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2003.10.6 UPDATE


指定第24号 小津のライカ使い



木村伊兵衛と小津安二郎とライカ

 戦前、ドイツのライツ社製の小型カメラ、すなわちライカで写真を撮る人のことを「ライカ使い」と呼んだ。なんだか魔法使いみたいだが、こんなオモチャみたいなカメラで写るんだろうか、と思われていたのだ。そんななかで木村伊兵衛は「ライカ使いの達人」といわれた。達人であったかどうかは分からないが、木村と交流のあった小津安二郎監督もライカ使いのひとりであったことは、よく知られている。僕は小津のライカと、彼がライカで撮影した(現像焼き付けもした)写真の行方がずっと気にかかっていた。
 日本で最も早くライカを使いだしたのは映画人だったという。戦前の松竹映画には頻繁にライカが出てくる。吉村公三郎監督『暖流』('39)の高峰三枝子はライカで撮影して現像もやっていた。上原謙は写真道楽の若旦那みないな役をよく演じた。彼自身、機械が好きで16ミリ映画まで撮影していた。監督や脚本家にも写真好きが多かった。小津も五所平之助監督も女優をモデルに写真を撮っていたし、五所は『アサヒカメラ』に寄稿していたという。成瀬巳喜男監督のPCL移籍第1作『乙女ごころ三人姉妹』('35)にもライカが出てくる。彼もライカを愛用していたらしく、戦後のロケ中のスナップ写真でライカを手にしている。

 1897(明治30)年、小西本店(現コニカ)の若い店員が日本初の活動写真を撮影して以来、写真と映画は密接な関係にあった。1919(大正8)年には、小西のライバルとなるオリエンタル写真工業が創立。最後の将軍・徳川慶喜の十男が父の血をひく写真マニアで、勝海舟の孫娘と結婚した彼は渡米して写真を修行。帰国後、旧幕臣の実業家・渋沢栄一の協力で国産感光材料の工場を建てた。これがオリエンタルの始まりだった。社長には財界の有力者・植村澄三郎が就任。植村社長の息子・植村泰二(第11〜12回参照)は理化学研究所に勤めるかたわらオリエンタルの嘱託として写真乳剤の研究にも従事し、松竹蒲田の現像部長・増谷麟と知り合って1929(昭和4)年には共同の研究室を設けた。

 同じ1929年、ドイツのツェッペリン飛行船が日本に飛来。船長が首から下げた小型カメラが注目された。乗組員や乗客も同じカメラを持っていたという。木村伊兵衛はエントツのような機械の付いた、その奇妙なカメラをニュース映画で見て、それがライカだと知ったという。彼より年下の桑原甲子雄も同じだった。このニュース映画で多くの日本人が初めてライカを見たのだろう。そして木村は早速、ライカを購入した。

 ライツ社の記録では同社が日本代理店シュミット商会に最初のライカA型(ドイツではT型)を送ったのは1925(大正14)年春。1926(昭和元)年までに50台のライカが日本に到着した。シュミット商会の社員は、その奇妙なカメラの使い方を研究。写真用の35ミリ・フィルムなど、まだどこにも売っていないので松竹に協力を求めた。このとき指導にあたったのが前述の増谷麟だった。増谷は1931年に植村泰二が創立した写真化学研究所(これがPCL映画製作所、さらに東宝へと発展)に移籍したが、植村社長とともにシュミット商会に対する協力を続けた。1937年にはオリエンタルがライカ用の35ミリ・フィルムを発売。というふうに植村は映画だけでなく写真の発展にも大きな貢献をした。

 小津がライカA型を買ったのは木村伊兵衛と同じ1930年かその翌年で、月給100円のころに300円だったという。A型の後継機だと500円から800円ぐらい。戦前のライカは家一軒が買えるほど高価だったという話をよく聞くが、それは第2次大戦の勃発によって輸入が途絶えてからのことで、特に日本の参戦直前には5000円ぐらいに高騰した。これなら家が買える。

