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プロローグ:もうひとつの『もののけ姫』
第1回 ゴダールの『映画史』
第2回 アンナ・カリーナとともに
第3回 映画と観客
第4回 美少女チャン・ツィイーに捧げた愛の詩
第5回 アニメーションの冒険
第6回 映画の宝物
第7回 羽仁進とジャン・ルノワール
第8回 誰が映画を殺すのか
第9回 映画の後で
第10回 映画戦線異状なし?
第11回 「映画」から遠く離れて
第12回 年末年始は映画三昧
第13回 いくつかの映画的「快挙」
第14回 『犬猫』『ヒッチコック・コレクション』『阪妻映画祭』など











『はなればなれに』
 ジャン・ユスターシュ監督の『ママと娼婦』(1973)がDVDで見られるというだけでも、おどろきと言うほかない。

そればかりか、私の手もとにあるDVDには、

『アラン・レネ/ジャン=リュック・ゴダール短編傑作選』(『ヴァン・ゴッホ』1948から『シャルロットとジュール』1958まで短編8本収録)
『はなればなれに』(ジャン=リュック・ゴダール監督、1964)
『ラルジャン』(ロベール・ブレッソン監督、1983)
『四季の物語』(エリック・ロメール監督、『春のソナタ』1990から『冬物語』1991まで長篇4本のBOX)
『アンナ・マグダレーナ バッハの年代記』(ストローブ=ユイレ監督、1973)
『ラ・ピラート』(ジャック・ドワイヨン監督、1985)
『リスボン物語』(ヴィム・ヴェンダース監督、1995)
『クレーヴの奥方』(マノエル・ド・オリヴェイラ監督、1999)

 
『ママと娼婦』
監督・脚本:ジャン・ユスターシュ
出演:ベルナデット・ラフオン
   ジャン・ピエール・レオー
1973年/フランス映画
3時間40分
6000円(税別)
『アラン・レネ/ジャン=リュック・ゴダール 短編傑作選』
監督:アラン・レネ、ジャン=リュック・ゴダ−ル
共同監督:フランソワ・トリュフォー
脚本:エリック・ロメール
1948〜1958年/フランス映画
2時間3分
¥6000(税別)
『はなればなれに』
監督・脚本:ジャン=リュック・ゴダール
出演:アンナ・カリーナ
1964年/フランス映画
1時間36分
¥4800(税別)
『ラルジャン』
監督・脚本:ロベール・ブレッソン
出演:クリスチャン・マシュエル
   カロリーヌ・ラング
1983年/フランス・スイス映画
4800円(税別)
『四季の物語 BOX』
監督・脚本:エリック・ロメール
1990〜1998年:フランス映画
19200円(税別)
『アンナ・マグダレーナ バッハの年代記』
監督・脚本:ジャン・マリー・ストローブ、
      ダニエル・ユイレ
1967年/西ドイツ・イタリア映画
4800円(税別)
『ラ・ピラート』
監督・脚本:ジャック・ドワイヨン
出演:ジェーン・バーキン
1984年/フランス映画
1時間22分
¥4800(税別)
『リスボン物語』
監督・脚本:ヴィム・ヴェンダース
出演:リュディガー・フォーグラー
   パトリオット・ボーショー
1995年/ドイツ・ポルトガル映画
4800円(税別)
※すべて発売:紀伊國屋書店
 
 と目をみはる、いや、目のくらむような珠玉の名篇がならぶ(いずれも紀伊國屋書店発売)。すばらしいDVDコレクションだ。その「新しさ」ゆえに、しばしば至高の歓びとともに苦痛をすらしいてくる作品群だが(なぜならそこには映画があるだけでなく、映画とは何かを自らに問いつづける映画作家たちがいるからなのだが)、映画を生きる糧としている者、あるいはとくにこれから映画をつくろうとしている者には、絶好の映画の教科書であり、座右の書ならぬ座右のビデオとすべき名作群と言えるだろう。

