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2007年01月 アーカイブ

2007年01月17日

take2 自主制作

《平成16年6月篠田昇の葬儀の後、篠田家親族製作(監督岩井俊二)によるDVD「シネマトグラファー篠田昇」という、彼の青春時代から今日までを写真で構成した・・・それはフランス映画の傑作「ラ・ジュテ」のオマージュのように・・・何とも悲しい作品をいただいた。
作品初頭の、ある一枚の写真を見て私は驚いた。慌ててリピートした。その映像は篠田
昇の日大芸術学部の受験票であり、そこには第一志望写真学科、第二志望映画学科と記
されていた。私は知らなかった。昇はそのことを語ったこともなかった。第一志望が映
画ではなく写真だったなんて…》


昭和47年秋。篠田昇が加わった新生映像制作集団グループポジポジは白黒16ミリフィ
ルム自主映画「合言葉」をクランク・インさせた。監督は私、篠田昇が撮影だった。
カメラは学校から借りたアリフレックス2台。その他レンズ、マガジンやバッテリー、
三脚等借りられるものはすべて借りまくった。撮影後も16ミリ用現像タンクや編集室、ア
フレコ・サウンドトラックの収録に使うスタジオも全てにわたって学校の施設を使わせて
もらった。
フィルムはアグファ・ゲバルトの白黒フィルムを学校から格安で購入した。
準備として昇と私は銀紙ホイルの裏側を反射面にしたレフ板を作った。そのままきれいに
張ったものやしわくちゃにして張ったもの、大きさを変えてなど数枚作った。
オール・ロケの撮影は、私の自宅がある東京赤羽西が丘、篠田昇の実家があった埼玉県
三郷市周辺、それに後藤和夫の自宅付近の目白は、洋館のたたずむ洒落た住宅地を中心に
行われた。
西が丘では、まだ国立サッカー場もできておらず、旧陸軍の兵器廠跡地は荒れ野原の状
態であり、三郷も武蔵野線の建設途上にあり、一面の畑の中に巨大な鉄骨が組まれた近代
建築物三郷駅はちょっとした近未来的な不思議な空間を醸し出していた。
これらを私たちは格好のロケ場所として利用した。


「合言葉」撮影中のいくつかの出来事
●明治神宮での撮影後、藪の中から2匹の犬の赤ちゃんを見つけた。まだへその緒をつけ
たままだった。一匹は既に死んでいた。生きていた一匹をタオルに包むと目白の後藤宅へ
急いだ。温くした牛乳をスポイトであげようとするが全く飲もうとする気配がない。へそ
の緒がついているからじゃないか、と昇が言った。私たちはへその緒を切ることにした。
へその緒の根元を糸で縛り、はさみで切った。血が出た。私たちは血を見て動揺し大騒ぎ
した。が、無事赤ちゃん犬はミルクを飲むようになった。

●移動車は、後藤和夫所有のコロナのオートマティック1台のみであったため、総勢最大9
名を乗せて移動することもあった。昇はこのオートマをえらく気に入って(当時はほとん
どの車がマニュアル操作だった)、左足をフロント台に乗せて運転していた。対向車のドラ
イバーがびっくりした顔になるものなら、大声を出して笑っていた。
当時、明治通りと表参道の交差点周辺は地下鉄千代田線の工事のため一面鉄板が敷き詰
められていた。冬の早朝、昇の運転するコロナのオートマティックはスタッフ7名を乗せ
(助手席2名、後部座席4名)、明治通りを渋谷方向に移動中であった。大交差点を渡ろう
とした時、コロナの後部が左右に揺れたかと思いきや、クルッと横に1回転、2回転して、
何事もなかったのごとく、そのまま渋谷に向かった。驚いた我々は昇がわざと仕掛けたも
のだと思っていた。助手席の私は笑いながら昇に声を掛けようとした。昇は顔面蒼白であ
った。

●昇の実家の近くに(といっても車で移動して)、地元で有名な餃子屋があった。餃子屋と
いっても、町外れの小さな食堂のような風情で、餃子の旗が2,3本立っているだけの店だっ
た。ここは地元のおばちゃんたち数名が割烹着姿で調理と客の応対をしていた。焼餃子一
品のみ、一皿6個200円。私たち撮影隊はいつも寄っていた。8名のスタッフで4~50皿
は食っていた。


「合言葉」の撮影は約4ヶ月あまりを要し、完成まで何と10数ヶ月もかかった。製作費数
十万円超低予算の自主制作としては、あまりにも長い時間である。これは作ることの意欲
と面白さを実感はしていたものの、冬休みが過ぎ、単位獲得のためお互い授業に出ていた
ことなど、映画制作に対する学生特有の気持ちと日程の甘さ、集中力への無知を物語って
いる。この時期、私と岩城は何と1週間も体育のスキー合宿に出かけていたこともあった。  
そんなルーズな状況の中、私たち日芸生とは別に社会人としての道を歩み始めていた後藤
和夫は、「お前たち、早く完成させろよ」と苛立ちを覚えていた。


