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2003.1.8 UPDATE
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指定第18号
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伊豆めぐり/『有りがたうさん』の乗合バス |
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オール・ロケの即興演出で撮影
清水宏は天才だ |
清水宏監督の定宿だった大仁ホテルを見下ろす城山山頂に立つと、狩野川上流から下流まで、低い山並みに挟まれた箱庭のような風景が眺められる。数多くの傑作、名作のロケ地と天才、巨匠たちの足跡が一目でぐるっと見渡せる、こんな場所は撮影所以外には、日本中どこを探してもめったにないだろう。僕は今、日本映画の歴史を見下ろしているのだ、などとピラミッドの下に立ったナポレオンみたいな気分になる。
修善寺の奥に天城の山並みも見える。『伊豆の踊子』だけでなく、数多くの映画が天城峠を越えて下田港に至る下田街道で撮影された。五所平之助監督『寂しき乱暴者』(27)は下田街道を舞台にした乗合馬車屋の物語だそうだ。乗合馬車はやがて乗合バスに取って代わられる。とはいえ開通当時のバス運賃は非常に高額であったため、庶民の生活の足には程遠く、運賃の安い馬車とバスの競合する時代がしばらく続いたようだ。天城湯ヶ島で育った井上靖の自伝的小説『しろばんば』には、下田街道に初めてバスがやって来た日の興奮が描かれている。1916(大正5)年のことと思われる。
「子供たちはバスに魅了され、バスがやって来ると喚声を上げてかけ寄り、手を振り、叫び、走り去るバスを追った。こんな興奮状態の下で一人だけ憤慨していたのは馬車曳きの兵さんで、バスと喧嘩しながら乗合馬車の馬にむちを当てていた」
バスを追いかける子供たちの姿は清水宏監督『有りがたうさん』(36)の一場面そのままだ。『有りがたうさん』は川端康成のわずか数ページの掌編小説を自由に脚色して映画化した清水ならではの傑作だ。フツウ、こんな小説を映画にしようなどと考える人はいないと思う。が、映画はロケだ、という「実写的精神」を実践するには最適の素材だと清水は考えたのだろう。
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| 城山山頂から南の狩野川上流を眺める。五所平之助監督が戦中戦後の10年間ほど住んでいたのは、画面右上の低い山のふもとあたりだろうか。川をはさんだ対岸の丘の上に清水宏監督の定宿だった大仁ホテルが建つ。S字に蛇行している川の流れが見えなくなるあたりが修善寺。その右奥は踊子や『有りがたうさん』の乗合バスが越えた天城の山並み。 |
下田街道を走る乗合バスの運転手・上原謙が主人公。そのモデルとなった運転手との何年ぶりかでの再会が清水の随筆『伊豆拾遺』に綴られている。道をゆずってくれる歩行者や動物にまで「ありがとう」と声をかけるので、彼は人々から「ありがとうさん」と呼ばれて親しまれている。よく晴れた秋の午後。下田港を出発したバスは『伊豆の踊子』の逆コースで狭い山道を登り、単線のローカル列車のように途中の停留所で下りのバスと待ち合わせ、天城峠を越え、修善寺か大仁あたりまで行って、そこで一泊して翌日また下田へ帰って来る。
バスにはどこかの町へ流れていく酌婦・桑野通子、東京へ身売りしていく娘とその母(原作はこの母娘のエピソードのみ)や、出産、結婚式、葬式に駆けつける人々、リアバンパーに乗っかって無賃乗車する小学生など、さまざまな老若男女が乗り合わせる。ハイキングの男女やバスに乗る金のない旅芸人(『伊豆の踊子』と同じ名の娘もいる。「また五目ならべを教えてあげますよ」という運転手のセリフも『伊豆の踊子』を意識したもの)や信州の工事現場へ向かう朝鮮人道路工夫たちともすれ違う。ただそれだけの物語ともいえない物語をオール・ロケの即興演出で撮影した作品なのだが、何度見ても見あきることがない。見るたびにいつまでも見ていたくなる。
不景気を反映した深刻なエピソードを含みながらも、街道を走るバスの旅はのんびりとユーモラスでもある。♪ファファファファ〜ンという間の抜けたようなラッパの音をバスの警笛に見立てた音楽も楽しい。このラッパの音は島津保次郎監督がフランク・キャプラの『或る夜の出来事』(34)にヒントを得たらしい『私の兄さん』(34)でもすでに使われていて、長谷川一夫の運転するタクシーがプチブルの家出娘・田中絹代を乗せて甲州街道をどこまでも走っていく終盤のシーンは『有りがたうさん』の先駆ともいえる。が、ただひたすらバスが街道を走るだけで1本の映画を作ってしまったのは、やはり清水宏の天才というしかないだろう。その天才・清水宏に台本すらないに等しい映画を自由に作らせていた当時の松竹もまた偉大であったというべきだろう。
