
ご感想はこちらまで
|

2003.11.12 UPDATE
 |
 |
監督作のなかにしばしば登場する
川島所有のカメラと、本人の分身 |
僕が子供のころ、アメリカのサーカス団が来日し、その公演がテレビで中継された。道化師が手にした異様に大きなカメラで観客を撮影すると、たちまち写真ができあがり、観客たちを驚かせた。僕は手品かと思った。もちろん、それはポラロイドカメラで、写真は8×10インチの大判だった。それがたぶん1950年代末ごろのこと。円谷英二も同じころにポラロイドカメラのことを知って欲しくなった。『とっておきのもの とっておきの話』第2巻に円谷英二の次男・皐の回想が掲載されている。
「新しい機械好きの英二がとても喜んだものに、ポラロイドカメラがある。風のうわさに、欧米には写してすぐに現像された写真が出てくるカメラがあることを知った英二は、ほしくてしかたがなかった。このカメラがあれば、ロケハンに大いに役に立つ。そしてついに手に入れたのが写真のポラロイドカメラである。一九六一年に発表された映画『モスラ』でその真価を発揮し、円谷英二の映像作りに大きく貢献してくれたのである」
この文章に添えられたカラー写真のポラロイドカメラは蛇腹レンズ、プラスティック・ボディの大きなもので、日本では発売されなかったモデルJ66である。東宝特撮映画史上最大の『モスラ』のミニチュアセットは、このカメラを使って作られたのだ。もちろん、写真だけでこと足りるわけではなく、人通りのない早朝、スタッフが実際に渋谷の街へ出かけて敷石のサイズまで計測し、それをミニチュア化したそうだ。機械好きの円谷英二がまだポラロイドカメラの存在すら知らなかったであろうころに、すでにポラロイドカメラを愛用していたのが川島雄三監督だった。磯田勉編『川島雄三 乱調の美学』(2001・ワイズ出版)の三橋達也インタビューにはこうある。
「ものすごく新しものがり屋でしたね。たとえば、ポラロイドキャメラが出れば、知らない間に買ってるしね。まだこんな大きなやつでジャバラ式のね、それをくれましたよ。それから岡崎宏三さん(注・撮影監督)の影響で、お互いにキャメラに凝ったりして。(中略)どんどん深入りしちゃいましたけれどね。そういう意味では川島さんの影響を受けてますね」
川島の私物らしいポラロイドカメラは、彼が監督した風刺喜劇『愛のお荷物』(55)に登場している。川島作品でしばしば川島の分身ともいえる役柄を演じた三橋達也が、この作品では落語を地でいく道楽息子を演じていて、彼の祖父・東野英治郎はさらに浮世ばなれした道楽者だ。何台ものカメラをタスキがけにした祖父は、訪ねてきた息子や孫たちを集め、自慢げに取り出した大きなカメラで記念写真を撮る。このカメラこそ世界初の1分間カメラ、ポラロイドランド・モデル95であった。もちろん日本では発売されていない。川島はどこでこのカメラのことを知って、どうやって手に入れたのだろうか。最初のポラロイドカメラはたぶん、占領軍(米軍)を通じて日本に入ってきたのではないかと言われているから、川島もそういうルートで手に入れたのだろうか。
川島は戦時中からカメラマニアだったようだ。川島と意気投合して日本軽佻派を名乗っていた織田作之助の原作・脚本による監督デビュー作『還って来た男』(44)のロケハン中に、川島が大阪の町を俯瞰でパチパチ撮影していたら憲兵か何かにとがめられて不快な思いをしたという。川島の映画には、しばしば川島自身を戯画化したようなヘンなカメラマニアが登場するが、彼らは何の役にも立たないスノッブとして描かれる。
天皇制と戦後民主主義を風刺した『グラマ島の誘惑』(59)では、従軍慰安婦とともに南海の孤島に漂着したスケベな皇族(昭和天皇のパロディを森繁久弥が演じた)の弟(フランキー堺)がコンタックスU(ちゃんと戦前のモデルである)でパチパチと戦争未亡人を撮影してアルバム作りに励む。『花影』(61)のテレビディレクター・高島忠夫は最新のトランジスタテレビ、スポーツカー、ストロボ付きのカメラを持っている。彼も女たらしの道楽息子だった。
カメラではないが織田作之助原作『わが町』(56)には大阪市立電気科学館のプラネタリウムが登場している。同館は1937年、日本初のプラネタリウムとして開館。戦前、世界で唯一のプラネタリウム・メーカーだったドイツのカール・ツァイス社の投映機を備えていた。そのお値段は46万円。当時、小学校が2つ3つ建てられる金額だったという。
『わが町』にはプラネタリウムの投映風景もていねいに紹介されている。各地のプラネタリウムのスクリーンには、背景としてその街の風景が影絵で描かれ、建設当時のまま残っている。だから『わが町』のプラネタリウムは過去の大阪を保存したタイムカプセルでもあった。川島はこういうものも好きだったのではないだろうか。ちなみに同じツァイスの投映機はアメリカ各地にも設置され、そのひとつはハリウッドのグリフィス天文台に残っているそうだ。この天文台はアメリカ映画の父、D・W・グリフィスが寄付したもので、ジェームズ・ディーンの主演作『理由なき反抗』(55)にも登場している。
世界初のインスタントカメラ、ポラロイドランド・モデル95
ポラロイド社は戦前、ランド博士が開発した偏光板を製造販売していて、社名もこの偏光板にちなんだもの。偏光板は写真用フィルター、立体写真、立体映画などに使われた。第2次大戦が始まると軍需にも手を広げ、ポラロイド製のゴーグルをパットン将軍も愛用したという。そして戦後、ポラロイド社は軍需から民需へ転換するために全く新しい製品を開発した。それが写真のカメラだった。蛇腹レンズの折り畳み式カメラで、ハンドバッグほどの大きさ、ボディは立派な革張り、画面サイズは8×10.5センチ。この革命的なカメラを1948年にボストンの百貨店で限定発売したところ、たちまち売り切れた。それからわずか8年の間に100万台が売れて海外にも進出。1960年には日本ポラロイドが設立され、ヤシカと提携してモデル120、モデル160が製造された。その後も世界初の電子シャッター搭載カメラ、オートフォーカスカメラ、インスタント8ミリ映画システム、ビデオプリンターなどの新製品を次々と発表している。なお、今回使用したポラロイドカメラの写真はポラロイド本社のホームページからダウンロードしたもの。写真の入手にあたって日本ポラロイドの協力を得ました。感謝します。 |
| (c) 2003 Polaroid Corporation
/ Polaroid Privacy Policy |
|
 |
 |
屈折して伝えられたのでは?
