take3 初めてのプロの現場
《平成16年6月、昇の葬儀は私の想像以上に盛大であった。
そして、彼を偲ぶ人々の数に正直驚いた。驚きついでに言わせてもらえば、葬儀に関わった裏方のスタッフの数に、さらに驚かされた。こんなにも大勢の人が昇のために集まったのか。
昇はまだ若かった。
けれど、スタッフは昇よりも一回りも二回りも若い人たちばかりだった。慕われていたんだな。師匠としてだったのか、それとも兄貴のようであったのか、父親のような存在であったのか・・・(それはこれからゆっくりと紐解いていくことにする)。
晩年を含めて、篠田昇と付き合いの深かった長澤雅彦(「夜のピクニック」監督・脚本。彼は昇のことを“篠田さん”と呼ぶ。「Love Letter」他岩井俊二監督作品のプロデューサーとして、「Short
Cakes」等自身の監督作として、昇と多くの関わりを持つ。長澤氏による回想録は改めて報
告する)によると、葬儀の模様をDVDにまとめる作業の中、エンド・クレジットに篠田
のために集まったスタッフの名を載せようと並べたその数、200名にも及んだそうである。
お通夜、告別式を通して、奇妙というか何とも解せない光景を目にした。
それは役者さんたちの姿だった。彼らがここにいること自体何も不思議なことではない。
が、お通夜の後の芝・増上寺での偲ぶ会にも、翌日の告別式にも列席している何人もの役者さんたちがいた。
私はその方面に関しては疎いのだが、とりわけ気になったのが、マスコミ嫌いとい
われる俳優たち、それと自分の子供と同じくらいの年齢の若い俳優たちであった。
なぜ彼らはマスコミがこぞって群がる格好の場所に、一度ならずとも二度三度と足を運
んでくるのだろうか。
もちろん、昇との永久の別れのために、生前の出会いを偲ぶためということは十分承知してはいるものの、何か釈然としない思いをいだいた。
解せない戸惑いはさらに膨らむ。
映画の撮影では表舞台に立つキャスト(俳優さんたち)と裏で支えるスタッフ(撮影、美術、録音等々)がおり、その中間に監督が互いに指示を出すという構造が通常である。役者たちは演技をするために、必然的に監督もしくは役者同士でのコンセンサスを多くとるはずだ。
その裏方であるカメラマンの昇がどのように役者たちと親密な関係を重ねることができたのだろうか。現場でのわずかな時間の中での彼らのやりとりはどのようなものであったのだろうか。
「花とアリス」に主演したふたりの若い女優が人目をはばからず号泣していた光景は今も忘れられない。
彼らの昇に対する尋常ではない慕い方を見て、私は普通の役者とカメラマンの関係では
ない何かを感じとらずにはいられなかった。》
昭和48年、大学3年の夏、私たちは映画学科課題の16ミリ作品を撮るために伊豆・赤
沢温泉に出かけた。この課題は監督コースと撮影録音コースの人間が互いに組み、1本の作
品に仕上げるもので、この伊豆ロケは監督・脚本岩城信行、撮影篠田昇チームの作品を撮
るためだった。タイトルは「夏の女」。私は役者として参加した。
翌昭和49年、昇は映画プロ・デビューの日を迎えることになる。この経緯については、
親友である岩城信行が大きく関わっていた。
岩城は俗に言う苦学生であった。入学当初から、朝はTBS(昇と私を誘ったテレビ番
組のエキストラなど)から夜は青山にあった高級スーパーマーケット“ユアーズ”、六本木
にあったディスコ“ズッケロ”などでバイトをしていた。当時、広告代理店マッキャンエ
リクソン博報堂にいた高平哲郎(後に放送作家)の仕切りによる業界のパーティーなどの
セッティングもしていた。
その彼が日大芸術学部映画学科に入学した理由として、映画が好きだったというのはご
く当たり前のことであり、高校時代から日活アクションを見まくり、とりわけ原田芳雄の