 ライカを買ってまもなく、小津は木村と知り合い、木村を介して小津の撮影した静物写真が1934年の『月刊ライカ』(ライツ社とは無関係)に掲載されたこともある。その写真は小津映画の「空ショット」そのものだ。小津映画のスタッフだった下河原友雄が「小津さんの構図は、昭和初期の写真コンクール入賞作品といった感じに似ていないか」と指摘しているのはスルドイ。

 戦前、ライカ・ファンを集めてライカ倶楽部が結成された。ライカ倶楽部は敗戦後に再興され、理事には大宅壮一、五所平之助監督らが名を連ねていた。大宅は戦前から「ライカは写真を芸術から万年筆にかえた」というライカ万年筆論を唱え、自ら実践もした。大宅のライカ万年筆論や木村伊兵衛のライカ写真術などは、清水宏の即興映画にも通じるところがあるように思う。大げさな機材もスタジオもいらない小型カメラ、ライカの出現は自然でイキイキとした写真の撮影を可能にした。

 以前、日大芸術学部の近くの古本屋で、日芸の老教授か誰かの遺品と思われる1935(昭和10)年ごろの写真雑誌が何冊か売られていて、そこには清水宏や五所平之助がライカで撮ったらしい写真が掲載されていた。驚くほど保存状態がよかったが、ちょっと高いので悩んだ。あとで買いにいったら、もう売れていた。惜しいことをした。こういう古雑誌や映画人の遺品のアルバムを探して写真集を作ったら楽しい日本映画史ができるだろう。誰か興味と根気とお金のある人がいたら、ぜひ作ってほしい。

 その古雑誌に掲載された、見るからに健康的な若い芸者が自然な笑みを浮かべている清水の写真は、いかにも彼らしい「実写的精神」の息づくイキイキとした傑作だった。『映画讀本 清水宏』(2000・フィルムアート社)にも清水が『金環蝕』('34)ロケ中に撮ったスナップ写真が掲載されている。牧場の柵にもたれかかるふたりの男。高原を吹き抜けていく風の爽やかさまで感じられる写真だ。小津の静物写真とは、ずいぶん違う。ともあれ小津も清水もライカを通じて写真の新しい魅力を知り、それが彼らの映画にも反映しただろうことは想像できる。

ライカのプロトタイプ、ウルライカ(ウアライカとも表記)。1913年、ライツ社で映画撮影機を設計していたオスカー・バルナックが、同じ35ミリ・フィルムを使う写真機として手作りした。このウル(原型)ライカが、すべての35ミリ・カメラの原型にもなった。ライツ社の金庫に1台か2台が保管されているそうだが、めったにお目にもかかれない。写真は1984年に東京晴海で開催されたドイツ博会場のガラスケースのなかに、ひっそりと展示されていたウルライカ。ドイツの国宝級文化財なのに、当時は注目する人も監視員もいなかった。これを盗んで叩き売れば田園調布に家が……買えないだろうな、今じゃ。



 
敗戦後、行方知れずのライカと
戦後購入したライカ

 木村伊兵衛が上海で偶然、再会した出征中の小津を撮影したのが1938年1月8日。その4日後、小津は同じく出征中の親友・山中貞雄監督を訪ねて再会。ふたりの記念写真は、そこにいた兵隊の手によって小津のライカで撮影された。山中は8ヵ月後に戦病死。小津はライカを手に帰還。ふたりの最後の記念写真は小津へのインタビュー記事や小津が戦地で撮影した写真とともに『写真文化』1941年5月号に掲載された。その記念写真とインタビュー記事は田中真澄編『小津安二郎全発言 1933〜1945』(1987・泰流社)に収録されている。写真は師岡宏次氏蔵となっている。おそらく『写真文化』の記者だった師岡が小津から譲り受けたプリントを大切に保存していたのだろう。この『小津安二郎全発言』には、前述の小津の静物写真の複写と出征前の小津と山中貞雄の記念写真(撮影は清水宏らしい)も収録されている。

