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2001.12.28 UPDATE


指定第8号 広瀬正の遺稿『テイクワン』



日本の映画音楽の草分け、紙恭輔と
昭和初期のジャズ・ソング

 1972年3月9日、広瀬正は赤坂の路上で倒れてそのまま帰らぬ人となった。その日の午後、彼は紙恭輔を訪ねることになっていた。広瀬正にとって紙恭輔はジャズ奏者としての大先輩であり、戦後はともに音楽家のユニオン(職能別労働組合)の仕事に携わったこともあるらしいが、ふたりの関係についてそれ以上のことは分からない。

 東宝の前身、PCLが製作した第1回作品『ほろよひ人生』('33)のラスト。恋に破れ、ビアホールを開店した藤原釜足がひと声かけると、長い顔にコールマン髭を生やしたタキシード姿の青年がうなずき、彼の指揮で楽団が軽やかな音楽を奏で始める。山中貞雄監督や大滝詠一にも似た風貌のその指揮者こそが、日本の映画音楽の草分けのひとり、紙恭輔だった。その前年の1932年12月、広瀬正のSF小説『マイナス・ゼロ』の主人公は日本橋白木屋(のちの東急百貨店)の大火災を見物する人ごみのなかで「1ネン1クミ ヒロセタダシ」と名札をつけた少年と出くわしていた。広瀬少年はまだ、アメリカ留学から帰国したばかりの紙恭輔のことなど知る由もなかっただろう。

 広瀬正の長編SF第3作『エロス もう一つの過去』のヒロインは、東北から上京後、声楽家をめざしながら生活のために絵のヌードモデルになり、のちに歌手デビューした淡谷のり子をモデルにしている。このヒロインに恋をする主人公はアメリカ生まれの二世で、東京帝大出の電気技師。日本放送協会技術研究所に就職した彼は、1940(昭和15)年の東京オリンピックをめざしてテレビジョンの研究に携わり、参考のためにPCL撮影所を訪ねる。『エノケンのちゃっきり金太』('37)を撮影中のスタジオの玄関前にシトロエンのモダンなスポーツカーが停まっていた。そこで知人から紹介された音楽部長というのがシトロエンの持ち主で、主人公と同じ帝大出の紙恭輔だった。そのころには「紙さんて、紙恭輔?」とジャズ・ファンの主人公が驚くぐらいの有名人になっていた。



広瀬正著『エロス もう一つの過去』(1971・河出書房新社)


 『ほろよひ人生』の2年前、松竹は国産初の本格的トーキー映画、五所平之助監督『マダムと女房』('31)を公開した。関東大震災のあと、東京郊外にモダンな洋風住宅がぽつぽつと建ち始めたころの田園調布が舞台だ。主人公の劇作家は女房、子供とともに静かな郊外へ引っ越してきたが、隣家からの騒音で新作の執筆がはかどらない。文句を言いに行った彼は隣のマダムやジャズバンドの面々と一緒になって騒ぎ、ゴキゲンで帰宅。女房はヤキモチをやき、隣のマダムを「エロ100%」とののしり、「私にも洋服買って!」と怒る。後日、作家は家族と外出し、仲良く家路をたどる。所帯じみた和服姿だった女房は、とりあえずヘアスタイルを洋風にして若返っている。ドレスにまで手が届かなかったのか恥ずかしかったのか、今も和服のままだが、そのかわりショールかなんか肩にかけて嬉しそうだ。空を飛ぶヒコーキを見上げて「ヒコーキで大阪へでも行きたいわ」と言う。そこに隣家からジャズ演奏が流れてくる。

♪夕暮れに仰ぎみる、輝く青空
日暮れてたどるは、我が家の細道
狭いながらも楽しい我が家、愛の日影のさすところ
恋しい家こそ、私の青空

 アメリカの『マイ・ブルー・ヘブン』を訳詞してエノケンの相棒の二村定一が歌ったこの『私の青空』は1928(昭和3)年、日本におけるジャズ・ソングの最初の大ヒットとなり、日本のジャズ・エイジの開幕を告げる歌となった。そのレコーディングには慶応大学のジャズバンドとともに紙恭輔もアルトサックスで客演した。ちなみに訳詞の堀内敬三は浅田飴の社長の三男坊で、ミシガン大学と名門MITで電気工学を学んで帰国したが好きな音楽の道へ進んだ。彼は松竹蒲田撮影所のテーマ曲となった『蒲田行進曲』の作詞でも知られ、のちに音楽部長として松竹に迎えられ、数多くの映画音楽を手がけた。



