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2004.3.2 UPDATE
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超人的、でありながら、孤高の人
こんな日本人がいたということ自体が奇跡 |
宮崎駿は『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』(2002・ロッキング・オン)のなかで、こんなことを語っている。
「でも、やっぱり僕は自分がくだらなくても、くだらなくない人はいると思ってますから。だから、そこを拠り所にして映画を作ってますけどね。偉い人はいますよ! ええ、僕は偉い人がいると思ってるから。(堀田善衛は)日本人の誠実の証だと思ってるんですよ、僕は。で、数は多くなくても、そういう人を何人か僕は持ってますから。だから、もっと他にそういう目立ったことをしなくても、やってる人はいるはずだと思ってます」
そういう人は、たしかにいる。もし「一番エライ日本人は?」と聞かれたら、僕は「辻まこと」と答えるだろう。そう答えるのは僕だけではないと思う。辻まことは生前、山登りや自然との対話を主題にした3冊の画文集と1冊の風刺画集を上梓したのみだが、死後にはその10倍ものアンソロジーが哲学者の矢内原伊作らの編集によって次々と刊行され、今も『辻まこと全集』全5巻(1999〜・みすず書房)が刊行中だ(第4巻まで既刊)。
5年前、小さな書店で辻まこと全集の予約受付中と書かれた大きなノボリを見かけた。ノボリは手書きだった。その店に熱烈な辻まことファンがいたに違いない。たとえひとりでもいい、なんとかして辻まことの人と作品の素晴らしさを誰かに伝えたいという思いが感じられた。辻まこととは、そういうエライ人なのだ。没後25年にあたる2000年には山岳雑誌『山と渓谷』が「異能の人『辻まこと』再考」と題する特集を組んだ。若い編集者の念願の企画だったという。
辻まことの文章を読み返すたびに、自分がヘタな駄文を書いているのが恥ずかしくなるのに、辻まことについて書くなどもってのほかだとは思う。辻まことの楽しく悲しく美しい文章や絵には、まったく無駄がない。一個の生命には根っこの先から葉っぱの先、爪の先から頭の毛の先に至るまで、何ひとつ無駄がない。無駄に生きている生命などいない。まったく同じ意味において、辻まことの無駄のない文章や絵は生命そのものなのだ。だから要約など不可能だし、解説も不要だ。
辻まこと自身の経歴も簡単に要約できるようなものではない。彼は生涯、画家、作家のような定職や肩書を持たず、自らをこの世界における「居候」と決めていた。この不自由な国で、しかも戦争をはさんでそんなふうに一生をすごしたというだけでも驚くべきことだが、いわゆる「自由人」というような気楽な稼業ではなかった。世俗的には「画描きに近い職業」と自称し、雑誌や自著や童話の挿絵からマッチのラベル、コップ、絵皿、果ては銭湯の壁画まで描いた。その壁画は白鯨のようにモリを打たれて傷ついた孤独なサメの絵だが、こんな絵を依頼する銭湯のオヤジと一体どんな不思議な交流があったのか?
