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『十七歳』
発売:イエス・ビジョンズ
¥3980(税別) |
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やっとまた、『十七歳』を見ることができた。1年半ぶりになる。今関あきよし監督の快作だ。
傑作という讃辞はあえて使わないことにしよう。これから、もっと、もっとすばらしい映画をつくってくれそうな、1960年生まれの気鋭の監督だ。新進ではない。1983年の本格的デビュー作『アイコ十六歳』以来のキャリアがある。
『十七歳』は一昨年、東京・池袋の映画館(テアトル池袋だったと思う)で上映されたときに、最終日の最終回にとびこんで見た。『アイコ十六歳』の監督の青春映画の新作という以外に何の知識もなかったのだが、最初から最後まで魅せられたまま、ずっと心に残っていて、なんとかもういちど見たいと思い、やっとDVDで見ることができたのである。それも、私はうかつにも気づかずにいたのだが、すでに昨年9月に発売されていたのだった(ポニーキャニオン)。
美しい画質のDVDで、小さなテレビ画面ながら、感動をあらたにする。
17歳の女子高生がヒロインだが、14歳(当時)の新人、滝裕可里が演じているところに、もしかしたらこの映画の魅惑の秘密があるのかもしれない。
「大人になんかなりたくない。
けど、早く大人になりたいと思う
矛盾した自分もいる。」
映画はこんな、少女の思いを綴った字幕からはじまる。
「矛盾した自分」を見つめているところに少女の明晰な覚悟のようなものが感じられる。
『理由なき反抗』(ニコラス・レイ監督、1955)のジェームズ・ディーンや『大人は判ってくれない』(フランソワ・トリュフォー監督、1959)のジャン=ピエール・レオーのような反抗期の少年とは似て非なる『十七歳』の少女は、非行をはたらくわけではなく、それどころか、男女共学の県立高校の2年生に進級した新学期早々、「いじめ」にあう。といっても、それはいまにはじまったことではなく(アメリカに留学中の身障者の兄を持ったことや母子家庭であることも前々からの「いじめ」の理由だったことがわかってくる)、彼女としてはなれっこになっているのだが、たぶんそれゆえにじつは彼女自身も同級生の女の子たちにとってはかなり「むかつく」存在なのである。
生まれつきの赤っぽい髪のせいで、女教師にもいじめられるのだが、もちろん、「校則」を楯に取る女教師には「いじめ」の意識などこれっぽっちもなく、「生徒のため」を思ってのまじめな教育のつもりだ。いびるがごとくお説教たらたらの有馬稲子的美女、山口果林のなんともにくにくしい女教師ぶりがじつにぴったりである。そんな女教師の「無理解」にも少女は黙々と耐える――というよりも沈黙を武器に抵抗する。何もかもおもしろくなくて、学校ではいつも挑戦的で、不機嫌な顔をしている。
学校だけでなく、家でも笑顔を見せることがない。父親と離婚した母親とふたり暮らしだが、貧しいので、母親は昼はスーパーマーケットで働き、夜はカラオケのスナックでホステスをやり、くたくたになって帰ってくる。そのうえ、スナックの常連客の、歌はうまいがスケベでがさつな漁師(丹古母鬼馬二)につきまとわれ、スーパーマーケットのおばさんたちには意地汚くひやかされ、母子ともども「いじめ」に耐えながら仏頂面をしている。
