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思いがけない遭遇だった。拾い物などと言っては失礼にあたるだろう。発見などと言ってはこちらの無知と傲慢のそしりをまぬがれない。第23回ぴあフィルムフェスティバル/PFFアワード2001企画賞(TBS)を受賞し、東京・中野武蔵野ホールでレイトショーながら公開された作品だ。
『犬猫』
井口奈己監督の8ミリ作品である。
8ミリ作品というだけでアマチュア映画、小型映画をうかつにもあなどって想像すると、しっぺがえしのようなおどろきをくらうことになる。『犬猫』という可愛らしいタイトル(そして実際メインタイトルに向かって画面の両側から小さな犬か猫らしきものが這って近づいていく可愛らしいアニメーションが加わるのだが)につきまとうママゴトのような子供っぽい遊びの感覚をしかしながら微笑みのように失うことなく、1時間24分の、すみからすみまで完璧なプロの劇映画だ――
35ミリで撮れなかった時代のエリック・ロメールの16ミリ作品のように。
ちょっと生意気な言いかたをさせてもらえば、的確な ―― ということはそのアングルしか考えられないような ―― 構図といい、じっと静止したままかと思うとほとんど突発的な動きをすかさずとらえてしまう目のさめるようなキャメラワークといい(撮影は鈴木昭彦)、登場人物の見事な演技(と言っていいのかどうかわからないくらい自然な身振りや表情やしゃべりっぷり)といい、あいまいであやふやで意味ありげな深刻さなどまったくない明晰かつ聡明な、そしてユーモアあふれる演出といい、計算された即興とでも言いたいような「ねらい」といい(雨雲が空をおおって雨がポツリ、ポツリと降りだすところ、そして雨がやみ終わったときのクモの巣が画面いっぱいにとらえられるところ、こたつでうたた寝して起き上がり、唐紙に寄りかかる女の子の顔を轟音とともに電車のかげがよぎったあと、窓から射しこむ朝日がまぶしく照らす憂鬱な朝のめざめ、坂道で自転車が倒れたときのコカコーラの缶のころがりかた、電車が通過したあとの踏切りを車や自転車が横切るタイミング、アイロンをかけているヒロインのわきで眠っていたり自分の尻尾を追いかけてくるくるまわったりして名演技ぶりを見せる猫たち)といい、およそ自主映画のひとりよがりや技術的な稚拙さなどとは無縁の作品だ。
何もかも新鮮だが奇をてらったところもなく、すべてがごく自然に、日常的なくらいに、あまりにもさりげなく息づいているので、スクリーンに映写されるとどうしても無理矢理拡大されて心ならずも鮮明さを欠く8ミリ作品の宿命も私たちはあたりまえのようにすぐうけいれてしまう。目がなれるという以上に、私たちはその世界に知らぬ間に入りこんでいる自分に気がつくのである。その世界とは、井口奈己監督の言葉によれば、こうだ――「特別に語られる事のない人生を受け入れる事は、私達が生き残る技術のうちの1つで人生の希望になりうると信じています。8ミリフィルムという上映する度、少しずつ消滅していくメディアでそんな映画を作ってみました」(『犬猫』プログラムより)。
女の子、といってもささやかに自立してコンビニに勤めたり仕事をさがしたりしているふたりが映画のヒロインである。
ヨーコという女の子(小松留美)が夜、ひとり住まいの古田という男の子(鈴木卓爾)の部屋に急にやってきて「今夜泊めて」と言うので、男の子がもやもやしながらちょっとひるんで(というのも、ついこのあいだまでその部屋に彼といっしょに住んでいたスズという女の子とヨーコは知り合いなのだ)、「いやあ、でも、世間テイってもんが……」とぐずぐずした口調で言うと、「世間テイなんて……あしたの朝、早く帰るし、おとなしくしてるし」と女の子が遠慮がちながらまるで男が女の部屋に泊まりこむときみたいに「何にもしないから」と約束するのだ。
「何もしないから」とは言われたものの、朝まで自分の部屋に女の子がいるとなると、「やっぱり、アトモスフィアってもんがあるでしょ」と男の子はさらにぐずる。「なにアトモスフィアって?」「空気……大気……なかなか微妙な世界だぜ」。
この「空気」のような、「大気」のような、「微妙な世界」の「アトモスフィア」が『犬猫』という映画のほろにがく生々しい青春の磁場なのだが、ムードだけというのではない。じつになんとも映画的としか言いようのない豊かな、しかも的確なイメージで、映画的に表現されるのである。
「アトモスフィア」にこだわる古田青年の恋人だったスズ(塩野谷恵子)は、ある日、突然、ふたり暮らした二階の部屋の流し場や台所の床をきれいにふき掃除して(映画はフィックスのキャメラの長回しを基本にし、画面外の人物の声との対話はあっても説明的な切返しのない何でもないのにふしぎに緊迫したシーンからはじまり、いっきょに私たちをとりこにしてしまう)、それからカバンを取って、サックを肩からかけ、ていねいにお辞儀をして「ながらくお世話になりました。私、これでおいとまさせていただきます」とさっさと――朝めし前に――出て行ってしまったので(二階から「どうしたの。待ってよ」と唖然としてよぶ青年のほうをふりむきもせずにスズが駆け去っていくところで『犬猫』のメインタイトルが入る)、古田青年のほうは何がなんだかわからず、あきらめきれずにスズを追いかける――いや、追いかけるとか追いまわすとかいうほどの激しさはなく、「来れた義理じゃないのはわかってる」ものの申し訳なさそうにさがしまわる―― のだが、石段になっている坂道の途中でやっと彼女に出会う。