辻まことほど多様な人々と交流し、多様な体験をした日本人を僕はほかに知らない。それは本当の話ですか、と人に聞かれるほどだった。しかも彼はそれらの体験を通して自然と生命を見つめ、一個の生命たる自分自身を深く見つめた。超人的、でありながら、孤高の人という感じもしない。こんな日本人がいたということ自体が奇跡のように思える。
1923年、関東大震災直後のドサクサに辻まことの母が憲兵(のちの満州映画協会理事長・甘粕正彦)に虐殺され、別居中の10歳の辻まことは危うく難を逃れた。母は吉田喜重監督『エロス+虐殺』のモデルにされた伊藤野枝。生まれたときから家庭という環境とは無縁に育った「居候」の彼は「野枝さんが死んだなどときいても『へへえ』と思ったきりだった」。父は辻潤。尺八を吹く放浪のダダイストであった父に連れられて15歳の辻まことはパリへ渡ったが、美術館に通ううちに画家になることを断念。パリでソビエトを代表するユダヤ系作家イリヤ・エレンブルグに会い、その印象記を帰国後に雑誌に発表。
前衛的ブラック・ユーモアSF小説『トラストDE』(簡単に説明すれば『博士の異常な愛情』みたいな終末SF)が高く評価されていたエレンブルグの横顔を的確にスケッチしながら、彼の思想には距離を置いて眺めた短いエッセイのなかにすでに、その後の辻まことのスタイルが見てとれることは驚きだ。なんという早熟な少年だったのだろう。
若いころには竹久夢二の息子らと金鉱を探して各地を転々とする山師だった。日本を逃げだして中国で新聞記者になり、兵隊にとられた。その壮行会で「もう日本は負ける。なるべく死なないようにしましょう」などとアイサツして怒りを買った。戦後は風刺漫画家、紀行作家、登山家、スキーヤー、釣り師、ギタリスト、広告デザイナー、コピーライターなどもやった。小説や戯曲のようなものも書いた。作詞作曲もした。彫刻も巧みだった。手品もうまかったらしい。詩についての評論も多い。詩の同人誌に参加し、詩人とも呼ばれたが、生涯に発表したのは晩年、病床で書いた一編のみ。映画評も一編だけ残しているが、いわゆる文化人の的外れの映画評とは違う。彼はどんな文章を書いても、その曇りのないまなざしと驚くべき正確さで、凡人の目には見えない的を射抜いた。
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辻まこと著『多摩川探検隊』
(1993・小学館)
「ヒマラヤへでも行ってたのかね?」と聞かれた辻まことが「ヒマラヤじゃなくてウラヤマだよ」と答えたというのは、よく引用される逸話だ。身近なウラヤマの自然との対話を収めた本書は編集も巧みで、辻まこと入門書として最適。カラー挿絵多数。生前に出た辻まことの本は古書店で1冊数万円。この文庫本は、わずか780円。まだ在庫があるはずなので書店で注文してほしい。文庫判のアンソロジーでは『画文集 山の声』(1991・ちくま文庫)、『山からの言葉』(1996・平凡社)、『辻まことセレクション1・2』(1999・平凡社)なども在庫があるはず。 |
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谷口千吉と八千草薫も会員だった 「オトカムの会」 |
父・辻潤について書かれたいくつかの短いエッセイは、辻まことその人を理解するうえで欠かせない文章だと思う。読むたびに深い感銘と深い悲しみを感じずにいられない。
「すこしばかりパンクチュアルでありすぎた結果、社会的なゴーモンをうけたが、わがままを貫いた。精神の自由を徹底させた人間としてめずらしかった――とおもう、殊にこの日本で……。(中略)私はおやじは芸術家になり得なかった人間だといったが、――たしかに芸術家ではなかったが――おやじ自身一個の芸術作品であったと、私はちかごろ考える。なぜなら、おやじ自身は自由ではなかったとしても、おやじの行為と表現は、私の、そして多くの人々の精神の願望の犠牲のように思われるから……」
「彼は短い人生の長かった闘争の最後に狂気によって救済された。最初の発作が起こったとき(中略)、彼は私にこういった。――お互いに誠実に生きよう。(中略)この言葉とそのときの冷静な辻潤の面持ちのなかには一片の狂気のカケラもなかった」
「彼は『彼』以外であることを拒否する『勘』を所有して生きていたからだ。一体彼は何故そうせざるを得なかったのだろうか? おそらく他人よりも彼自身百たびも自分に問うたことだろう。生きることの真の本質を把握するために彼は内在する意味で適用できるもの、『自己』を使って判断や定義を越えて自己と世界の本質との関係を闡明(注・センメイ。はっきりしない道理や意義を、開いて明らかにすること)できる与件を引出そうと試みたとしか私にはおもわれない。彼自身はそんな説明をきけば『フフン』と笑うだろう。(中略)彼のように試みたものがあっただろうか? 人間がそれを試みてみた証拠をともかく辻潤は残した」
