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2004.4.30 UPDATE
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指定第29号
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森崎東と御真影/金枝に触れた映画人 戦前戦中編 |
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明治天皇の「御真影」と
大阪庶民からの手紙 |
ボロ家に住みながら女道楽をやめないグウタラ亭主・花沢徳衛が「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」と昭和天皇の終戦の詔勅をまねて女房に不平を言うと、内職しながら耐えがたきを耐え続けた女房の清川虹子も天皇の口グセをまねて「あっ、そう」と亭主を無視する。テレビからはNHKの「君が代」が流れ、夫婦の頭上には明治天皇・皇后の肖像写真、いわゆる御真影が飾られている(ビデオではトリミングされて、よく見えないのが残念)。これは森崎東監督のデビュー作『喜劇・女は度胸』('69)の一場面だ。
森崎映画に必ず便所が登場するのは有名だが、天皇の肖像も登場するということを僕に教えてくれたのは、映画仲間の医大生・大森一樹君(現・監督)だった。のちに『女生きてます・盛り場渡り鳥』('72)の試写会のあとで森崎監督に初めて会い、天皇の肖像のことを確かめたところ、やはり大森君の言うとおりだった。森崎さんは「いやぁ、そこまで見てくれてますかぁ」とテレながらも感激していた。が、彼がなぜいつも天皇の肖像(ときには日の丸や君が代で代用)を、しかも便所と並列させるように画面に出すのか、その理由は聞かなかった。彼の思いが何となく理解できたのは、もう少しあとのことだった。
戦前戦中、天皇は「神聖にして冒すべからず」の存在だった。その神聖を冒すものには不敬罪が適用された。当局は外国映画での王室の描き方まで神経を尖らせ、『ヘンリー八世の私生活』('33)なども喜劇的な描写が問題になったのか公開されなかった。
天皇が現人神(あらひとがみ)になったのは明治以降のことだ。皇室の儀式も、そのほとんどは神代の昔ではなく明治以降に定められたものだ。みなもと太郎の大傑作歴史ギャグ漫画『風雲児たち』によると、江戸時代の天皇は京都御所に隔離され、外界のことは何ひとつ知らされていなかった。天皇家には格式にのっとった多くの決まりがあり、食卓にも豪華な料理を並べることになっていた。が、そんな金はないので出入り業者からもらった魚や野菜の生ゴミを並べた。公家はもっとみじめで、岩倉具視は子供のころから賭場で使う花札を描く内職をし、屋敷は賭場としてヤクザに貸して生活していた。
そんなふうに幕府は天皇や公家を飼い殺しにしていたのだが、王権を剥奪しようとは決して思わなかった。そこが日本の天皇制の不可思議な点でもある。江戸末期、明治天皇の父・孝明天皇から220年ぶり幕府宛ての勅令(お手紙)が届いた。日本は神代の昔から鎖国をしいていて、西洋人は妖怪だと思っていた天皇は、西洋人の上陸を阻止せよと命じた。このとき、政治に口出ししようとする天皇家を幕府が徹底的に弾劾しなかったのが致命的な失敗だった――と、みなもと先生は自らの見解を述べているが、もし、そのとおりになっていたら世界の動きに逆行する王政復古もなく、日本はもう少しちゃんとした近代国家に生まれ変われたかもしれない。
庶民のほうも天皇のことなど何も知らなかった。明治になってからでもまだ、地方への巡幸(宣伝旅行)に来た天皇にまったく無関心な庶民がいた。そんな天皇と国家の権威を認知させるために、天皇の肖像がいかにして神聖化され、民衆支配のための小道具として利用されていったかは多木浩二著『天皇の肖像』('88・岩波新書)に詳しい。この本には現存する明治天皇の肖像写真が3点掲載されている。最初の2点(和装と洋装)は若いころ外国王室と写真を交換する儀礼用に撮影したもので、素顔の明治天皇はあまり写真うつりがよくない。本人もそれを自覚していたのか、以後、肖像写真を撮らせなかった。
