「ハードボイルド・ハネムーン」ダイジェスト版 公開中!


左より篠田昇、堀越一哉(筆者)、
岩城信行
(C)グループポジポジ
●今回、ダイジェスト版と題して映画「ハードボイルド・ハネムーン」から、いくつかの映像を抜粋してみた。スチル構成から始まるプロローグ。演技をしている昇、台詞や音がない部分は使用した音楽のせいである。昇の愛車スバル360。そしてそれとなく昇らしき撮影と見られるシーンも。ラストのシルエットは、凹凸のある壁に映った影を低感度フィルム(ASA32)で写真撮影し、それを再撮したものだ。

「ハードボイルド・ハネムーン」ダイジェスト版(6分15秒)  WMV版

(C)グループポジポジ


2009年06月24日

take30【番外編】死生観

昇は、自らものを語る人間ではなかった。

私は昇との付き合いの中で、彼の涙を一度も見たことがなかった。


映画「ハードボイルド・ハネムーン」を撮り終えて、しばらく経った頃、昇の父が亡くなった。
突然の事であった。
私は後藤和夫と岩城信行と後藤の愛車ボロナ(ボロいコロナ)で、三郷の実家に駆けつけた。1、2年前に新築された実家のだだっ広い一階に、昇の父は眠っていた。

昇の母が、亡くなった時の様子を説明してくれた。
いつものように工場での仕事が早めに終わり、近所の中川に投網をしに出掛けていった。家に帰ってくると、すごく疲れたと言い、ごろんと横になり、いびきをかきながら、そのまま亡くなったと淡々と話した。

不謹慎ではあるが、私はこの時、その様子を語る昇の母がまるで日常の立ち話のように語るのが不思議でならなかった。悲しいという感情がどこにも挿入されないのである。
もちろん、私たちの手前やなるたけ心配をさせない配慮だったのかもしれない。
そばにいた昇も、世間話でも聞いているように普段と変わりない笑顔を時折浮かべていた。

こうした篠田家の、もしくは昇に対するある種の違和感を、先妻であるMさんも感じとっていた。
「昇の家庭は、お父さんとお母さんがものすごく仲がよかったんです。
昇はよくふたりの仲がよい様子をうれしそうに話してくれました。

ある日突然、電話がかかってきて、お父さんが亡くなったと。
ふたりでタクシーに乗って三郷まで行きました。
死に目にも会えない、突然死んでしまった、50歳くらいの早すぎる死・・・、でも車の中で平然としているんですね、彼は。
もちろん、遺体を見たら泣いたりもしたんですけれど、葬式の時も泣いたんですけれど、お父さんのこと大好きだったから。
でも、ショックとか気落ちした気配がまるでないんです。
どうしてこんな平常心でいられるのか、不思議でなりませんでした」


Mさんはいわゆる文学少女であった。家庭環境等のいろいろな事情もあることだろうが、小説や映画に影響を受け、常に“死とは何か”を意識していた乙女であった。
そんな彼女が、働き盛りの昇のお父さんが突然死んでしまったことについて、昇と話すことは自然の成り行きだった。
「私は、なぜ今死ななくてはならないのか、お父さんの死が理不尽に思えて、そう考えると生きていくことってむなしいと彼に話しました。
そうしたら、昇はそんなことは考える必要がないって答えました。
そういうことを考えることはすごく愚かだとも言いました。
いつ死ぬかなんてだれにもわからない。生きていくことに意味があり、死ぬことを考えて生きていくこと自体がつまらないことなんだって。
そんなことを考えている時間があるのなら、毎日毎日楽しく、そんなことを考える余裕もないくらいに生きていけって。

この時、私は昇のことを、生きていくことや物事に悩まない人なんだ、私とは違う人間なんだなあと見ていました。


ところが、離婚して大分経ってから、私は肝臓を病んで、入退院を繰り返すようになった。
病室の隣りが集中治療室で、死ぬ間際の人が入ってきて、夜中になると遺族たちの泣き声が聞こえてくる。
同室のおばあさんは肝臓の末期癌で、死ぬという恐怖で全然眠ることができない。
そういうことをずっと見ていたの。
自分はすぐ死ぬことはないものの、どんどん悪化し、そうなれば死ぬだけだろうなと、かなり落ち込んでいました。
インターフェロンを投与すると熱が40度くらい出るんです。それで解熱剤で熱を下げて。こうやって肝臓のウイルスを撲滅していく治療なんです。
この時、やれることって、本を読むことくらいなんです。
姪や甥が本をもってきてくれました。昔の世界名作の本を。
それを読んでいるとなぜか気持ちが明るくなるんですね。
なぜなら、これって、みんないいことをする話だからなんですよ。
人間の悪いところなんか見ていないからなんですね」

そんな時、彼女は昇のことを思い出した。
一緒に暮らしていた頃、今日だれだれがどうしたとか、その人と楽しかったこと面白かったこと、必ず彼女に話してくれた昇のことを。
どんなにつまらないことでも、失敗であっても、その人が好きだということを踏まえて、面白おかしく話す昇のことを。
人を嫌ったり、憎んだりすることのない、あったとしてもそんなことはすぐに忘れてしまう昇。
そして、あの時の昇の言葉を思い出した。
生きられるなら、目一杯その日を生きていくことが意味あることだって、という言葉を。

「私は今、近所のおばさんおじさんたちと一生懸命に卓球をやっています。大会にも出場しています。
毎日毎日がとても楽しいと思えるようになりました」


昇のこうした死生観というか人生観というか、それに関する単純明快な言葉を耳にした者は、M
さんを含めてそうはいないと思われる。

篠田昇のこだわりも、こうした大きな土台があってこそ成り立っていたのだと考えると、彼の生きていた人生もまんざらでもなかったかと、私には少々安堵にも似た気持ちが芽生えてくるのだった。


取材協力:篠田いづみ

2009年04月29日

take29知らなかったいくつかの事

映画を中心にテレビCM、テレビドキュメンタリー、ポスター(スチル)、ミュージックビデオ・・・、篠田昇は多くの映像を残していったが、世間的に知られていないことも多いようだ(単に私が知らなかっただけのことなのかもしれないが・・・)。

そのひとつにテレビ・ドラマのタイトル・バックがある。
この件について、結構本数は撮った記憶はあるのだが、タイトルはもうあやふやになっていると福本淳は話す。
「TBSしかやってません。TBSのドラマです。
TBSには、ドラマのオープニング専門の松原さんという方がいて、TBS全ドラマのオープニングを担当しているんです。
基本的に撮るのは、番組を作っている制作会社なんですが、ぼくが撮ることもありました。
で、この松原さんはかなり映画が好きな人で、岩井監督絡みの篠田さんの映像がとても好きで、篠田さんと是非一緒にやりたいと、オファーしてきたんです。
通常オープニングの映像はビデオ撮影が多いのですが、篠田さんとやる時はフィルムでした。これは篠田さんがこだわっていました、フィルムで撮りたいと。
覚えているのは、「聖者の行進」(98年1月~3月放送。脚本野島伸司)とか「真夏のメリークリスマス」(2000年10月~12月放送)とかですかね。
ドラマって、年間4クールくらいはやってますので、その時、映画撮影の仕事が入ってなければ、年間4回くらいはやっていたことになります」


また、話はずっとさかのぼることになるが、福本によれば、篠田がまだ撮影助手時代に、CM制作を手掛けていた瀧沢正治という人物と出会っている。
瀧沢は東映のCM企画演出を経て、現在制作会社の代表として、東映のメイキングやCM、企業PV制作を行っている(本人未取材。私は遅蒔きながら取材しようと考えています)。
「昔、ジャッキー・チェンが三菱トラックのCMに出演したことがあって、ディレクションは瀧沢さんが、撮影は篠田さんがやりました。
瀧沢さんと篠田さんはその他一緒にCMをたくさんやっているのですが、瀧沢さんという方は、映画を非常に撮りたがっていた。
それで、30分くらいの自主映画を撮ったことがありました。
ぼくがチーフの時なんで、96年から98年の間のどこかだったと思います。
「蚊」という作品で、戦争中の特攻隊みたい人間が、敵地に洞穴を掘って、そこに潜むという、ワン・シチュエーションなんです。
撮影は二晩くらいで撮り終えました。
35ミリのフィルムで、フィルム・タイプは覚えてませんが、八分の一減感している作品で、ものすごくライトを使いましたね。
かなり、面白い作品でした」

瀧沢はその後、製作総指揮・監督として、映画「ベースボールキッズ」(2003年公開)を完成させ、2006年には、映画「瞽女goze」の総指揮・監督として製作発表を行っている。
実は、瀧沢はこの「ベースボールキッズ」の撮影を篠田に撮ってほしいと考えていたのだが、篠田の撮影スケジュールが合わず、実現はできなかった。


井筒和幸監督と「危ない話」(89年7月放送)を撮影していた同時期に、井筒と篠田は、「火山島にて~田島都」というタイトルのビデオ撮影で海外ロケを行っている。
これは、ビデオ制作・販売会社によるグラビア・アイドルたちの一連のソフト・ヌードのシリーズで、同年7月に発売された。定価が何と13200円だったから、まだセル主体であった当時のビデオ事情がうかがえてくる。

そして、しばらく後に、井筒監督とは、幻のビデオと呼ばれる作品を撮ることになる。
「過酷を極めた「PICNIC」の撮影が夜中に終了して、ぼく(福本淳)らは機材の整備をそのまま寝ないでやっていました。
そのビデオ作品の集合が、渋谷のパンテオンに朝の7時半なんです。
篠田さんは撮影終了後、一回家に帰られて。
ぼくは寝ぼけた状態で機材整備をしていたところ、タクシーに放り込まれて、そのままパンテオンに直行。着いたら、井筒組の助監督に引きずり降ろされ、ロケバスに乗せられて、現場に行きました。
現場には篠田さんがいたのですが、相当疲れた様子でした。
そうやって、3週間くらいかけて撮りましたので、ぼくにはかなり印象の強い作品なんです。
篠田さんがビデオでドラマを撮ったのは、これが初めてだったと思います」

そのビデオ作品のタイトルは、「神様のい・う・と・お・り」、94年に製作された。
明治生命(当時)の顧客に贈られる非売品ながら、荻野目洋子、東幹久、仲村トオル、古尾谷雅人と豪華なキャストであり、三つのラブ・ストーリーからなる2時間弱の大作であった。
ちなみに、この「神様のい・う・と・お・り」は、「ルナティックラブ」同様、ガンマ・オフでの体制で撮影され、以前テレビ・ドキュメンタリーで一緒に仕事をしたVE(ビデオ・エンジニア)が付いたと思われる。


取材協力:篠田いづみ


2009年03月10日

お知らせ

以前、本文にもお断りしましたが、
この私家版「記憶の残像」は、
編集プロダクションをやっていた時、会社のホームページの一環として、
私の映像経歴、それに伴う数々の出来事を綴ったもので、
特に私と篠田昇のことを語ったものではありません。

しかし、彼と過ごした数年の日々は忘れがたいものであり、
一緒に映画を撮った仲間として、部分的にではありますが、
彼との交流を描いております。

非常に長い文章になっておりますので、
篠田昇を記述した項の概略をお伝えします。
ピックアップの参考にしてください。

●私が映画を撮り始めた高校時代~⑤グループポジポジと大島渚
http://channel.slowtrain.org/shinoda/2006/09/post_7.html
●篠田昇との出会い~⑥大学時代と自主制作映画「合言葉」
http://channel.slowtrain.org/shinoda/2006/09/post_6.html
●昇の原点となった映画撮影~⑦「ハードボイルド・ハネムーン」
http://channel.slowtrain.org/shinoda/2006/09/post_5.html
●私と昇の分岐点~⑧路上アクセサリー
http://channel.slowtrain.org/shinoda/2006/03/post_4.html
●昇と過ごした日々~⑨中村橋時代
http://channel.slowtrain.org/shinoda/2006/09/post_2.htmll

2009年02月14日

take28岩井演出法と篠田撮影法との接点

テストにテストを重ねていった結果、基本的に感度50の2倍、もしくは4倍増感で撮影されることになった「undo」(1994年、監督岩井俊二)

