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2006年09月 アーカイブ

2006年09月14日

私家版「記憶の残像」⑤~グループポジポジと大島渚

昭和44年の冬、映像制作集団“グループポジポジ”による8㎜映画「天地衰弱説」の撮影は、新宿御苑を拠点に進められた。

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2006年09月15日

私家版「記憶の残像」⑥~大学時代と自主制作映画「合言葉」

グループポジポジの『天地衰弱説第二章』(16mm映画白黒)は、各地から上映の引き合いがあった。

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2006年09月16日

私家版「記憶の残像」⑦~「ハードボイルド・ハネムーン」

この頃、ぼくらが毎日のように通っていた飲み屋が、新宿歌舞伎町裏手にあった。

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2006年09月17日

私家版「記憶の残像」⑧~路上アクセサリー

真上の2階には、日本舞踊のお師匠さんが住んでいた。30代後半くらいか、このお師匠さんが、毎晩“何”してうるさいのだ。

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2006年09月18日

私家版「記憶の残像」⑨~中村橋時代

路上アクセサリーを廃業しよう決意したぼくは、仕事を続けながら自分に向いた職業はなんなのかを模索していた。

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2006年09月19日

はじまり

映画「花とアリス」(岩井俊二監督)や「世界の中心で、愛をさけぶ」(行定勲監督)を撮り終えて、平成16年6月、カメラマン篠田昇は他界した。撮り終えて、という言葉はむなしさを感じるとともに、彼を表現する言葉としては正しくないような気がする。それは、ひとつの映画の始まりと終わりが一体どこにあるのか、多分そんなものありゃしない、ということを私が知っているからかもしれない。だからまだまだ撮り終えてなんかいないぜ、という彼の思惑が聞こえてくるような気がする。



たまに会っていた新宿の飲み屋で彼はよく撮り終えた映画、これから撮る映画の自慢話をした。自慢というと語弊があるかもしれないが、彼を知る人にとっては理解できるニュアンスだと思う。要するに、新しい撮影のアイディアを得々として語るのだ。それは今は一線を離れてしまったが彼と一緒に映画を作っていた私にとっては新鮮で興味深いものであり、楽しいひと時でもあった。


初めてメインカメラを回したエピソード。特別なクレーンを作ったCM撮影。デイライト・フィルム増感のおもしろさ。シネスコのカメラやレンズをアメリカのレンタル会社に借りにいったこと。この時、まだ日本の映画で使われたことのない事実に出くわした彼の喜び。そして、それからしばらくぶりに会った時「これからの映画はデジタルだぜ」と昇らしくない言葉を耳にした私の驚き。
なにぶん酒の席だったので、会話は次から次に別の話題に花を咲かせていった。

また出版編集という仕事柄、彼の噂を耳にする機会もそれなりにあった。現像所泣かせの篠田、機材屋泣かせの篠田、映画番長と呼ばれていた篠田、いつしか「光のマエストロ」とも称されていた等々。

これらの噂の輪郭が、突然の葬式の日の彼を慕う心優しき人々の話ではっきりとした。本当だったんだ。



昇は私の知らないところでたくさんのこと、いろいろなことに挑戦し、自身を高め、映画界に貢献していた。
だが、彼のこれからの活躍は残念ながらもうない。

昇、君は一体どんな素晴らしいことをやってきたんだ。また、やろうとしていたんだ。



私は、もっと篠田昇のことを知りたくなった。

take1 出会い

私は、彼の事をずっと「のぼる」と呼んでいた。



私は高校3年の頃、当時8ミリ映画を作っていた5人の映研仲間と映像制作集団「グループポジポジ」を結成し、「天地衰弱説」を撮った。卒業直後、このメンバーたちと大島渚監督「東京戦争戦後秘話」に出演した。そのギャラで、初の16ミリ「天地衰弱説第二章」を撮り、前作「天地衰弱説」とともに、東京で自主上映を展開した。
しかし、自主上映は思うようにはいかずその難しさを痛感。半ば挫折感の中やがてメンバーとは疎遠になり、翌年の受験を迎えた。


日本大学芸術学部映画学科撮影録音コースに私と昇は同期で入学した。初めは仲のよい、気が合う、友達感覚の付き合いで始まった。ここに岩城信行という友人が加わる。彼は監督コースだったが、私たち3人は常に行動を共にした。なにをしてたかというと、朝はアルバイトでTBSの早朝番組「ヤング720(セブンツーオー)」に客として出演。それから学校へ出向き、授業を終えると新宿のトップスでソーセージとじゃがいもと紅茶で遅い昼めしを食いながら数時間過ごし、アメ横の仲屋商店に行っては入荷したリーバイスのジーパンをあさる毎日だった。

私の大学での主目的は自主制作映画を作るのにいかに金をかけないで済ませるか、ということだった。つまり、自主制作を、大学の授業の一環である課題制作と称して偽りながら、大学の機材や設備をできるだけ利用しようというものだった。
まだまだ映画を撮ることをあきらめてはいなかった。



そんな折り、私は独立プロ作品「空、見たか?」(田辺泰志監督)の撮影と照明スタッフとして参加する機会を得た。プロの撮影テクニック、 照明テクニックを目の当たりに学んだ喜びも大きかったが、ここでの収穫は何よりも「やっぱり映画がまた撮りたい」と私を奮起させたことだった。

撮影が終了し、東京に戻った私はグループポジポジのリーダー的存在であった後藤和夫に相談した。「もう一回、ぼくたちの映画を撮ろうよ」と。彼は即賛成してくれた。私が書いたシノプシスに、後藤が肉付けをし、 「合言葉」というシナリオを完成させた。しかし、昔のメンバーたちはそれぞれ大学へ進学し、勝手な道を歩いている。

私は、昇(と岩城)に声をかけた。
「一緒に、映画を作らないか?」

これが、昇との映画制作への出会いであり、始まりであった。
昇と私が大学1年、秋のことである。






「合言葉」撮影中のスタッフたち。左端にいるのが、若き日の篠田昇。もちろん撮影担当。このポーズは大好きだったビートルズの映画で見たポールかジョンの真似。首から下げているカメラは、ライカの贋物“ニッカ”。昇愛用のカメラであった。

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