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2005.4.1UPDATE

山田宏一
text by Koichi Yamada
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「身体表象文化としての映画誌」
4/18(月)より毎週月曜日18:00〜19:30(全20回)学習院大学にて開講
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ここ、学習院大学の教室で、「身体表象文化としての映画誌」という公開講座をおこなうことになりました。学習院大学大学院人文科学研究科による「身体表象文化学プロジェクト」の一環として、誰でも自由に聴講できる、映画と映画史についての連続講座です。映画史ではなく、「史」の代わりに「誌」としたのは博物誌のように映画についてのいろいろな事象の記録ぐらいの意味です。「身体表象文化」というのは英語では「the
culture of physical representation」で、このプロジェクトの主旨は、パンフレットにも記されているように、「舞台・映像芸術と身体に関わるカルチュラル・スタディーズを有機的に組み合わせ、表現手段およびイメージ媒体として身体がつくりあげてきた文化的意味を体系的に捉えていく新たな試み」ということになります。
表象というのは、書いて字のごとく、「象(かたち)」を「表」わすというか、「表」にあらわれた「象(かたち)」というか、それをドイツ語のVorstellungのフランス語訳である を日本語化した「ルプレザンタシオン」なんてむずかしく言うと舌を噛みそうで頭が痛くなりますが、しかし単純に「表象=イメージ化」と考えれば(この明快な定義はこの学習院大学フランス文学科の教授でもある中条省平氏によるものです)、とすれば、「身体表象文化」というのは映画そのものの定義たりうるのではないかと思われました。
「広辞苑」(岩波書店)とか「大辞泉」(小学館)とかいった国語辞典にも、「表象」とは「知覚にもとづいて意識に現われる」、あるいは「心に思い浮かべられる」「対外対象像」で(つまりは外にはっきりあらわれたイメージですね)、それも「感覚的・具体的」なものであり、抽象的な「概念」とか「理念」とは異なるもの、とあります。映画では画面にうつったものがすべてですね。音もふくめて具体的に感覚的に官能的に、画面にあらわれ、とらえられるもの――それこそ「映画」ではないかと思うんですね。このところ、批評によって「作家性」とか「作家主義」とかいった抽象的な「概念」や「理念」に冒され、毒された観のある映画を、もういちど、あらためて「身体」がつくりあげてきた具体的な、官能的な「イメージ化」の大系としてとらえ直す、というよりも、そもそもの原点に還って映画史を見直すたのしいチャンスになりうるのではないか、というのが、この、「身体表象文化としての映画誌」と銘打った映画講座、映画史講座の発想です。
映画は、もちろん、映画作家、作家としての監督のものであるとともに、演じる俳優のものでもありますね。「演じる」ことを英語では「act」と言います。俳優はactする者という意味でアクター(actor)、女性形はアクトレス(actress)です。映画の撮影のときに監督が俳優に向かって「演じる」ように指示するときの、日本では「ヨーイ、スタート!」とか、「ヨーイ、ハイ!」とか、監督によってかけ声は多少異なりますが、それにあたる合図のかけ声が英語では「アクション!」です。アクション(action)は演じることなんですね。身体を動かすことによって演じること、まさに身体表象、身体がつくりあげるイメージですね。演技を意味するパフォーマンス(performance)という言葉もありますが、映画では俳優の演技はまずアクションなんですね。 |
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