その過酷だった当時の撮影状況を福本淳は回顧する。
「もともと4日間のスケジュールだったんです、「undo」は。
とにかく全力投球でやっていたものの、非常にきつく、多分予定どおりには終わらないだろうと、みんな何となく思っていました。
撮影3日目の夕方に、翌日のスケジュール表がスタッフに渡されたんですが、終了予定時刻が72時って書いてある。72時ということは、3日間続くということです。
この時点で2日間スケジュールが延びている。でも、そのくらいやらないと終わらない。
で、スケジュール表の下に、「大変な撮影になりますが、撮影のよきところで、4時間仮眠をとります」って書いてある。
帰れないということだな、なんて思いながら、みんなでやりました」

映画とは、とりわけ撮影は魔物である。寝なくとも食わなくとも撮影していくことが楽しい。現場にいることが至福の時なのである。これは私の実感であるとともに、映画撮影に携わったことがある人ならば、誰しもがそう思うことであろう。
篠田昇は誰よりもそのことを感じていた人物であったと思う。


「72時間きっかりだったかどうかはわかりませんが、それに近い時間で終わりました」
「セット撮影したのは、成城の東宝ビルドというスタジオで、このセットでやりきるはずだったのですが、これひとつだけでは(時間的に)無理だということで、別にもうひとつスタジオを借りたんです」
「山口(智子)さんが気が触れ始めて、いろいろなものを縛りだす、部屋中のものを。椅子とか、そういうものを縛ってオブジェ然としたものが部屋の真ん中にデーンとできるシーンもあって、その美術の仕込みに結構時間がかかるわけです。
その美術の仕込みをしている間に、もうひとつのスタジオで、部屋の一部だけのセットを作って撮影するんです。例えば、洗濯機とかを持って行って作って撮影する。
その間、メイン・セットの飾りやライティングを済ませておいて、戻って撮影する。それの繰り返しをずっとやってました」

そして、さらに過酷な状況へと追い討ちをかけたのが、カメラマン篠田昇のある提案だった。
「この「undo」っていう映画は、山口(智子)さんが躁鬱気味の役なんですが、その躁鬱の出方が、主人役の豊川(悦司)さんと一緒にいたいのにいれないことが多くなっていくと、どんどんと表に出てくる。
それが私を縛って、私を縛ってという形になり、実際、豊川さんが山口さんを縛り始めるんですけれど、これがほぼこの映画のクライマックスなんです」

その撮影を篠田は「減感しよう」と言い出した。

「普通ではありえない。
セット撮影で、感度50の減感で撮るということは、感度6で撮るということなんですね。これって、どう考えてもありえないんですよ。
だけど、篠田さんは照明部と長い時間相談して、ライティングを始めました。

山口さんが縛られているクライマックスのシーンでは、山口さんの1メートルくらい上に、ものすごく巨大なビニール膜が張られていて、山口さんのちょうど真上にライトがあるんです。
それが山口さんに対してのキー・ライトなんですが、露出を測りにいったチーフの喜多さんが、「真夏の太陽くらいに(露出計が)振れている」って驚いているんですね。

露出計というものは、外で測る時には、(光の量が多いので)黒いスライドを入れて測るものなんですが、セットになると、黒いスライドなんか絶対にはずすんです。
セットなのに黒いスライドを入れて測って、なおかつ、それが真夏の太陽くらいということは、今のこの現場は雲ひとつない晴天の時の明るさよりももっとあるということなんですね。
でも、それくらいでないと感度6では撮れないんですね」

セットという室内で、真夏の太陽下と同じ明るさとは、素人の自分には想像もつかない。
しかし、その小さな空間がまるで灼熱地獄のようであったろうくらいは思い描ける。
「山口さんは相当熱かったと思います。
昔のタングステンのライトではなかったので、タングステンほどは熱くないにしろ、さすがにそれは熱いと思います。
しかも、山口さんは縛られている役ですから、縛られてからは撮り終わるまで開放できないわけです。
8時間ずっと、その下に縛られたまま、ほとんど動かずにいたんですから」

こうした修羅場のような状況を経て、「undo」は1週間の撮影を終了した。

スケジュールといい、内容といい、この過酷な撮影状況を生み出す背景には、岩井の演出法とそれをサポートする篠田の撮影法とのベスト・マッチな関係が大いに関っていると、福本は述懐する。
「もともとスケジュールされていた「undo」の撮影4日間。これで撮ろうと思えば撮れる監督はいると思うのですが、出来上がりは岩井監督のそれとはかなり違うものになるでしょう。出来のいい悪いの話ではなく、映画を撮るという考え方が今とあの頃とではかなり違う。
篠田さんにしてみれば、撮影に入る前から4日間で撮るつもりはなかったんです。この分量を4日でこなすのは無理だ、そうわかっていながら、4日しかないのかもしれないが、ほとんど寝ないで撮るつもりでいたと思う。
このあたりが今の映画との現状の違いで、プロダクション自体の考え方も変わってきている。
今じゃスケジュールや時間を管理、スタッフキャストの動向まで計上された作り方をしているので、そういう意味では、岩井さんや篠田さんが撮っていた頃の現場の自由度は高かったんだと思います。
岩井さんも篠田さんももともとそういう制約なんか全然効かないタイプではあるんですが、それでも今よりは自由だったという気がします。
だから、ああいう作品が撮れたんではないでしょうか。今ではこんな撮り方、もうできないと思います」

では、岩井にとって、篠田にとって、その自由という意味は一体どんなことを指すのであろうか。
実はそれが岩井の演出法と篠田の撮影法の重要な関わり合いなのである。
「岩井監督はまず全体が見える画をひとつ撮ります。そこにはAとBという2人がいるとしたら、その次は同じ演技でAを中心に、次にもう1回Bを中心にと、最低限3回は撮ります。
4人いれば、4人それぞれを全部撮っていきます、必要とあらば。

岩井さんの感覚としては、編集素材がいっぱい欲しい。篠田さんは絶対寄りの画を撮りたい。これが篠田さんと岩井さんがうまくいった要因なんだとぼくは考えています。
篠田さんは引きの画は引きの画として撮るけれど、基本的に人に食らいついた画を撮りたい、寄りで撮りたいと思っている。
普通だったら、ここのところだけ、部分だけの寄りを撮ると思うんですが、岩井監督は演ずる役者のライブな感覚を大事にしたいので、それだったら部分だけじゃなく全部やろうよ、ということになる。
それが篠田さんにとって、望むところだったんですね。引きの画の後の2回目からは全部寄りで撮れるんですから。

普通といっていいのかわかりませんが、映画の作り方って、最終的な編集の構造を見据えた上で、必要なカットを撮っていくというのが、最も金銭的にも時間的にも合理的な撮り方じゃないですか。それがスタッフにも負担のかからないやり方なはずなんですが、例えば、2人のお芝居をトータルで撮るとします。
Aという役者を中心に撮りましょうということになった時、この人にピントを合わすわけですが、映っているのは2人だから、奥にいるもうひとりのBにピントがいくタイミングがどうしても生まれてくるんです。
ですが、編集の構造が見えていると、この画は使わないところだ、今ピントを触ってはいけない、というような撮り方になってくる。

ところが、岩井さんはライブに役者を動かして、ライブにカメラが動いて、ライブに今どこにピントを合わせて、どこを見せるか、というようなことも現場で選べる撮り方をしている。
普通のカメラマンであれば、ここは使わないよな、みたいな撮り方になるんでしょうが、篠田さんはこれも使えて、これも使えて、これも使えて、という全編通して使えるような撮り方をする。
そこのところが、岩井さんとすごく合っていたんじゃないのかなって思います」

全体を押さえる画を撮った後、繰り返される演技を撮る篠田の寄りの画は、すべてそのまま使える編集素材として、まさに岩井の映画作りにうってつけであったというわけだ。


さらに、岩井の映画作りを垣間見る過程の一部を、福本淳は続ける。
「この「PICNIC」(1996年、監督岩井俊二)で面白かったのは、撮影が始まってから毎日ラッシュを見るんです、前の日に撮ったものを、監督、篠田さんとチーフの喜多さんとぼく、プロデューサーの長澤さんとで。
そうするとどんどんと話が変わっていくんです。

岩井さんは本(脚本)を書かれて、コンテも書かれているんですが、だけど演じるのは生身の俳優さんたちで、その方たちのアプローチとかがあり、篠田さんの映像、例えば太陽光の角度とか、その辺のものがひとつの映像として、結果としてフィルムで見れるので、それを見ている岩井さんの中で、それ以降の映画の展開がどんどんどんどん変わっていったんです。

元の台本では3人で壁の果てまで行くことになっていた。
これが途中でひとり突然死ぬことになったり・・・する。
それはぼくにとって、とても刺激的で、すごいという印象でした」

こうして聞いていると、篠田(彼だけではないにしろ)の映像が、岩井のシナリオ作りにも影響を与えていることがよくわかる。

「最初の1週間は、外のシーンばかりだったので、それほど大変じゃなかったのですが、後半になるにつれ、外のシーンを撮ってから中のシーンを撮るというようにシフトしていくようになった。
そうしたら、「undo」状態に入っちゃったんです」
「撮影状況としたら、「undo」よりも、「PICNIC」のほうが相当ヘビーでした」
と、福本は付け加えた。


取材協力:篠田いづみ

2008年12月20日

take27異常なるフィルム・テスト

昇が「ルナティックラブ」(1994年フジ系放送)に関わっていた前後の頃だったと思う。テレビCMで非常に気になる映像が流れていた。
それは明石家さんまが出ていた缶コーヒーのCMで、そのダーク・グリーンがかったトーンの、落ち着いた、暗い、湿った感じの映像は、これまで見たことのないビデオ映像であった。不思議な感覚があった。
それを私は昇が撮ったものと勝手に勘違いし、昇と会った時にそのことを話したら彼は何も語ろうとしなかった。
多分、推測ではあるが、篠田自身が岩井と組んで、彼なりに模索していた時期だったのかもしれない。


さて、プロデューサーとして篠田と一緒に仕事を共にした長澤雅彦が、その関わり合いの中で一番頭を痛めたのは、テスト・フィルムの多さだった。
「常軌を逸してましたから、その量たるや。普通だったら現像所に、これはテストなんだからカウント(料金)しないでね、って頼めるんですが・・・。
「ものすごい量のテスト・フィルムがあがってますよ」とイマジカ(現像所)から電話があって行ってみると、本編よりもテストのフィルム代、現像代のほうが高く付くくらい回しているんですよ、篠田さんは。
カメラだって、普通はテストだから三和映材でパナビジョンとか出してくれるんですが、その回数が普通の映画撮影の時の比じゃない、もう勘弁してくれとか言われまして。
で、篠田さんにもう少し抑えてくれみたいなことは言っても、「ここでテストしておかないと現場でいっぱい時間がかかったりしたら、困るのはお前だよ」って返ってくる。
そりゃそうなんですけどね」

福本淳もテストで滅茶苦茶回す人だったと語る。
「ぼくがチーフだった「スワロウテイル」(1996年、監督岩井俊二)の時でした。
篠田さんしか頼まないような細かな機材とか作り物をするための材料を買うために、これだけの予算が必要であるとプロデューサーと交渉するのは、ぼくの役目だったんです。
電池何本必要だから、こんだけのお金をくださいみたいな話をプロデューサーとしていた時、テストの話になって、「まだ撮影が始まっていないのに、おれがイマジカ(現像所)と決めてきたフィルムの許容尺数の三分の二も回っているんだよ、テストだけで。一体どうなってるんだよ」って、言われた時はびっくりしましたね、返す言葉もありませんでした」

