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「92式重機関銃」
指定第6号
「『マイナス・ゼロ』台本」


2001.12.1 UPDATE


指定第7号 幻の日活コルト



(警視庁から借りた)実銃から模造拳銃へ
日活コルト登場!


宍戸錠 ※自画像



 『独立重機関銃隊未だ射撃中』('63)は岡本喜八の『独立愚連隊』シリーズとは違ってシリアスな戦争映画だ。敗戦直前のソ満国境。日本軍守備隊のトーチカに置き去りにされた数名の将兵のみによる緊迫した密室劇である。そのトーチカを守るのが前回で紹介した92式重機関銃だ。命と引き換えに天皇から賜った恩賜のタバコを指揮官の三橋達也が投げ捨て、無言で踏みにじる。タバコに印刷された菊の紋章を灰にするだけでも不敬とされた。踏みにじったりしたら、その場で銃殺だろう。恩賜のタバコ(今でもあるが)をアップで見たのも、踏みにじるのを見たのも、この映画が最初で最後だった。主演の三橋自身、敗戦後、シベリアに抑留されていただけに、彼の演技には真に迫るものがあった。

 三橋主演のハードボイルド映画『野獣の復活』('69)でも実銃や実弾が使われ、考証も本格的だった。ご本人に会えば鉄砲の話が聞けるだろうと思って訪ねたら、三橋達也はイタリアの名工に作ってもらったという手工芸品のように美しいショットガンを見せてくれた。20年前のことだが、当時、彼は全国で40人もいない日本クレー射撃協会師範の資格を持つ射撃の名手だった。『第三波止場の決闘』('60)でギャングの足にからまったロープを銃弾で切断して助けるシーンがあり、三橋が実弾を撃ったら一発で命中したというから、その腕前が分かる。銀座生まれの江戸っ子、ダンディで話術も巧みな彼は戦後、日活で川島雄三監督の分身ともいえる役柄をしばしば演じた。東宝に移籍しなければ、日活アクションでもおおいに活躍していただろう。

 日活アクションの歴史も実銃によって火蓋が切られた。そのころはもう、その筋も気前がよくなくて、鈴木清順助監督は警視庁へ何度も足を運び、さんざん厭味を言われて、ようやく不細工な拳銃を貸してもらったという。空砲を何発撃つか事前に届け出る義務もあった。そうして記念すべき日活アクション第1号、ミッキー・スピレーン原作『俺の拳銃は素早い』('54)の最初の銃声は「十二月の寒い夜、浜松町の駅裏でドシャ降りの雨を降らせるなかで、警視庁広報課、銃砲課係官立ち会いの下、華々しくと云い度いところだが、私はやれやれやっと鳴ったという思いの方が強かった」(鈴木清順著『花地獄』1972・北冬書房)

 数に制限のある警視庁の拳銃では銃撃戦も物足りず、やがて撮影現場への出張も制限されたので模造拳銃が登場。清順さんの記憶では日活よりも東映のほうが先に模造拳銃を使い始め、性能もよかったという。初めは単発だった模造拳銃も4連発になり、薬莢も飛び出すようになり、日活アクションの名脇役となった。これが世に言う日活コルトだ。




満員のバーで披露された
“エースのジョー”の早撃ち実演

 模造拳銃がまだ発展途上にあったころ。和製西部劇『早射ち野郎』('61)で黒ずくめのガンマンを演じた宍戸錠は、アメリカから持ち帰った6連発の拳銃を堂々と使っていたそうだ。無法の西部と化した日活撮影所に、法の手が及ぶはずもなかった。当時、ライフルなど長物の実銃は自由に使えたそうで日活には常時、正規に登録された十数挺のライフルやショットガンが小道具銃器室に並んでいたという。エースのジョーこと宍戸錠は「0.65秒、早射ち世界第3位」と誇大宣伝され、それを信じる子供たちは少年雑誌の通販で買った空気銃で雀を撃ったりしていた。東宝撮影所でも岡本喜八が三船敏郎からもらったホンモノのウィンチェスター銃で西部劇ごっこをしていたそうだ。