大学時代のいくつかの出来事
●映画学科の授業の中で写真現像の基礎を学ぶため、いつでも地下の暗室を利用し、自由
に写真フィルムの現像、焼付け等を行える実習があった。引き伸ばし機や現像液、焼付け
用の液は使い放題、印画紙代だけが自己負担であった。ここで私と昇は出来うる限りの実
験に夢中になっていた。露光時間を変えたり、現像液の濃度を変えたり、現像液の中で印
画紙を揺らしたり、手で擦ってみたり…。私たち二人があまりにも暗室の中に入ったきり
なので、よく研究室の講師に注意をされた。
昇は御茶ノ水の中古カメラ屋で買ったライカの贋物“ニッカ”のカメラを愛用していた。
アメリカかぶれであった私たちだが、昇のそれは見事に一直線であった。アメ横はもち
ろんのこと、ドラッグ・ストアー、特に「アメリカン・ファーマシー」の名を耳にすると
どこにでも出かけていった。銀座のソニー・ビル地下二階にあった「ソニー・プラザ」で
物を漁っては、五階の日東紅茶専門店でミルクティーを飲むのが決まりになっていた。昇
はいつもミルクティーが運ばれてくると香りを楽しみ、「うーん、さすがリプトン!」とか
「さすがブルックボンド!」とこれらを口癖にしていた。

●私たちはよく元米軍基地のハウスに出かけた。成増、福生、入間、国立、飛田給、横田、
府中、座間、厚木…。米軍関係者独自の平家で、独身用、将校用、何人家族用と様々な作
りの違いはあったが、とにかく大きい、広いというのが最大の特徴だった。これが昇のア
メリカだった。取り壊されるのを待っている地域もあれば、借家にしている地域もあり、
私たちは横田にあった6LDKをとても気に入り、昇を含めた5人で借りようと盛り上がっ
たことがある。結局頓挫することになったが、この時、昇に割り当てられた10畳の部屋に
ついて彼は語っていた。
「でかいダブルベッドを部屋の真ん中にデーンと置いて、それで終わり」。
昇と私は、このハウス周辺で“アメリカっぽい”写真を沢山撮った。それは自分たちの
撮りたい素材というだけでなく、そのポジを売って金にしていた。青山通りと元テレ朝通
りの交差点にある中国飯店の隣のビル地下に六本木ディスコ“ズッケロ”があり、ここで
夜バイトしていた岩城信行が話をつけ、暗い店内に私たちのスライド写真を大量に流し続
けるようにしたのだ。

●昇は初めて自分の愛車を持った。中古の“スバル360”(フォルクスワーゲン・ビートル
タイプを真似た360CCの軽小型車)であった。グループポジポジの次回作「ハードボイルド・ハネムーン」で大活躍することとなる。

●大学の体育の授業では、運動場がないため、地下のアスレチック・ルームを使用するこ
とが多かった。この授業では、昇によるデモンストレーションが恒例になっていた。それ
は昇の力自慢だった。バーベルから器具を使った背筋力など、類まれなる力持ちを披露し、
みんなを驚かしては喜んでいた。


この時期の日記の中に面白い記述を見つけた。
「昭和48年5月25日  昇といると自分がケチでみじめになってくる。どうして昇は
金のことになるといやな人間になるのか。まるで自分中心の中で金全体が存在するような
錯覚になる。とてもいやだ。もっと友達のことや今彼が置かれている立場や雰囲気を考え
るべきだ。後藤(和夫)のために何かをしてやるべきじゃないんだろうか。」(原文まま)

この5月に後藤和夫は結婚式をあげた。勤めていた月刊誌“映画批評”の同僚と結婚前
から同棲しており、住まいは西荻窪駅前のマンションにあった。既に後藤は“映画批評”
編集長の座を断念し(この時点で、雑誌は終了となった)、生活のため運送会社で働いてい
た。これが実に高収入であり、私と昇と岩城の三人はいつも飯とか酒をご馳走になってい
たのだ。
しかも、同時に自主制作という自分たちの力で製作費を捻出しなければならない時期で
もあった。「合言葉」の製作ノートには、フィルム代をはじめ、プリント代、オプチカル処
理代からガソリン代にいたるまで、だれがいくら支払ったかを記入してあり、それを見る
と明らかに昇による入金が少ない。
こうしたことが総じて上記の私の感想になったのかもしれない。まあ、細かいことを気
にする私と正反対で大まかな昇の性格の違いとも言えるのだが。

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