私家版「記憶の残像」⑤~グループポジポジと大島渚
昭和44年の冬、映像制作集団“グループポジポジ”による8㎜映画「天地衰弱説」の撮影は、新宿御苑を拠点に進められた。
昭和44年の冬、映像制作集団“グループポジポジ”による8㎜映画「天地衰弱説」の撮影は、新宿御苑を拠点に進められた。
グループポジポジの『天地衰弱説第二章』(16mm映画白黒)は、各地から上映の引き合いがあった。
この頃、ぼくらが毎日のように通っていた飲み屋が、新宿歌舞伎町裏手にあった。
真上の2階には、日本舞踊のお師匠さんが住んでいた。30代後半くらいか、このお師匠さんが、毎晩“何”してうるさいのだ。
路上アクセサリーを廃業しよう決意したぼくは、仕事を続けながら自分に向いた職業はなんなのかを模索していた。
映画「花とアリス」(岩井俊二監督)や「世界の中心で、愛をさけぶ」(行定勲監督)を撮り終えて、平成16年6月、カメラマン篠田昇は他界した。撮り終えて、という言葉はむなしさを感じるとともに、彼を表現する言葉としては正しくないような気がする。それは、ひとつの映画の始まりと終わりが一体どこにあるのか、多分そんなものありゃしない、ということを私が知っているからかもしれない。だからまだまだ撮り終えてなんかいないぜ、という彼の思惑が聞こえてくるような気がする。
また出版編集という仕事柄、彼の噂を耳にする機会もそれなりにあった。現像所泣かせの篠田、機材屋泣かせの篠田、映画番長と呼ばれていた篠田、いつしか「光のマエストロ」とも称されていた等々。
これらの噂の輪郭が、突然の葬式の日の彼を慕う心優しき人々の話ではっきりとした。本当だったんだ。
昇、君は一体どんな素晴らしいことをやってきたんだ。また、やろうとしていたんだ。
私は、彼の事をずっと「のぼる」と呼んでいた。
私の大学での主目的は自主制作映画を作るのにいかに金をかけないで済ませるか、ということだった。つまり、自主制作を、大学の授業の一環である課題制作と称して偽りながら、大学の機材や設備をできるだけ利用しようというものだった。
まだまだ映画を撮ることをあきらめてはいなかった。
撮影が終了し、東京に戻った私はグループポジポジのリーダー的存在であった後藤和夫に相談した。「もう一回、ぼくたちの映画を撮ろうよ」と。彼は即賛成してくれた。私が書いたシノプシスに、後藤が肉付けをし、 「合言葉」というシナリオを完成させた。しかし、昔のメンバーたちはそれぞれ大学へ進学し、勝手な道を歩いている。
私は、昇(と岩城)に声をかけた。
「一緒に、映画を作らないか?」
これが、昇との映画制作への出会いであり、始まりであった。
昇と私が大学1年、秋のことである。
| 「合言葉」撮影中のスタッフたち。左端にいるのが、若き日の篠田昇。もちろん撮影担当。このポーズは大好きだったビートルズの映画で見たポールかジョンの真似。首から下げているカメラは、ライカの贋物“ニッカ”。昇愛用のカメラであった。 | ![]() |