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2001.7.5 UPDATE
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トーキー映画の誕生!
映写、録音・再生システムの変遷 |
1927年10月6日、ワーナー映画『ジャズ・シンガー』のアル・ジョルスンが「お楽しみはこれからだ」としゃべったときからトーキー映画の歴史は始まり、『雨に唄えば』('52)で描かれたようなドタバタ騒ぎがあったものの、おおむね順調に発展してきたのだろう、日本のトーキー映画も同じような道をたどったのだろう、と僕は漠然と思っていた。そもそも『ジャズ・シンガー』がどうやって録音されたのか、考えたこともなかった。
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『ジャズ・シンガー』
監督:アラン・クロスランド
1927年アメリカ映画
1時間30分
VHS:2480円(税抜き)
ワーナーホームビデオ |
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岡俊雄著『フィルム・ミュージック』('88・教育社) によると、1924年に電信電話会社ATT(現AT&T)の子会社のウェスタン・エレクトリック(WE)がディスク式電気録音・再生システムを完成。倒産寸前のワーナーはWEのディスク式トーキーに社運を賭け、音楽と効果音入りのサウンド版映画を製作。続いて『ジャズ・シンガー』が世界初のパート・トーキー劇映画として成功を収め、翌年、同じくアル・ジョルスン主演『シンギング・フール』('28)も記録的な大ヒット。その記録は『風と共に去りぬ』('39)まで破られなかった。
ディスク式トーキーのディスクとは、なんのことはない、撮影機や映写機と同期回転させるレコードなのだ。この方式には大きな欠陥があった。録音時間が短い。フィルムやテープのように容易に編集できない。再生用のレコードがすぐにすり切れる。レコードの針を落とす位置にはスタートマークがあるが、フィルムが切れたりすると同期が狂って画面と音声がずれてしまう。
1926年、フォックス社はシオドア・ケースのフィルム式(光学式)録音システムの特許を買い取り、さらにWEに技術協力を求め、1927年4月30日、ムービートーンと名付けたフィルム式トーキーのニュース映画を公開。こちらのほうが映画技術史の上では『ジャズ・シンガー』よりも画期的な出来事だった。
メジャー各社もフォックス=WEのムービートーンを採用。後発のRCAはメジャー以外の映画会社に自社のフィルム式トーキーを売り込んだ。ワーナーも1931年ごろにはディスク式からフィルム式に変換。こうしてWEとRCAがアメリカのトーキー映画市場を独占した。
フィルム式トーキーのサウンドトラックには、WEの可変濃淡型(上映用フィルムの端にバーコードのような縞模様を記録)とRCAの可変面積型(心電図のようなギザギザ模様を記録)がある。そのシマシマやギザギザに映写機の光が当たり、光の強弱を光電管が電流に変換して(録音はその逆の方法で、録音専用フィルムに音声だけを記録する)アンプで増幅する過程は同じなので、2つの方式には互換性があった。映写機を選ばないことがトーキー普及を早めた。1929年、WEは日本進出を計画。トーキーで他社に遅れをとった日活が提携を申し出て、1933年に第1作を製作。こうしてWEの録音・再生システムが日本映画界にもたらされた。
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『マダムと女房』
監督:五所平之助
1931年日本映画 57分
VHS:3800円(税抜き)
松竹ホームビデオ |
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一方、WEよりも低コストの国産トーキーの研究を各社が続けた末、松竹が土橋(つちはし)式トーキーを完成。その日本初の本格的オール・トーキー映画『マダムと女房』(1931)の録音機を自作した松竹の録音技師・土橋武夫のインタビューが『聞き書 キネマの青春』(1988・リブロポート)
に収録されている。彼は土橋式トーキーの研究中に、ぜひさわってみたいものだと思っていたWEの優秀なフィルム式トーキー録音機(当初、WEは機密保持のために厳重な監視を付けて日本の映画会社に貸与していた)を、いつどこで入手したのか、自宅の研究室に今も保存していると語っているのには驚いた。こんな物持ちのいい人はいないだろうと思っていたら、上には上がいた。
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名画座・早稲田松竹の映写機。20年ほど前の撮影だが、当時でもこの映写機は骨董品に近い珍品。映写ランプには電球ではなくアーク灯を使用。電気溶接機が中に入っているようなもので強烈な光と熱を放つ。「電球よりも画面のヌケがよくて鮮明なんですよ。部品のあるうちは使い続けるつもりです」と、当時の支配人は語っていた。この種の映写機は1950年代ごろまでは欧米でも広く使われていた。これに似たスタイルの映写機の後部に電気蓄音機を取り付けたのが初期のディスク式トーキーの映写機だと思ってもらえばいい。
(撮影:藤田真男) |
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偶然から発見された
RCAマイクほか数々の逸品 |
2001年4月10日放送のテレビ東京『開運!なんでも鑑定団』春のスペシャルに、松竹の録音技師だった佐々木秀孝の遺品の数々が登場。佐々木は趣味と仕事を両立させたオーディオ・マニアで、京都の未亡人宅の床が抜けそうなほどの膨大なコレクションは素人目には粗大ゴミの山としか映らないが、処分する前に一度、鑑定してもらいたいとのことでスタジオに運び込まれたのだ。これが実は、若いオーディオ・マニアの面々がヨダレを垂らさんばかりの逸品、珍品ぞろいで、粗大ゴミどころか宝の山と判明。WEの巨大な劇場用スピーカーとアンプ一式で時価1500万円。その他、スペアの真空管や各社のマイクなど、総額7200万円という鑑定結果に未亡人も驚愕していた。遺品のうちRCAのマイクは小津安二郎監督『晩春』('49)で使われたもの。清水寺でのロケで松竹の備品のマイクを使ったところ、性能が悪くて周囲の雑音まで拾ってしまう。そこで佐々木技師が私物のRCAのマイクを提供して無事、ロケは終了。あとで小津監督から金一封を贈られたという。彼が小津作品を手がけたのは、この1本だけだが、他に国産初のカラー映画『カルメン故郷に帰る』('51)などの録音も手がけている。
番組では簡単な説明しかなかったが、どの機材もそれぞれ由緒あるものかもしれず、これは早速、日本映画遺産に指定しなくてはいけません。
ついでといってはなんだが、前記の土橋武夫が保存していたWEの録音機も併せて指定。もしかしたら山中貞雄監督の日活時代の傑作『丹下左膳余話・百万両の壺』('35)で、この録音機が使われた可能性だってあるのだから。
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〔前々回の訂正〕
大映ビスタビジョンカメラなど3台のカメラが並んでいる写真は逆版でした。したがって写真の左端ではなく右端に逆版で映っているのがテクニカラーカメラ……と思ってよく見たら、これは前回で紹介したコニカラーカメラでした。最近、老眼で、すみません。外観は似ているが、レンズが傾いているのでコニカラーカメラと分かる。 |
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