
|


「産経新聞」夕刊(大阪)に昨年4月から週1回連載してきた「シネアストの肖像」の最終回をジャン=リュック・ゴダールで終える(3月)。フランソワ・トリュフォーの14作品のリバイバル上映(「フランソワ・トリュフォー 14の恋の物語」)に合わせてトリュフォーからこの連載をはじめたので、そのときからゴダールでしめくくることに決めていた。今年はゴダールについての本を1冊にまとめなければならないということもあり、その序論のつもりで書いてみた。
ゴダールといっても、私にとっては現在の「生きた伝説」と化したJLGはとても手に負えない存在なので、『勝手にしやがれ』(1959)から『ウィークエンド』(1967)に至る、1968年の5月革命とそれを契機にあらゆる意味における「革命」に向かってラジカルに「変貌」していく以前のゴダール作品、「豊饒な60年代ゴダール」とポーリン・ケイルが評した時代のゴダール作品、それもとくにアンナ・カリーナをヒロインにしたゴダール作品についての映画読本になるだろう。
 |
 |
『ジャン=リュック・ゴダール全評論・全発言III』
筑摩書房
¥9240 |
|
 |
おりから、「ゴダール全評論・全発言III 1984-1998」(奥村昭夫訳、筑摩書房)が出た。820ページもの大冊である。すでに「I」「II」が出ていて、各720ページもの大冊なのだが、「III」はそれらをしのぐボリュームだ。これをいっきょに読んで書評を書ける人がいるのだろうかと余計な心配をしてしまうほどだ。
かつてのゴダール映画には、「生きた知性」(とゴダール自身がよんだ知識人、映画監督、思想家)が引用されて特別出演し、劇映画のなかに唐突に生のドキュメンタリーが入りこんだり、実名のまま本人が登場したりした。『勝手にしやがれ』ではジャン=ピエール・メルヴィル監督が、『女と男のいる舗道』(1962)では哲学者のブリス・パランが、『軽蔑』(1963)ではフリッツ・ラング監督が、『恋人のいる時間』(1964)ではロジェ・レーナルト監督が、『中国女』(1967)では活動的な思想家で評論家のフランシス・ジャンソンが、彼らの哲学的思想を語った。
いまや、ゴダール自身が「生きた知性」となって語るのだ。映画もそうだが、あまりにも苦痛を強いてくるので、それ以上に「全評論・全発言」としてまとめられた書物のほうが魅力的で、圧倒的な証明のように思える。その編者であり現在のゴダール研究の第一人者として知られるアラン・ベルガラが、「全評論・全発言V」の冒頭のインタビューのなかで、いまゴダールを知っている人というのは、嘆かわしいことには、『勝手にしやがれ』と『軽蔑』と『気狂いピエロ』(1965)ぐらいしか見ていない連中なのです、「30年以上も前の映画しか知らないのです」と訴えると、ゴダールは「あえて言えば、ぼくは忘れられた人たちのなかの最もよく知られた人なんだ」と答える。
「30年以上も前の映画しか」知らなくても、ゴダールは忘れられない存在だし、「最もよく知られた」映画作家であることはたしかだろう。
これからじっくり「全評論・全発言」を読んでいくつもりだ。相当の読みごたえがあるだろう。どこまでくらいつけるかわからないが――たのしみではある。 |
 |
 |
|