
|

2001.11.12 UPDATE
 |
 |
天才SF作家・広瀬正とタイムマシン |
1972年3月9日、広瀬正は赤坂の路上で倒れてそのまま帰らぬ人となった。死因は心臓発作。長編デビュー作『マイナス・ゼロ』が刊行されてから、わずか1年半後のことだった。天才SF作家・広瀬正は文字通り彗星のように現れ、消えていった。名前すら知らない人もいるかもしれないので、死の直後に刊行された長編SF『鏡の国のアリス』の著者紹介を引用すると…。
広瀬正は1924年、東京京橋に生まれ、東京空襲までそこで過した。音楽や自動車に興味を持っていたが、徴兵猶予のある工科に進学し日大建築学部卒業の年に敗戦を迎えた。その後米軍キャンプのバンドを渡り歩き、やがてフルバンド「広瀬正とスカイトーンズ」を結成、1960年まで続く。そのかたわらクラシック・カーのモデル製作に着手し世界的に稀有なプロ作家となる。また1961年より活字の世界に転身、あり得ない世界の物語りを、独特の空理とイマジネーションで描き始めた。長編第一作『マイナス・ゼロ』は発表とともに一躍評判になり、『ツィス』『エロス』と三期連続直木賞候補にあげられた。タイムマシンをつかった過去の改変が文学的パトスの中心を占め、タイムマシンの製作も真剣に考えていたが、『タイムマシンのつくり方』という短編集を残しただけで、1972年3月9日死去。広瀬正をおさめた棺には「TIME
MACHINE」と印された。
直木賞選考委員のひとりであった司馬遼太郎は正鵠を射た批評で広瀬正のSF小説を絶賛した。『広瀬正・小説全集2 ツィス』(1977)に彼が寄せた解説文の全文をそのまま紹介したいところだが、一部だけを抜粋する。司馬氏が自身の選評を引用しつつ、当時を振り返って書いた追悼文である。
「私は広瀬正氏の『エロス』を推した。(中略)この作品は『マイナス・ゼロ』『ツィス』につづいて三度目の候補作である。このあまりにも現実離れした遊びの世界は二作ともおおかたの共感を得ず、こんどもそうであった」
「この文章につけ加えるべき言葉はない。もしあるとすれば、広瀬正という天才以外にはたれも構築しようのない独自の小説世界に対し、何度も叩頭したいというだけである。広瀬氏の作品は、物理学的な、あるいは化学的な、さらには社会心理学的な無数の材料でもって、構築されているように見えながら、一種ふしぎな悲しみがただよっているのはどういうことなのであろう。この悲しみは、少年が夕空を見て不意に襲われる底(てい)のきわめて純度の高い感情といっていいが、(中略)その後、ほどなく広瀬氏の急死を知ったとき、私が感じたあの奇妙な感動が、脳裏にひろがって、やりきれぬほどの悲しみに襲われた。氏にはついにこの世で会うことがなかった。それだけに、私の悲しみの感情も、氏の作品の透明感と似て、余分な景色というものは帯びてない」
司馬氏によると、直木賞選考委員の多くは『マイナス・ゼロ』に対して「素朴なリアリズムの立場からの疑問」を呈したという。タイムマシンによる過去や未来の改変などあり得ないというのだ。信じがたい愚かさだ。「こら、あかんわ」とあきらめたらしい司馬氏は「途中で推しつづける根気をうしなった」という。
だが、一般読者はこの未知の作家の登場を歓迎し、新作が出るたびにヒットチャートのトップを独走していたことを僕はよく覚えている。これほど知的な小説を、これほど多くの日本人が読んでいた時代は、あとにも先にもないだろうと思う。広瀬正が急死した翌年、小松左京の『日本沈没』が映画化されて大ヒットした。この粗雑にして空疎な大作の登場は、特撮監督・円谷英二の死(1970)に続く、日本SF史の転回点であった。
|
 |