藤田敏八監督の青春3部作『赤ちょうちん』『妹』『バージンブルース』(1974)以来、仏頂面が魅力的な秋吉久美子なので、すぐわかるはずなのに、じつは、この不機嫌な顔つきが娘に負けず劣らずよく似合う母親を演じているのが、そのくたびれてふてくされた風情もふくめて、助演女優賞ぐらいに輝いて当然かと思われたものの、秋吉久美子と気づくまでにはちょっと時間がかかったくらいだ。『異人たちの夏』(大林宣彦監督、1988)の母親役もチョイ役ながらよかったけれども、ずっとさかのぼって(母親役ではなく、草苅正雄の妹の役だったが)、『あにいもうと』(今井正監督、1976)以来のすばらしい、そして何よりも美しい仏頂面の秋吉久美子に出会えたような気がする。「マイナス・イオンが発生する」写真集の秋吉久美子とはまた別の女優秋吉久美子がそこにいるのだろう。
別れてもあきらめきれずに秋吉久美子につきまとうダメ男(少女の父親役である)の小倉一郎が、こちらは顔つきも体型もむかしと変わらずに出てくるのにもおどろく。
少女は机にかぶさるようにしてうたたねしたまま、朝まで眠りこけてしまったのだろう。携帯電話のアラームが「2002年4月8日(日)6時59分」の表示とともにけたたましく鳴るかと思ったら、何々音頭といった感じのかけ声よろしく、「あ、よよいがよい/朝も早よから目がさめて/きょうも元気に朝が来た!……」と歌うはるかな声が聞えてくるところから、笑ってしまう。
「いじめ」とか、大人への不信感とかいった深刻なテーマも暗くならずに、さりげなくユーモアにあふれた映画なのである。
母と娘の朝食。そして、ひとりで電車に乗って学校へ向かう。なんでもない日常生活の情景が、あまりにも簡潔で的確なのにおどろく。
登校とともに、いやがらせがはじまる。教室では女教師に髪の色のことでしつこく注意される。怒った少女のクローズアップが瞬間的にストップモーションになり、「最悪のクラスだ」と心のなかでつぶやく彼女の声が聞えてくる。
「うんざり」という少女のせりふとともに彼女のクローズアップがストップモーションになり、次いでサイレント映画の台詞字幕のように「うんざりなんだよ!」という字幕が出る。同様に、「人生最悪の誕生日だった。みんなバカばっかだよ」というモノローグとともに少女のクローズアップがストップモーションになり、次いで「バカばっか!」という字幕が出るといったぐあいだ。モノローグと字幕を交互に使ったそのテンポのいい言葉のくりかえしと意味の強調がじつに効果的だ。
やがて、ついに堪忍袋の緒が切れたときの少女のモノローグ――「いまのわたしは真っ赤に燃えてるんだ」。微笑みながらも「いいぞ!」と叫んでやりたくなる私たちの気持ちを先取りするかのように、ユーモラスに力強く、真っ赤な画面に「真っ赤に燃えてるんだ」という字幕が出て、テンポのいい言葉のくりかえしと強調が快く炸裂する。そして、少女は「いじめ」を告発した手記を体験的に書いて出版社にもちこむのだが、それがこの映画の原作になった井上路望の「十七歳」(ポプラ社)である。
少女の母親が倒れて運ばれた病院の廊下の長椅子で、ものわかりのいい、やさしい男の先生が少女をなぐさめるシーンがある。長椅子に腰かけた先生と少女をキャメラは右端に斜めの角度でとらえ、そのまま、先生の斜め横のクローズアップから少女の斜めのクローズアップへ寄っていき、そしてまた、少女のクローズアップから先生のクローズアップへ戻る。そんな行ったり来たりのキャメラ移動がワンカットでくりかえされる。その間に、先生がさかんに饒舌に「先生はおまえの味方だからね」と言うのに対して、少女は怪訝そうに(あるいはむしろ、うさんくさそうに)、「……」という字幕で答えるのだ。一瞬、言葉を失うのだ。何と答えていいか、わからないのだ、次いで、こんなモノローグがつづく――「生徒の前だと急に金八先生になっちゃう奴。こういうの、一番きらい」。
気のいい先生ほど、いい気な先生なのだ!
