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フランスの暗黒街映画の名匠、ジャン=ピエール・メルヴィルの「映画術」とも言うべき1冊がもうすぐ翻訳されて出るはずだが、そのときにあらためて紹介させてもらうことにして、私がかつて、この真に「一匹狼」の名にふさわしいジャン=ピエール・メルヴィル監督の人生哲学に心から共感したことを思いだし(ということはすでに私の運命が予告されていたのかもしれない)、ついに、いまや、そこが私自身の最後の砦になっていることに思い至る。
「私が孤独を選んだのはなぜだと思う?」とジャン=ピエール・メルヴィルは苦笑する(自嘲というよりは、自分を突っ放してせせら笑うかのようでもある)。
……人間同士の取引というものは非常に危険だ。2人の人間がいれば、ひとりは裏切り者だからさ。裏切られないために私が見つけた唯一の解決策とは、ひとりで生きることだよ。君の知っているなかに、数年間、生活と仕事を共にした2人の男が、正真正銘の友達同士で、お互いに丁寧に話し続けているような例があるかい? 私は知らないな。友情とは、神の存在と同じように、それを信じている人間にとっては神聖なものだ。「もうあんまりしっくりいかないな」と気づくからには、あらゆる裏切りの口火が切られているんだよ。裏切りとは、愛よりもずっと、人間を行動に駆り立てる根本的な原動力のひとつだと思う。裏切りこそが人を生かすんだよ!
つづけて、こうも言う。
……若い時には、人間とは興味深い動物だと人は考える。だがこの私は、もう幻想を抱いてはいない。友情とは何だ? 夜に友達に電話して、「頼むから、拳銃を持ってすぐ来てくれ!」と言い、「わかった。すぐ行くよ」という友達の返事を聞く? 誰がそんなことをする? 誰が誰のためにそんなことをするんだ?
33歳になるまで、男とは常に自分が20歳だと思い込んでいるものだ。そして、ある日、鏡のなかの自分を見つめ、年月が過ぎ去ったことに気づくんだ……。老いを自覚することは悲劇的だ。自分がたったひとりだと突然理解することなんだ。老いとは孤独のきわみだよ。(「サムライ――ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生」、井上真希訳、晶文社近刊)
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『教養主義!』
フリースタイル
¥1600(税別) |
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「孤独のきわみ」で、私はたったひとりの、ささやかな「映画教室」を、ここ数年、開設している。いま流行の映画塾のようなものでは、もちろん、ない。私の映画体験や映画的教養を「批評」として強要したりするのではなく、映画そのものとして、映画誌=映画史として、スクリーンに映写してみせる試みである。映画の権利の問題があるので、当然ながら、有料の上映会などではない。会員制のサークル上映というようなものでもない。「わが心の映画館」とでも言ったらいいか。フリースタイルという出版社から発売されている「教養主義!」という本(映画だけでなく、小説やマンガなど、いろいろな人たちによって書かれたいろいろなジャンルについての「教養」ガイドである)に、私なりにその映画教室の主旨を次のように書いてみた。
映画となると誰もが一家言あるというのがおそろしい。ジャン・ルノワール監督の『ゲームの規則』(1939)の人生哲学ではないが、この世で最もおそろしいことは、人間誰しも言い分を持っているということだろう。とくに、映画については、そうだ。誰もが映画批評だけは自由にできるということなのだ。映画が大衆芸術とか大衆娯楽とかよばれる、その「大衆性」とはこの一点につきるのではないか。
「誰もがふたつの職業を持っている――自分の職業と映画批評だ」という皮肉な名言がハリウッドにはあるそうである。世界中、どこでも、事情は同じようだ。
ということを念頭に置いたうえで、自分もたのしみ、他人もたのしませるというのが教養主義なら、映画的教養主義の極致は、自分の見たい映画を思いのままに、自分のためだけでなく、他人にも(というのも、ひとりぼっちで映画を見るのはつまらないから、たとえ知り合いでなくても、みんなでいっしょに見られるように)上映できる映画館の館主になることだろう。
