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プロローグ:もうひとつの『もののけ姫』
第1回 ゴダールの『映画史』
第2回 アンナ・カリーナとともに
第3回 映画と観客
第4回 美少女チャン・ツィイーに捧げた愛の詩
第5回 アニメーションの冒険
第6回 映画の宝物
第7回 羽仁進とジャン・ルノワール
第8回 誰が映画を殺すのか
第9回 映画の後で
第10回 映画戦線異状なし?
第11回 「映画」から遠く離れて
第12回 年末年始は映画三昧
第13回 いくつかの映画的「快挙」
第14回 『犬猫』『ヒッチコック・コレクション』『阪妻映画祭』など
第15回 ヌーヴェル・ヴァーグ再考
第16回 フランソワ・トリュフォー -わが人生の映画たち-
第17回 チェコアニメの夏
第18回 生きた、愛した、歌った。
第19回 『十七歳』を忘れないために





『日本アートアニメーション』
発売:紀伊國屋書店
¥360000
『3びきのこぐまさん』
発売:婦人之友社
¥1800(税別)
 「日本アートアニメーション映画選集」全12巻という画期的なDVD-BOXが発売され(紀伊國屋書店)、その記念イベントとして「アニメーションの旅〜漫画映画から実写アニメまで〜」という上映会が紀伊國屋サザンシアターで催された(2月11日)。

 私はこのすばらしいDVD-BOX「日本アートアニメーション選集」の「推薦のことば」を書き、この選集に収録された珍品(少なくとも私が初めて見る作品)のなかでも漫画家の横山隆一作・画、小説家の大岡昇平作曲(そしてピアノ演奏も?)の『5万匹』(1962-65)というナンセンス・ショート・ショート集のすばらしさを強調したのだが、それにまさるとも劣らぬケッサクがあったのだ。

 『3びきのこぐまさん』(1931)という珍品である。あまりにもさりげないナンセンスというか、ノンセンスというか、どことなく通常の意味から逸脱した突っ飛な笑いに会場が沸いた。

 雑誌「婦人之友」の創立者で主宰者の羽仁もと子が同誌主催の親と子の集いのために企画、姉妹誌「子供之友」に1924年から28年まで連載された村山知義・籌子コンビの同名の人気絵物語のアニメ化である(ビデオ――VHS――も婦人之友社建業100周年記念に発売された)。Tom(トム)のサインで童画の作家として知られたムラヤマ・トモヨシの絵とその妻で児童文学者のムラヤマ・カズコの文による洒落た絵ばなし(その一部の美しい復刻版がこれも現在の婦人之友社から出ている)から、岩崎昶の演出、並木晋平の撮影で、単純に切り紙アニメ化したもの。その簡潔な表現とムダのないスピーディーな筋の運びにおどろかされる。

 モノクロ、10分のオリジナル版は――1931年の作品だから――おそらくサイレントかと思われるが、当時の弁士の解説に代わって佐藤オリエのナレーション入りの、これがなんともさわやかにトボケたおもしろさだ。朝、目覚まし時計から長い手がのびて、ベッドの3匹の小熊さんの頭をしたたか殴って起こすところから愉快である。

 いわゆる実験アニメーションでもなく、昔ばなしや古典的なオトギ話でもなく、ファンタジーの世界に没入して遊ぶ作品でもない。3匹の小熊さんとそのお母さんや、アヒルさんとそのお父さんや、雪だるまのお母さんとその子供たちの日常的な冒険、生活スケッチといった感じで、とくに教訓も寓意もない。すべてが至極当然のように予定調和的なプロットも、ほとんど不条理なご都合主義のナンセンスそのもの。最後は3びきのこぐまさんの大嫌いな「おぶう」で出来上がりだ。

 そもそも、作画があの市川雷蔵主演の『忍びの者』シリーズ(1962‐66)の原作者でもある作家の村山知義で、演出が戦前からの映画評論家、岩崎昶というだけでも珍品と言える。といっても、じつは、このふたりは先輩後輩同士で映画的キャリアを築いていく盟友であった。岩崎昶の回想録「映画が若かったとき」(平凡社)に、こんなくだりがある。

 いちばん親しくなったのは村山知義。――彼は高等学校で2年先輩であったし、(中略) 多才絢爛、「意識的構成主義的」という旗幟をかかげて、絵画、彫刻、舞台装置等に、まあダダにもっとも近いといっていい西欧の新様式を輸入し、劇作、演出、俳優――ルナチャルスキー作『開放されたドン・キホーテ』の「ムルチオ伯」のごとき快演か怪演かをやってのけたのにはド肝をぬかれた。私は彼の前衛主義にまったく眩惑され、そのとりことなり、東中野の小滝橋にある彼の奇怪な家、表現主義の舞台装置としては印象的であるが、実際に住んだら不便この上もないので有名な家に、一時はほとんど日参した。彼に師事していたのである。

 間もなく1929年、私は同志とはかって「日本プロレタリア映画同盟」(プロキノ)を組織して、映画の製作と上映をはじめる。


 そのころ、岩崎昶は村山知義の家で群司次郎という男と知り合った。やがて群司次郎正と名のってベストセラー作家となり、「ついにかの巨匠、伊藤大輔監督が群司の『侍ニッポン』(1931)を映画化するに及んで、彼の文運は絶頂に達した」。

 「人を斬るのが侍ならば/恋の未練がなぜ斬れぬ……」という西條八十作詞の主題歌で知られる、あの『侍ニッポン』である。というようなエピソードもじつにおもしろいのだが、それはともかく、1929年にプロキノを設立した岩崎昶は、自ら16ミリ・キャメラを回して東京の庶民の生活を記録した『アスファルトの道』(1930)を撮り、記録映画『第11回メーデー』(1930)と『第12回メーデー』(1931)を編集する。
村山知義も、ドイツに留学して美術を研究し画業に励んだあと、劇団を結成して舞台装置を担当。新劇出身の村田實が監督した映画『日輪』(1926)では「超現実的セット」を設計して話題をよんだ。岩崎昶が結成した「日本プロレタリア映画連盟」の発起人のひとりでもあった。

 『3びきのこぐまさん』というアニメーションは、小品ながら、村山知義と岩崎昶の師弟あるいはむしろ盟友コンビの合作でもあったのだ。

 その後、村山知義は劇作家、演出家、小説家として、そして弾圧をうけながらも左翼陣営の作家として活躍。映画は片岡鉄兵の小説「接吻の責任」を脚色した『恋愛の責任』(1936)を監督したほか、木村荘十ニ監督、前進座総出演の『新選組』(1938)の原作・脚本を担当、そしてユージン・オニールの舞台劇を翻案した『初恋』(1939)を監督。戦中は投獄されたあと、国外逃亡をへて、戦後、帰国(その年、籌子夫人を失う)、占領時代からの左翼演劇活動はめざましく、「忍びの者」などの小説も執筆。

 岩崎昶も治安維持法違反で投獄されたりしながらも、1936年には満映(満州映画協会)の嘱託、戦後は日本映画社製作局長(ニュース・プロデューサー)として「日本ニュース」を製作。記録映画『日本の悲劇』(亀井文夫編集、1946)も製作するが、占領軍に没収された。1950年には独立プロ新星映画社を設立し、今井正監督の『どっこい生きてる』(1954)や『ここに泉あり』(1955)、山本薩夫監督の『箱根風雲録』(1951)や『真空地帯』(1952)などを製作するといった筋金入りのキャリアの持ち主なのである。




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