 そんなノンキな時代も長くは続かなかった。1965年、平尾昌晃、桑田次郎、大藪春彦、石原裕次郎、葉山良二、本郷功次郎、大鵬、柏戸らの有名人が拳銃密輸や不法所持でマスコミを騒がせた。翌年、小林旭も拳銃(これも私物らしい)を撮影に使ったとして取り調べを受け、その際、過去に警視庁が映画会社に実銃を貸していた事実が「発覚」して警視庁首脳部は「常識では考えられない」と驚いてみせた。その後、いわゆる過激派によるテロやハイジャック事件に乗じた銃刀法改正で1971年10月、金属製モデルガンの所持まで規制された。このとき模造拳銃規制に対する怒りを表明したのが前記の清順さんのエッセイだ。以後も、ヤクザ以外の民間人から鉄砲を取り上げようとするイヤガラセ的な法改正が続き、三橋達也らは「刀狩りにも等しい相次ぐ法改正に義憤を感じて」芸能文化人ガンクラブ(森繁久弥会長、三船敏郎副会長、三橋達也理事長)を結成し、当局に対抗しようとしたが、嫌気がさした高倉健、萬屋錦之介らはやがて射撃をやめ、脱会してしまった。

 もう1960年代以前の小道具の拳銃なんて残っていないだろうな。日活コルトがどんな銃だったのか、今となっては知りようもないのか。と思っていたら、『世界映画・拳銃大図鑑 小林弘隆ベストワーク集』に幻の日活コルトが分解図入りで紹介されているのを見つけた。邦洋のアクション映画や西部劇の銃器をイラストで紹介した本だが、日本映画の現場で小道具の銃器の制作に携わった人々の貴重な証言も非常に面白い。日本映画のガンプレイを支えてきたのは小林のようなガンマニアや零細な町工場であった。



『世界映画・拳銃大図鑑 小林弘隆ベストワーク集』(1997・洋泉社)

著者の小林弘隆は戦前、小説の挿絵のモダンな美人画で人気のあった小林秀恒の息子。1955年、父の弟子だったSF、戦争画家・小松崎茂に弟子入り。その後、モデルガン・メーカーMGC入社。1994年、55歳で病死。墓石には家紋の代わりにコルト・ピースメーカーの6連発シリンダーの断面が刻まれた。『226』('89)には小林が資料を提供して制作された精密な92式重機関銃と11年式軽機関銃が登場。『ロボコップ2』('90)では小林が製品化したMGCのモデルガンがロボコップの銃として使用されたという。



 で、問題の日活コルト(実際には3種類あった)は、お世辞にも名銃とは言えなかったらしい。グリップに内蔵した乾電池で銃口に仕込んだ4連発の花火を発火させるだけのオモチャだったのだ。宍戸錠の『シシド 小説・日活撮影所』(2001・新潮社)によると日活コルトは発火しないことも多く、撮影には苦労した。リハーサルでは火薬の節約のために「バン、バン」と口で言っていたという。そんなオモチャでも、日活コルトは日本のアクション映画の歴史を物語る貴重な遺産なのだ。もし、この模造拳銃が現存していてどこかに展示しようとするなら、これはただのオモチャです、決して革命や暗殺に加担する心配はございませんと証明するために、銃口をふさいで、銃は黄色か白色で塗りたくらねばならないのである。

 『早射ち野郎』から20年ほどたったころ、機械で計測してみたら、なんと0.65秒ジャストで撃てた、と実演をまじえながら宍戸錠が嬉しそうに話してくれた。ふらりと立ち上がったエースのジョーは20年前を思い出して指鉄砲を撃ち、ニヤリと笑った。満員のバーの客の誰ひとり、この中年の酔どれガンマンに見向きもしなかったのは残念であったが。

※第7号「幻の日活コルト」は、第5回「92式重機関銃」からの続きです



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