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東京都現代美術館の「MOTアニュアル展2004 私はどこから来たのか/そしてどこへ行くのか」と題されたグループ展の一環として、ドキュメンタリー映像作家三浦淳子の5作品が1月17日から3月21日まで2か月間上映されていた。もう終わりかけになって(3月13日)、やっと見に行けたのだが、残念ながら2作品しか見ることができなかった。本当に残念だったけれども、2本見られただけでも大変な収穫だった。発見と言いたいくらいのうれしいおどろきだった。どんな映画かというと、それは三浦淳子さん自身の言葉を借りれば、「個人的な出会いからインスパイアされたことを、ほとんどひとりで絵を描くように映像化したドキュメンタリー」ということになる。処女作『トマトを植えた日』(1992)は祖父の話、『孤独の輪郭』(1996)は祖母の話で、家族のことを描いたホーム・ムービー(ルイ・リュミエール的なということは世界で初めて撮影されたような)といった感じなのだが、「私」がいつもすべてを見つめる「眼」になっていると同時に、そこにいっしょに生きているのが感じられ、「身近な心魅かれる人間や自然の変化にカメラを向け、その映像を編集すると、時に、もはや単なる個人の経験ではなく、ある普遍性が浮かび上がってくるように感じられる」作品だ。
『トマトを植えた日』は50分の8ミリ作品で、「私が初めて8mmカメラを手にした」作品。その日、祖父は庭にトマトを植えていて、「私がカメラをまわすのを見て、自分も戦前、満州で9、5mmの映画を撮影したと語り、そのフィルムを探し始め」るのだが、「しかし、そのフィルムはみつからないまま、祖父は他界。私は祖父の喪失を埋めるかのように、祖父の残したもの達を撮影し、この映画が生まれました」。
ホーム・ムービーのような日常的な生活スケッチから、「私」がカメラをまわすことによって、いっきょに時空を超えてドラマが生まれてくるかのようだ。祖父の死後、何本か見出された9、5mmのフィルムを上映して、そこにうつっている親族たちがわいわい思い出話をしながら見るシーンなど、ジャン・ルーシュ監督の『ジャガール』(1967)を想起させる。
『孤独の輪郭』は53分の16ミリ作品で、一人暮らしをする92歳の祖母が「誰も聞いていない放送をする」という「孤独」のきわみを描く。いや、ここでも、「私」がカメラをまわすことによって祖母の「放送」がはじまったかのようである。夏の庭の草花が風にゆれるカットが、ふと、ルイ・リュミエールの『赤ん坊の食事』(1895)の食卓の向こうに見える庭の木の葉が微風にそよぐ映像を思い出させた。祖母が西瓜を食べながら、「シャシンをまわしてばかりいないで、おいしいから、おあがり」というような感じのことを言うところもある。カメラをまわす「私」とのひそやかな対話で綴られた映画でもある。
映画を見て帰りがけに、古書店の店頭の200円均一コーナーでアルベール・カミュの「異邦人」(「ペスト」といっしょに収録された新潮世界文学全集の1冊)を見かけ、思わず買った。中学3年のときに初めて読んだ小説だ。忘れがたい最初の書きだしを読みたくてページをひらいたら、「けふママンが死んだ」。あのころはまだ「けふ」という表記が残っていたのか。 |
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