篠田昇は、「Director’s MAGAZINE」September2001号(クリーク・アンド・リバー社発行)で、そのテストについて語っている。
「僕はね、とにかくテストがすごく好きで、本格的な撮影に入る前に、まずテストをいっぱいやるんですよ。
フィルムの種類や現像の仕方を変えて、いろんなルックがつくれるじゃないですか。いつも50パターン以上はつくるでしょうか。
もちろんテストといっても、35ミリのフィルムを回すのですから、通常はお金がかかる。だから、僕は、35ミリや16ミリのカメラを自前で調達し、知り合いのコマーシャル会社などであまっていたり、使い切っていないフィルムをもらってきて、できるだけお金のかからないように工夫する。そうすれば誰にも文句を言われずに思い切りテストができますから。
撮影前に、数十種類のルックを監督といっしょに見ながら、今回の作品のメインはこのルックでいこう! とか、あの場面はこのルックで・・・と、話をしているうちに、どの監督とも自然に信頼関係が築けますね」(原文まま)
長澤や福本の話とは、随分と大きなギャップがあるようだ。
想像するに、上記の篠田の話は節約していくことを余儀なくされた初期の頃、長澤、福本と出会う前の頃のことを主に話しているのではないだろうか。
規模が少しずつ大きくなり始めるにつれ、製作コストに関わる問題へと発展していったように思われる。

しかし、なぜテストで、そんなにも大量のフィルムを回すのだろうか。篠田の話だけで合点はいかない。回すだけの何かがあるはずだ。
「もともと篠田さんは「スワロウテイル」は、70ミリで撮りたいと言っていたんです。フィルム的にいうと65ミリになるんですが。
それが予算的に全編は無理ということになった。そしたら、全部使ってやるというアプローチに変わったんです。全部70ミリで撮れないのなら、65ミリでも35ミリでも16ミリでも、全部使って撮ってやると。
岩井監督も映像のトーンとかにはすごく細かい方なんで、いろんなシーンをどういうライティングでとか、どういう世界観を作るのかとか、テストは相当やったんだと思います」
通常でさえ、大変そうな篠田のテスト、さらに3タイプのフィルムでのテストとなると、それは尋常ではないと察することができる。
加えて、監督岩井の映像へのこだわりも加味されるとなると、これはもう想像を絶するテストとしか言いようがない。
しかし、これらのテストの結果が名画面や印象的な映像を作り出し、名作を生む原動力になっていることも、また絶対的な事実なのである。

福本淳には強烈な印象を残したテストがあった。
それは、「undo」「PICNIC」の時のことだった。この2作はパッケージ製作になっていて、共に16ミリで撮影された。
「undo」の撮影スケジュールは4日、約2週間の間があり、「PICNIC」は2週間の撮影予定であったが、予定通りには終わるはずもなかった(詳細後述)。
「共に大きな作品ではないので、16ミリで撮影してブローアップするということが大前提でした。
篠田さんの中には、16ミリは所詮16だもんな、みたいな感覚があって、どうすれば16ミリっぽさを紛らわすことができるか、ということでテストが始まりました。この時、とにかく減感、増感のテストをものすごくやりました。
16ミリなので、感度50のフィルムだと粒状性もいいし、コントラストも出るので、これをブローアップすると割りといい調子に上がる。
で、この感度50のフィルムを減感、増感しようということになって、八分の一減感から八倍増感までテストしました。
感度50の八分の一減感するということは、感度6なんです。感度6というと、ほとんど外でしか使えないんですね。
もうひとつ、篠田さんが使い慣れている感度250というフィルムも同じく、八分の一減感から八倍増感までテストしました。
これらのテストは相当面白いテストで、本当に現像を変えることによって、こんなにも映像のトーンが変わるのかということを目の当たりにしたテストだったんです。
テストの最初の被写体は篠田さんの奥さんのいづみさんで、いづみさんをライティングして撮りました。
ノーマル現像も含めると、それぞれ7タイプ、だから全部で14タイプのテストになるわけです。
感度50の八分の一減感は、35ミリまで上げても、16ミリと絶対わからないというような、ものすごくきれいな画になるんですよ、粒状性がきれいなものを、より粒状性がでない方向に現像でいじくっているわけですから、本当にきれいな上がりになるんです。
それに対して、感度50の四倍増感は、感度が200になるのですが、そうすると普通に使えるタイプのフィルムにようやくなる、感度的には。これくらいだったら、粒状性もそんなに悪くないし、コントラストがかなり強くでるようになるんですが、逆にそのコントラストの出方がかっこいいよね、ということもわかってくる。
どんどんと粒状性とコントラストが変わっていくのが見えてくる。
感度250の八分の一減感のほうも、やはり粒状性がすごくよくなるので、16ミリで撮ったようには見えない、という結論になる。
そういう比較のテストを相当にやって、結果、「undo」は感度50のフィルムで増感を基本に、「PICNIC」は感度250の減感でやろうということになりました」

「映画撮影とは何か~キャメラマン40人の証言」(平凡社刊・山口猛編・監修佐々木原保志)でも、篠田昇はこれについて述べている。
「undo」では、かなり思い切った特殊現像をして、テスト撮影だけでも一週間近くかけました。現像だけでなく、岩井さんは美術にも凝る人ですから、セットの部屋、壁の質感、それとフィルム、フィルター、ライティング、現像、メイクのテストをしました。
特殊現像とは、フィルム感度が50しかない低感度フィルムを200に増感、もちろん200の高感度フィルムはありますが、200のフィルムをそのまま使用するのと、低感度のフィルムを増感するのとでは、ルックが全然違ってくる。
とくに低感度のフィルムは増感すると、増感の効果がよく現われるのです。
フィルムはEK(イーストマン・コダック*著者注)。
フジフィルムは増感現像で粒子を出そうとしても出にくく、変化が見られず、色のバランスも崩れない。
それはフィルムの特性としては本当はいいのかもしれない。たとえば夕方、光が足りなくなって増感したときに、今まで使ったフィルムと同じトーンになり、調子は変わらない。
しかし、僕は増感したら、その変化が出たほうがよいと思うので、あえてEKにする。
テストのときにはFKもフジフィルムも両方やってみて、その結果のラッシュをフジフィルムの人も呼んで、なぜ使わないかも説明する。
ライティングに関しては前半は自分たちだけでライトをいじる。基本的なことは僕らはデータを取り、最終的なテスト段階、具体的なライティングをするに当たって、はじめて入ってもらうようにしています。(原文まま。但し下線部誤字修正)

テストに費やす手間隙に関して、現像所の対応はどのようなものだったのだろうか。
「テスト前に篠田さんがラボの方とどれくらいの話をされていたのかは、ぼくは知りません。
ですが、テストをやった時にはもうその現像をすることはわかっているわけですから、現像所としては技術的にはそういった現像をこれまでやったことがないかというと、ないということはないと思います。
イマジカ(現像所)には、温度管理と時間管理をもっていて、現像タイプを変えることによって、温度と時間のどこまでをどうするか、そういうフォーマットがあるんです。
もしかしたら、この時篠田さんがこういうことをやりたいと話をして、それから現像所がテストした上で、そのフォーマットができたのかもしれません。
篠田さんがきっかけになっていた可能性は充分ありますね。
ただ、現像所自体は具体的にそういった技術は持ち合わせていたということです。

篠田さんは、プレゼンするのが巧みな方でしたし、感度50のフィルムを八分の一減感したいというようなことを、これまでやったことのない未知の世界がどれだけ面白いことか、夢みたいな話を得々と語るので、現像所の人って、技術者だから面白がるんですよ。
実際、テストで上がってきたフィルムを見て、あ、こういう違いがここまでできるっていうことを本当に面白がってくれていた。
台本とかも当然読んだ上で、話の流れも把握した上で、作業をされている方たちなんで、そういう意味じゃ、嫌がることなんて、全くないと思います。
篠田さんはよくおっしゃっていました。
「現像所はいろいろな技術を持っているところなんだから、おれがいろいろと言って、おれと一緒にやれば、絶対新しい発見があるはずだ。それが現像所の財産になっていくのだから、人のやっていないことをどんどんやったほうがいいんだ」って」

篠田は、テストは監督との信頼関係を築ける絶好の機会と自ら語っているが、その裏返しとも言うべき重要な意味が含まれている言葉を福本は断片的に語っている。
「監督さんに明らかにその違いがわかるように、テストでは撮っていましたね」
「篠田さんは、例えばノーマル現像と増感と比べて、こっちの見え方のほうが面白いんだけど、どお、って監督に見せているんですよ。
ま、こっちの画のほうがいいでしょ、って監督を説得するためのものでもあったんです」
篠田昇におけるテストの意味は、自分の撮りたい画を、それはトーンといえばいいのだろうか、ぼくはこれで撮りますからいいですね、という監督を納得させるためのプレゼンテーションであり、篠田主導の事前承諾でもあったのだ。
篠田に言わせれば、これだけ充分な確認をとったのだから、後から文句を言われる筋合いはないということだ。
巧みな交渉術がここでも発揮されていたのである。


P.S 「take5」で紹介した映画「ザ・ストリッパー~堕ちて藍」の製作者ジヨウジ川上が、介護する写真家として、2008.12.20付朝日新聞朝刊に掲載されました。


取材協力:篠田いづみ

2008年12月09日

take26ビデオをいじる

篠田昇は何故カメラマンになったのであろうか。
彼の生き様を振り返ってみると、カメラマンになった理由、もしくはカメラマンとして生きてきた理由に、人から何と言われようと自分を通すことができる世界であったことが、大きな要因だと考えられる。
昇はかつて高校時代の同期生であった前妻Mさんに語ったことがあった。
「仕事をし始めてから、昔仲の良かった友人たちと同窓会で会うと、サラリーマンになった人たちとはまるで気が合わないんだ。(おれと)気が合うのは、みんな地元の自営業の人間たちなんだ」
それはとりもなおさず、昇と同じ匂いを持つ人間たちだ。
昇の育った下町の自営業といえば、自動車の修理工、自転車業、印刷工、看板屋、塗装工、旋盤工、大工・・・、それぞれ技術的な仕事であり、みんなそれが好きでやっている。地味ではあるが、日々楽しんで仕事をしている。そんな雰囲気が漂ってくる。
そんな人々との素朴で単純な関係に、昇は居心地の良さを感じていたに違いない。



まだ整理をする段階ではないのだが、これまで聞いてきた篠田昇のカメラマンとしての大まかな特徴めいたものを荒く挙げてみる。
●フィルム関連
・カメラマン・デビューの作品「ラブホテル」当初から、気に入ったフィルムを確保しているなど、以後もフィルムに関する一貫した志向性を継続していたと思われる。
(冗談ではあるが、昇がなぜイーストマン・コダックが好きかというと、当時ポール・マッカートニーと結婚していたリンダさんが、社長の娘であったことを理由にあげていた)
・単に撮影状況による判断ではなく(暗いから、明る過ぎるから)、映像全体のトーンとして多種類のフィルムによる減感、増感を試みていた。
(*現在、把握している後述事項として、
・減感、増感のアプローチが尋常ではないケースが多々あった。
・テストの量も半端ではなかった。などがある)
●レンズ関連
・フィルムとほぼ同様の傾向があり、極力同じシリアル・ナンバーのレンズを使用していた。
・味のある古き良きレンズを好んでいた。
・一貫した概念を持ち、映画用レンズといった枠を越えて、あらゆるレンズの仕組みに取り組んでいた模様。こんな風にしてみたいという目論みの元、オリジナルを作りたかったのか。
・特殊なレンズを加工し、映画の中に反映させていた。
●特機・機材関連
・日本に入荷したばかりのパンサードリーをいち早く使用するなど、ドリーやクレーンという特機の必要性を説き、以後自らの撮影現場にて、ミニジブ(ミニクレーン)及びピィウイ(ドリー)との組み合わせや合体を編み出していく。
・それらは、“三脚を使わない、手持ちでもない”篠田独自のスタイルとして形を変えていくが、下記の手持ち用機材同様、特機及びその周辺を改良していく様は、従来の撮影部の枠組みを越えていた。
・レンズに対しては古き良きものに愛着を持っていたにも関わらず、この特機の類いは、最新タイプを積極的に試していた。常に新たな可能性を見つける作業なのか、実験好き、新しもの好きの性格が反映されていたのか。。
・機材改良は機能だけの問題ではなく、作業効率の面においても意識されていたようだが、それが思惑通りに遂行されていたかは疑問な点が見える。
・手持ち撮影との関わりを含むが、常に“自分が好きなように動き回れる”ことが第一義としていた。
●手持ち撮影関連
・通常の手持ち撮影から「来たことのある初めての道」で、自家製ステディカムの開発が始まり、「突然炎のごとく」でNOBOCAMなるほぼ完成形に近いシステムを手に入れる。
これらは以後、岩井作品の中で継承されていく。
・軽量化するためか、既成機材の無駄な部分を取り外すことが多々あった
・根底には、類いまれなる力持ち、腕力、背筋力が隠されていた。
●撮影法関連
・広角サイズを基準と考え、極端な寄り(ワイド・アップ)を多用し、自らのスタイルとした。
・映像作りの基本を逆光、及び自然光としていた。
●スチル
・映像もスチルも同じ世界観を持っていたようだが、後年スチルを追求しようとした時期が存在していた。