大ファンであった。
幡ヶ谷の木造アパートに彼は姉と同居していた。彼らは神奈川県平塚の出身で、姉はヒ
ルトンホテルで働いていた。そこをよく映画プロデューサーの奥田喜久丸が利用していた。
その頃、奥田は原田芳雄主演の「無宿人御子神の丈吉 黄昏に閃光が飛んだ」(1973・日活)
をプロデュースしており、それを聞きつけた岩城の姉が、奥田に「うちの弟が原田さんの
ファンで」と話したところ、会わしてくれるとの約束を取り付けた。大学2年になった岩
城はこうして原田芳雄の住む代々木上原駅前の和風喫茶店にて願いを叶えることになる。
それからしばらくして、再び姉から今度原田さんが主演する時代劇のスタッフを探してい
ることを聞きつける。大学3年の冬のことであった。
こうして岩城は「竜馬暗殺」(1974・監督黒木和雄)の製作進行のチーフとして晴れて参加することになったが、
春のクランク・インを前にして、ある日撮影部でサードを探していることを耳にした。す
かさず岩城は格好の人材がいると話し、大学の親友であった篠田昇を連れていったのであ
る。こうして揃った撮影部は、撮影田村正毅、チーフ川上皓市、セカンド小林達比古、そ
してサード篠田昇、今となっては錚々たる面子であった。
「竜馬暗殺」は東京祖師谷大蔵にあった醤油問屋の土蔵を、竜馬の潜伏場所のロケ・セッ
トと事務所代わりにして開始された。やがて撮影は京都へと移されていった。
製作進行をしていた岩城信行は当時のことを思い出す。
「昇はとにかく一生懸命さが評価されていた。いつも大事にカメラと三脚を抱えていた。
当たり前なんだけどね、サードの仕事だから。なにしろ初めてのプロの仕事だし、自分の
命よりも大事そうにしているみたいに、それが印象的だったね。それと忘れられないこと
があった。昇って几帳面だからミスも犯さなかった。田村さんにも川上さんにも小林さん
にも可愛がられていた。それがある日、ポカミスみたいなことがあった。ラッシュで(フ
ィルムに)傷が見つかったんだ。これ絶対サードの責任なのね。原因はわからずじまいだ
ったんだけれど、滅多にめげない大らかな性格の昇でも、ちょっと苦しそうな、辛い表情
をしていた時があった、現場で。あんな顔見たの、最初で最後だったな。」
「撮影が終わるとゴールデン街に直行、朝まで飲んで6時7時にロケ・セットに集合。こ
れが毎日だった。おれの場合、部署が違っていたんだけれど、川上さんに誘われて撮影部
といつも飲んでいた。」
昇も岩城も私も大学の卒業はあきらめていた。この頃、彼らと出会うのはいつも夜のゴ
ールデン街か歌舞伎町裏にあった“ゴールデンゲイト”だった。
ある日、昇の鼻に大きな絆創膏が張られていた。酔っ払ってゴミ箱を蹴ったら、前を歩
いていた撮影部の先輩に当たり、逆に殴られ、鼻の骨を折ったそうだ。
「(竜馬暗殺の)撮影中の時だったけれど、いつもの撮影部と一緒に飲んでいて、酔っ払っ
てゴールデン街の細い道を歩いていたら、出口にベンツが止まっていたんだ。邪魔で通れ
ない。昇が蹴ったんだな、ベンツを。そしたらヤクザがだれだぁーって降りてきた。すか
さず川上さんが「せぇーの」って言った瞬間みんなで一目散に走って逃げたことがあった。
酔っていたから、みんなもう心臓はバクバク、血反吐吐きそうだった。昇のせいでな。」
たったふたつの話で結びつけるのは強引かもしれないが、どうやらこの頃の昇は酔うと
蹴るくせがあったようだ。
昇は自身の言葉で、「竜馬暗殺」は仕上げまでやり、編集も付き合い、最後は黒木和雄監
督の運転手までやったと語っている。
「竜馬暗殺」の仕上げ直後に、昇は次の仕事、「鴎よ、きらめく海を見たか めぐり逢い」
(1975・ATG作品、監督吉田憲一、撮影大津幸四郎、主演高橋洋子、田中健)の撮影に入