国内外の著名人たちが集った
ダンスホール、フロリダ

 昭和初期のジャズ・ソング(和製英語)とはタンゴやシャンソンまで含めた洋楽全般をさしていたのだが、ともかく『マダムと女房』のマダムは当時の女性で最もモダンな「ジャズ・シンガー」という設定だった。淡谷のり子が五所平之助の紹介で日本ジャズ界の先駆者・井田一郎のレッスンを受け、日本初の女性ジャズ・シンガーとしてレコード・デビューしたのは、この映画の前年だった。

 『マダムと女房』の劇作家は脚本家・北村小松自身のパロディだが、実際の北村は慶応大学出身のモダン・ボーイで、所帯じみた女房はいなかった。彼は日本のジャズのメッカだったダンスホール、フロリダのトップ・ダンサーと結婚し、ダットサンを乗り回していた。フロリダは1929年、赤坂溜池にオープン。ダンスホールは全国津々浦々、さらに大陸にも続々とオープンしたが、その最高峰がフロリダであり、森山良子の父をはじめとする二世のジャズ歌手、ジャズ奏者、外人バンド、日本の作家、映画人、さらにチャップリン、ダグラス・フェアバンクスら内外の著名人が集まる国際的社交場だった。夏目雅子に匹敵する戦前の美人女優・桑野通子はフロリダのダンサー出身で、数多いダンサーのなかでナンバー・スリーぐらいの地位にいたという。清水宏監督の松竹映画『恋も忘れて』('37)には彼女の美しいダンス・シーンがあり、これだけでも一見の価値がある。

 フロリダが閉鎖されるまでの10年間が日本のジャズ・エイジの全盛期であり、ディック・ミネ(『ほろよひ人生』ではドラムを叩いていた)のジャズ・ソング『ダイナ』が100万枚突破の大ヒットを記録した1934年ごろがピークだったようだ。そんな時代を背景にした『マダムと女房』のラストシーンには、モダンな洋風の生活に憧れ、狭いながらも楽しい我が家で暮らす夢をみることができた中流家庭の姿と明るく光輝く青空があった。しかしその一方で、すでにジャズやダンスホールを弾圧しようとする暗い影もあり、1930年には大日本雄弁会講談社がキングレコード部を開設して「レコード界浄化と健全なる音楽の提唱」を目的に『天皇讃仰』『僕等のお国』などを発売。1933年には斉藤茂吉夫人、つまり作家・北杜夫の母が、時局をわきまえぬダンスホール通い、不良ダンス教師との不倫疑惑で警視庁の事情聴取を受けた。まさに「エロ100%」の有閑マダムとして世間の非難を浴びた彼女は田舎の旅館に軟禁され、敗戦まで家族との別居生活が続いた。

 紙恭輔はそんな光と影が入り交じった時代を、ジャズマン、PCL映画の作曲家、PCLオーケストラ指揮者、PCL音楽部長として生きたのである。(この項つづく)




関東大震災後の大正末に田園調布に建てられ、現在はスタジオジブリの近く、宮崎駿監督や高畑勲監督もよく訪れる江戸東京たてもの園(都立小金井公園内)に移築されている中流住宅。『マダムと女房』のマダムが住んでいた田園調布の洋館ほど広くはないが、中流階級の夢がつまった狭いながらも楽しい我が家は、震災後に一斉に花開いた日本のモダニズム、ジャズ・エイジの空気を伝えてくれる。キッチンには外国製のオーブンがある。



キツツキ型の玄関灯は現代では見られないモダンなデザイン。明るい光が降り注ぐテラスの向こうから今にも『私の青空』が聞こえてきそうだ。



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