
|

2002.5.17 UPDATE
 |
 |
成城にたたずむモダンな洋館で育まれた 日本の映画史と植村家 |
横溝正史邸の門柱の表札に柏手を打ち深々と一礼し、角川春樹社長が庭に入ってくる。縁側の横溝先生に「今月の印税です」と言って、札束の詰まったジュラルミンのトランクを差し出す。笑みを浮かべ、鷹揚に受け取る横溝先生。これは大林宣彦監督『金田一耕助の冒険』('79)の一場面だ。
横溝邸は意外に質素で古びた日本家屋だった。建物は深い緑に囲まれていて、世田谷の住宅街にこんなところが残っているのかと、これも意外だった。横溝邸の深い緑の向こうに、その数年前まで古い洋館が建っていたことを当時の僕は知らなかった。その洋館で育った女性が書いた『私たちの成城物語』という本には戦前、日本の映画史と深い関わりを持ち、戦後はあえなく没落していった一家の知られざる歴史が綴られている。著者の中江泰子は旧姓植村。PCL映画の創立者にして東宝映画初代社長・植村泰二の娘である。
虚弱体質で人見知りも激しい長女・泰子の将来を心配した植村夫妻は1930(昭和5)年春、泰子を豊かな自然に囲まれた自由な校風の成城学園の小学校へ入学させ、まもなく一家で成城学園のそばに移り住んだ。近所にいた中江家の次男がのちに泰子の夫となる。泰子の姑の姉に女優の東山千栄子、弟にコロムビア・ジャズバンド楽長の渡辺良がいた。
1931年、ドイツ留学から帰国した植村泰二は成城学園前駅の南側に写真化学研究所を設立し、近くに敷地1100坪、建坪200坪の自宅も新築。別にテニスコートと園芸用の土地400坪。昼はイタチが道を横切り、夜は真っ暗な森でフクロウが鳴くというところで、借地代は坪5銭か8銭という安さだった。家は真っ白な外壁のモダンな総二階建てで、設計は土浦亀城(かめき)。旧帝国ホテルの設計で知られる巨匠フランク・ロイド・ライトに学んでアメリカから帰国したばかりの若き建築家だった。新しいものに目がなく、若い才能の発掘や援助に金を惜しまなかった植村は、自邸の新築でも新進気鋭の土浦に設計を依頼したのだ。植村邸は土浦の住宅作品のなかでも最も初期の最も大規模なもののひとつだったろう。1932(昭和7)年、砧村が世田谷区となり、その翌年に植村邸が完成した。以下、『私たちの成城物語』を引用しながら植村家の歴史をたどってみよう。
「昭和七年二月、(中略)まず父の個人経営の写真化学研究所のステージが完成、これがP.C.L.製作所となり、後に東宝となる第一歩だった。もし私が成城学園に入学しなければ、成城に引っ越して来ることもなく、撮影所ができることもないまま、もっと静かな学園都市だったのかもしれない」
|
 |
中江泰子・井上美子著『私たちの成城物語』(1996・河出書房新社)
植村泰二邸でのロケやPCL運動会のスナップなど、公式の映画史には見られない楽しく貴重な写真も収録。写真の1枚でテラスの日除けの支柱にしがみついている坊やは泰子の弟で、のちに『悪魔が来りて笛を吹く』('79)のテーマ曲を演奏した植村泰一だろう。戦時中、軍国映画や国策映画を量産し、「それぞれの作品はよく憂国の情ほとばしり、文部大臣賞、情報局総裁賞など殆ど東宝が独占することができました」などと臆面もなく自画自賛している『東宝三十年史』(1963)に比べると、『私たちの成城物語』は東宝映画の基礎を築いた人々の真実の歴史を綴った心にしみる名著といえよう。共著者の井上美子は中江泰子の半世紀来の隣人で俳人としても知られる。 |
 |
 |
東宝映画の誕生と 成城に集った映画人たち |