やがて、ヒゲをたくわえ、恰幅もよくなってから明治天皇は、お雇い外国人に肖像画を描くことを許した。高度な写真修正技術の無かった時代に、写真のようにリアルで実物よりも立派に描かれた明治天皇の肖像画は、写真で複製され、絵ではなく写真として日本全国の学校などに下付され、畏敬の対象となった。これが戦前の日本人に最もよく知られた御真影だったのだ。ちなみに「御真影」は通称で、正式には「お写真」と呼ぶ。初期には御真影を販売しようとするフラチな人々もいたが、やがて政府によって厳重に管理されるようになり、その取り扱いは命がけのものとなった。事実、命を落とした人たちもいた。
「われわれ劇映画では、皇室に関することは一切劇中にふれることはできなかった。ピーヒャラドンドンドンの錦の御旗すらも、劇用では菊のご紋章をつけることはできず、三日月と丸をつけた。(中略)戦争が始まってからは、一層この取締りがきつくなって、(中略)百姓が野菊の咲くたんぼに立っているというだけで、菊と百姓を対照にしたのは思想的な意識があってのことだろうと、にらまれた話を聞いた」(稲垣浩著『ひげとちょんまで』'66・毎日新聞社/'81・中公文庫)
当時のニュース映画に皇族が登場する画面に「脱帽」の字幕が出た。そんな時代でも、全国民が洗脳されてしまっていたわけではない。大阪の連隊は弱いことで有名で、大阪庶民は天皇の軍隊を平気で揶揄していた。憲兵隊の横暴に対してクリスチャンの警察署長が敢然と戦いを挑んだ「ゴー・ストップ事件」が起きたのも大阪だった。数年前、NHKの『映像の20世紀』シリーズ大阪編に、元特高刑事の老人が登場した。彼は敗戦時に上司から焼却処分を命じられた極秘資料を今も保存している。それは数多くの大阪市民から軍部や東条首相宛に送られてきた手紙の束だった。それらは脅迫状やアジビラのように激しい調子で、天皇を批判するものもあった。
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『別冊歴史読本 明治・大正・昭和天皇の生涯』('01・新人物往来社)
表紙の写真は右上が明治天皇、左下が昭和天皇。馬上の大正天皇は愛すべきお 坊ちゃん風で、コワモテの明治天皇とは対照的だ。誕生直後から、さまざまな病 気を患った大正天皇が、やがて「御脳病」など心身の衰弱で政務を果たせなくなったことを、当時の宮内省は国民に正直に公表した。当時は大正デモクラシーの時代であり、日本共産党が天皇制の廃止を主張していた。大正生まれの鈴木清順監 督は昭和天皇が嫌いで、大正天皇が好きだったという。鈴木監督『陽炎座」('81)で松田優作が遠眼鏡をのぞく仕草をするのは大正天皇のパロディだろう と、戦友の小川徹が指摘していた。これは大正天皇が帝国議会の議場で紙を丸め てのぞいていたという「遠眼鏡事件」の伝説に基づいている。この伝説は一般にもよく知られていたらしく、戦後、市川雷蔵・中村玉緒主演『浮かれ三度笠』 ('59)などの時代劇パロディでバカ殿のギャグに使われたりもした。 |
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みなもと太郎著『風雲児たち』ワイド版(リイド社)
関ヶ原の戦から幕末、明治維新までのを描く大河歴史ギャグ漫画の大傑作で、現在までに正編30巻、幕末編4巻が既刊。権力に立ち向かい、時代に翻弄され、倒れていった風雲児たちの群像を中心に、これほど的確に、おもしろおかしく、感動的に日本の歴史を描いた本はない。まさに、みなもと太郎版『大日本史』である。 |
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映画人のささやか挑戦
山本嘉次郎、吉村公三、島津保次郎 |