広瀬正著『マイナス・ゼロ』(1970・河出書房新社)
この作品は1965年、SF同人誌『宇宙塵』に連載されて評判になったが、SFに理解のある出版社が現れず、5年間もオクラ入りしていた。その5年間、広瀬正は輸出用のクラシック・カーの模型を製作していた。ネジ1本まで手作りのその模型は彼の小説と同じく驚くべき精密さで、当時の国産自動車よりも高価だったという。今もヨーロッパの金持ちの家に眠っているのだろうか。 |
 |
 |
届けられなかった台本
幻のままのSF映画 |
東京空襲から始まって18年後の東京へ、さらに戦前の東京へと舞台が移る『マイナス・ゼロ』も、戦争によって大きく運命が分かれる2つのパラレル・ワールドを描いた『エロス もう一つの過去』も、いわば時空を超えたすれ違いメロドラマであり、ジャック・フィニイの長編SF小説『ふりだしに戻る』や、この小説を下敷きにしたらしいSF映画『ある日どこかで』('80)、あるいはデビッド・トゥーヒー監督の傑作『グランド・ツアー』('91)などに通じる部分もある。が、フィニイらの作品とは違って、広瀬正の作品の底には「一種ふしぎな悲しみ」が流れていて、それは司馬氏が正しく指摘したとおり「作者の精神のなかにある透明度の高いナルシシズムというものかもしれない」。広瀬正は自作に必ず自分自身を登場させた。『マイナス・ゼロ』と『エロス』の献辞には「この本を少年時代の自分に送る」と書いた。贈るではなく送る、つまり、本当に過去の自分に届けたかったのだ。その透明度の高いナルシシズムが、時代も世代も超えて、我々読者の心の奥深くにも秘められているナルシシズムに共鳴して、不思議な悲しみを感じさせるのだろう。
広瀬正の棺に「タイムマシン」または「タイムマシン搭乗者 広瀬正」と書かれていた(参列者の記憶に少し食い違いがあるが、正しくは「タイムマシン 搭乗者 広瀬正」ではなかったか)というのは、よく知られたエピソードだ。が、藤田敏八監督が日活で『マイナス・ゼロ』の映画化を企画していたことを覚えている映画ファンはいるだろうか。
「かなり前に広瀬さんと旅館にこもって、脚本にして、印刷したものを彼に届けようとした朝、彼が倒れちゃったんですよ。お通夜から葬式までずっといてね、彼の棺の中に、そう、タイムマシンと書かれた棺の中に、その台本を入れたんですよ。あれをやるには、昭和11年の銀座のセットを作るだけで5千万円かかるということもあって、実現できなかったんですけどね。いや、まだ、あきらめちゃいませんよ。SFはやりたいですね。人間が裏側にベッタリついてるSFをね」
と、今は亡き藤田敏八監督が語ってくれたのは、日活がにっかつへと社名を変えた翌年の1979年夏だった。原作には昭和7年の銀座が出てくるのだが、脚本では昭和11年に変更したのか、藤田監督の記憶違いか。それはともかく、もし『マイナス・ゼロ』が映画化されていれば、日本SF映画史上に輝く金字塔となっていたかもしれない。H・G・ウェルズ原作『タイムマシン』の主人公(作者の分身)と同じようにタイムマシンに乗って旅立った広瀬正。彼の棺に入れられた『マイナス・ゼロ』の台本は、無事、広瀬正少年の手に届いただろうか。そして、どこか別の世界では、成長した広瀬少年が、その台本を映画化してはいないだろうか。
|
 |
にっかつ撮影所での藤田敏八監督(1979)
背景のガレキの山は、解体されたステージの残骸。撮影所の敷地の半分が売却され、跡地にはマンションが建つということだった。ガレキの向こうにはかつて日活銀座と呼ばれたパーマネントのオープン・セットがあったはずだが、それも跡形もなくなっていた。パーマネントも決して永久ではなく、わずか20年ほどの命だった。 |
|