たまたま、ある名画座の上映プログラムと、あるテレビ局の放映番組を編成する仕事にたずさわるチャンスに1度ならず恵まれた。上映作品の権利の問題とか特集のための条件や限界はあるものの、自分の見たい映画を選び、他人にも見せたいものを見せることができるという幸福感を堪能できたのである。
「他人」とはいえ、映画ファンなら本質的に共感できる相手だ。いや、本質的に共感できる映画ファンだけが、私にとっての「他人」なのだ。映画的共感こそ、私にとっての教養でもある。文句なしに暗黙の共感にもとづく映画ファンのささやかな共和国が、わが心の映画館なのである。シネクラブとかカルチャーセンターのようなサークルや勉強会などではなく、まったく組織化されていない、無秩序な、アナーキーな教養主義にもとづく映画集会だ。
そうでなくても、個人の好みだけはどうしようもないものなのだから、映画的教養は無秩序たらざるを得ない。他人の好きな映画を、肯定も否定もできるだろうが、その「好きな」気持ちをくつがえすことなど絶対にできないだろう。その人の愛する映画を、たとえばその人の青春の1本とか生涯の1本などを、いや、それが大好きなスターのことなんかになるとさらに決定的、壊滅的にすらなりかねないのだが、あっさり酷評したり否定したり愚弄したりしたら、その人に一生恨まれるようなことになりかねない。それほど映画的教養とは個人的なものであり、さらに言えば、教養とは言っても、「たしなみ」以上に道楽や放蕩のようなものであって、客観的な評価などあり得ないのである。だからこそ、このうえなく非映画的ながら民主主義的な多数決によるベスト・テンなどといった方式で映画の評価をとりあえず決める行事があるのだろう。
英和辞典や仏和辞典によれば、「教養」と「文化」がcultureという一語で同義語である。「culture」を引くと、(1)(個人の)教養。主として精神面をさし、生活、習慣、考え方などを含む。(2)(社会、民俗、国家、時代の)文化。社会的集団が築き上げ、世代から世代へ伝承される生活様式・思考方法・制度などの総体――というような日本語の訳と説明がある。国語辞典、たとえば「広辞苑」(岩波書店)の「教養」の項には、「単なる学殖・多識とは異なり、一定の文化理想を体得し、それによって個人が身につけた創造的な理解力や知識。その内容は時代や民族の文化理念の変遷に応じて異なる」という高邁な定義もあることを付け加えておこう。
教養は無秩序であり、文化は秩序である。あるいは、個人的には教養、社会的には文化ということになるのだろうが、こと映画に関しては秩序よりも無秩序が支配的で、個人的な教養の度合いが社会的な文化度を圧倒し、ほとんど絶対的なものであることはたしかだ。
以下、私の映画的教養ガイドとしての「ベスト50」(ならぬ「心見の150本」)がつづくのだが、それは「教養主義!」の本文のなかに掲載されている。
と、ここまで書いたところで、「Montag(モンターグ)」という近藤知子編集長による映画雑誌の創刊号(2003年秋の号)が目の前にとびこんできた。表紙に「1920年代映画」の特集をうたっているが、それだけではなく、『ナージャの村』(1997)と『アレクセイの泉』(2002)というドキュメンタリー映画を撮った本橋成一監督へのインタビューも載っている。
とりあえず、「モンターグ」編集部の連絡先(samidare@drumsoft.com)だけでも記しておこう。
今回はDVDで出たなつかしの西部劇の数々(ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパンより、『平原の待伏せ』『スポイラース』『落日の決闘』『ワイルド・アパッチ』『戦う幌馬車』『オレゴン魂』)を中心に紹介するつもりだったのだが、バッド・ベティカー監督の『平原の待伏せ』(1953)を見ただけで、もう、そのあまりのすばらしさにうなったきり、これだけはなんとかDVDカタログ雑誌「ワンダーマガジン」の連載コラムに紹介できたものの、次々にさっさと見てしまうのがもったいなくて、あとの作品はこれから見るのをたのしみにしているという状態なのである! |
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