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2003.4.28 UPDATE


指定第20号 小松崎茂のピクトリアル・スケッチ



絵描きとして戦争を生き抜いた
メカ大好き小松崎茂

 「エカキのコマツザキですけどねェ」と名乗る妙な老人からの電話を僕の留守中に受けた愚妻は一瞬とまどったが、その大声の主が「絵描きの小松崎」だと分かってあわてたらしい。1980年のことだ。その何日か前に僕は千葉県柏市の小松崎茂邸を訪ねた。彼が手掛けた数多くの東宝特撮映画のピクトリアル・スケッチやメカ・デザインの話を聞き、ついでに雑誌に掲載する写真に彩色もしてもらうつもりだった。

 それは『海底軍艦』(63)の3年後、東宝の新作のために小松崎茂が描いたスケッチとメカ・デザイン画の複製写真で、映画化は実現しなかったが、6枚の絵の白黒写真が、なぜか円谷プロに残っていたのだ。スケッチといっても、画伯が夜も寝ないで描きまくっていた少年雑誌のカラー口絵やプラモデルの箱絵と同じように緻密かつダイナミックな力作で、そこに描かれた「空中軍艦」という可変デルタ翼の巨大飛行艇は、たぶん円谷プロの特撮テレビ番組『マイティ・ジャック』(68)の原型になったものだろう。

 そういう話を聞くつもりだったのに画伯は、僕が取り出したオリンパスOM−1を見るなり「今でも、いいデザインだねェ」と、まずカメラの話を始め(メカ好きの彼はカメラも好きで、最近も赤瀬川原平の中古カメラの本で対談している)、カメラ以上に大好きな軍艦についてのウンチクを傾け、戦時中に軍の嘱託として描いた新兵器の話、彼自身も空襲ですべてを失ったにもかかわらず東京大空襲は「いっぺん見せてやりたい」というぐらいキレイだったという話、ご先祖の勤皇の志士から政治、歴史、科学、人類の未来についてまで、ありとあらゆる話題が果てしもなく続き、インタビューは5時間を超えた。



「僕と話してると、みんなサインの話が出るねェ、よほど気に入ってるとみえて」とテレ笑いしながらサインをする小松崎茂。ファンの誰もが憧れたこのサインを、松本零士もまねたそうだが、松本ではどうもうまくいかなかった、と小松崎に語ったそうだ。藤子不二雄Aは小松崎に似たペンネームを作って、サインをまねてみたそうだ。

 画伯からの電話は、その大インタビューの内容についてであった。「いや、この前はち ょっと、よけいなことまでしゃべりすぎたんじゃねェかと思ってさ」と、画伯は意外にも気弱になっていた。それはたぶん江戸っ子らしいテレもまじった感情だったのだろう。

 両親は茨城県の真壁と水戸の出身。生粋の江戸っ子ではないが、東京千住生まれの画伯は「もとをただせば下町のアンチャン」で、一番なりたかったのは飛行機乗り。千住の長屋の上をふわふわと飛び去ったツェッペリン号の勇姿が忘れられないという。次になりたかったのは落語家。威勢のいいベランメエ調でまくしたてながらも、画伯は江戸っ子の粗忽さと小心さも併せ持っていたのだろう。めったに他人に話さないことまで、つい調子に乗って初対面の僕に話してしまったので、あとで心配になったらしい。

 戦時中には日本の敗戦を確信しながら、敗戦直後に戦争責任を感じて青酸カリで自決をはかって危うく友人に命を救われた。自分の絵が子供たちを戦争に駆り立て、犬死にさせてしまったのではないかという沈痛な思いからだろうが、それは江戸っ子の粗忽さもいくらかまじった複雑な心情だったのではないか、とも思える。

 電話口で「いや、そんなまずい話じゃないから心配ありませんよ」と説得すると、「ああ、そうかね」と、やけに簡単に納得してくれたのには拍子抜けもした。確かに公表をはばかるような話もしたのだが、僕を信用してくれたのか、あるいはこれまた下町のアンチャンらしい早合点だったのか。

 掲載誌が発売されると、また電話があった。やっぱり、まずかったのかなと思ったら、「先生、見ましたよ!って、弟子たちからいっぱい電話がかかってきてねェ」と、画伯は嬉しそうだった。その弟子たちのなかには、銃器の権威・故小林弘隆(第7回参照)や、その後、小松崎茂の画集や伝記の編集者となった根本圭助もいたのだろうか。もし、その記事が画伯と弟子たちの旧交をあたためるきっかけにでもなったのなら、僕も嬉しい。

 そのころ小松崎茂はまだ現役ではあったが、来客もなく、かなりヒマだったようだ。簡単な絵も描いてくれたが、視力も手の力も弱っているのか、かなり時間がかかった。昔のように緻密でダイナミックな絵は、もう描けないのではないかと心配になった。65歳の画伯は「あと20年はがんばるつもり」と語っていたが、それは冗談のようにも聞こえた。

小松崎茂著『地球SOS』は1948年から52年にかけて連載され、その後のSF漫画や映画に多大な影響を与えたSF絵物語。松本零士も熱烈な愛読者だった。敗戦直後の焼け跡で小松崎が目撃した翼手竜に似た巨大な怪鳥(新聞にも出たというので、僕はその記事を探し出してみたいと思いながらまだ果たせない)やアメリカで騒がれていた空飛ぶ円盤にヒントを得て描いたという。右は未完のまま出版された復刻版『地球SOS』(1975・桃源社)、左は小松崎茂を追悼して出版された完全復刻版『超特作科学冒険物語 地球SOS』(2002・双葉社)。その双葉社版はオールカラー(変色した掲載誌をまるごと復刻)の豪華本で、著者や友人、弟子たちの思い出のアルバムも収録。