ところが、彼女は何も言わずにツンツンして石段を下りていってしまうので、「え?」とか「あの」とか声にもならない声を上げつつ、彼は彼女を追ってつかまえようとするのだが、そのとき、彼は石段の中央の境界になっている鉄柵の手すりにひょいと尻をのせて、キャメラに向かって石段を下りてくる彼女のあとから猛スピードですうっと滑り降りてくる(『素敵な歌と舟はゆく』のオタール・イオセリアーニもびっくりだろう)――キャメラは彼女の歩調に合わせてすばやくトラックバックレつつ、ふたりのかかわりを、流動するひとつのフレームにあざやかに定着してみせるのだ。
ヒロインが ―― スズが、次いでヨーコが ―― 迷って迷ってすでに見たことのある魔の三つ角(本当は四辻らしい)にまた出てしまうというある種の既視感のようなギャグを、フェイド・イン、フェイド・アウトやオーヴァラップなしの2カットで――ごく自然に、それだけが唯一の正しいやりかたのように ―― 表現してみせるあざやかさにも驚嘆してしまう。
そこはかとなくダジャレのようなおかしなシーンもある。
「留守番をしてる」スズのところへ、大家(といってもちょっと暗い感じのインテリっぽい若い男)がりんごを持ってきてくれるのだが、そのおいしい食べかたについてくどくどとお説教するのだ――「ここにナイフで十字を入れるとですね、なかのハチミツが切れ目のところに出てきてね……」。
「ハチミツって、ハチがミツをとってきたのをいうんですよね」とスズに率直につっこまれて、若いインテリ大家は一瞬ぐっとつまるのだが、「あ、つまり、りんごのミツが、こう、切れ目のところに出てくるんで、ちょうどおいしいんですよ」「ハア、ハイ」「舌ざわりもさくさくしてね」「ハア、ハイ、ありがとうございます」といったぐあいだ。
スズとヨーコは、中国に旅行中の共通の友人の借家にいっしょに住んで、おたがいにその「留守番」をきめこんでいるのである。
「私たち、中学校のときからいっしょで、いつも同じ人が好きになっちゃうので、すごーく仲が悪い」とスズは言うのだが、いつも明るい笑みをたやさず軽やかなので、とてもたのしそうにそんなことを言っているようにみえる。ヨーコが好きな三鷹くんという男の子を部屋に誘ってスパゲティなんかごちそうしようとしているので、めがねの仏頂面がよく似合うヨーコは、ツンツンして、チリ取りとほうきを手にして、三鷹くんが赤ワインを飲んでいる食卓のまわりをこれ見よがしに掃除したりする。ヨーコが買ってまだはいていないスニーカーをスズがいつもの気軽さで勝手に「ちょっと借りて」汚してしまった(というより、そのスニーカーをはいて三鷹くんを誘惑したのだ!)ことにも、ヨーコは強く抗議するのだが、スズは笑顔で、「ごめん、洗って返すから」と簡単に言う。
「そういう問題じゃないでしょ」「ごめん」「なんか全然あやまってない感じ」「ほんとにごめん」といった本人たちにとっては深刻でも、さりげなく愉快な、ちょっとしたやりとりのなかにも、ふたりの性格がじつによく出ていて、『犬猫』というのは、そんなふたりの、犬猿の仲とまではいかずとも、おたがいに苦手で「すごーく仲が悪い」ことを知りつつも、たまたまひとつ屋根の下で犬と猫のように同居しなければならなくなったというくらいの意味のタイトルなのかもしれない。
ふと、いつも同じタイプの女をめぐって恋の鞘当てにうつつをぬかす、というよりもほとんど命がけの死闘をくりかえすふたりの男を主人公にしたハワード・ホークス監督の『港々に女あり』やラオール・ウォルシュ監督の『薮睨みの世界』を思い出した。
あるいはラオール・ウォルシュ監督の『栄光』とジョン・フォード監督によるそのリメーク『栄光何するものぞ』と本質的には同じ物語のような気がした。といっても、もちろん、『犬猫』という映画は、海の男たちの世界や軍隊とは何の関係もないし、壮烈な殴り合いなどがあるわけではない。小川智子氏がプログラムに書かれているように、「鏡合わせになった」スズとヨーコというふたりの女の子の「関係の変化」を「日常の風景として、とてもさりげなく」描いただけの小さな、小さな8ミリ映画だ。だが、ホークスやウォルシュやフォードの豪快な笑いとアクションにあふれた「男性映画」にはるかに通底する映画的なおもしろさがこの8ミリ映画の胎内にはたしかに脈打っているような気がする。ヨーコとスズのその後の生きかた、小さな新しい冒険を描く続篇を――こんどは16ミリで、あるいは35ミリで
―― 見たいものだ。
小さな、小さな傑作と言えよう。
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