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2002.2.19 UPDATE
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指定第8号+第9号
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広瀬正の遺稿『テイクワン』+東洋キネマ |
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戦前の日本映画界を彩った
紙恭輔とその仲間たち |
前回、『ほろよひ人生』('33) のラストに紙恭輔が出演していると書いたのは記憶違いで、正しくは『エノケンの青春酔虎伝』('34) でした。どちらも藤原釜足とビアホールが出てくるので間違えたのだ。『青春酔虎伝』のラスト、ビアホールを開店した二村定一が「では、紙さん、お願いします」と声をかけると、紙恭輔がアメリカ仕込みの英語で「オーライ」と答えて指揮棒を振り、エノケンの相棒の二村が歌いだす。
さて、紙恭輔の名はジャズやレビューや映画の歴史のあちこちに登場するが、それらを読むとツジツマの合わないところも多い。彼の後半生が音楽家としてあまり恵まれなかったために正確な記録が残っていないことも、その理由だろうか。不正確な部分もあるが、紙恭輔の経歴は次のようなものだ。
1902(明治35)年、広島生まれ。本人の記憶では14歳か15歳のころ、東京の目黒キネマでハタノ・オーケストラとともに無声映画の伴奏をしていて、弁士に徳川夢声がいたという。ジャズ史によると、アメリカ航路の客船で演奏していた日本のジャズの先駆者・波多野福太郎がハタノ・オーケストラを結成して銀座の洋画上映館・金春館で無声映画の休憩音楽を演奏し、人気を博したのは1918(大正7)年か19年。そこへ人気弁士・徳川夢声が移ってきたのが1921年。翌1922年、波多野と夢声は相次いで神田の東洋キネマに移る。波多野はここで大編成のオーケストラによる交響曲コンサートも開催し、その演奏を聞くために学生たちが長蛇の列をつくったという。1923年9月、関東大震災。1924年3月、夢声は東洋キネマの経営に乗り出すが半年で失敗。
ということなので紙恭輔が波多野、夢声と一緒に仕事をしたのは金春館か東洋キネマ、あるいはその両方と考えられ、20歳前後ということになる。それ以前に目黒キネマで伴奏のアルバイトもしていたのかもしれない。
1926(昭和元)年、紙恭輔は東京帝大法学部を卒業。のちの近衛文麿首相の弟で東大オーケストラの創設メンバー・近衛秀麿が新響(新交響楽団。現在のN響)を設立し、紙恭輔はコントラバス奏者として加入。ちなみに松竹映画『愛染かつら』('38) に「指揮は近衛秀麿に頼みたいわねえ」という看護婦たちのセリフがある。同じころ、アメリカの果実王の息子で二世の堂本誉次(かつじ)が帰国し、彼の指導で1927年、慶応の学生がジャズバンドを結成。メンバーは代議士や大臣や華族のドラ息子たちだった。新響団員でジャズ・ファンでもあった紙恭輔はこのバンドに参加し、1928年に二村定一のヒット曲『あお空』(『私の青空』)と『アラビヤの唄』のコロムビア盤レコードの吹き込みにもサックス奏者として客演。コンサートも開催して大成功を収めたが、家の金を持ち出していたメンバーが勘当されかけてバンドは解散。
1929年10月、堂本誉次のすすめでコロムビア・ジャズバンド結成。紙恭輔の指揮と編曲でレコードの吹き込み、ダンスホールでの演奏をし、当時、最高水準のジャズバンドといわれた。1930年、紙恭輔はアメリカ留学へ。1931年6月、新響が分裂。1932年、紙恭輔は南カリフォルニア大学留学から帰国。