る。昇はこの映画を非常に短期間でこなしている。それは、グループポジポジ作品「ハー
ドボイルド・ハネムーン」のロケハンやキャスティング等がこの年の6月頃から開始され
ていたからだ。
「ハードボイルド・ハネムーン」のシナリオは既に後藤和夫の手によって完成されていた。
~一丁の拳銃を手にしたことから、ハードボイルドの世界に魅せられる若きギャングたち
の物語~この映画はこれまでの私たち自主制作映画とは違い、ストーリー性を持った、か
なり大掛かりなものになりそうであった。後藤を中心に、昇、岩城、私とで行われた製作
プランでは、スポンサーを付けよう、資金カンパをしよう、立派なポスターやパンフレッ
トを作ろう、配役に有名人を使おう、カラーで撮ろう…これまでにない新しい試みとアイ
デアが次々と生まれていった。
監督後藤和夫、製作岩城信行、撮影は篠田昇と私が担当することになった。なぜ撮影が
ふたりなのかというと、私たちは配役としての役割もあったから、その負担を減らす考慮
からそうしたのである。
16ミリフィルム、全編オールカラーに決定した時、昇からアイデアが出た。それはイー
ストマン・コダックのフィルムを使おうということだった。日頃から研究熱心であった昇
と私は、写真(紙焼きやポジ)や8ミリ・フィルムに関して、当時のフィルム・メーカー
の色合いについて分析したことがあった。大まかにいうと、富士フィルムはやや青味がか
っている、小西六サクラ・カラーはやや赤味がかっている、これは日本の四季のせいでは
なかろうか。梅や桜、梅雨や夕立、夏休みの海水浴、祭り、温泉と紅葉、クリスマスや正
月の雪景色等、日本の季節の行事や祭事をうまく撮れるようにと各社が工夫した結果では
なかろうか。笑い話になるが、昇と私はこのことを日本独自の“わび”“さび”の問題にま
で発展させ論じていた。
その点、アメリカのイーストマン・コダックは至って簡単、明るい太陽の下での撮影を
主眼にしたというのが、(当時の)私たちの結論であった。この原色くっきりはっきりの世
界を表現するフィルムを使おうというのが昇のアイデアだった。最大の理由は、より洋画
っぽくしようという狙いであった。
おそらく16ミリ・オールカラーは当時の自主制作映画では初の試みであったろうが、そ
の上イーストマン・コダックのフィルム使用というのは更に駄目押しみたいなものであっ
た。
主人公は後藤和夫、その情婦に実際の彼の妻である後藤妙子。昇、岩城、私の3人は若
きギャングたち、そして老練ギャングに詩人の奥成達、漫画家の長谷邦夫を配した。音楽
中村誠一、ポスター及川正通、パンフレットTBデザイン研究所、ナレーション佐藤慶と
豪華な人々の協力を得た。
この頃、昇は愛用のカメラ“ニッカ”同様、お気に入りの品物を手に入れた。幅30セン
チ程度のソニーのポータブル・ステレオ・カセットデッキTC-2100Aであった。昇はこ
れをいつも持ち歩いていて何でも録音していた。
「ハードボイルド・ハネムーン」に関していえば、スケジュールの都合でどうしても夜中
から朝しか時間が作れなかった佐藤慶を後藤の自宅に招き、ドアや窓に目張りをした仮設
スタジオを作成した。佐藤慶は居間、私たちは台所を録音室にしたナレーション収録にこ
のデッキを使用した。用意が整い、「そろそろ行きましょうか、慶さん」と私たちは合図を
出した。幾分緊張していた私たちをほぐすためか、佐藤慶の第一声は、トリオ・ザ・パン
チで一世を風靡した内藤陳の「ハードボイルドだど」だった。
大活躍したのは直接映画作りとは関係のないロケの移動中だった。撮影での移動車は後
藤のコロナと昇のスバル360と最低でもこの2台、これに録音長谷川(昇と私の同級生で
あった長谷川潤)の車が加わって撮影することが多かった。移動中、昇たちがビートルズ