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伊豆の新観光施設には
『有りがたうさん』の乗合バスを希望 |
小津安二郎の映画には、清水宏の映画からの借用がしばしば見られるが、小津映画にたまに出てくる電車やバスの車窓風景にも『有りがたうさん』への憧れのようなものがあったのではないだろうか。移動撮影をほとんどしなかった小津だが、清水の大雑把にも見えるほど自由奔放な移動撮影を、内心うらやましく思っていたのではないか。清水の映画のなかの旅やハイキングを見ていると、僕もなんだかうらやましいような、列車のなかで居眠りしながら夢でも見ているような、フワフワと空を飛んでいるような、不思議と心地よい気分になってくる。軍事教練のために学生たちが軍歌を歌いながら田舎道を歩き続ける『花形選手』(37)でさえ、無性に楽しい。
『有りがたうさん』には一攫千金を狙って落ちぶれたらしい山師も登場する。五所平之助監督『伊豆の踊子』(33)にも食い詰めた山師や金鉱で当てた旅館の主人が登場していた。成瀬巳喜男監督『妻よ薔薇のやうに』(35)など、戦前の映画には金鉱だけでなく、さまざまな好物資源を探してさすらう山師が登場するが、これは当時の不景気や輸入資源の不足などの世相を反映したものだろう。山師なんて、映画のなかだけの話かと思っていたら、ニヒリスト辻潤の息子・辻まことは、竹久夢二の息子とともに何年間も金鉱を探して日本各地の山を歩き回り、何も得られずに終わったという。
修善寺の山の斜面には、かつて「帝国産金大仁金山選鉱場」という階段状の巨大温室みたいなガラス張りの建物があった。これは江戸時代初期に発見された金山(慶長小判の地金を産出)を1933(昭和8)年に再掘して、そこで掘り出された金鉱石を斜面に流して砂金を選別するための施設だった。それが、なんと1973年まで操業していたという。女優の市毛良枝は修善寺で生まれ、子供のころは近所の裏山を探検し、金山の廃坑などで遊んだりしたそうだ。藤田敏八監督『野良猫ロック・暴走集団'71』(71)で、藤竜也たちが西部劇ごっこをしていたゴーストタウンは、そうした伊豆の金山の跡に建てられた観光施設であったのか。あのころから、伊豆には貧相な観光施設が続々と建設され、現在に至ったのだろう。
そういう貧相な観光施設のひとつに西伊豆の加山雄三ミュージアムというのがある。加山が描いた絵とか、伊豆とは何の関係もない『若大将』シリーズのセットなんかが展示してあるそうだが、もちろん、僕は行ったことはない。もう、つぶれたかもしれない。
加山雄三は父・上原謙の映画をほとんど見たことがないそうで、見てもいないのに、オヤジは大根役者でろくな映画に出なかったと思い込んでいるらしい。困ったバカ大将だ。彼は『若大将』シリーズの元祖である『若旦那』シリーズ(その最終作で上原謙がデビューするはずだった)を撮ったのも、父の正式デビュー作『彼と彼女と少年たち』(35)を西伊豆でロケして撮ったのも、父の戦前の代表作『有りがたうさん』を撮ったのも清水宏監督だったということを、たぶん知らないのだろう。彼が今日あるのも清水宏のおかげなのだから、加山雄三ミュージアムなんかではなく、清水宏・上原謙記念館でも作るべきだろうに。ついでに『有りがたうさん』の乗合バスを復元して旧下田街道をのんびりと走らせてくれると嬉しい。ちなみに修善寺から下田の手前の河津まで「伊豆の踊子号」という観光用のボンネットバスが季節運行されているが、これは1964年式の新しいバスだし、珍妙な踊子スタイルの車掌が乗っているし、旧天城トンネルも通らないそうなので、あまり乗りたいとは思わない。(この項つづく)
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| 神田の交通博物館に展示されている戦前の乗合バス。1930年から愛知県の岡崎−多治見を走っていた国産車で、よくぞ今まで残っていたものだ。『有りがたうさん』の乗合バスも、ほぼこんなスタイルだ。大きさは現代のマイクロバスぐらい、その狭い車内で小さな手回しカメラで撮影したという。手回しでは同期録音はできないので、そのセリフはアフレコだろう。運転席をフロントグラスの外から撮ったショットもあり、ボンネットの上にでもカメラを置いて走りながら撮影したのだろうか。曲芸みたいな撮影だったろう。主演の上原謙が自分でバスを運転中、山道で危うく谷底に転落しかけたハプニングを清水宏監督が喜んで、そのまま映画に取り入れたシーンもある。 |
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