1932年2月、ハワイ生まれでロスアンジェルス育ちの三世・川畑文子が帰朝公演のために来日。13歳でデビューしてRKO専属のソロ・ダンサー、歌手となり高額のギャラをとっていた彼女の名声は日本にも伝わっており、公演前にラジオ出演して日本語のジャズ・ソングを歌った。訳詞が映画青年・森岩雄、指揮が紙恭輔。川畑文子はしばらく日本にとどまり、日劇開場記念レビュー『踊ル1934年』に破格のギャラで出演。その公演ポスターに彼女の全身写真があるが、ピンクレディーそっくりの超ミニスカート姿に驚かされる。同じころの松竹少女歌劇の写真を見ると、こちらはもっと過激で、完全なるビキニ・スタイルのダンサーもいる。エロ・グロ・ナンセンスと聞くと安っぽい感じもするが、実際はもっと洗練された、いい時代だったようだ。
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瀬川昌久著
『ジャズで踊って 舶来音楽芸能史』
(1983・サイマル出版会)
♪ジャズで踊って、リキュールで暮れて〜という戦前の流行歌の歌詞にちなんだ題名どおり、主に戦前戦中のジャズとダンスの歴史についての本だが、本文で紹介した川畑文子、紙恭輔、服部良一らが関わったレビューや映画についても詳しい。 |
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紙恭輔とガーシュインと少女歌劇 |
1932年、紙恭輔は映画音楽第1作『昭和新撰組』(日活脱退組が設立した新映画社作品。森岩雄の斡旋でPCLが共同出資)を手がけたのち、1933年6月、日比谷公会堂でシンフォニック・ジャズ発表会を開催。演奏は新響脱退組が結成したコロナ・オーケストラとその他一流ジャズメンで、川畑文子も客演。紙恭輔の指揮でジョージ・ガーシュインの名曲『ラプソディ・イン・ブルー』を本邦初演して大喝采を浴びた。大阪のうなぎ屋の道楽息子が始めた少年音楽隊の出身で、ガーシュインをめざしていた服部良一青年は、このニュースを聞いて「ぼくのあせりは頂点に達し」、やがて上京を決意。紙恭輔を追随する形で音楽家としての人生を歩み始め、のちに紙恭輔と出会うことになる。ちなみに少年音楽隊はデパートや遊園地の宣伝のために各地で結成されたもので、その少女版として生まれたのが宝塚少女歌劇であり、当初はほんとに子供が出演していた。
1933年8月、紙恭輔の映画音楽第2作『ほろよひ人生』(PCL自主製作)封切。10月、紙恭輔が松竹少女歌劇の楽長として音楽を担当した『タンゴ・ローザ』が松竹歌劇史上最大のヒット作となり、主題歌も大ヒット。12月、森岩雄が製作部長となってPCL映画製作所発足。紙恭輔は音楽部長に就任し、PCLオーケストラを結成。メンバーはコロナ・オーケストラ、コロムビア・ジャズバンドなどから総勢30名を引き抜いた。
映画批評家、脚本家でジャズ・ソングの訳詞などもやっていた若き日の森岩雄は「日本映画夜明け前の百鬼夜行の奇行が様々語り伝えられる」(猪俣勝人)伝説の日本映画俳優学校(1923年創立)の教頭となり、生徒を引き連れて東洋キネマへ通っていたという。その生徒のなかから前述の日活脱退組をはじめとする多くの俳優、監督、脚本家が生まれた。東洋キネマの弁士だった徳川夢声と観客だった森岩雄と、そしてたぶん伴奏をしていた紙恭輔は、やがてPCLに結集し、トーキー初期の稚拙ではあるが先駆的な音楽映画『ほろよひ人生』(構成が森、出演が夢声、音楽が紙)を作ったのである。(この項、さらにつづく)
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東洋キネマ(1983年撮影)
神保町の岩波ホールの裏通りにあった由緒ある映画館。写真は震災後の1928年に建て直されたもの。3つの別々の建物のように見える左右非対称の特異なファサード。左端のバルコニーはスターのお立ち台で、ファンに挨拶する姿が照明に浮かび上がったという。1970年代に閉館後も仮店舗になってバブル時代を生き抜き、建築探偵の間では日本に現存する唯一のダダイズム建築かと評判になっていた。テレビ番組で全盛期の様子が再現されたこともあるが、1992年ついに解体。江戸東京たてもの園に自分の好きな戦前の建物を移築させている藤森照信の著書『建築探偵の冒険・東京篇』(1986・筑摩書房)に東洋キネマの設計者の証言と設計図が出ている。東洋キネマも移築復元してもらいたかった。
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