部分部分で確固たる裏付けがないせいか、説明不足、違和感を感じる箇所もまだある。いつか分析に近い形にできたら、と思う。



篠田昇は季刊誌「映画撮影」(日本映画撮影監督協会)での「夏の庭」撮影レポートの中で、自ら三脚を使わない撮影について明言している。
「役者の演技=動きをいかにフォローしていくかという命題において、私は三脚を使用しない。
特に今回、全くの素人である子供たちにとって、キャメラの固定で動きを制限されてしまうことはプレッシャーであり、自然な雰囲気を損なってしまう。
子供たち以外の役者にしても、リハーサルを重ねれば演技にも変化が生じ、立ち位置も違ってくる。
だが、最近のキャメラは大型で三脚も重く、たかだか30cm移動させるだけでも四苦八苦である。
ミニクレーンならば振り幅は上下左右とも2m程度あるし、私一人で充分操作可能だ。キャメラが自由な状態であれば、役者やスタッフの待機時間も大幅に節約できるのだ」

運命的邂逅ともいえる岩井俊二とのコンビネーションには、二人の様々な共通項や相性といった理由があると思われるが、その発端にあったものは、おそらく手持ち撮影という簡単なキーワードだったのではないか。
岩井もほぼ手持ちの映像を好んで使っていたからだ。

これまで「ワールドアパートメント・ホラー」から篠田の撮影法が劇的に、そして如実に変化していく様を語ってきた福本淳は、
「でも、やっぱり篠田さんが一番大きく変わったのは、岩井(俊二)さんとの作品をやっていた時でしょうね」
と強調する。

福本によると、篠田昇が初めて岩井俊二と仕事をしたのは、1992年(平成4年)に遡る。
プロモーション・ビデオの仕事だった。
(*詳細は現在のところ不明だが、それ以前から、篠田昇と岩井俊二との接触はあったようである)
「岩井さんとは、プロモーション・ビデオ(PV)を何本か撮っています。
最初は、ファイブ・ティアー・ドロップスというロックというかロカビリー風のバンドのPVだったと思います。
これは16ミリで撮影したんですが、一部リバーサル・フィルムを使ったんです。ポジ・フィルムです。それって、プロはあまり使わないんですね。
ですが、PVというのは、最終的にビデオで仕上げる。テレシネという過程を経て、完成品にたどり着くから、手間も含めて、リバーサル・フィルムを提出すると、解像度がすごくいい、コントラストがすごくシャープ、そういう利点を生かして一部に使ったんです。
多分、リバーサルを使うという感覚を含めて、岩井さんの画の作り方と篠田さんの画の作り方がどこか合っているというか、共鳴するものがあって、この後、岩井さんはフジ・テレビの「フライド・ドラゴン・フィッシュ」(1993年3月放送)というドラマを撮るんですが、それを篠田さんとやりたかったなあという話をしていた記憶があります。
で、翌年の初めに、また岩井さんとPVを撮ることになって、トゥー・ビー・コンティニュードと平松愛里の「部屋とYシャツと私」だったかな、違うな、ちょっとはっきりとは思い出せないですが、2本パックで受けた仕事でした。
この時に、岩井さんが今度「if」というドラマを撮るんですが、是非一緒にやりましょうと篠田さんと話していました。「if」というのは、「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」(1993年夏放送)のことです。
結局、それもお互いの都合が合わなくて、実現できませんでしたけれど。
そして、この年の夏にぼくらは「夏の庭」の撮影をしていたのですが、夕飯を取っていた時、たまたまテレビでドラマをやっていた、ものすごい映画っぽいドラマを。それが「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」だったんです。
ぼくは篠田さんに、すっごい面白かったですね、と言ったら、篠田さんも、そうだよなって、感心してました。
そして、この年の末に「世にも奇妙な物語~ルナティックラブ」(1994年フジ系放送)をやったんです。それが岩井さんとの初めてのドラマになるんです。

ちなみに、岩井・篠田のコンビによるPVは、上記以外に、サザンオールスターズ「シュラバラバンバ」、「素敵なバーディーNONOBIRDY」。「四月物語」(1998年、監督岩井俊二)の時に併行して撮った一連の松たか子のPVがある。

岩井俊二との初のドラマ「世にも奇妙な物語~ルナティックラブ」はビデオで撮影された。当初、篠田はこのビデオでの撮影に難色を示していた。
それは、フィルムへのこだわりや当時はまだ生々しさを持つ画一的なビデオ映像と映画映像との隔たりといった、ムービーカメラマンとしては当然考慮しなければならい映像表現の判断によるものだった。
ところが、
「ビデオでも面白いことができると篠田さんに教えたのは岩井さんなんです」
と福本淳。
「ビデオを映画っぽく作るといったら語弊があるかもしれませんが、先駆けは岩井さんであることは間違いないんです。日本映画の歴史の中でいっても、それは過言ではない」
岩井と彼のチーム、すなわちカメラマンやビデオ・エンジニア(VE)たちは、「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」(あるいはそれ以前からなのかは現在のところ不明)の時に、ビデオカメラに細工をして、ビデオの映像ながら、より映画に近い映像を作り出していたのである。
「ビデオにはガンマ・オフという技術があって、ビデオカメラにはカメラ自体が持っている規定のガンマ・カーブというのがあるんです。
単純にいうとコントラストを示すカーブなんですが、そのカーブが各カメラにインプットされているので、ビデオの特徴である“生っぽい”、そういうトーンが作られている。
それプラス、インターレースというテレビに電波をのせるために、画を半分に割って櫛状にしてテレビに流す。

そのふたつのシステムがあるので、“生っぽい”映像になっているんですね。
岩井さんたちは最初、よりフィルムのトーンに近い映像を撮ろうとした時、カメラの中に入っているガンマ・カーブをオフることを発見した。
これを篠田さんとぼくが知ることになるのは、「ルナティックラブ」の時なんです。その時、初めて知ったんです。
この時は、ビデオカメラにガンマ・オフのスイッチが付いていたんです。オンかオフの二択のスイッチがあったんですけれど、岩井さんたちは以前にそれをやろうとした時は、スイッチがまだ付いていなかったので、カメラの中を開けて、いろいろなところをいじくって作ったようです。
篠田さんは、これは面白いと思われて、「ルナティックラブ」の撮影では、「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」をやったVEの方を呼んで、一緒にやりました。
これ以降、篠田さんはビデオの映像、カメラを含めて、いろいろといじり始めるのですが、フィルムとは違うビデオでも、箱を開けて中をいじれば何かが変わるということを、岩井さんが篠田さんに教えたようなもんなんです」


取材協力:篠田いづみ

2008年11月25日

take25私家版「記憶の残像」

私は現在、自分自身の日々のくだらぬ思いを別のブログに書き綴っている。
そこに最近「記憶の残像」という検索によるアクセスが非常に多くなった。
これは、多分「篠田昇の残したもの」take23を読んだ人たちからのメッセージであると了解した。
だが、追悼文を書いた当時のホームページ「記憶の残像」は今はもう露出していない。未練がましく同タイトルでの雑記は継続している、ということだ。
旧「記憶の残像」で書いてきた私の映画(映像)への思いは膨大な量になる。生まれてからこれまでの映像との関わりや想いを書いてきたからだ。
その中に、篠田昇との出会いがあり、一緒に撮った映画があり、別々の道を歩んだ経過もあった。
そして突然の死があった。

昇と“くされ縁”であった本庄克彦の死も、これまた突然であった。
私は昇と本庄の関係を“はっつぁん、くまさん”と称したけれど、それはあながち間違った表現ではないと思っている。
文中最後に締めくくった“もっと聞きたいと思っている”との言葉は本音であり、彼の体調の回復を願っていた。
今、自分勝手な思いではあるが、元気なうちに早く会っておくべきだったと後悔している。

これを書き始めた2006年の暮れの頃に、私は本庄に電話を入れた。こんなブログを書いていきたいので、ぜひ昇の話を聞かせてくれ、と。
彼は、昇との別離の後、理由あって、ひとり暮らしをしているところだった。
彼は、私の申し出を拒んだ。
それは、何を話せばいいのかわからない、おれは昇の秘密も知っている間柄だから、そんなことをお前に書かせるわけにはいかない等々、警戒心でいっぱいだった。
が、昇が金に困っていた頃のこと、付き合った監督のこと、女のこと、話せないことが沢山あるのだと言いつつも、その触りを彼は電話で聞かせてくれた。
言えないと言いながら、話すところが本庄という男だった。
口と中身が裏腹で生きてきた、そんな心優しき男を、昇は大好きだった。

月日が流れ、このブログも何回かこなせた頃、人間篠田昇の輪郭をなぞる時、本庄の存在を抜きに語ることはできないと思い、私はこれまでのブログをプリントアウトして、彼に郵送した。
そして、今年の初め、本庄から電話があった。
「お前の文章なぁー、何が言いたいのか、おれにはやっとわかったんだよ。理解できたよ。
だから会ってもいいぜ、何でも話せると思うようになったよ。
(この時、本庄は映画のシナリオを書いているところだと語っていた)
しかしよー、おれには長澤(雅彦)や福本(淳)が、あんなことを言うのが信じられねぇんだよ、あんな風に。一種尊敬だろ、そんなわけないじゃん。いいとこだらけじゃん、あいつら言っていることはよ」
私「それは、ぼくが言葉のいくつかを選んでいるせいだよ。彼らだって、それなりに大変だった思いを語ってくれているぜ」
「じゃあ、はっきりさせようぜ、会ってよ。
おれは(彼らとは)違うよ、ぼろ糞だよ、あいつのことは」
私「それを聞きたいんだよ」

私は篠田昇の死をきっかけに、このようなブログを始めたが、今回書くことのできなくなった本庄の件が無念でならない
それは、是非とも読んでもらいたかったものだからである。私の想像もできない昇がそこにはいたはずなのである。
そう考えていくと、かなり心情的な気分に偏っているものの、ある一時期ではあるけれど、長いような短いような時間ではあったけれど、昇と親しく付き合っていた私という人間をもっと知っておいてもらうのも必要なのではとの思いに駆られた。
こんな男が「篠田昇の残したもの」を書いているのかと、そう思っていただければ幸いだと願いつつ、今はお倉入り状態になっている旧「記憶の残像」の抜粋を綴ろうと思う。
少し横道にそれることになるが、篠田昇が生きてきた時代背景とともに、サイド・ストーリーにしばしのお付き合いを。
(本ブログ初期の拡大版となる部分を抜粋します。とにかく長く、このブログでの昇との思い出もここから引用しているため、重複する内容も多々ありますので、ご了承ください)





●記憶の残像・抜粋(第18回より)
 グループポジポジの『天地衰弱説第二章』(16mm映画白黒)は、各地から上映の引き合いがあった。前作8mmの『天地衰弱説』とのカップリングでの要請だった。
 仙台には福田が、大阪には後藤と磯貝がそれぞれフィルム・ロールを抱えて出向いていった。特に大阪では自主映画を数多く集めたプログラムに組まれ、三越劇場で何日か連続で上映した。
 その頃、自主映画というものは大変珍しく、また上映する場所も設備のある公民館などでその数はかなり限られていた。
 が、独立プロの記録映画や作品などと 合わせて、それを精力的に上映する映研等のグループが地方都市を中心に多くあった。そういった若者たちに呼ばれ、シンポジウムのようなものも上映と合わせて開かれていた。

 秋に入ると、グループポジポジの面々は、相変わらず会うには会っていたが、次の映画を撮る話もなく、みんな将来のこと、大学に進むことを意識し始めていた。ぼく自身も代々木ゼミナールに入り、時々授業を受け、試験に臨んだ。が、3年時に習うはずであった科目は全くわからず、その成績は惨憺たるものだった。
 
