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2002.11.19 UPDATE
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フツウじゃない餓鬼大将監督
役者はものをいう小道具と思え |
清水宏監督がこよなく愛した伊豆について書く前に、今回はまず清水宏の横顔と彼の残した名言を紹介しておきたい。清水宏は小津安二郎や溝口健二が天才と呼び、若き天才・山中貞雄も畏敬の念をもって接した型破りな監督だったらしい。彼の映画や言葉から想像すると、どうも勝新太郎に似たところのある天才監督だったように思える。そういう監督が、なかなか理解されにくいことも想像できる。だから一昨年、『映畫読本 清水宏』が出版されたのは実に喜ばしい画期的な出来事だった。そして今年、戦前の松竹を代表する二大巨匠、島津保次郎と清水宏の作品が三百人劇場でまとめて上映されたのも、近来にない快挙だった。
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『映畫読本 清水宏/即興するポエジー、蘇る「超映画伝説」』 (2000・フィルムアート社)
田中真澄ら4人による共同編集。清水宏、友人の批評家・岸松雄、脚本家・斉藤良輔、清水の助監督だった石井輝男、突貫小僧こと青木富夫らのエッセイ、論文、インタビュー、清水の全作品の紹介と短編シナリオなどを収録。写真も豊富で、よくこれだけ集めてくれたものだと感謝。
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清水宏がフツウの監督でないと知ったのは、松竹蒲田出身のベテラン脚本家であり、『翔んだカップル』(80)や『野獣死すべし』(80)を書いた丸山昇一の師匠でもある猪俣勝人の労作、現代教養文庫『日本映画作家全史』上巻(田山力哉共著・1978・社会思想社)を読んだときだった。清水宏の項の一部を引用すると−−。
「私が蒲田へ入った頃(1934年)には、すでに新松竹を代表する大監督になっていて、野田高梧(脚本部長)のシナリオがいかに旧くさくて詰まらないか、滔々として説いた。(中略)彼の大言壮語は決して大風呂敷ではなく、立派な芸術論であったといえよう。体が大きいだけに、すべて大きいものが好きだった。シナリオの原稿なども、一コマに一字ずつ書いたりすると、もっと大きく書けと文句をいわれ、一枚にせいぜい四、五十字くらいしか書かして貰えなかった。私は最初の仕事として、シナリオ『双心臓』の筆稿をしたのだが、すべて驚くことばかりだった。原作など読む必要はない、飯は熱い炊きたてを冷やしてから食え、おかずは鯵の乾物がいい、ラーメンは横浜の内田屋に限る、役者なんかものをいう小道具と思え−−、私と同僚の津路嘉郎はポカンと口をあけてきいていた」
「この人ほど子供の好きな監督はいない。最後まで餓鬼大将だった。結局ボスになりすぎて一撮影所にはおさまり切れず、松竹からフリーになり、しかし時代の大変動にまきこまれて、蜂の巣プロ、新東宝、大映と転々としたが、かえって彼の持つ本来の味は大きく発揮できず、むなしい空振りのままで終ったのは惜しまれる」
清水宏(1903年〜66年)は1934年には31歳の若さだったが、先輩の島津保次郎ともどもオヤジの愛称で呼ばれ、恐れられもし、毀誉褒貶が激しかった。清水宏や山中貞雄をいち早く評価した批評家で、清水の傑作『小原庄助さん』(49)の脚本を書いた岸松雄は、清水の大言壮語と顔の広さについて、彼が横綱の羽黒山、双葉山らと親しかったのは本当で、「清水はウソつきだとよく言われるが、この場合はウソではない」と擁護している。
山田洋次は彼の映画にも出演した脇役俳優・加藤恒雄(大杉恒雄、大杉侃二朗などの芸名もある)にインタビューして清水宏の思い出を聞いている(1986・岩波書店『講座日本映画』第3巻に収録)。そこで加藤もまた、テレビドラマ(一時、清水宏と結婚していた田中絹代の伝記ドラマ。愚妻の記憶では清水宏を渡辺徹が演じた)で描かれたような人間ではなかった、と師匠の清水を擁護し、「ぼくは眠れなかったですよ、オヤジが可哀相で。あれじゃ悪党じゃありませんか」と訴えている。
清水宏は原作はもちろん、脚本すらないに等しい即興的な映画作りをした。笠智衆の回想によると、清水の演出は「その場のセリフは、助監督に大きな紙に少しずつ、大きな字で書かせて役者に見せ、それが済むと、また次のセリフを見せるといったやり方だった」という。戦前、清水のロケ現場へ招かれた山中貞雄や脚本家・八尋不二は、「用意」とも「スタート」とも言わず、撮影を助監督に任せたまま八尋らとおしゃべりばかりしている清水の演出ぶりを見て驚いたという。「ものをいう小道具」たる俳優の演技を排除する映画作りについて、清水自身は戦後のインタビューで次のように答えている。
「文学でも舞台劇でもマネのできない、いちばん簡単なもの、映画が映画でありうるものといえば、ロケですよ。劇映画と言うが、一般に劇が強すぎる。まず映画でなければならん。演技ということも、私にはわからない。(中略)映画とは、芝居に頼らず、その人の感じや持ち味を生かしていくものではないですか。おしなべて、だれでもたいてい一つのものは持っているんだから。慣れて達者になっただけの俳優をうまいなどと言っているが、本当にうまい人がいたら紹介してもらいたいもんだ。(中略)子どもの映画をなぜつくったか。まあ俳優というのは大体がうるさい。(中略)そこへゆくと、子どもはオイといえば集まるからね、アハハ。とにかく私は意識的に芝居をなくしていった。それで映画が一つの流れを持てれば、つまり詩だ。原作も俳優もなくて、もし映画がありうるとすれば、詩ですよ。それだけでも困るから、なにかつけるが……」(平井輝章著『実録 日本映画の誕生』1993・フィルムアート社)
