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2001.8.14 UPDATE
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“ラジオの神様”と呼ばれた
音響効果の創始者・和田精 |
「和田誠さんのお父さんも効果マンだったんですよ」と、僕に教えてくれたのはNHK効果部の織田晃之祐さんだった。1980年、日本には2000人もの音響効果マンがいたが、そのなかで織田さんが初めて自作の音を作品としてレコード化したのは効果史に残る快挙だった。そのとき音響効果について話を聞いた。
「『ハワイ・マレー沖海戦』('42、特撮:円谷英二)という映画があるでしょ。あれで飛行機の急降下音を作ったのが、我々の大先輩の岩淵東洋男さん。どうやってあんな音を作ったのか、いまだに語り草になってますよ。戦後作られた記録映画の急降下音は、みんなあの映画の音を流用してるんです。仲間同士でも絶対にネタは明かしませんね。僕は岩淵さんから急降下音の作り方を教えてもらったけど、たぶんそれもウソでしょう(笑)」
何もかも初耳で、和田誠のお父さんの話も「へぇーっ」と思ったのだが、詳しいことは聞き漏らした。最近、図書館で岩淵東洋男著『わたしの音響史 効果マンの記録』という珍しい本を見つけた。以下はその引用。
「わが国における『効果』の創始者は和田精であり、今日のラジオ、テレビドラマの基礎を作り、質的向上を計った第一の功労者であった(中略)。和田が築地小劇場に参加したのは、小山内薫や土方與志らのかかげたモットー『演劇のために、未来のために、民衆のために』に共鳴したからであったが、当時のもっとも新しい媒体、ラジオ放送に積極的に参加しようとしたのも、その精神によるものであった。その和田の名を最初に高らしめたのは、大正十四年八月十三日に放送された、リチャード・ヒューズ作『炭坑の中』であった。小山内薫の演出によるこのラジオドラマは、放送史上の記念碑的作品であるだけでなく、効果史にとっても出発点となるものであった。和田精は、大阪中央放送局演出部を経て、戦後、毎日放送取締役、制作担当総務を歴任している。重役でありながらドラマ作りを続け、三年連続して芸術祭放送部門の文部大臣賞を受賞している」
和田精は「ラジオの神様」と言われた効果マンであり、演出家であったが、彼を創始とする音響効果の資料はきわめて少なく、和田の孫弟子にあたる岩淵は自分の足で調べて6年がかりでこの本を書き上げたという。東京愛宕山放送局(現・NHK放送博物館)の初期のラジオドラマ(もちろん生放送)では、愛宕山下の神社でダイナマイトを爆発させて周辺住民を驚かせたとか、ムチャクチャな逸話も紹介されている。 |
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『わたしの音響史 効果マンの記録』(岩淵東洋男著・1981・社会思想社)
表紙イラストは和田誠。曲がった煙突のようなものが和田精らが考案した「噴煙の音」を出す装置。ホルンに似たものは東宝の前身のPCLが輸入したウインド・マシンで、風の音を作る。その左の小さな円筒は鳥寄せに使うバード・コールで、木の筒と金属の棒をこすり合わせて小鳥の鳴き声を出す道具。これと同じものが戦前にもあり、岩淵も何個か自作した。戦後もNHKに1個残っていたが、すでにすり減って音が出なくなっていたので織田晃之祐らにとっては幻の道具だったという。1970年代末のアウトドア・ブームのころにアメリカでバード・コールが大ヒットし、日本にも輸入された
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和田精から岩淵東洋男、織田晃之祐らへと
受け継がれてきた伝統 |
1921年、東京明治座の市川左団次一座公演『俊寛』(演出・小山内薫)で「噴煙の音」を出すための音響装置を考案、制作したのが山田耕筰、伊藤憙朔、土方與志、和田精という二十代の青年たち。この公演こそ日本の「効果」の芽生えであったと岩淵は言う。1924年、土方、小山内の築地小劇場が開場。初公演で和田は音響操作を担当し、その後、効果と照明を担当。そして1925年(大正14年)、前述した日本初の本格的ラジオドラマ『炭坑の中』の効果を担当。