 昭和46年3月、福岡はICUに、福田は早稲田の政経に、磯貝は北大に、橋本は成城大(翌年都立大へ編入)へとそれぞれは散っていき、後藤は大学には進まなかった。
 ぼくは、日大芸術学部映画学科に入学した。迷わず撮影録音コースを選択した。
 自分の学力では、国立も私立のいい大学も無理だと悟ったせいもあったが、好きな撮影の勉強もいいかな、と思ったからだ。
 ここでは、撮影機材も豊富だし、施設も整っていたから、今後の自分たちの映画製作に何かと利用できるかもしれないという目論みもあった。
 入学式には出られなかった。前の晩に飲んだ酒のせいで、行く途中、西武池袋線の駅で気持ち悪くなり、吐いてしまい、駅長室で寝ていたからだ。
 何になりたいのかもわからず、このままこの大学へ進んでもいいのだろうかという精神的曖昧な苦悩と、大したことではないくせに酒に侵されていく肉体の衰えの不安を大げさに交えて、この入学式に出られなかった様子を、“文学”の授業で書いたら、先生から呼び出され、ほめられた。ただ、タイトルが文と合っていないと注意された。そのタイトルは「わたしは老人」だった。
 ぼくは作文の感想批評を受けたのは、多分小学校以来のことなので、新鮮に感じ、文を書くのもなかなかおもしろいものだ、とこの時思った。

 撮影録音コースの授業は思っていた以上に楽しかった。
 当時学長であった登川直樹の映画鑑賞後に感想を書く授業、ここで、かの傑作の声名高い『ラ・ジュテ』や実験的映像技法を試みたソビエト大作『戦争と平和』、ジュリアン・ディビビエ監督の名作『舞踏会の手帖』、エイゼンシュテインの野心作『アレクサンドル・ネフスキー』、ジャン・コクトーの幻想映像『美女と野獣』、そして邦画では、阪東妻三郎唯一の現代ホーム・ドラマ『破れ太鼓』、同じく阪妻の『王将』、三船敏郎の『無法松の一生』、『羅生門』など古典的な名作が毎週楽しめた。
 元カメラマンの撮影体験談、かつて活躍した監督の撮影所の話、実際にセットを組んでの撮影実技、8㎜による課題実習・・・、撮影と録音の理論技術面ばかりでない授業はこの上なくおもしろかった。
 この頃、心中では漠然とだが、(映画の)カメラマンを目指そうと決意にも似た気持ちをもち始めていた。
 
 初夏の頃、泰子(「東京戦争戦後秘話」の主演女優)から電話が入った。撮影の仕事があるから一緒に行かないか、と。ぼくたちは成島東一郎さんの事務所“キャビネット・オブ・エヌ”に出かけた。
 待っていたのは、カメラマン仙元誠三であった。泰子はちょい役で声をかけられていた。仙元さんは、その映画の撮影助手をやらないか、とぼくを誘った。食事と寝床は確保するがギャラはなし、という条件だった。ぼくは即OKをした。
 映画は『空、見たか?』、監督は新藤兼人の助監督をしていた田辺泰志という角刈りの太鼓腹おじさんだった。この映画は、岡山県倉敷のシネ・クラブの人たちを中心に、支援とボランティアで製作された、当時では(今でもか)珍しい形態のものであった。
 撮影は、田辺監督の地元倉敷と瀬戸内海を中心に、京都市内、丹後で行なわれた。
俳優さんの宿舎は田辺監督の実家のとんかつ屋の2階、撮影隊の宿舎は地元富豪の離れ、助監督等スタッフはミーティングに使われた広い一軒家に間借りした。
助監督たちは、田辺監督の弟をチーフに、彼の早稲田大学の友人たちが集まった。みんな映画経験のないド素人たちであった。
 一軒家は、宿舎やミーティングだけでなく、スタッフやキャストの朝食や夕食の場でもあった。スタッフ・キャストがほぼ揃った夕食の時、各自自己紹介をした。
その時、出演者の吉田日出子が友人と称して、ひとりの若者をみんなに紹介した。写真では見たことがあったが、それが彼だとは気付かなかった。ぼくは興奮した。憧れの人物“はっぴいえんど”の松本隆であった。
 
 普通、映画撮影のスタッフ構成は、カメラマン、主に露出を計るファースト、メジャーで距離を計るセカンド、フィルムの詰め替えをするサードと役割が決まっ ており、ぼくは普通の撮影では存在しないフォースという、その他使い走りのなんでも屋だった。しかも、この撮影隊は、照明も兼任していた。
 セットを組んでいる時、セカンドで照明チーフの倉田さんから、「堀越、ケント紙買ってこい」と言われた。ケント紙なんて、倉敷で売っているのか。どこ行けばいいんだ、どれくらい必要なのか、一切は不明だ。聞き返したら絶対に怒鳴られることはわかっていた。状況を見て判断するしかなかった。
 しかし、状況を判断する力量すら、ぼくにはなかった。自転車に乗り、紙屋はどこですか、文房具屋はどこですか、と訪ねて回った。紙屋が見つかり、ケント紙はあったが、いろいろと重さがあり、その選別がわからない。何種類かを買って、現場に戻った。
 戻るとすかさず、「ライト2つ、持って来い」と指示が出る。ライトはバッテリーと対になっており、このバッテリーがえらく重いのだ。両肩にバッテリーを担ぎ、手にライトと支柱を持ち、指定の場所に持っていく。この「持って来い」は持っていくことだけの意味だけではなく、セッティングすることを含んでいる。それをしないとゲンコツや罵声が飛んだ。
 とにかく、初めて本格的に参加した撮影現場は修羅場であった。
 初日の撮影が終わり、遅い夕食をとり、カメラやレンズの掃除、フィルムの装着、フィルターの整理、今日撮影したフィルムのナンバーの整理、バッテリーの充電、機材の整頓、明日必要な機材を即運び出せるように準備・・・、へとへとになりながら、深夜寝床についた。
 午前4時起床。眠い目をこすりながら、小便に行く。ワァオー、チンチンが真っ赤赤だ。何をしても起きないくらい疲れ切って熟睡している新人に、マジックインクで塗りたくる、先輩たちの洗礼だった。
 “お尻を掘られなくて、よかったよかった”と、ぼくは今日もまた元気な撮影に出かけていった。

 昭和46年8月15日にクランク・インした『空、見たか?』の撮影は、岡山県倉敷市、瀬戸内海を中心に順調に進んだ。
 時は1960年、物語は主人公が高校3年の夏に始まる。この主人公が、セックスに明け暮れ、放浪の旅に出、そして結婚してもなお心の赴くままに生きていく、そういう話の映画であった。

 初日は、市郊外にあった倉敷東商業高校で、教室内から裏山まで、終日目一杯を使った。ここでぼくは、初めて“太陽”の担当になった。
 映画というのは、いくつかのシーンで成立している。そのシーンはまたいくつかのカットから成り立つ。
 例えば、アウトドアでの向き合った男女の会話のシーンがあるとする。男がしゃべっているカットは晴れているのに、切り換えした女のカットが曇っていたのでは、同時間ではない違和感のある映像になってしまう。このため、晴れのシーンは、基本的にずっと晴れた状態で撮影しなければならない。
 この日は、晴れてはいたけれど、雲の多い天気であった。そのため、雲の動きを予測して、雲の合間から太陽が顔を出すのが何秒後か、そして何秒くらい陽を差し続けるのかを、監督やカメラマンに大声で伝えるのだ。
 楽しかった。すでに撮影や照明の準備は終わっているので、みんなはぼくの声を待っている状態だ。予想が外れると罵声が飛んだが、クランク・インしたばかりなので、みんなにも余裕があり、笑いながら進んでいった。
 校庭では硬式野球部が練習をしており、ぼくも休憩の合い間、打たしてもらったりしていた。
 まむしがいるという裏山では、いきなりのセックス・シーンがあり、ぼくは仙元さんが崖から落ちないように崖っぷちで支えたり、レフで俳優さんのお尻などを照らしたりした。

 木ネジ2本5円の領収書をめぐり、金物屋のばばぁと喧嘩をしたり、苦しいながら撮影していることだけで毎日が充実していたのに、監督の実家のとんかつ屋でごちそうになったり、ボランティアの女の子とデートしたり・・・、泰子と喫茶店や美術館を回り、素晴らしい倉敷の町を堪能したり・・・、ぼくの二十歳の夏は、異郷の地で弾け飛んでいた。

 仙元さんは、撮影の待機状態の時、撮影スタッフみんなに、「(セッティングされた)カメラ、覗いてもいいよ」と気を使ってくれた。ぼくは勉強になるため、お言葉に甘えてよく覗いた。が、他の撮影スタッフはだれも覗こうとしなかった。
 撮影開始から、しばらく経ったある日、雨のため、撮影が中止になった。
 スタッフ全員が集合し、田辺泰志監督を中心に、反省を含めた意見の交換会が開かれた。ぼくは、部分的な演出について、監督に尋ねたりした。演出陣からも撮影についての質問が出た。
 が、仙元さん以下撮影スタッフの面々は黙ったまま、返事をしないし、しゃべらない。余計なことは言わないという雰囲気だ。たまに仙元さんが一言二言、言葉を返すだけ。
 この時、共同で映画を作るという、ぼくの思っていた映画作り、これまでぼくたちがやってきたものとは、かなり違うものを感じとった。
 撮影スタッフは“プロの集団”であり、その技術を最大限活用してフィルムに残すこと、それが彼らの仕事であると、後になって気付いた。任された仕事をだれに指示されることなく、自分たちの力で全うしていく。それが俺たちプロの仕事なんだと。
 すごい、と思った。が、同時にこういう映画作りでの撮影は正直つまらないな、とも当時若かったぼくは思った。
 完全なる縦社会で構成されているプロの世界、将来漠然とだが映画カメラマンを目指そうと考えていたぼくは、この時多分自分にはなじめない世界かもしれない、と思った。

 そして、しばらく経った頃、銭湯で一緒になった仙元さんがぼくの隣りに座り、神妙な顔をして、「ホリちゃん、髪、切らない?」とたずねてきた。
 ぼくは、「何でですか?」と答えたものの、髪を切る気は微塵もなかった。話はとんかつ屋で働く少年の役で出演してほしい、ということだった。この役は、主人公と結婚した奥さんの実家がとんかつ屋をやっており、主人公は店を継ぐ。その店で働く家出少年の役で、自分の彼女も主人公にとられてしまう、情けなく悲しい役だった。ぼくは、興味はあったものの、「髪は切りません」と断った。
 しかし、結果は、髪を切らなくても、出演することになった。
 本番になると主演の吉沢健は、ぼくと目を合わせると必ず吹いてしまい、「お前、真面目にやれよ」とぼくに当たった。
 
 撮影も終わりに近づき、残すは京都市内、丹後の撮影だけとなった。みんなが京都に出かけていった時、ぼくと助監督2名は倉敷に残り、荷造りや後片付けを やることになった。その2日間、時間に余裕が生まれ、ぼくはずっと考えていた。プロの世界で生きていくべきか。
 そして、決めた。プロの世界に入り、撮影助手を経て、カメラマンになる夢は捨てようと。自分のやりたいことは、自分の撮りたい映画を撮っていくことだと、強く思ったからだ。
 そんな思いを胸に秘め、助監督たちと、次の撮影地丹後へと向かった。

♪トマトやアンズやリンゴを買って
 汽車に乗ったは良かったが
 明るい星に眠られず
 トマトを捨ててボトルを買った
 ここはどこ?
 ここは火の河
 ここを過ぎ……

 アンズやリンゴを小脇にかかえ
 汽車を降りたは良かったが
 空の底吹く風ばかり
 アンズを捨ててボトルを開けた
 ここはどこ?
 ここは地の果て
 ここを過ぎ……

 トマトもアンズもリンゴも捨てて
 激しい夢も醒めはてて
 涙のような酒びたり
 ボトルを捨てて、もう帰れない……
 ここはどこ?
 ここは地獄だ
 ここを飛べ!

