さて、そんなこんなでリチャード教を盲信し、布教してきた私である。来日するといえば、万難を排しお気に入りのプレゼントを携えて出かけ、ジャンケットがあるといえばニューヨークにも飛んでいった。そして、皮肉屋と称されるリチャードだが、その素顔は、チベット仏教に傾倒した敬虔なブッディストで、知的で思慮深く(ときおり、下半身は別人格にもなったようだが…)、観察眼は鋭い。ゆえに、私がどんなに舞い上がっていても、ちゃんと内容の濃い映画的なコメントをして、後に原稿を書くのに苦労しないように、いつでも気配りしてもくれるのだった。しかも、最近では、「日本に行きたい理由は、1番・京都、2番・戸田さん、3番は……ユウコ」とまで認めるように。まあ、私も努力の甲斐あって、かなり昇格したということか。
しかし、前号でも書いたように、“神”は子供を作って、俗世に舞い降りてきたのである。普通の、子煩悩なパパに変身して……。
だから、今年の夏。ニューヨークでの7度目の会見で、ホーマー・ジェイムス・ジグミーと名付けた息子の話をする、トロけそうな顔のリチャードに、神の面影はない。ちなみに、ホーマーは、ギリシャの詩人ホメロスと実の父親の名にちなんで、ジグミーはチベット名前だそうだ。で、そんな説明をしながら、ときおりジッとこちらを見つめる熱視線は、私にはまだまだ有効でクラクラはする。でも、やはり“神”と崇めるには、子供の存在がどうしても邪魔。それに、息子の母親ケーリー・ローウェルとの結婚は「いつかね」とのことで、しない可能性もあるだろうし……。となれば、これからは、私も志新たに、ただの男と女として、愛を貫くほうがいいのかもしれない。そんな、愛の新境地を胸に、リチャードのいるニューヨークを後にした。
そう、ホーマー君の生まれた2000年1月をもって、私の“信仰の旅”は終わったのだ。