ザカリアス・クヌク監督の『氷海の伝説』を見る。すでに東京・神田神保町の岩波ホールで上映中だが、映画を見た人たちの口伝て、口コミで、静かなる大ヒットになりそうな予感がする。かなりのロングランになっても不思議ではないと思う。なにしろ、見ごたえのある作品だ。ほぼ3時間という長さだけではない。堂々たるオーソドックスな破綻のない演出につらぬかれた、しかも異色作なのである。ありていに言えば、はじまりはドキュメンタリーの開祖、ロバート・フラハティー監督の『極北の怪異(極北のナヌック)』(1922)のようだ。犬たちがペットではなく、単なる労働力らしく、まるで虐待されているようなひどいあつかいなのにはおどろくけれども、それがごく日常的で自然な光景なのだろう。やがて、物語が進むにつれて、古代からの神話的・土俗的文化を追及する今村昌平監督の『神々の深き欲望』(1968)のような、壮大だが暗く陰惨なドラマにおちこみそうになるのだが、突如、寝込みを襲われた男が全裸のまま逃げて、果てしない氷海の上を走りだすところから(映画の原題も『走る男、アタナグユアト』である)、ジョン・フォード監督の開拓西部劇『モホークの太鼓』(1939)のように、映画そのものも走りだし、気高く、おおらかな人間讃歌になる。途中で「10分間休憩」になるのも、びっくりするくらいうれしい。
史上初のエスキモー映画というだけで異色作なのだが、エスキモーというのは差別語になるらしく、「イヌイット」という呼称が使われている。映画のプログラムのなかの解説によれば、エスキモーとは「極北ツンドラ地帯に住む先住民のことで、いくつかの極北民族の総称」だったが、一部の北米先住民の言葉で「生肉を食う輩」という蔑視的意味があることから、1970年以降、カナダでは、大多数のエスキモーたちが自称している呼び名で「人間たち」を意味するイヌイットを民族名称として使うことになったということである。
イヌイット語でイヌイットの人々によって演じられたイヌイット映画だが、現代の物語ではなく、「イヌイットの人々が何百年も前にどのような暮らしをしていたか」を、「イヌイットの人々によって語られ」てきた「伝説」を、ドキュメンタリー・タッチの歴史映画のように描いたコスチューム・プレイである。「自分たちの祖先がどのような服装をし、犬橇(いぬぞり)を操り、議論しあい、笑いあいながら、あのような厳しい時代を生きぬいたか、そして彼らがどのようにして悪に立ち向かい、それに抵抗したかについて表現しました」とザカリアス・クヌク監督は「メッセージ」に述べている。ちょっと重苦しい、きまじめな映画になりかねない「メッセージ」のように聞こえるけれども、「10分間の休憩」をはさんで氷海を走る男の冒険を描いた痛快な映画でもある。