(『空、見たか?』の主題歌「長い長い旅の報告」清水哲男作詞)


 東京に戻ると、大学に進まなかった後藤は、できたてホヤホヤの日本映像学校、通称“原宿学校”に通い、映画の勉強をしていた。
 ぼくは、時々彼と酒を飲み、『空、見たか?』で経験した本格的撮影の話をした。そして、ぼくの胸の思いを告げた。再び、自分たちの映画を撮りたいのだ、と。
 後藤もそう考えていた。この頃、ぼくたちは、自主制作(映画)で食っていくことを本気で考えていた。

 ぼくは解散状態にあったグループポジポジを再結成すべく、大学にいた仲の良い二人の男をメンバーに誘った。
 この二人とはいつも一緒に行動していた。授業が終わるとよく行ったのが、新宿紀伊國屋裏手にあった喫茶店トップスの2Fだった。ここで、“紅茶”と“じゃがいもとソーセージ”を注文した。これがぼくたちの定番メニューであった。
 ガリガリの長身でモデル顔、いつも女を連れていたジゴロのような平塚出身の岩城信行。
 ビートルズの熱狂的ファンで、「来日した時、皇居のお堀を何人か泳いで捕まっただろ、あれおれの仲間」などと自慢していた都立白鴎高校出身の篠田昇。
 彼は、カメラマンとして井筒和幸監督、相米慎二監督等の作品に関わり、現在主に岩井俊二監督作品の撮影監督として活躍している篠田昇、その人であった。


以下、旧「記憶の残像」は、直接「篠田昇の残したもの」とは関係がないので、別な形で紹介できるよう、考えています。

取材協力:篠田いづみ

2008年10月24日

take24自家製機材とレンズの加工

カメラマン篠田昇とその助手福本淳が作る自家製機材は、作品に関わるたびにその数は増えていった。新しく改良しても、その前のタイプを捨てないでいるからだ。
なぜ古いやつを処分しないのであろうか。
「ある特殊なカメラ用に作ったものがありました。これはこの作品には必要ないや、とぼく(福本淳)が勝手に判断して撮影に持っていかなかったことがあったんです。
篠田さんは、現場で想定している使い方じゃない使い方を要求されるので、突発的なことが起こり、対処できない場合が多々あります。
そんな時に篠田さんは、あん時のあれを持ってこいって言われる。えー、そんなもん使うんですか、っていうようなことを言われる。
しかし今回、想定していなかったので、ぼくは持ってきていないと話す。
そうすると「お前、そんなもん、持ってこなかったら、仕事にならないじゃないかよ」って怒鳴られる、怒られる。
だから、ぼくは撮影がある時は、全て、全部を持っていくようにしていました」

自家製機材は進化を遂げ、作りかえられていくにはいくが、篠田のT.P.Oとでもいうのだろうか、古いものもまた利用する機会がそれなりに訪れるようだ。
だが、その判断は篠田の頭の中でしかわからない。現場での予想外な閃きということもあるから、福本としては捨てられないし、全てを持っていくしかないというわけだ。
だから福本の言葉には、予想もつかぬ使い方もあり得るという前提ながらも、助手としての意地ともとれるニュアンスが潜んでいる。「全部持ってきていますから、何でもお好きなものを言ってください、すぐに出しますよ、それが助手の務めというものですよね、篠田さん」といったような・・・。

「その篠田さんの機材は、ぼくのベンツ・ワゴンに満載されていました」
福本淳も昇に唆されてベンツを購入したひとりだった。
「篠田さんと仕事をする時は、自分んちで篠田さんに頼まれた物を作ってから現場に行くとか、ある程度の機材を運ぶために、ずっと新丸子の実家の車、カローラなんですが、これに乗っていました。
「ルナティックラブ」の撮影の時(1993年)に、現場は結構大変で、朝眠くて、ぶつけちゃって、廃車になって、困っていた。ぼくの車じゃないから、すぐに買わなくてはいけない。
で、編集をしている時に、編集室で、ぼくは篠田さんに今後機材運ぶのに必要だし、実家も困っちゃうし、中古でいいから安い車ないですかね、みたいなことを何となくボソッと言ってしまった。
そしたら、篠田さん、製作の人に「カーセンサー、買ってこい」って。
で、買ってきた雑誌をぱらぱらと見出して、「うあー、いいの、あるよ。これこれ」と出されたのが、ベンツのワゴン。
「これ、安いよ。これ、買えよ」って始まったわけですよ。
ぼくは車人間ではないので、基本的によく知らないし、それほど好きでもない。
篠田さんの乗っていた白いベンツは縦目といって、ヘッドライトが縦長なんですね。それは古いということであって、今のは横長になっている。
薦められたベンツのワゴンは、横目になってからすぐのヤツで、10年落ちくらいだったのかな。
で、エンジンがベンツ・マニアの中でもかなり有名なW123型というすごいエンジンだったらしいんです。
そんなことをぼくに教えてくれて、これはいっぱい積めるぞと篠田さん。
ベンツなんか買う気さらさらなかったのですが、篠田さんに車でその中古車屋さんに連れて行かれて、見ているうちに、ね、確かにいっぱい積めるし、段々とかっこよく見えてきて、親からはベンツなんてでかいからいらないとは言われていたのですが、結局買っちゃいました。
値段はそれなりにしたんですが、篠田さんが交渉して安くしてくれました」

福本はこれら機材をリストにして整理しており、新しいものが出来るたびに、その機材リストに加えていた。
しかし、福本がカメラマンとして自立した時、機材の全ては篠田の練馬の家に移されていった。福本の代わりとなる、その特別な自家製機材を把握できるチーフ、セカンドがいなかったためである。
その後、制作された機材については、管理することになった篠田自身がリストに足していった。

「篠田さんの機材って、ぼく(福本淳)が管理していた以外にもあるんですよ。
つまり、カメラのパナビジョンを借りると、“コの字”を使ったりするんで、そのセッティングの時間を節約できるように、カメラを乗せるスライド・ベースをもうひとつ余分に作ってとか、レンタルする機材とセットで使えるものを三和映材に置いておくので、それも増えていくんです。
それも、ぼくがセカンドの頃はリストにしておいて、必要なものをその都度借りていた。チーフの頃になると、それらは篠田さんしか使わないので、まとめて篠田組用として、篠田さんのエキストラ機材として、三和映材に保存管理されていましたね。
映画だけでなく、CMの仕事もたくさんされていたので、使うこともかなり多かった」

篠田が作成した自家製機材、とりわけ三和映材に保管されているというカメラ回りの篠田仕様の機材。篠田しか使わないので、と福本の言葉があるが、これらは実際向上性に富み、便利で使い安いのであれば、篠田組用としてだけでなく、他のカメラマンも使うことができたのではないのか、と取材し始めた頃の私は素朴な疑問を持っていた。
そんな疑問を長澤雅彦が一蹴する。
「だれも使えないんでしょう、カスタマイズされているから。
篠田さんは、キャメラは動き回るし、いつでも手持ちでいけるようになっているから、無駄なものを全部削ぎ落としているんです。部品にしても、いらないものはいらないって、外していっちゃうんですよ、なるべく、軽いようにと。
だから、他の人は使えないんです。
クレーンだって、カメラを乗せる台から椅子、下の板(プラットホーム)まで全部取っ払うんです。で、鉄の棒を1本立てて、その棒に安全のためにロープで自分を繋いで、片手で棒を持ちながら、カメラを担いで撮影する。
こんな、篠田仕様を使う人はいないと思いますね」

さて、話はレンズに移ろう。
スチル用のズームレンズをムービー用に作り変えてしまったように、福本淳は、篠田昇のレンズに関する知識の豊富さを幾度となく見せ付けられてきた。
初めてのその機会は、1991年相米慎二演出によるオペラ「千の記憶の物語」の中の“記憶の映像”を、ピンホール・カメラで撮影したものだった。
「要するに、穴一個だけで結像させるもので、通常の歪曲したガラス板、レンズを使わないカメラです。素材の厚さと穴の大きさで解像度なり、画角なりが決まるものなんですが、それをムービーのカメラに付けることができないか、映画にできないか、ということを始めたことがありました」
と福本。
隔月誌「DIRECTOR’S MAGAZINE」(クリーク・アンド・リバー社発行)2007年6・7月号「伝説のつくり手たち~篠田昇」(文・金子忠義)にも篠田自身の言葉で、
「穴なんですね、ただの。0.25ミリくらいのきれいな穴を開けて。あとは計算するだけ。レンズにはF値があるけれど、ピンホールの場合、だいたいF400くらいになっちゃうんです。だから、晴れた太陽の下でないと撮れないんですよ。
相米監督に依頼されて、どんな撮り方ができるかな、と思って写真の本を見ていたらピンホールの写真があったんです。で、これは面白いかも、と」(原文まま)
と語られている。

いつの頃かも詳細も不明だが、かつて篠田昇はタウンページで、練馬の家の、たまたまあった近所のレンズ屋を見つけて、一枚のレンズを持って相談に行ったことがあったと篠田いづみは記憶する。
それは一枚のレンズを加工しようとしたもので、そのレンズ屋の長男が、これまでやったことのない篠田からの特別注文に興味を示し、一緒に作業をしていたというものだった。

「篠田さんはタウンページ、イエローページが大好きで、レンズを売っている業者を調べて実際に買いに行ってました。
ぼく(福本淳)も一回だけ銀座の店に行ったことがありました。
その時は、3種類のレンズを買って、それを何とか結像させようと筒を作って、ムービー・カメラの前に付けて、一緒にやったんですが、うまくいきませんでした」

しかし、こうした篠田の作った加工レンズはいろいろな映画で活躍している。
「BeRLiN」(1995年、監督利重剛)の中で、始めのほうだったと思うのですが、中谷美紀さんが風俗嬢の役で、その全裸の中谷さんを背中から撮っている画は、篠田さんが作った一枚レンズで撮影したものなんです。
それと「世界の中心で、愛をさけぶ」で山崎努さんのしげ爺の昔好きだった女の人、思いを伝えられずに亡くなってしまった女性、その女校長の若かりし頃の写真が写真館に飾ってあったでしょ。あれは堀北真希が写真だけで出演しているんですが、あれも篠田さんが一枚レンズで撮った劇用写真なんです。
堀北真希って今の子だけれど、どう見てもその写真って、本当に何十年も前に撮った写真でしょ、っていうくらい古びている。
今ではデジタルで加工もできるんですけれど、篠田さんは広角の一枚レンズという、物凄く解像度も悪く、言ってみれば性能の低いレンズで撮った写真なんで、すごい味があるんです。
しかも山崎さんの役どころって、プロの写真家だから、そのプロが撮ったという設定のアンティークな質感が物凄くよく出ている。
やはりこの一枚レンズで撮らなければ、ああいう風にはならない。篠田さんはそこにこだわっていた。
(映画の)撮影前の準備をしていた頃に合間をぬって撮影したのですが、ぼくはこの時立ち会ってはいないんです。ぼくの下の助手が付いていて、その子は写真が物凄く好きな子で、「すごいですね、篠田さんは。あんなことができるとは思いもしませんでした」って、えらく感心していました」

また、岩井俊二監督と組み始めて間もなく、ビデオによる撮影に取り掛かっていた頃、篠田は友人である写真家杉山芳明を訪ねた。ハッセルブラッドを借りにいったのである。
「ハッセル、持って行っていい?」と篠田。
「うん、いいよ」と杉山。
「ボディ、切ってもいい?」
「何で? だ、だめだよー」
「レンズを使いたいんだ」
「おいおい、勘弁してくれよー」
という会話がなされた。
それは、ビデオカメラに付いている従来のレンズではなく、ハッセルのシュナイダー製レンズを付けて映画を撮ろうと考えての行動であった(詳細は後日に予定)。