「しかし、小津が戦場で撮った写真は戦後になっても現れなかった。彼は二年弱の従軍期間にライカを使って約四千枚の写真を撮影し、帰還後にスクラップ整理していたという。(中略)一九四二年、小津は軍報道部企画の記録映画製作のためシンガポールに赴くが、そのときも同じライカを携行した。しかし敗戦後、一九四六年に抑留所生活から引き揚げる際に持ち帰ることができなかった。彼が再びライカを手にするのは一九五四年のことである」(田中真澄著『小津安二郎のほうへ』2002・みすず書房)

 戦中、戦後のカメラ不足の時代にはライカは貴金属なみに高騰していた。空襲にあって金庫の中で蒸し焼きになったライカでさえ、戦後、市場で売買された。白昼、銀座のカメラ店にカメラ強盗が押し入ったこともあるそうだ。そんなライカを、めったに捨てたりする人はいない。1970年にライツ代理店が日本に現存する最古のライカを探したところ、なんと日本に最初に入荷したA型(製造番号No.377)が発見され、もっと古いのも見つかった。アメリカ経由で日本に入ってきたものだった。ライツ社に残されている出荷や修理の記録から、ある程度までは追跡調査できるのだ。さすがドイツ人。

 戦前戦中、常に小津とともにあって、小津と山中貞雄の最後の記念写真も撮ったライカA型はシンガポールで誰かの手に渡ったのだろう。幸い前述の師岡宏次のインタビュー記事のおかげで、そのライカの製造番号が4万台だということは記録されている。No.40000〜49999までの1万台のライカを日本に輸入された何台かに絞り、さらに1台ずつ追跡していけば特定できないこともないのだが……。ひょっとしたらバブル時代に大量に日本に輸入された中古ライカのなかに小津のライカがあったかもしれない。

 戦後、小津が購入した新しいライカは小津の甥にあたる長井秀行の手元に残っている。ヤナセのPR雑誌『YANASE LIFE』の連載記事をまとめた『とっておきのもの とっておきの話』第2巻(1997・藝神出版)に、その小津が買った2台目のライカのカラー写真と長井の文章がある。

「あれは昭和三十七年の二月ごろのことである。私が結婚することになり、伯父が何かお祝いをしよう、と言ってくれたときのことであった。小津安二郎氏は私の母の兄にあたり、私が早く父を亡くしたこともあって、なにか心にかけてくれていた。何がほしいかと言われ、とっさに伯父が愛用していたライカVFを、と言ってしまった。今考えれば、大変大それた、しかも図々しいことであったと思う。(中略)昭和三十八年十二月十二日、満六十歳の誕生日に伯父は亡くなった。私はライカを譲り受けて、わずか二年に満たないときであった」

 そのライカIIIF(正しくはIIIf。1950年発売)は、黒い合成皮革貼りのボディもレンズの鏡胴も、銀梨地といわれる滑らかなクロームメッキ仕上げで、今もピカピカと輝いている。小津も甥の長井も大切に使っていたのだろう。小津はこのライカを買う前にカラー写真も撮りたいと語っていた。そういう写真が残っていたら、それもぜひ見てみたい。小津のライカA型を捜し出すことはきわめて困難なので、とりあえず、このライカIIIfのほうを日本映画遺産に指定させていただく。なお、小津のライカA型と思われるカメラは小津監督『母を恋はずや』('34)の伊豆旅行の場面に登場している。



中川一夫著『復刻版 ライカの歴史』(1995・写真工業出版社)
 ライカの歴史を詳細に調べた労作で旧版は1979年刊行。表紙のカメラが、小津も愛用したライカA型。ウルライカから12年後、第1次大戦とドイツの戦後インフレを経て1925年に発売。まだ連動距離計を内蔵していないので、エントツと呼ばれる距離計(写真右下)をボディの上に立てて使った。スナップではピントは目測。レンズは沈胴式でボディのなかに収納。著者の中川は、この本を書く前にライツ社が展示用に作ったウルライカのダミーモデルを分解研究して、精巧なレプリカを自作した。それライカクラブの撮影会で使ったら、木村伊兵衛が「こんちくしょう」と、うらやましがることしきりだったという。



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