『十七歳』の斜めからのクローズアップの移動のくりかえしは、その作為を感じさせない効果の的確さという点で、ボリス・バルネット監督の『帽子箱を持った少女』(1927)のサイレントの画面のなかでフォーカス送りのくりかえしが男と女のあいだの心の亀裂をあざやかに浮き彫りにした名場面を想起させる。
少女は、同級生の3人組に海辺でこづかれ、突き飛ばされ、打ち寄せる波のなかに倒され、びしょ濡れになって帰る道すがら、彼女に好意を寄せている同級生の少年(忍成修吾)に会う。「温泉旅館のぼんぼん」で、髪を金髪に染め、高校の規則では禁じられているバイクを乗りまわす少年だが、率直で、反抗的ながら正義派だ。
『リリィ・シュシュのすべて』(岩井俊二監督、2001)では、いつ衝動殺人を犯すとも知れない暗い凶暴性を秘めた無気味な少年を演じた忍成修吾が、うって変わって、明るく感じのいい性格というのは、ともすると単純すぎて滑稽になりかねないのだが、そんな紋切り型の罠におちいらず、じつに気持ちのいいキャラクターをごく自然に演じてみせる。
少女とこんな会話を交わすところがある。
「バイクのこと、内緒な」
「うーん、どうしようかな」
「そりゃないだろ」
「うそ。黙ってるよ」
「サンキュー」
「こちらこそ、サンキュー」
「もう一回言って」
「バーカ」
若者どうしとはいえ気恥ずかしく、くすぐったくなりそうなこんな会話も、微笑みとともに聞くことができるような自然さだ。感受性が鋭く、傷つきやすい知性が感じられる。
少女は、少年の好意と友情(すがすがしい初恋だ)を得て、しだいに明るい笑顔を取り戻す。少年に対して突っ張る理由はないのだ。少年に甘えられ、愛を告白されて、「バーカ」と答えるときには、もはや、映画の最初のほうで彼女が周囲に怒りをこめて投げつけた「バカばっか」という罵倒のニュアンスはない。私たちもまた、少女とともに、少年の好意と友情を素直に受け入れたくなる。
だが、もちろん、少女は怒りを忘れたわけではない。高校の創立30周年記念式典の前夜の陰謀と反乱は、まるでジャン・ヴィゴ監督の『新学期・操行ゼロ』(1933)のようだ。
青春映画といえば、男の主人公の青春の思い出を描くものばかりだった。フランソワーズ・サガン原作の『悲しみよこんにちは』(オットー・プレミンジャー監督、1957)のような少女(ジーン・セバーグ)のひと夏の傷つけ、傷ついた思い出を描いた作品もあるにはあるが、それはむしろ『避暑地の出来事』(1959)とか『スーザンの恋』(1961)とかいったデルマー・デイヴィス監督の一連の通俗的な青春メロドラマのようなものだった。というのも、青春映画の定義は次のような、ポール・ニザンの小説「アデン・アラビア」(篠田浩一郎訳、晶文社)の冒頭の有名な一説に尽きるからである。
「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい。一歩足を踏みはずせば、いっさいが若者をだめにしてしまうのだ。恋愛も思想も家族を失うことも、大人たちの仲間に入ることも。世の中でおのれがどんな役割を果たしているのか知るのは辛いことだ。」
『十七歳』のヒロインは男のように仰々しく崇高に「美しい年齢」を嘆いたりしない。それに彼女は20歳ではなく、まだ17歳なのだ。だが、これは、まぎれもなく、女性が主人公の稀有な青春映画の注目すべき一作だ。
映画はジャン・ヴィゴ監督の反逆の詩とも言うべき『新学期・操行ゼロ』のように終わるかにみえて、リンゼイ・アンダーソン監督の『if もしも…』(1969)のようにヒステリックな反体制の夢を描くわけではなく、社会的なメッセージよりももっと個人的であいまいな絶望感のような味わいもあり、じつは、もうひとつのラストシーンがあるのである。いや、むしろ、エピローグのような、ノスタルジックな余韻を残すシーンだ。少女と少年は駅のホームでおたがいに別れを告げ、初恋に別れを告げて、別々の人生に向かって出発していくのだが、その決意をしたとき、ふたりは駅から――まるで自分自身へのはげましのように――「がんばれ!」「逃げちゃだめだよ!」と叫ぶ。すると、次のカットで教室の同級生たちがふりむくのだ。先生だけは黒板にチョークで書きながら、授業をつづけている。ふたりは確信を持って微笑む、というラストシーンである。 |
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