加工とは違うが、篠田のレンズに対するこだわりの一文がある。
take21にて、パナビジョンSPシリーズのレンズの使用経緯について記したが、これについて、篠田自身が「映画撮影とは何か~キャメラマン40人の証言」(平凡社刊・山口猛編、監修佐々木原保志)の中で語っているので、追記する。
「僕が使っているパナビジョンのレンズは、暖かさを持ったキャラクターなので、レンズ自体が好きなんです。それで、シネスコ以外のパナビジョンのレンズは同じレンズを使っています。ただそのセットは古いレンズで、日本にはあまりないものです。
けれども、古いレンズだから悪く、新しいレンズだから優れているとは限りません。僕は同じナンバーのレンズを『ラブホテル』から使っていて、そのルック、諧調が気に入っているのです」(原文まま)

ここで、シネスコ以外のパナビジョンのレンズという限定した言葉があるが、実はシネスコのレンズについても同様のことを篠田は行なっていた。
「パナ社でテストしたレンズ(take18)を使う時も、極力同じシリアル・ナンバーのものを使うようにしていました。
同じ75ミリでも、ぼく(福本淳)らがアメリカでテストしたのは、15本もあるんですけれど、その中でこれがいいと決めたレンズがある。
その決めたレンズを、篠田用のセットとして、代理店でレンタルしている三和映材に残してもらっていました。
アナモ・レンズだけでなく、他のレンズも同様です。
やっぱりシリアル・ナンバーが代わるとピントの切れであったり、多少の色の転びとかが変わってくるので、ナンバーを管理して、同じものを三和さんに対しては要求していました」

ハッセルのレンズをビデオカメラに付けようなどと、門外漢である私には到底理解できることではない昇のレンズへのこだわりは、このままでは終われない奥の深さを秘めている。
私自身は、これからも回を追うたびに伝えなくてはならないテーマとして捉えているし、もっとその奥を知りたいと思っている。
ただ、一概にはいえないのだろうが、これまでの一連のレンズの話を聞いていると、どうも昇は味のある古い感覚のレンズが好みであったようだ。
そして、それが、光が滲むような、光が掠れてぼけるような、遠近感の希薄な、といった篠田独特の映像世界を、或いはその一部を作っていったのだろうと考えると、私には少し篠田のやろうとしていたことが、ほんの少しだけ見えたような、そんなある感慨が湧いてくるのであった。


取材協力:篠田いづみ

2008年10月12日

take23くされ縁

公私にわたって、篠田昇と最も長く付き合った男がいる。名は、本庄克彦という。
彼は日大芸術学部映画学科の同期で、岩城信行と同じ監督コースで学んでいた。
巨体ながら猫背で内股、肩まで伸ばしたライオンのような長髪、そのモンスターのような風体は学校の中でも一際目立った存在であった。
私たちの名付けた彼の仇名は“ホンジョレ・ビッチョレ”。
彼は、岩城や私たちのグループとは別に、彼を中心としたグループを作っていた。私たちとの大きな違いは、反戦活動をしていたことだ。
そのため、彼は座間の米軍基地に出向くことが頻繁にあり、ジェーン・フォンダやドナルド・サザーランドが反戦活動で来日した時も応援に駆けつけていた。
そうした彼は、当時まだ国内では手に入らないアメリカ産物資を基地内で貰ったり買ってきたりしていた。
その戦利品に、昇は身も心も奪われていた。
コカ・コーラのロング・サイズ、メーカー刻印のジッポー、コンバースのバスケットシューズ、リーバイスのジーンズに各州のロゴ入りTシャツ・・・、それら全てに付いている“made in U.S.A”の文字を確かめる昇の目は、まるで少年のように輝いていた。

今年6月、ささやかに行われた篠田昇+ポラロイド展で、若き日の昇が米軍ハウスの前で、右手こぶしを高く上げている一枚のモノクロ写真が展示されていた。
その撮影者が本庄である。

大学生当時、本庄は井の頭線吉祥寺駅ふたつ手前の三鷹台にあった実家から、江古田の学校へ通っていた。
大学を出た後も、昇はよく本庄の実家を訪ねていたという。
本庄は、東映動画を経て、広告制作会社電通PROXのディレクター及びプロデューサーとして、自身のCM作品の撮影を昇に依頼し、交流を深めていた。
また、昇が再婚をし、練馬の家を持った時も、車で20分の近いところに住んでいたため、家族同士の付き合いもしていた。

昇が亡くなった時、私は自分の会社のホーム・ページ「DVDアルファルファ」に「記憶の残像」というエッセイもどきを連載しており、丁度、昇との出会いや自主映画の活動のことを書いていた時期であった。
昇は、「いつも楽しみに読んでいるよ」とのメッセージを、その年の1月後半に届いた遅い年賀状に添えてくれた。
私はここで追悼文を書いたが、本庄が登場するので、それを記すことにする。



【記憶の残像】
~記憶というものは、いい加減なものである。それが現実だったのか、夢か空想か、今となってはわからない。そんな歪なかげろうを辿って・・・~
●番外編 追悼
これを読んでくれているみなさんも、新聞等でご存知かとは思いますが、ここに登場する(これからも登場します)我が友“篠田昇”ムービーカメラマンが亡くなりました。
 6月22日午前4時のことでした。

その日の夜中にぼくは目が醒めました。目覚まし時計を見ると2時半を指していました。いつもは再び眠りにつくのですが、この日はなぜか完全に覚醒していたので、起き、氷水を飲み、テレビをつけ、眠たくなるまでボーッとすることにしました。
テレビでは、昔のドラマ「赤い衝撃」をやっており、車椅子に乗った山口百恵の元から三浦友和が走り去っていく場面が映っていました。チャンネルを回すと、「プロポーズ」という、とてもくだらない映画が流れていました。
寝ている途中に起きて、眠れないのでテレビを見るなんてことは、ここ何年もないことでした。
やがて明るくなり始めた東の空をボケーッと眺めていると、東北東の方向に低く、星がひとつ輝いていました。
そして、かなり明るくなってから、ぼくは再び眠りにつきました。

昇の死を知ったのは、翌日23日の昼でした。

テレビ番組制作会社の友人からその旨の電話があり、通夜と告別式の日取りを伝えてきました。その時、死因はまだ不明でした。
その後、次々に彼を知る友人から電話がかかってきましたが、状況がよくわかっていないためか、しばらく会っていないせいか、極めて落ち着いて応対していました。
そして、夕方近く、本庄という大学の同期の男から電話がかかってきました。
彼はCM制作に携わる仕事柄、昇とも親しくしていて、家も近くにあるため家族ぐるみの付き合いもしていました。
彼はゆっくりと話すものの、話の内容と言い方で取り乱していることは感じとれました。
彼は、昇の病状の経緯を刻々と語りました。
始めの内はわかりにくい経緯に聞きかえしていましたが、次第に昇がその病魔“癌”と闘っていた状況が克明に思い描かれてきたとたん、涙がどっと溢れ出てきました。
あとはもう、黙って本庄の話を聞くだけで精一杯でした。

本庄は最後に言いました。
「涙が枯れるまで泣くなんて、初めてだよぉ。初めての経験だよなぁ。堀越よぉー、お前も辛いだろぉー!」。
ぼくは思わず電話を切りました。
嗚咽がいつまでもいつまでも続きました。いつ号泣に変わるかもしれないので、慌てて会社を飛び出しました。公園で気持ちを落ち着かせようとするのですが、涙は止まりませんでした。

翌日、石神井公園にある昇の家に初めて行きました。
妻のいづみさんが出迎えてくれました。彼女とは、結婚式以来の再会で特に親しくしていたわけではありませんでした。
彼女は昇のところに案内してくれました。彼を映した写真や映像では前髪で隠れてわからないと思いますが、もともと昇の顔は侍顔でりりしく、特に眉は太く10時10分だったのですが、その死に顔の眉は8時20分でした。
巨漢だった割には、その棺はぼくが収まるくらいの小さな寸法に見えました。後で聞いてわかったのですが、かなり体重が減っていたそうです。

地下にある仕事部屋を見せてもらいました。ひんやりと空調のいきとどいた、コンクリートと鉄骨で組み立てられた間接照明のその部屋には、三脚に立てられた旧式の35mmカメラ、写真の現像装置と引伸し機、ヒッチコックなどの本数冊とビートルズ、ザ・バンドのLPレコード数枚、むき出しの古いレコードプ レーヤー、自身で撮影した写真のファイル、そして一番奥には、それらが眺められるように二人掛けの大きなソファーがデーンと置かれていました。
昔、大学時代に遊んだ昇の部屋を思い出すくらいに雰囲気がとても似ていました。
 いづみさんがこれをどう整理したらいいのか、と大きな衣装ケースを見せてくれました。中は昔撮った様々な写真でいっぱいでした。それを一枚一枚見ていきました。
大学時代、お互いに撮りあった写真が出てきました。後藤和夫の結婚式に出席した写真もありました。一緒に撮った映画の撮影中の写真もありました。
マジック(インキ)で“kazuya’s box”と書かれた印画紙箱が出てきました。そこには、ぼくが課題で撮った赤羽の街の風景が何枚も入っていました。しょうもない写真なのに、そんなものまで残していました。

思えば、昔から昇は撮影を楽しんでいました。工夫をしたりして遊んでいました。
手持ち撮影が好きでした。乳母車での移動撮影もよくしました。パン(ニング)も変幻自在と言うか無茶苦茶でした。
フィルターを重ねてどんな映像になるか実験もしていました。動く絵だけでなく写真を使った静止画の再撮影もよくしました。レンズに半分ポマードを塗ったり色セロハンを貼ったりして様々なソフトフォーカスを作りました。
また、当時タブーであったガラスに撮影中の自分の姿が映ろうが、全く気にしない図太さも持ち合わせていました。
そんな創意工夫の遊び心が彼の持ち味となり、現在の地位を築いていったのだと思います。

昇は、事あるごとに弟子や生徒(講師をしていた)たちに、自分の原点は、ぼくたちグループ・ポジポジの映画『ハードボイルド・ハネムーン』であると語っていたそうです。夏に撮ったせいか、随所に光(太陽)と影のシーンがありました。きらきらした波を撮った長回しのシーンもありました。低感度フィルムの写真で撮った、コンクリートに映るぼくたちのシルエットがラストシーンでした。

いづみさんの入れてくれた冷たいお茶が、食道を抜け胃に流れる何ともない感覚に、違和感を覚えながら、ぼくはしばらくぶりに会った我が友のことを振り返りました。
『昇は、昇らしく生きていたんだ』
帰り際にもう一回、別れを言おうと顔を覗きました。
ぼくは、『なんてことはない、変わっちゃいないということじゃないか、昔のまんまじゃないか、おまえは、よ』と、心の中でつぶやいていました。

そしてそれは、ぼくにとって、とてもとても羨ましいことに思えてなりませんでした。



本庄は、直情的な性格の上、歯に衣を着せぬその物言いは、風体もあって、知らぬ人間に威圧的な印象を与える。
福本淳は、
「不思議な方ですね、篠田さんとため口聞ける数少ない方のひとりなんですが、とにかくインパクトの強い不思議な方です」
と話す。

本庄は、自身のディレクター時代に、作品の撮影を昇に頼んでいた。もちろん、長期的な撮影等、篠田の都合で断られたものもあったが、いつも優先的に引き受けてくれたという。
本庄は自分で書いた絵コンテに、必ずレンズ・サイズを記入していた。つまり、本庄の頭の中には、すでに作品映像のイメージは固まっていた。
しかし、昇はそれをいつも無視して崩していった。
撮影の現場では、ディレクター本庄が指示する地上でのフィックス撮影を尻目に、昇は勝手にクレーンに乗って移動撮影を始めようとしている。
「バカヤロー、何やってんだ、のぼるぅ! 降りて来い! このやろー」
「バカヤロー、こっちのほうがいいんだよー」
「違う違う、ここだぁ、ここから、ここから撮れー、バカヤロー」
「まかせておけって、バカヤロー」
こんなやり取りを見ていた照明助手は、本庄に「本当に仲がいいんですか?」と尋ねた。

ある日の夕方、会社にいた本庄に昇から電話がかかってきた。
「ちょっと話があるから、出て来い」
「何だよ」
「いいから、すぐに来いよ」
聞けば、本庄行きつけの中野の寿司屋にいるという。
数時間後、仕事を終えた本庄が寿司屋に出向くと、カウンターにベロンベロンに酔っ払った昇と長澤雅彦がいた。
駆けつけ三杯の本庄。
「で、話って何だよ」
へべれけ状態の昇が一言。
「勘定してくれ」
昇たちは無一文だったのである。