作為的な物語、セリフ、演技、演出を極力排除していく、そんな革命的な映画作りを戦前から意識的に実践していた監督は世界中探しても、ほかにいなかっただろう。そのような映画作りを岸松雄は「実写的精神」と呼んだ。その精神を最も端的に表したのは「気持ちなし!」という名言につきるだろう。ある役者がある役を演じる前に、その人物の心理を尋ねたら、清水宏は「気持ちなし!」と答えたというのだ。
このエピソードを山田洋次が『キネマの天地』(86)で引用している。劇中、すまけい扮する名物監督がロケ現場で「気持ちなし!」と怒鳴るシーンだ。山田洋次も「気持ちなし!」のすごさをアタマでは分かっていたのかもしれないが、このシーンがつまらないギャグで終わったのは残念。
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勝新太郎の言葉と清水宏の 「気持ちなしの気持ちよさ」 |
「赤ちゃんとか、犬とかと一緒に撮影すると気がつくことがある。役者という者は、自分を少しでもよく見せたいという作り心が生まれる。だから、赤ちゃんとか犬とか、海、風、そういうカメラに写されることを知らないものと一緒に撮影するとわかる。前の日に渡された台本をきっちり覚えて、きっちり芝居の動きを作り、顔の表情まで稽古してきた俳優はだめだ。俳優が自分の役の未来を知っているのはおかしい。(中略)そんな演技プランは演劇では通じるかもしれないが、映画という世界では通じちゃいけない。映画はNGぎりぎりのOKが完全なんだと思う。NGを出さない俳優がふえては、おもしろくない。便秘してるのに、何杯もどんぶり飯を食ってるような奴と、芝居はしたくない」
これは勝新太郎の言葉(『俺・勝新太郎』より引用)だが、清水宏も同じことを言っていたそうだ。だから彼は「気持ち」のない子供を「気持ち」のない風の中に置いた。『風の中の子供』(37)は題名そのままに風通しがよくて、のびのびと屈託のない傑作だ。棒読みに近い「気持ちなし」のセリフでさえ、きわめて自然に感じられる。子供同士と大人同士を勝手にしゃべらせ、セリフの意味をなくしてしまうような実験もやっている。
台湾ロケした国策映画『サヨンの鐘』(43)でも、国策的な「物語」にはほとんど意味がない。その中身は山岳民族の少女(李香蘭こと山口淑子)を主人公にしたターザンごっこ映画であり(『風の中の子供』たちもターザンごっこが好きだ)、ミュージカルであり、哀しいメルヘンである。清水の分身みたいなガキ大将のターザン少女が動物や子供たちを引き連れて陽気に歌いながら山道を歩いているのを見ているだけで、わけもなく楽しい。映画とは、こんなにも八方破れで自由であっていいのか、と目からウロコが束になって落ちる思いがする。「気持ちなし」の清水宏の映画は、すこぶる気持ちがいい。
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『俺・勝新太郎』
(1992・廣済堂出版)
孤高の天才・勝新太郎が自らの人生や思いを語った本。即興でテレビドラマを作ったプロセスを落語みたいな語り口で再現した場面など、まるで彼が監督した映画『顔役』(71)やテレビドラマ『警視−K』(80)のようにユーモラスでスリリングだ。が、「心ある、本当の道をめざす人間は、自分だけの道を歩かなければならない。あえて、今まで、誰も歩かなかった道を歩かなければならない。人々が長いこと見なれてきたものが、いかに退屈だったかを悟らせなければならない」という決意は悲壮でもある。
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〔前回の補足〕
先日、久しぶりに日活映画『霧笛が俺を呼んでいる』(60)を見たら、横浜の病院が出てきた。吉永小百合が股関節の手術(!)のために入院していると赤木圭一郎が訪ねてくる。その病院の白い磁器タイル貼りの外壁、外壁の角の曲面やバルコニーの手すりの曲線など、東京逓信病院に非常によく似ている。東京よりも規模は小さいが、より洗練されたデザインで、ショートケーキみたいに愛らしい建物だ。たぶん横浜逓信病院(JR東神奈川駅前)だろう、と思って電話で病院に問い合わせたところ、すでに建て替えられていて確証は得られなかったが、間違いなく山田守の設計だろう。横浜逓信病院の竣工は1952年。88年に現在の建物が完成したというから、旧病棟はその前年ぐらいに解体されたのだろう。竣工からわずか35年、まるでオープン・セットの日活銀座なみの短命だったことになる。
劇中の病院の玄関の、車寄せの屋根とキノコ型円柱が一体化した流線型のデザインが実にカッコイイ。山田守は『宇宙快速船』(61)のロケに使われた長沢浄水場(1957年竣工)よりも先に、この病院でキノコ型円柱を試していたわけだ。日活のスタッフは、どこを撮っても絵になるこの病院の美しさをフルに見せようと、さまざまなアングルで撮影。山田守の傑作が鮮明なカラーワイド画面に記録されている点こそ、この映画の最大の見どころといってもいいほどだ。というわけで、この病院も東京逓信病院とともに日本映画遺産に指定。前回で書き忘れたが、東京逓信病院(JR飯田橋駅を出て法政大学の手前)も建て替えられて現在は二代目の建物になっている。ついでに第14回の原稿の訂正。東京中央郵便局が「昭和六年に完成した」と引用文にあったのは「昭和八年」の誤植だと思う。
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