私は、彼の事をずっと「のぼる」と呼んでいた。
私は高校3年の頃、当時8ミリ映画を作っていた5人の映研仲間と映像制作集団「グループポジポジ」を結成し、「天地衰弱説」を撮った。卒業直後、このメンバーたちと大島渚監督「東京戦争戦後秘話」に出演した。そのギャラで、初の16ミリ「天地衰弱説第二章」を撮り、前作「天地衰弱説」とともに、東京で自主上映を展開した。
しかし、自主上映は思うようにはいかずその難しさを痛感。半ば挫折感の中やがてメンバーとは疎遠になり、翌年の受験を迎えた。
日本大学芸術学部映画学科撮影録音コースに私と昇は同期で入学した。初めは仲のよい、気が合う、友達感覚の付き合いで始まった。ここに岩城信行という友人が加わる。彼は監督コースだったが、私たち3人は常に行動を共にした。なにをしてたかというと、朝はアルバイトでTBSの早朝番組「ヤング720(セブンツーオー)」に客として出演。それから学校へ出向き、授業を終えると新宿のトップスでソーセージとじゃがいもと紅茶で遅い昼めしを食いながら数時間過ごし、アメ横の仲屋商店に行っては入荷したリーバイスのジーパンをあさる毎日だった。
私の大学での主目的は自主制作映画を作るのにいかに金をかけないで済ませるか、ということだった。つまり、自主制作を、大学の授業の一環である課題制作と称して偽りながら、大学の機材や設備をできるだけ利用しようというものだった。
まだまだ映画を撮ることをあきらめてはいなかった。
そんな折り、私は独立プロ作品「空、見たか?」(田辺泰志監督)の撮影と照明スタッフとして参加する機会を得た。プロの撮影テクニック、 照明テクニックを目の当たりに学んだ喜びも大きかったが、ここでの収穫は何よりも「やっぱり映画がまた撮りたい」と私を奮起させたことだった。
撮影が終了し、東京に戻った私はグループポジポジのリーダー的存在であった後藤和夫に相談した。「もう一回、ぼくたちの映画を撮ろうよ」と。彼は即賛成してくれた。私が書いたシノプシスに、後藤が肉付けをし、 「合言葉」というシナリオを完成させた。しかし、昔のメンバーたちはそれぞれ大学へ進学し、勝手な道を歩いている。
私は、昇(と岩城)に声をかけた。
「一緒に、映画を作らないか?」
これが、昇との映画制作への出会いであり、始まりであった。
昇と私が大学1年、秋のことである。
| 「合言葉」撮影中のスタッフたち。左端にいるのが、若き日の篠田昇。もちろん撮影担当。このポーズは大好きだったビートルズの映画で見たポールかジョンの真似。首から下げているカメラは、ライカの贋物“ニッカ”。昇愛用のカメラであった。 | ![]() |