昇の通夜の席で、本庄は涙を浮かべながら、思い出話をしてくれた。
「昇とさあ、ロスに行った時さあ、飛行機、ノースウエストでさ、ファースト・クラスに乗って。昇が酒頼めって言うんだよな。ただなんだよ、飲み放題なんだよ、ファースト・クラスだから。
で、ワインの、一升瓶より、もっとでかいのがあるじゃん。こんなにでかいの。あれ頼めって言うんだよ。バカヤロー、そんなのテメエが頼めって。でも、オレが注文したんだ、注文したのはオレ。
で、ふたりで開けちゃってさ、ベロンベロン。
そしたら、昇がまた、もう1本貰おうぜ、だってよ。バカだよな、あいつは。
スチュワーデス呼んで、もう1本頂戴って。
そしたら、訳わからないんだけど、スチュワーデスに怒鳴られちゃった。怒られちゃった。バカだよな、あいつ」

この連載を開始してから、何度か本庄とコンタクトをとっていたのだが、お互いの都合でなかなか会うことができなかった。今年の7月、やっと昇の葬式以来となる再会をした。
が、彼の体調が思わしくなく、わずかの時間で中座せざるをえなかった。
別れ際に本庄はつぶやいた。
「オレたち、くされ縁だったんだな」

いつか、もっともっと彼と昇の“はっつぁん、くまさん”ぶりを聞きたいと思っている。


取材協力:篠田いづみ


P.S  2008年10月26日本庄克彦永眠す。残念無念。合掌。

2008年09月30日

take22作り続けるということ

1988年(昭和63年)から約10年弱もの長い間、篠田昇のもとで助手を務めてきた福本淳は、この間、篠田に本気で楯突いたことが2回ほどあった。
「夏の庭」の撮影中に1回、そしてもう1回は「MISTY」の時だった。

1993年夏。
「夏の庭」での撮影期間中、撮影が終了すると、宿泊先のホテルにあったガレージの一角に作られた撮影部用の工房に戻り、篠田から命じられた自家製機材の作成や修繕をするのが日課になっていた福本は、その日もひとりで黙々と作業を続けていた。
他の現場スタッフたちは撮影が終わると大方飲みに出かけた。彼らから声を掛けられることも度々あったが、福本はそれを断り、ひたすら作業をしていた。
そこに「毎日毎日、お前は一体何をやっているんだ」とスチルマンが工房を訪ねてきた。彼は飲みに誘っても断り続けている福本の姿に耐えかねて、酒を持ってやってきた。
「たまには飲めよ」と工房の中にゴザを敷き、他に二人ほどが加わり、酒盛りが始まった。福本はありがたみを感じ、酒をいただきながらも作業の手を休めることはなかった。
そこへ篠田が帰ってきた。篠田はそれを見て、福本を工房から連れ出し、「お前、何やってんだ。明日まで、これができなかったら、撮影できないんだぞ」と怒鳴った。
福本は福本で、自分なりに精一杯やってきている中で、他のスタッフが気を使ってくれたことに対して、それを突っぱねることはできないという思いの丈を、篠田にぶつけた。

初めて二人の真剣な怒りがぶつかりあった翌日の撮影が気になる。
「ぼくが(作業で)やったことが篠田さんの望んでいたとおりにできたかはわからないですが、結局ぼくがいろいろなことを考えて準備していっても、常に課題が生まれる。
例えば、篠田さんに3のことを要求されても、一応5くらいのことを考えて持っていく。だけど、現場に入ると、篠田さんは7くらいのことに引き上げようとする。
そういう意味じゃ、怒られた翌日だけ、特別大変なことになったかというと、そんなことはないんです」
いつものとおりではあったのだが、それなりにいつも大変だったという福本の思いが読み取れる。

篠田は福本にどのような注文を出していたのだろうか。
これまでカメラ本体から、レンズ、フィルター、フィルム、ミニジブやピィウイ等の特機の扱い、自家製ステディカム“NOBOCAM”の開発などの話から、おおよその推測は立つ。
しかし、その多くは、制約を取り払うという大原則に成り立つものの、試行錯誤の積み重ねのせいか、危険やトラブルといったリスクと表裏一体であることも否めない。
ピィウイにミニジブを乗せたはいいがレールや車輪への重量負担による故障、
いつ落ちても不思議ではない「夏の庭」のズームレンズの改造、
長澤雅彦の語る撮影中のセッティング待ち、いわゆる篠田待ち・・・。
そして、福本淳がさらに付け加える。
「篠田さんは、普通にものを使ってくれないカメラマンなんですよ。何でもそうなんですけど、普通には絶対使わない。
例えば、クレーンです。
本来クレーンにはカメラを取り付ける支柱とカメラマンとピントマンが座れる椅子が付いているんです。
で、もっと高さが欲しい時は、プラットホーム(クレーン突端の撮影者が乗る台)に三脚を立てます。その分、二人乗ることは困難になったりしますが、それはそんなに珍しいことではないんですね、よくあるんです。
当時のプラットホームの大きさって、約1.2メートル四方あるんですよ。当然、壁までの距離、ぶつかると危ないので、その分の距離がどうしても必要なんです。
でも、篠田さんはもっと壁ぎりぎりで撮影したい、と。壁ぎりぎりの撮影というものは、このままでは無理なんですね。
でも、プラットホームというのは分解式になっているので、外せるんです。それを外して、ますます危険な状態になってくるんですが、こうすると壁ぎりぎりの撮影ができるんです。
こうやって、篠田さんはクレーンでカメラが壁ぎりぎりの撮影をするようになったんです。
それと、ぼくが助手として一番困ったのは、「夏の庭」の時でした。
少年たちが初めて塀を乗り越えるショットで、少年たちの頭すれすれをカメラが通りたいと、篠田さん。
で、クレーンにカメラが乗ると、少年たちの頭よりも大分上をカメラが通過することになってしまうので、カメラをクレーンの下にぶら下げるんです。これが大変なわけです。
クレーンの下に、お釜(ヘッド)を逆さまに付けて、そこに“コの字”を付けて、カメラをぶら下げて、プラット・ホームに篠田さんが腹ばいに寝っ転がる。
左側からファインダーを出して、右側からはパン棒が出て、覗いてオペレートしているんですが、ファインダーが当たって、どうしても自分が撮りたいところへ振れなかったりする。
お釜を逆さまに付けるのをシャコ万という万力で止めてあるので、出っ張っているんですね、締め付けた部分が、それが当たる。だから、その付け方をオペレートに合わせて、変えていく。さらに大変なことになっていくんです。
ま、このように本当に普通通りには使ってくれないんです。何でもでした」
篠田昇というカメラマンは、アイディアが豊富な分、その負担を背負わなければならない助手泣かせのカメラマンでもあった。
広義に考えれば、助手だけでなく、特機部を含めた撮影回り全ての人々に対しても、何かしらの手を加えさせる、やっかいなカメラマンでもあった。
ただ、それが行定監督や長澤の言う妥協しない撮影、やると決めたらとことんやる篠田の姿勢として、高い評価と信頼に繋がっているのも、また事実である。
篠田昇は、
普通のことはやらない
“誰もがやらないことを考え出す”
“人のやったことがないことにこだわる”
“常識はずれを良しとする”
それはつまり、
“常に新しいものを作り、新しいことをやり続ける”ことであり、それはまるでアルバムを発表する度に世界を驚かせたザ・ビートルズのスタイル(在り方というか生き方というか)と、規模こそ違え、私にはダブって見えてくる。
ひょっとすると篠田昇は、ビートルズの心の中の一員として、挑戦というポリシーを貫いていたのかもしれない。それが篠田のプライドでもあったのか。
ただ彼の性格として、“人を驚かすのが大好き”というレベルの一面を持ち合わせていたということも付け加えておく。

しかし、その一方で、やりたい放題ではなく、しなくてはいけないことにも留意していた。いわゆる当たり前のことながら、常識の意識である。
「常にシステム・アップしていけ、というのが篠田さんの持論でした。ぼくらが機材を作るというのはそういうことなんです。
篠田さんの場合、当然撮影のセット・アップするのに時間がかかる。
篠田さんはそれが嫌なんです。
ピィウイにミニジブを乗せるのが大変なんだろうと、毎回同じことをやっているんだから、それが早くできるようなことをお前らは準備しろ、と。
例えば、ミニジブにカメラを乗せると、カメラ用の電源一個引くだけで、普通のカメラのケーブルって1.2~3メートルしかないので、三脚の下にバッテリーを置く分には繋げば問題ないんですが、ミニジブに乗るとカメラが動く時に足りなくなる。
それを手で持って回ったりするよりかは、長いケーブルを用意して、その長いケーブルがすぐミニジブの支柱にピッと簡単に付くようにしておけ、というようなことなんです」
「借りるよりは、何でも作りゃあいいじゃん、ということで、どんどんと手製の機材が増えていく。ケーブルの本数も増えていくと、今度はバッテリーの分岐をすればいいんじゃないの、って、バッテリーの分岐をする箱を作る。
そのうち、このバッテリーじゃ電源三つ同時に取ると、カメラが回らなくなるとか学習もしたりして、本当に次から次に、いろいろなことをやってました」
「普通、新しいものを作ると、その前のやつは捨てちゃえばいいわけじゃないですか。
それを捨てないでとっておく。しかも、それを常に持ち運ばなければいけない。
初めて助手で来た人は、これが何の時に使うのか、どんな時に使うのか、理解できるまでが大変なんですよ。
みんなによく言われますけど、何でも作って、それを使えるようにして、普通はそんなこと、なかなかしないよ、って。
ぼくもそう思うところはありましたけど」
つまり、自家製機材の開発やパーツの改良、修繕といったものは、撮影そのものの向上だけでなく、作業やセッティングの短縮に繋げる、いわば次の撮影のための作業効率を図るステップ・アップとして、篠田は指示していたのである。

「篠田さんにああしろこうしろと言われて、やってみて、結果、篠田さんの思うようにいかなかったことはいっぱいあります。
篠田さんのすごいところは、ぼくが「できない」って言う前に、「こうすりゃ、できんだろ」って、返ってくることなんです。
だけれども、「こうすりゃ、いいんだよ」ということが、ぼくらの(知識の)範疇を越えているんですね。
ぼくらは撮影助手じゃないですか。作れというものが、機材屋だったら作れるかもしれませんが、ぼくらにそれが作れるのかな、みたいなことをおっしゃる。それは、じゃ作ってみるか、ということなんですけど。
一回、無線でカメラのピントを送る機械を作れって言われたんですが、多分ぼくがキョトンとしていたのだと思います。
そしたら、「あのさ、お前さ、ラジコン・カーのギアなんか使って、うまいことできないのかよ」「よくキュッキュッてやってるだろ、それ機材と同じだろ」って。
ぼくはラジコンなんて知りませんでしたけど、原理は大体わかっていたので、買ってきて作りました」

篠田というカメラマンの特徴は、福本の「ぼくらは撮影助手なのに、何で・・・」という言葉に象徴されている。
福本に限らず、篠田の助手たちは、自分たちは撮影助手なのに、何で機材屋が作るものを作らなければならないのか、どこか疑問を感じていたに違いない。
もしくは、撮影助手以外の仕事をさせられていると、多少の反発を感じていたのだと思う。
しかしながら、それは長澤雅彦が言うように、「篠田さんが言うんだから、ま、言うとおりにやるか」と、ひたすら篠田の大らかな人間性に押し流されていたのではないか。
それは彼の結婚式や葬式に集まった数十人というおびただしい助手たちの数で窺える。彼らはみんな篠田を好きだった、慕っていたのだから。
やはり、篠田は撮影に関わる物を工夫して何でも作ろうとする行為において、特異な撮影法と併せて、他のカメラマンとは大分違っていたのだろう。

最後は、福本のオチで締めくくろう。
「篠田さんは、いづみさんと結婚されて、しばらく経った時期に、ラジコン・ヘリでよく遊ばれていた時がありました。
ぼくは、「いずれはそれで空撮ですか」って、聞いた覚えがあります」


取材協力:篠田いづみ