まっとうでマジメな監督 |
藤本義一編著『川島雄三、サヨナラだけが人生だ』(2001・河出書房新社)に川島が若尾文子の写真を撮っている写真が掲載されている。手にした超小型カメラはミノックス。腰かけている若尾文子を頭の上から見下ろしている。川島はこういうヘンなアングルの写真ばかり撮っていたそうだ。同書に収められた藤本義一と殿山泰司の対談での藤本の回想によると「ちょっと俯瞰から、撮るんですわ。対象の人間が、はいつくばったような構図にうつる。あれは被疑者を見る取調べ官のアングルやね。だから、もらった撮影所長やプロデューサーは、みんないやな顔をする(笑)」
この本には小沢昭一の回想もあり、ヘンなヌード撮影会(川島組では、川島を楽しませるためにそういうお遊びをよくやった)の模様が語られているが、そのときも川島は愛用のミノックスでヘンな写真ばかり撮っていたそうだ。川島監督の『雁の寺』(62)の山茶花究は関西人のくせにヘンな東京弁を無理して使う生臭坊主だ。人畜無害ではあるが鼻もちならないスノッブである。彼は愛用のライカでヘンなアングルの芸術写真をパチパチ撮ったり、若尾文子をモデルに撮影した写真を『アサヒカメラ』に投稿して悦に入る。
川島雄三は自作の映画についても自分自身についても、ほとんど語らなかったため、彼の実像については周囲の人々の残した証言などから想像するしかない。が、藤本義一や今村昌平の目をとおして描かれた川島の像は、必要以上に屈折し、歪められているような気もする。実際はもっと、まっとうな人で、僕の想像では森崎東のようにマジメな監督だったような気がする。写真に関しても、彼が映画のなかで戯画化して描いた写真マニアよりも、彼自身はフツウの写真好きだったのではないかと思える。そもそもミノックスなどという面倒なカメラ(フィルムもDPE機材も専用のものが必要。たいていのDP屋は受け付けてくれない)を使っていたのは、この珍奇な機械がほんとうに好きだったからではないか。
川島は「大人になってから小児麻痺にかかったのはルーズベルト大統領と僕ぐらい」と妙な自慢をしていたそうだが(本当の病名は不明)、歩き方もタバコの持ち方もぎごちなかったという。大きなポラロイドカメラはオモチャとしてもちょっと手に余るので、三橋達也に譲ったのだろうか。ミノックスなら軽くて小さくて扱いやすかっただろう。
藤本義一の別の本か何かに、彼が川島監督の葬儀の場の手前で引き返して来たという回想があった。川島の愛用のカメラがセリにかけられているのを見てイヤになったというのだ。が、藤本の記述や談話には、ずいぶん記憶違いや脚色があるらしく、この話も事実なのかどうか分からない。もし事実だとして、川島の愛用していたカメラを誰かが手に入れて保存しているのなら、ぜひ公開してもらいたい。三橋達也がポラロイドカメラをもらったという話はウソでも記憶違いでもないだろう。今も彼の手元に残っているのなら、まずこれを日本映画遺産に指定させていただく。
 |
宮部甫著『ミノックスとミニカメラ』(1978・朝日ソノラマ)
表紙の写真手前がミノックスの最初のモデル(1938年、ラトビアで発売)。フランスで開発された小型映画カメラ、パテ・ベビー用の9.5 ミリ・フィルム(あるいは自分で細く裁断した35ミリ・フィルム)を使用する重量130グラムの超小型カメラで、スパイ・カメラとして知られた。ミノックスは戦後、西ドイツで復活し、さらに軽量化された。川島監督が愛用していたのは、その戦後型だろう。写真上は電子シャッター内蔵のミノックスC型(1969年発売)。 |
|
|