとったのだという。ふたりでそれを食べず眺めながら、これは美味そうだな、こっちの方が美味そうじゃないですか、と延々と酒を飲んでいたのだという。何とも貧しいながら、落研育ちの昇らしいやり方だなと笑ってしまった。
昇の公約どおり、夜アパートに食事に誘われることも多かった。ビールやワインを飲みながら、Mさんの作る料理をいただくのだが、毎度困惑することがあった。性格的に無愛想な私が黙々と料理を食べていると、昇は必ず口に出す言葉があった。「ホリ、どう。おいしいだろ」と必ず言うのだ。私は本当に美味しいと思わない限り、それを口にすることはない性格であることを昇はよく知っているにも関わらず。Mさんに対する心遣い、単純ではあるがこれが昇最高の持ち味なのだと思う。
「ホリ、絨毯欲しくないか」と昇から連絡があった。引越ししたばかりの私は、絨毯の一枚くらいは欲しかった。川上さんが絨毯をくれる、というのだが、昇は買ったばかりのがあるから私に使えといってくれたのである。昇の車で川上さんの家まで絨毯をとりにいった。昇も私もびっくりした。メイド・イン・イングランドの新品ものであったからだ。帰りの車中が大変であった。昇が「うちの絨毯と交換しろ」と言い始めた。
昇からもらったタンス、川上さんからもらった絨毯、今も大切に使用している。
取材協力:篠田いづみ