の歌とメッセージを吹き込み、信号待ちの時、後ろの車にデッキを手渡しするのだ。それ
を聞き、今度は私たちが吉田拓郎や井上陽水でお返しをしていく。これを繰り返した。長
い移動が楽しみになり、特に渋滞中の効果は絶大で、退屈な時間が解消された。
撮影は8月から、西荻窪を皮切りに、横田基地周辺、府中、国立、中野、本郷東大、世
田谷赤堤、三郷、熱川、千葉内房と約二ヶ月に及んだ。
ただ今「ハードボイルド・ハネムーン」撮影中
●この「ハードボイルド・ハネムーン」の映像には光(太陽)と影を意識して撮影された
箇所が出てくる。真夏での撮影ということもあり、撮影設計としてはまずは影をより黒く
しようと昇と了解していた。そのためにND等のフィルターを多用した。アリフレックス
のレンズの裏に、小さく円形に切って張ったフィルターはそれなりに高価なものであった
から、扱いは慎重に行なった。この時、昇がフィルターを喜んで使っていたことを覚えて
いる。
●絶対に入れない渋谷のNHK内でのゲリラ撮影を決行した。真夏の午前中、私たちはそ
こに入ったものの一発勝負と決めていた。ラスト近く、主人公の幻想のシーンであった。
老練ギャングに撃たれた主人公が、無機質な巨大な建物の壁に映る大きな影と光の中を行
き来する。昇の手持ち撮影全開の場面であった。
●若きギャングたちのアジトに、中野にあった昇のアパートを使った。昇は古き良きもの、
アンティーク的なものを好んでいた。元実家の部屋がそうであったように、この古いアパ
ートの一室もなかなか味のある木造作りであった。
●『だが、こうした卑しい街を一人の男が歩いていかねばならない。物語はこの男が隠さ
れた真実を探索する冒険譚だが、それは冒険にふさわしい男の身に起こるのでなければ、
冒険とは言えないであろう。彼のような男が大勢いれば、この世はきわめて安全で、しか
も生きがいがなくなるほど退屈でもないといった、そんな世界になることであろう』
ラスト・シーンは、主人公以下若きギャングたちの勇ましい姿がコンクリートの壁にく
っきりと影で映る数枚の写真映像に、上記の佐藤慶のナレーションがかぶさるものだった。
当初はストップ・モーションの予定であったこのシーンを、低感度フィルムで写真撮影を
し、シルエット写真の再撮をしようと提案したのは昇であった。くっきりとした人物の影
から流れる微妙な影の粒とコンクリート自体の質感を出すためであった。
昭和49年12月、完成した「ハードボイルド・ハネムーン」は、新宿安田生命ホール(当
時)を皮切りに、四谷公会堂、高円寺会館など都内各地で自主上映を行なった。
この頃、日本映画はある時代の変化に突入しようとしていた。これまでの自主制作映画
といえば、暗く難解で思想的観念的な私的映画か、地域に密着した地味なドキュメンタリ
ーであった。ところが、私たちグループ・ポジポジ作品のように長編オールカラーのドラ
マ、オリジナル音楽の使用といった、これまでにない志向性を持った自主制作映画が多く
登場し始めた時期でもあった。
東京では、「カレンダー・レクイエム黄色い銃声」(監督伴睦人)、「バイバイ・ラブ」(監
督藤沢勇夫)、「冒険者たち」(監督臼井高瀬)、「御巫(みかむなぎ)の頭のスープ」(監督
小林竜雄)など。大阪では、「暗くなるまで待てない!」(監督大森一樹)などが、ほぼ同
時期に出現した。
これらはそれぞれタイプは異なるものの、プロの俳優やタレントの起用、おかまの美女
が主人公等、非商業映画ながらストーリー性のある、よりエンターテインメント性を持っ
た映画ということで、“新人たちによる新しい映画の流れ”としてマスコミに取り上げられ
た。
そして、昇は「ハードボイルド・ハネムーン」上映のために大阪へ出向いた。そこで出
会うのが、当時私たちと同じく自主制作映画を作っていた井筒和幸であった。