文字だけの脚本を絵で具現化
日本で初のピクトリアル・スケッチ

 インタビューの2年後、新作のSF画集『メカニックファンタジー』(講談社)が発売された。インタビューのときに猛勉強しながら制作中と語っていた未来都市の空想画で、弟子を自認する松本零士が賛辞を寄せていた。そのころから過去の絵物語の復刻版や画集が続々と出版され始め、1990年には池袋の百貨店の古書市会場の一郭で、ささやかな小松崎茂展も開かれた。小松崎茂の、というより日本のSF画の原点となった戦前戦中の子供向け軍事科学雑誌『機械化』の実物を見たのも、そのときが初めてだった。

 画伯はその後も精力的に絵を描き続け、1995年、80歳のときに自宅の火事で再びすべてを失ったあとも立ち直る。インタビューから16年もたった1996年の春と秋に、表参道の同潤会アパートの小さなギャラリーで小松崎茂展が開催された。画伯は僕のことを覚えていてくれたらしく、案内状が届いた。数万点もの資料や原画が火事で消失したというのに、どうして僕の住所が残っていたのかは謎であるが、ともかく江戸っ子は義理がたい。そのギャラリーで見た新作の軍艦の絵は実に見事なものだった。その5年後、画伯は86歳で現役のまま世を去った。2001年12月7日、画伯が「あと20年はがんばるつもり」と語ってから20年以上がたっていた。

 弟子の根本圭助の著書『異能の画家 小松崎茂』(1993・光人社)によると、小松崎茂が映画やテレビ番組のために描いた絵は───A.地球防衛軍(57) B.宇宙大戦争(59) C.モスラ(61) D.世界大戦争(61) E.マタンゴ(63) F.海底軍艦(63) G.宇宙大怪獣ドゴラ(64) H.WOO(64) I.怪獣大戦争(65) J.空中軍艦(66)の10本となっている。

 作品によって小松崎の関わり方は違っていて、メカやキャラクター・デザインだけの作品もあった。H は円谷プロの特撮テレビ番組だが企画だけで終わった。J は前述の東宝映画で、これも脚本まで完成していながら映画化はされなかった。その他もすべて東宝映画だ。他に東映でもう1本あったが題名を思い出せない、と根本圭助は書いている。これは深作欣二監督のB級SF映画の凡作『ガンマー第3号 宇宙大作戦』(68)だ。僕が聞いた話では東宝の『大怪獣バラン』(58)も描いたそうだが、クレジットにも名前が出ていないので確かめようがない。文字だけの脚本をピクトリアル・スケッチという絵で具体化したのは小松崎茂の独創なのだから、本来なら脚本家と同等に扱われるべきなのに。

 ピクトリアル・スケッチとは東宝の大番頭・森岩雄がハリウッド視察の折りに仕入れてきたもので、戦後の東宝特撮映画で初めて使われた。スタッフは絵コンテと言っていたらしいが、撮影用絵コンテではない。今ではストーリーボード、プロダクション・スケッチと言ったほうが分かりやすいだろう。全シーンを絵物語のような絵にしたもので、脚本の再検討とスタッフのイメージ統一に用い、時間と費用の節約をはかった。

『ゴジラ』(54)でもすでに漫画じみたラフな絵が使われていたが、東宝特撮映画初のカラー・シネスコ大作『地球防衛軍』を製作するにあたり、特撮監督・円谷英二が本格的なスケッチを小松崎茂に依頼した。小松崎は戦後、SF絵物語『地球SOS』などで一世を風靡し、円谷もそれを読んでいた。飛行機乗りか落語家の次はコックか俳優になりたかったという「活動キチガイ」の小松崎は喜んで引き受けた。

 円谷との親交はその後も続いたが、ドケチの関西商法だから東宝の金払いは悪かったらしい。東映もひどくて、『ガンマー第3号』の画料はとうとう踏み倒されて、あとで水戸出身の深作欣二が「同じ水戸っぽということでカンベンしてください」と言って、飲み屋で一杯おごってくれてオシマイだった。水戸のご先祖様もあきれただろう。「そんなことだから日本には、いいアーチストが育たないんですよ」と小松崎画伯は嘆いていた。

 東宝特撮映画の宣材や写真を集めた『ゴジラ大全集』(1979・講談社)には小松崎茂が描いたピクトリアル・スケッチや、スケッチを前にしての打合せ風景の写真が多数掲載されている。スケッチの写真は白黒の複写のようで、原画が残っているのかどうか。画伯は「もうウチには何も残ってないなァ」と言っていたし、もし残っていても火事ですべて消失したはずだが、あるいは東宝の倉庫のどこかに何か埋もれているかもしれない。

 小松崎の画集には『海底軍艦』のメカ・デザイン画が1枚だけカラーで掲載されている。から、これは原画が残っていたようだ。もし東宝に他の原画が残っているのなら、正倉院御物じゃないんだから、むざむざ埋もれさせておかずに根本圭助が館長をつとめる(生前の小松崎茂が名誉館長だった)千葉県松戸市の昭和ロマン館(http://www.s-roman.com)に寄贈して展示保存するのがスジというものだろう。遅まきながら、画料の埋め合わせにしてもらいたい。(この項つづく)

根本圭助編著『小松崎茂の世界』(1995・学研)。カバー裏を飾るのは『海底軍艦』のメカ・デザイン画。この本は続編も刊行された。



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