「こうして無雑作に自分を投出す人間がどのくらい自分を所有していたかが、やがて明かになる日がきた、戦争だ。昭和十九年の暮に彼は窮乏のうちに終戦をまたずに死んだ。世間並みにいえば『みじめな』晩年だった。しかし本当にそうだろうか? 私の知るかぎり日本人のなかでたった一人、一人の人間としてけっして負けなかった人間だった。彼の死は、一つの魂の勝利だったと感じている」
父としてではなく、一個の生命、生物としての辻潤の生涯を見ていた辻まことは、正しく辻潤の遺志をまっとうするために、長いとはいえない自らの生涯を「自由」に生きようとしたように思える。あらゆる才能に恵まれ、天才ともいえる彼は、なろうと思えば何にでもなれたはずなのに、ついに何者にもならずに、ただ一個の生命、「辻まこと」として生涯をまっとうした。辻まこと以外の何者かであることを拒否し、父を含めた地球上の全生命に対して誠実に生きた。生きることの天才だった。そして、少年が自らの生命の源泉へと川をさかのぼっていく象徴的なメルヘンの傑作『すぎゆくアダモ』を残して、彼は去った。なんという見事な生涯だったろう。
前記『山と渓谷』の特集に、辻まことを偲ぶ友人たちの集まりから生まれた「オトカムの会」のことも紹介されている。谷口千吉と八千草薫も会員だそうだ。オトカムとは辻まことの文章に登場する彼の分身の名で、macotoを逆に読んだものだが、そのオトカムこと辻まことと谷口・八千草夫妻との交流がどんなものだったのかは知る由もない。
「今? こないだからね、映画監督の谷口千吉さんのサロンに壁画を描きにいっているんですよ。そら、八千草薫さんの主人で、二人ともとってもいい人なんだ」
これは宇佐美英治著『辻まことの思い出』(2001・みすず書房)のなかにある辻まことの言葉だが、壁画を描いたサロンというのが谷口監督の自宅のことなのか、八ヶ岳の山荘のことなのか、それとも両方だったのか、それも分からない。八ヶ岳の山荘の壁画の写真は宇佐美英治編『辻まこと全画集 2 油絵・水彩・デッサン集』(1980・みすず書房)に掲載されている。折り込みの大きなカラー写真には、部屋の壁一面に淡い色彩で描かれた静かな高原と鳥や動物たちの絵が映っている。壁には小さな窓が開いていて、そこからは八ヶ岳の本物の森が見えている。
辻まことと日本映画との接点はほとんど何もない。ただ一点、山を愛した谷口・八千草夫妻との交流があるのみだが、それでもこの一点の価値を無視することはできない。自然と生命を見つめ続けた辻まことが、八ヶ岳の山荘での何日間か何週間、どんな思いをこめて彼の最大の大作であろう壁画を描いていたのか。そして谷口監督はどんな思いで眺めていたのだろうか。その壁画は、ふたりの思いを託したスクリーンのようにも見える。
高齢化にともない会員数も減少しているオトカムの会の会員で最長老だろう谷口監督は、この2月で92歳になった。足腰が弱り、車椅子も必要になったと、遠からずやってくる夫との別れを覚悟するように八千草薫が語っていたのは辛い。そのときがくれば、八ヶ岳の麓、標高1750メートル、横岳の登山口のそばにあるという山荘と壁画はどうなるのだろうか。谷口・八千草夫妻には、この貴重な遺産を受け継ぐべき子供もいない。
「最近はこの山も少しずつ都会の色をにじませた環境になってきました。それとともに私たちの歩く時間も、二十年前、十年前に比べて、やはり少しずつ短くなりました。若いサルーキーは、いつまでも歩きたがりますけど、老犬になったシェルティには、雪の上では足が冷たすぎるでしょうし、あと、どのくらい私たちのあとをついて歩けるでしょう。そしてこの山小屋も、やがて冬は、主のいない日をひっそりと過ごす日が、だんだんと多くなっていくのでしょう」(八千草薫著『優しい時間』1999・世界文化社)
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辻まこと著『あてのない絵はがき』
(1995・小学館)
『多摩川探検隊』の続刊。辻まことの描いた絵皿、銭湯の壁画などもカラーで収録。巻末に収められた遺作の童話『すぎゆくアダモ』は、少年時代の思い出を軽妙な筆致で綴った『多摩川探検隊』と見事に呼応し、死を目前にして自らの生命の源泉を静かに見つめた傑作だ。もし、辻まことがアニメーション作家だったら、ノルシュテインも絶賛した『Farther and Daughter 岸辺のふたり』(2001・アカデミー短編アニメ賞/絵本版は2003・くもん出版)をしのぐ傑作として『すぎゆくアダモ』をアニメ化したかもしれない。 |
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