PCL第1作『ほろよひ人生』('33)の開巻に、完成したばかりの白亜のステージが誇らしげに映し出される。厳密に言えば『ほろよひ人生』は写真化学研究所(フォト・ケミカル・ラボラトリー、通称PCL)の第1作であり、同年末、通称だったPCLがPCL映画製作所の社名になった。ロゴマークでは「P.C.L」、正式社名では「ピー・シー・エル」だが、これまでどおりPCLと略す。最新のトーキー撮影機材をそろえたPCLは、成瀬巳喜男や山中貞雄らの人材も充実し、さらに発展。
「昭和十二年九月には東宝映画株式会社となり、父が社長に就任した。日中戦争の始まった年である。それから十年後の昭和十七年、戦局の拡大とともに情報局の命令で社団法人映画配給社が設立され、その社長就任のため東宝の社長を辞任するまでが、父と撮影所の家族ぐるみの生活でもあった」
「北大農芸化学を卒業、理研(注・理化学研究所)の鈴木梅太郎博士の下で学究の徒として人生の第一歩を踏み出し、写真感光材料の研究にいそしんでいた父が、研究者から映画製作に手を広げるようになり、それまで別世界だった芸能人(当時は活動屋といった)とのおつき合いもはじまった」
多くの映画人が成城に移り住み、植村邸でのパーティは戦争のような騒ぎだった。植村邸でロケが行われることも多く、「入社まもない原節子が、母の鏡台の前で、麻の葉の浴衣姿でお化粧をしていた姿などよく覚えている」。ハリウッドでハワード・ホークスの航空映画にスタント飛行士として出演したのち、PCLに入社して『ほろよひ人生』や成瀬巳喜男の出世作『妻よ薔薇のやうに』('35)に助演した好青年・大川平八郎とは終生、家族ぐるみの付き合いが続いた。徹夜の撮影や録音の際には家族総動員で撮影所へ夜食を運び、完成試写にはお手伝いさんまで駆けつけた。撮影所は家庭の延長であり、植村社長はPCL野球チームを率いて自ら投手としても活躍。「父のもうひとつの人生をかけた趣味に音楽があった」。北大時代から歌い、寮歌を作曲し、楽器を奏でた。徳川夢声が「日本一の大変な、しかしすばらしいお道楽」と評したPCLオーケストラは植村のポケットマネーで運営されていた。北大の後輩にあたる若き作曲家・早坂文雄を成城へ招いたのも植村だった。
「早坂氏は、(中略)毎日のようにわが家に通って来て、ピアノに向かって作曲に余念がなかった。ある日、学校から帰ると、子供たちの稽古用のアプライトピアノが姿を消していた。父がピアノを持たない彼のために、プレゼントしてしまったのだった。そのピアノで彼は次々と映画音楽を作曲した」
早坂と東宝の音響効果マン・岩淵東洋男(第4回参照)は戦前、植村邸にあったドイツ製の豪華なディスク式オルゴールを、いつか効果音に使いたいと話し合っていた。戦後、早坂が音楽を手がけた『酔いどれ天使』('48)のラジオドラマ化で、その夢はかなった。岩淵はNHKに移り、例のオルゴールもなぜかNHKの効果室に移ってきていたのだ。ふたりは昔を思い出しながらオルゴールの音色に耳を傾けた。あとで早坂から届いた礼状には「私も闘病生活中、あのオルゴールで癒されました」とあったが、早坂は1955年、病に勝てずに亡くなった。その翌年、植村邸も人手に渡った。
|
 |
土浦亀城邸(1993年撮影) 目黒駅の少し北、山手線の内側、上大崎の高台に建つ白亜(といっても木造)の小住宅。戦前に数々のモダニズム住宅を設計した土浦亀城の自邸で、植村泰二邸の少しあとの1935年に竣工。建設費の一部は植村邸の設計料だったのかもしれない。土浦は1996年に99歳で死去し、今は別の人が住んでいる。小金井公園の江戸東京たてもの園へ移築する計画もあったのだが、どうなるのだろう。なお『失われた帝都 東京』(1992・柏書房/1998・改題軽装版『幻景の東京』)という豪華な建築写真集に戦前の植村邸と土浦邸の写真が出ているが、どちらも引っ越し前の旧宅である。
|
|