 ジャン=リュック・ゴダールは1962年のインタビュー(「カイエ・デュ・シネマ」第138号、「ヌーヴェル・ヴァーグ特集号」)で、「トリュフォーが言ったように、映画にはスペクタル(見世物)としてのメリエス的側面と探究としてのリュミエール的側面がある」けれども、ある人間がある状況に置かれていることから生まれるものが「リュミエール的側面」であり、その人間をギャングとか娼婦とかに仕立てることから生まれるものが「メリエス的側面」なのだと――もちろん自分の作品の場合も含めて――定義している。あたりまえのことのようだが、こうした「リュミエール的側面」と「メリエス的側面」をおそらく初めて自覚して映画をつくりはじめた世代がヌーヴェル・ヴァーグであった。トリュフォーが短篇処女作『あこがれ』(1956)で、ゴダールが『カラビニエ』(1964)で、リュミエールとメリエスへのあからさまな目くばせを演出してみせたのも、そんな自覚からにちがいない。それはまた、映画の原点から出発しなければならないという絶望的な決意でもあり認識でもあったのだろう。リュミエールとメリエスからはじまる映画史そのものの重みを背負ったうえでの映画史へのある種の挑戦にも似た挨拶こそヌーヴェル・ヴァーグだった。その意味で、映画史そのもののリメーク、伝統のつくり直しが、ヌーヴェル・ヴァーグの「新しさ」だったのである。『はなればなれに』でも、ゴダールが英語教室の女教師の口を借りて、「クラシック(古典)=モデルヌ(現代性、新しさ)」と定義してみせるのがじつに印象的だ。

 ヌーヴェル・ヴァーグとその周辺という形で大雑把にくくることのできるゴダール、ロメール、ユスターシュ、ジャン=マリー・ストローブ(ストローブ=ユイレ)、ヴィム・ヴェンダース、ジャック・ドワイヨン、それにロベール・ブレッソンとマノエル・ド・オリヴェイラもふくめて、次々に発売されつつある(ジャン・ユスターシュやエリック・ロメールの作品集はこれからも「コレクション」の形で次々に出ることが奇跡のように予告されている!)これらの映画作家たちの「新しさ」とはまさに「クラシック=モデルヌ」という定義にあてはまるものだろう。切り返しのないキャメラの長回しによるワンシーン=ワンカットの緊迫した画面が共通の大きな特色だ。

 『全線――古きものと新しきもの』というのはセルゲイ・M・エイゼンシュテイン監督の1929年の作品のタイトルだが、エイゼンシュテインにとっては対立的概念であった「古きもの」と「新しきもの」がじつは同じもの、イコールであるところにゴダールやヌーヴェル・ヴァーグとヌーヴェル・ヴァーグ以後の「新しさ」があるのだと言えよう。


『ラルジャン』
 実際、エイゼンシュテインから黒澤明に至る偉大な巨匠たちの映画づくりの原理であり基本的な法則であったことで知られるモンタージュに対して、アンドレ・バザンによれば「本質的にはモンタージュのおかげを何一つ蒙ってはいない」のが、ロバート・フラハティからオーソン・ウェルズに至る、あるいはジャン・ルノワールからロベルト・ロッセリーニに至る方法なのであり、その路線を、おそらくロベール・ブレッソンやジャック・ベッケルをへて、受け継いだのが、ヌーヴェル・ヴァーグとそれ以後の世代の映画づくりにつらなる「新しさ」なのである。ヌーヴェル・ヴァーグの育ての親だったアンドレ・バザンの映画理論にはその「新しさ」の見事な分析が見られるはずなのだが、残念ながら難解このうえない邦訳で(「映画とは何かJ〜M」、小海永二訳、美術出版社)、それでもめげずにフランス語の原文をかろうじて推測しつつ、できるだけわかりやすい部分のみ引用させていただくことにして、バザンの主張は、何よりもまず、「モンタージュは映画の本質だということが非常にしばしばくり返し言われてきているが」、じつはしばしば「反映画的な方法」であり、「映画の本質をなすどころか、映画の否定に他ならぬ場合がある」ということなのである。というのも、「ひとたび純粋な状態でとらえられた映画的特質は、モンタージュとは反対に、空間の単一性をもっぱら写真的に尊重することの中に見出される」ということになるのである。