映画人も、そのすべてが内務省の検閲官の言いなりになっていたわけではない。山本嘉次郎監督のPCL映画『エノケンのどんぐり頓兵衛』('36)で、酔っぱらったエノケンが鉢植えの菊の花をパクっと食べる。時局に対する、はかない抵抗を示したものだろう。森崎監督の先輩にあたる松竹の監督たちはもっと過激で、戦前戦中も時局に非協力的な映画を作り、ときには天皇制のタブーに対するささやかな挑戦すら試みた。
吉村公三郎監督、上原謙主演『西往戦車長伝』('40)の関東に吉村の署名入りで「この映画はいわゆる戦意高揚のためのものではなく」云々という字幕を出したのだが、「よく軍部で問題にしなかったものだ」と吉村自身もあきれながら回想している。
その吉村監督の『開戦の前夜』('43)は太平洋戦争開戦前夜を描いた映画だが、製作当時、すでに日本の敗戦は濃厚ととなっていた。憲兵少佐・上原謙がスパイ団を追う。米国大使館付きのスパイの手先・斉藤達雄は「石油もないのに日本に戦争なんかできるもんか」とうそぶく。作者たちのホンネが垣間見える(というより丸見えの)きわどいセリフだ。少佐の弟が出征前に兄を訪ねてきて対米戦を力説。庭の菊を見て「やっぱり菊はいいですねぇ」と言うと、兄嫁が「でも、ぼつぼつ霜でダメになります」と答える。葵(徳川家)が枯れて菊(天皇家)が栄えたのも、つかのまの夢だった、という意味だろう。これもきわどいセリフだが、憲兵隊司令部お墨付きの映画なので検閲にはパスしたのだろうか。
吉村監督の師匠で東宝に移籍した巨匠・島津保次郎は、撮影中も軍部や聖戦にケチをつけてはばからなかった。バカボンパパにも負けない彼の破天荒で愉快な人物像については吉村や池部良や山口淑子(李香蘭)の自伝に詳しい。その島津監督が戦争末期に撮った遺作『日常の戦ひ』('44)の冒頭、大学で英文学を教えていた佐分利信『ハムレット』のページを閉じると、おもむろに『大日本史』を開く。隣組の会合では、おごそかに「宮城遙拝、英霊に黙祷」と合図する。幼い息子は父の気持ちも知らず、この非常時にアメが食べたいと言って泣いたり、父の『大日本史』にラクガキをして反抗する。
水戸徳川家が「将軍よりも、お釈迦様よりも、天皇が一番エライ!」という研究をヒマにまかせてまとめた『大日本史』――幕末の尊皇思想(水戸学)や廃仏毀釈や戦前の皇国史観の元凶となった大著で、250年かけで明治末期に完成――にラクガキするとは不敬にも甚だしいが、子供のイタズラだし、母が注意する場面も付け加えてあるから、検閲官もこれを削除するのは大人げないと思ったのか。そこが島津監督の思うツボ。佐分利信の「宮城遙拝」のセリフも、いかにもつまらなさそうなブッキラボーな調子で、明らかに不敬の意図が感じられるのだが、無愛想な佐分利信がモゴモゴ言うと妙におごそかに聞こえないこともない。これまた島津監督の思うツボだったのだろう。30代のころからオヤジと呼ばれていた愛すべき巨匠・島津は、翌1945年、敗戦の1ヵ月後に病死。まだ48歳の若さだった。彼が敗戦を見届けて亡くなったのは、せめてもの慰めだったと思う。(この項つづく)
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吉村公三郎著『キネマの時代』('85・共同通信社)
修業時代の思い出を綴った吉村監督の自伝。仕事の師匠は島津保次郎だが、思想の師匠は元左翼の美術監督・金須孝氏だったという吉村も、太平洋戦争が始まり、戦局が悪化するにつれ「一様に国策病にとりつかれていた」。そして銀座の喫茶店で島津監督に向かって、映画監督も時局を認識すべきだと軽薄にも力説して しまった。島津監督は興ざめた面持ちで「君たち若い者でやるんだな」とだけ答え て去っていった。それが師匠との今生の別れになったという。池部良の自伝『そして夢にはじまった』には、それぞれ南方から復員してきた池部と吉村が、とも に師と仰ぐ島津監督の墓前でばったり出くわす場面があり、なかなか感動的だ。もし山中貞雄と島津保次郎の新旧両天才が、あと20年でも長生きしていたら、戦後日本映画史は大きく変わっていたかもしれない。 |
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