1929年、明治座公演で和田精は汽車の通過音を作って観客を驚かせた。これがきっかけで翌年、大阪放送局(現・NHK近畿本部)に演出家として招かれて職員となった(それまではいわばアルバイトで、数の少なかった効果マンは舞台、ラジオなどを兼業した)。その数年後に和田誠が生まれた。当時の大阪放送局は東京をはるかにしのぎ、優秀な人材が集まっていた。が、「エフェクトマン」と呼ばれていた効果マンが、いつのまにか「擬音係」へと地位が低下。擬音は効果の手段のひとつにすぎないのに「擬音係」という誤った呼称がトーキー映画にも広まり、録音技師の支配下に属するようになった。
『ハワイ・マレー沖海戦』の急降下音は、岩淵らが苦心して作りだしたものだが(その方法は岩淵の本に公開されている)、現在、この映画の資料には彼らの名前すら残っていない。それでも東宝は早くから「音響効果」という呼称を使っていたから「擬音係」よりはましだった。ちなみに岩淵が東宝で効果を手がけた映画には『蛇姫様』('40)、『姿三四郎』('43)などがある。戦後日本映画の効果音で最も有名なのはゴジラの鳴き声だろうが、それに似た動物の鳴き声を作る装置は昭和初期の演劇やラジオですでに使われていたという。この装置を誰が考えたのか、これも効果史の空白に埋もれてしまっている。
NHKに独立した効果部が誕生したのは岩淵が在職中の1968年。NHK効果部は世界最高レベルにまで成長し、かつての擬音係は効果部ディレクターとなり地位を回復した。和田精から岩淵東洋男、織田晃之祐らへと受け継がれてきた独創性を重んじる伝統(あえてネタを秘密にするのも和田以来の伝統)のなかで生みだされた数々の成果は、日本映画の音にも少なからぬ影響を与えたに違いない。
前回紹介したウェスタン・エレクトリックやムービートーンの先駆となったアメリカ製のフィルム式トーキー、フォノフィルムをいち早く採用し、ミナトーキーと名付けた日本初のトーキー映画が『黎明』('27)だった。そのスタッフ表には監督・小山内薫、作曲・山田耕筰、装置・吉田謙吉らと並んで「音的効果・和田精」とある。ラジオドラマ『炭坑の中』の2年後、彼は日本映画初の音響効果マンにもなったのだ。日本の演劇、映画、音楽、考現学の歴史に名を残すスタッフが集まり、築地小劇場の俳優たちが出演し、のちに小津映画の常連となる杉村春子、高橋豊子(とよ)らも端役で出ていたこの映画は現存せず、不明な点が多いという。発声不調でオクラ入りしたとの説もある。
浅草7丁目、旧山谷堀の近くに待乳山(まつちやま)聖天こと本竜院という寺があり、二股大根の彫刻で有名だ。石段の脇に小さな石碑がある。これは『黎明』の製作者・皆川芳造が自分で自分をほめるために戦後になって建てたミナトーキーの記念碑だが、昔、この石碑を見たときには、まさか二股大根(夫婦和合のシンボル)と同居している石碑が和田誠のお父さんと関係があろうとは夢にも思わなかった。『黎明』と同じ年、アル・ジョルスンが「お楽しみはこれからだ」というセリフを発し、そのセリフを借用した名エッセイを和田誠が書いたのは、ずっとあとの話。
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『ミュージック・エフェクト 織田晃之祐の世界』('80・ポリドール)
織田の初のLPで音楽と効果を融合させた『NHK特集』のサントラ盤(CDはキングから発売中)。自然音、効果音、織田の音楽と口笛を収録。口笛の録音は恥ずかしくて絶対に人に見せないそうだが、彼の温厚な人柄からは想像もできないハードボイルドな音色。このLPのあとも何枚かのLPとCDを出した。最近、『NHKアーカイブス』で再放送された佐々木昭一郎演出の単発ドラマ『マザー』('69)、『さすらい』('71)などの効果も織田が手がけた
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