 モンタージュとはカットとカットの、アクションとアクションの、映像と映像の、「組み合わせ」のことであり、カットそのもの、アクションそのもの、映像そのものには何の意味もなくても、その組み合わせによって、ひとつの意味が生じるというものである。


『夏物語』(『四季の物語 BOX』より)
 「リュミエール映画の最初の観客たちが、スクリーン上でシオタ駅に列車がはいってくるのを見た時に客席の後に先を争って逃げ出したように、モンタージュもその当初の素朴な段階では一つの技巧としては受け取られなかった」のだが、その最初の観客たちの素朴な反応は、モンタージュの発見によって、単一の映像のリアリズムに対してすっかり鈍くなってしまったらしく、「モンタージュによる錯覚効果」にたよらなければ「意味」を読み取ることができなくなってしまったということなのかもしれない。

 モンタージュとは単一のカット、アクション、映像そのものの力――「出来事の空間的単一性」――を認めていないということであり、ふたつ以上のカット、アクション、映像を組み合わせるという「時間の中での映像の構成に他ならないモンタージュ」とは、「意味の抽象的な創造者たるモンタージュ」にすぎず、それは要するに「モンタージュによる錯覚効果」「モンタージュによるトリック」にほかならない。だから、むしろ、「ある出来事の本質が、アクションの二つあるいはそれ以上の要素の同時的な提示を必要とする時は、モンタージュは禁じられる」ことを「美学的法則として立てることができるように思われる」とバザンは言う。「出来事の空間的単一性」は映像のリアリズムと言い変えてもいいかと思われるが、「それの破壊が現実の出来事を単なる架空の表現に変えてしまう時には、もっぱら尊重されなければならない」、「具体的な時間の表現は、モンタージュの抽象的な時間によって、明らかに妨げられる――そのことはオーソン・ウェルズの『市民ケーン』(1941)や『偉大なるアンバーソン家の人々』(1942)の例ではっきりと実証されるだろう」とバザンはつづけるのだが、それは「出来事の空間的単一性」すなわち、映像のリアリズムを「尊重」したキャメラの長回しによるワンシーン=ワンカットの手法に集約されることになる。


『アンナ・マグダレーナ バッハの年代記』
 

『リスボン物語』
 カットとカットとの組み合わせによるモンタージュを信奉する黒澤明監督ですら、『七人の侍』(1955)や『どん底』(1957)からは「芝居を連続させておいて、数台のキャメラで同時に撮る」方式を採用し、そのほうがカットを割って撮ったものをつなぐ映画的モンタージュよりも「俳優の演技が凝縮する」と言った(「映画の映画作家/黒澤明」、キネマ旬報社)。

 ワンシーン=ワンカットの元祖はそれとは知らぬ間にルイ・リュミエールだったということは別にして、バザンはジャン・ルノワールこそ「オーソン・ウェルズの先駆者」だと言う。

 ジャン・ルノワールの映画では、画面に深さのある映像構成の探求は、実際に、モンタージュの部分的廃止に応じ、モンタージュは頻繁なパンと人物のフレーム・インとによって取って代わられている。このような空間的深さの探求は、劇的空間の、またもちろんその時間の、連続性の尊重を前提するものだ。

 「空間的深さ」とはパンフォーカスのことにほかならないことがわかるだろう。英語の deep focus である(フランス語ではprofondeur de champ)。

 ブレッソンはもちろん、ゴダール、ロメール、ユスターシュ、ストローブ=ユイレ、マノエル・ド・オリヴェイラの作品に共通して見出されるものもまた、こうした時間的・空間的連続性であり、ワンカットの持続する映像的リアリズムの力なのである。




『世界の全ての記憶』

『男の名前はみんなパトリックっていうの』
(※『アラン・レネ/ジャン=リュック・ゴダール 短編傑作選』より)





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